私をご先祖調査の隊員へと導いてくれた初代隊長であったお爺様。
名前は宗義經(そう よしつね)。戸籍では経は旧字を使っていますが、私は現在の書き方である義経で統一して使っています。
北山王の次男であった真松千代の子孫であり、記録上の始祖である「中城」から三代目の長男であった佐久田が分家した家になります。分家とはいえども、長男の分家であったことと、子孫が後に本家の当主との婚姻によって子供が生まれ現在まで子孫が続いておいることで、本家と共存しながら家を守ってきていたようです。
お爺様は分家した佐久田を1代目として9代目の当主でした。
先に他界したお婆様の納骨式チュラドゥールで執り行った時の貴重な写真。
実は写真が殆ど無いのです。
名前:宗義經(そう よしつね)
明治36年1月5日ー昭和60年 享年84歳
屋号:上花城(島での読み方:うひはなぐすく・わーなすく等)
ペンネーム:隆三 (昭和時代の流行か、なぜかペンネームがありました)
妻:宗タケ(そう たけ)
明治41年2月17日ー昭和56年 享年73歳
親族の家から嫁にきています。旦那さんのことが大好きで、身体は小さいがとっても働き者であったそうです。お嬢さん育ちで、結婚当初は家事があまり得意でなく、器用なお爺様がご指導をされたとか。後には味噌やお酒なども自家製で作るなどの料理の腕前になったそうです。
義経は4男として生まれ、若い時は海軍として島を出ていました。休暇で島に帰った際に、上の兄たち3名は既に島を出ており、年を取った両親の面倒を見ることを兄弟や両親にせがまれ、そのまま島に残ることになったようです。お爺様の父親は世之主神社の神主をしていたので、その後を引継いで神主になるために奄美大島の神主学校に通って資格を取ったということです。
兄弟
長男:北九州で教師
次男:北九州で弁護士
三男:義保(後に秋月に改名)Vol.10や42で書いた熱海の市長をしていた人
長女:結婚して晩年は和歌山在住だった
長男とお爺様は20歳ほど年が離れており、親子みたいな状況でした。この長男一家は、父親が他界した後に、末娘以外の全員で昭和34年に当時流行っていたブラジルへ移住したそうです。後にそのうちの数名は帰国したようですが、その後の消息は不明。末娘は北九州で暮らしていたとか。
二男一家はあまり情報がありません。佐賀県出身の女性と結婚したそうですが、早くに子供を残して他界。その後、嫁の妹さんと再婚。前妻との子供で長男だった人は神童と呼ばれていたそうです。お爺様の長男が、一時期に北九州のパン屋さんで住み込みで働いていた頃に、この神童と呼ばれていた長男が一緒に働いていたらしいのですが、突然姿を消したらしく、その後はもう消息不明です。
三男一家は、ご先祖調査の過程でコンタクトがとれて、記事でも紹介した通りです。何十年も付き合いのなかった親族と、奇跡的な出会いでした。
長女のご家庭は現在は和歌山にお住まいです。島に住む親族の叔母が、30年ほど前にとった連絡先を教えてくれたので、昨年の4月に思い切って電話をしてみたところ、娘さんといってももう80代の方ですが、とってもお元気そうで、快くお話をしてくださいました。
お母様は長生きされたようで、生前はご先祖のことも詳しかったので色々と話を聞かせてくれたそうなのですが、自分たちは本土生まれで島のことは全然知らないので、母が話す内容が全く分からず興味もなかったそうです。ご存命のうちにお話が聞けたら良かったのにと、残念な思いです。
30年程前にお墓参りも兼ねて姉と二人で島に行き、その時に島の親族にも会ったとのことでした。お電話口で話しただけでしたが、急な親族からの連絡であっても大変喜んでくださいました。
<島で生活していたころ>
神主となったお爺様は、世之主神社の祭祀を行い、世之主の墓などの祀りごともやっていたそうです。
神社でお祭りがあるときには、お爺様が自らお料理を作って大きな皿にのせてふるまっていたそうです。結婚式なども執り行っていたようで、その際にも御馳走を作っていたようです。
日常では、畑で作物を作ったり、海に出て魚を取ったり、浜辺で塩を作ったりと、自給自足の生活だったようです。その頃は土地も沢山持っていたようで、あちこちの畑で作物を作ったり、人に貸したりしていたようです。
その合間に、ご先祖調査の書き物をしていたようです。
義母や叔母たちの話では、若い時のお爺様はダンディな顔立ちでとっても素敵だったので、学校行事で学校に来てくれる時には自慢の父親だったそうです。
しかし、超超超九州男児だったようで、特に娘には躾が厳しかったそうです。
歩く時に畳の縁を踏んではいけないとか、ごはんの食べ方とか、とにかく躾に厳しく怖い存在だったとか。
義母が子供だった頃には、島の農林水産試験場で働いていて、その宿舎で家族で暮らしていたそうです。その後、沖縄に先祖調査に行くためか?家族は内城の家に戻って生活していたようです。
そんな生活をしていたある日、一家は島を出ることになったのです。
続きは次回書きたいと思います。