薩摩藩が島を管理するようになって当初は、沖永良部島は徳之島に設置された代官所の管轄でしたが、1690 年に沖永良部島も代官所が設置され、薩摩藩から派遣された役人が直接島に滞在し統治をするようになっていきます。藩役人が滞在するようになったことで、島の権力構造にも変化がおこってきます。それまでは永良部世の主の親類縁者によって権力が集中していたのが、各集落の有力者たちが藩役人との縁組によって縁戚関係になり、次第に権力は鹿児島系の人々に移っていった背景があります。
アングシャリとは
アングシャリ(姐御様)とは島の言葉で島妻という意味です。
鹿児島系の人々が権力をもつに至った背景には、薩摩藩役人と沖永良部島の女性との通婚による社会関係がありました。藩役人との通婚が社会的地位向上のための手段として用いられたのです。
それはどういうことかと言えば、鹿児島からやってくる役人は、基本は単身赴任でした。島には2~4年の滞在で現在の和泊集落に役所や官舎が設置されました。そして身の回りの世話をする女性が現地妻として官舎に住み、役人とともに丁重に扱われます。藩役人は島の最高権力者としてトンガナシ(お殿様)、現地妻は島の言葉でアングシャリ(姐御様)という尊称で呼ばれたのだそうです。
「沖永良部島代官記系図」によると
薩摩藩からの役人の就退任や主な出来事を記録した「沖永良部島代官記系図」によると、赴任した役人の主な役職と人数は、代官1人、横目1人、附役3人でした。「沖永良部島代官系図」には、1690(元禄3)年から1873(明治6)年までの184 年間に93 名の代官を含む544 人の派遣藩役人の名が記されています。その中には数回にわたって任命された藩役人もおり、例えば、大久保次郎右衛門(大久保利通の父)は1827(文政10)年と1837(天保8)年の2度にわたって附役として赴任しています。
現地妻とその子供
藩役人と現地妻の子供はトンガナシグヮ(お殿様の子)、特に男児はボウ、女児はアカと呼ばれ、現地妻およびその子は優遇されたそうです。例えば農民に課された夫役13(女子13 歳から50 歳まで、男子15 歳以上60 歳まで労力の貢をする制度)が免れたり、現地妻は藩役人の世話役として島民からの税で生活し、田畑を買い与えられたため、役人が薩摩へ帰った後も一生の生活を支えることができたと言われていたそうです。
またその子供たちは、武士の子供として優遇され、成長して島役人に取りたてられる場合が多かったそうです。
このように、アングシャリになると特権が多いため、島の有力者たちはこぞって自分の娘を役人に島妻として差し出したそうです。
競争の激しい?島妻制度、どのようにして役人が島妻を決めたのかは次回に書きたいと思います。