沖永良部島の島のほぼ中央部にあたる場所、和泊町内城泉川と呼ばれる地帯は、古墓が集中しているお墓団地のような場所です。団地といっても、本土にあるような墓石を置いた霊園みたいなものがあるわけではなく、琉球式の納骨堂を持ったお墓や、原始的な洞穴みたいな風葬墓などが点在しているようです。
そのお墓エリアにドーンと鎮座しているのが、世之主のお墓です。
島では別名「ウファ」と呼ばれています。
*数年前までは、緑に覆われた森のようになっていたウファ
世之主がこの世を去った経緯
琉球が三山時代であった頃に、北山王の次男であった真松千代王子が成人して沖永良部島の島主となったのが、1390年あたりだと言われています。そして、三山統一で中山によって北山が滅亡したことで、北山系であった島主は悶々とした日々を過ごしていると、ついに中山の船がやってきました。部下たちが浜へ様子を見に行き、攻撃か和睦かの印の旗をあげることになっていたのですが、和睦だったためにお酒がふるまわれ、酔った部下が間違った方の旗を挙げてしまい(これは諸説あり)、それで世之主は自害したと言われています。その時が北山滅亡とされている1416年頃。
この時に自害をしたのは、世之主と奥方と長男の三人。長女5歳と二男3才は徳之島に逃げて、後に帰島したことになっています。
ウファを建造した経緯
世之主には四天王と呼ばれる優秀な部下が4名いました。この部下たちは、自分たちのせいで自害に追いやったことを悔やみ、自分たちも後を追って自害しようとしたそうです。しかし、ある一人が「自分たちが全員死んでしまったら、世之主様の墓が作れないではないか。自害はいつでもできるから、まず墓を作ってあげよう。」となったそうです。
その時にはお墓がまだなかったので、いったんは世之主の城の横に小高い丘があったので、そこに埋葬したと言われています。ウファチジと呼ばれるところです。実際にそこには墓跡らしきところがあるそうです。
そして、33年忌あたりに墓が出来上がり、そちらに納骨をしたという伝承です。墓は琉球から石工を呼んで作らせたそうです。一説には10年程もかかったそうな。
その時に、島の豪族であった豊山家と、世之主の子孫であった宗家が自分たちの墓も欲しいとのことで同じ石工にチュラドゥールを作らせたのだそうです。
これらの話は、島や一族に伝わるお墓建造の伝承です。お墓が出来たのは15世紀中期以降ということになります。
ウファの話は、こうして代々語り継がれてきたわけです。
長年伝承として語り継がれてきたこのお墓は、鹿児島県の文化財となっておりますが、歴史的価値が非常に高いということで、近年ずっと調査が行われてきました。その調査の第一段階が終わり2019年には調査報告書が出されましたので、その結果のシェアと共に、私が疑問に思っていることなどを次回は書きたいと思います。
*現在のウファは発掘調査のために木々は伐採されています。何となく味気ないですが、、、お墓の全貌は見れますね。