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先祖を探して

Vol.173 島唄アンマメグゥと薩摩軍による農業指導


沖永良部島が薩摩の侵攻にあった1609年3月、その日のことを歌った島唄があることをVol.61で書きました。この島唄に出てくる「ヒャントシュウ」、これは当家のご先祖である平安統(ヒャントウ)のことです。歌では平安統衆となっています。
住吉の海岸に現れた100隻にも及ぶ薩摩の軍船。前日には徳之島で激しい戦いがあって犠牲者もいたので、その情報は恐らく沖永良部にもすぐに伝わったのではないかと言われています。
徳之島で戦いがあった理由の1つとしては、前年の1608年に徳之島の世之主が急死して、沖永良部の首里之主(世之主)が2島を兼任。その首里之主はその日はたまたま沖永良部島にいたといいます。
島主がいない状態で勝手に降参などできず、勇敢な若者であった佐武良兼(さぶらがね)と思呉良兼(めぐらがね)兄弟が中心となって戦ったということでした。
きっとその情報も早々に伝わっていたのでしょう。沖永良部島では首里之主であった平安統と、住吉のヒジカマという人が上陸した薩摩軍と和睦の交渉をしたということです。住吉のヒジカマという人については詳しいことは分からないようですが、恐らく住吉地区を束ねる人であったのでしょうね。
この二人の交渉により、沖永良部島は一人の犠牲者もなく平和に対応したという話は前回も書きました。
実はその時に追加のエピソードがあったことが分かりました。

和泊町広報には先田光演先生による島の歴史の連載が掲載されており、私も毎回目を通しております。
今年の1月号に、この島唄と追加のエピソードが書かれていました。

それは薩摩軍が来た時に、和睦の印として薩摩軍に食料を提供してたのではないかということです。そしてそのお礼に、薩摩は島民に農業を教えたということなのです。
戦いを予想してきた島で、意外にも和睦の交渉があり食料まで提供され、平和にことが進んだことに感激して、島民に農業を教えたというのです。
これは驚きですね。戦いに意気込んでやってきたというのに、農業を指導することになった薩摩の武士たちも驚いたのではないでしょうか。これは薩摩側に記録されていた史実であり、あまり知られていなかったことでもあります。
歴史的に見ても、なかなか無いシチュエーションだと思います。
人が傷つけあったり命を落とすかもしれない戦いを避けて、平和に事を進めることで、予想もしていなかった良い出来事が展開されるということもある、これは現代においても教訓となることではないでしょうか。

私は沖永良部島は他の奄美群島の島々と比べると、薩摩とは比較的うまく付き合っていた感じがずっとしておりました。もちろん全てが緩かったわけではないのですが、砂糖地獄の件もそうですが、何となく他島に比べると優しい扱いではなかったかということです。
もしかしたらこの薩摩侵攻時の島の対応が、その後の沖永良部島に対する緩やかな対応へと繋がっていたのかもしれませんね。



こうして先田先生は奄美群島や沖永良部島の研究をずっとされていて、当家のご先祖様が残した古文書の解読なども丁寧にやってくださっています。
先生が研究を重ねてこられたおかげで、いま判明していることもたくさんあるでしょうし、何よりご自分で苦労してやってこられた研究調査の資料をたくさんお持ちです。私も色々と拝読させてもらい、当家のご先祖様調査の参考とさせてもらっております。
先生のご研究が無ければ、恐らく当家のご先祖様のことも未だにあまりはっきりしていなかったのではないかと思います。
まだまだ謎の多い島の歴史や当家のご先祖様のことですが、これからも先生のお話を伺い、資料を参考にしながら調査を進めていこうと思います。

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