薩摩藩による沖永良部島の検地が初めて行われたのは1660(万治3)年で、地所丈量、地位査定が行われ、年貢を定めるための台帳である検地帳が作成されました。これを万治検地と呼ぶそうですが、この時に薩摩藩から検地のために派遣されてきた人たちの名前が与論島の古文書の中にあるのをみつけました。
与論島の古文書を読む:先田光演
Vol.86の記事で書いた当家のご先祖様の池久保が結婚した相手である梅千代の父親、出水郷士であった武宮大覚左衛門の名前がありました。
この万治検地に沖永良部島に来島したメンバーは、徳之島の記録にも全員名前があるそうです。よって、恐らくは徳之島・沖永良部・与論の3島の検地が行われたのではと推測できます。
メンバーの川田はそのまま徳之島の代官として滞在したようですが、他のメンバーは記録がないようなので、仕事が終わったあとは鹿児島に戻ったと思われます。
そもそも、鹿児島から赴任する代官などはみんな単身赴任だったそうですので、この検地に来たメンバーも単身だったと思われます。
ではなぜ娘と結婚?鹿児島から嫁に来させたのか?
考えられることは、以下の3つです。
①梅千代は鹿児島から嫁にきやってきた。
②父親である武宮が家族と共に鹿児島から来て在島しており、それで縁組をした。
③武宮が島の女性と結婚して、島に子供がいた。
しかし武宮が沖永良部島に来たのは1660年。梅千代と池久保が結婚した時期は分かりませんが、長男である佐久田が生まれたのは1674年。その差は14年です。③の可能性があるとすれば、1660年に武宮と島の女性との間に子供が生まれていたとして1674年に14歳で池久保と結婚して、すぐに子供ができたことになります。
今では14歳という年齢は考えられませんが、その時代でしたらあり得る話ですよね。
私の推測ですが、もしかしたらこの③が正解なのかもしれません。
というのも、沖永良部島には島妻(アングシャリ)という風習があったのです。
このアングシャリについては、次回に書きたいと思います。