薩摩藩統治下の時代、奄美諸島の島民が登りつめることが出来る最高の役職は、「与人」でした。次席の「横目」とともに、島の名門家系において世襲的に任命されていたそうです。当家のご先祖様も、本家筋では江戸時代末期まで7代続けて与人をやっており、分家筋でも与人や横目の役職についていた人たちがいました。世襲制であったのは事実です。
薩摩藩は、島々の島民たちを荒立てることなくうまく統治していくために、島の権力者にこの与人という役職を与えて、与人を上手く使っていたようです。
それは、言語・習慣・風土・宗教など、あらゆるものが鹿児島とは全く違ったので、薩摩の役人たちだけで島々を完全に統治するには限界があると判断したのだと思います。この与人制度はある意味においては、お互いに良いシステムだったのかもしれません。
しかし、本来は海洋民族である奄美人たちに海の道を閉ざすために造船を禁止するなど、島民のあらゆる行動に制約を加える「大島置目条々」というものが奄美大島に1623年に発布されました。これは、江戸時代の中で、奄美統治の基本方針とされ代官所がこの法文によって施政をしました。この「大島置目条々」は百姓支配についての定めを記したもので、上納品や百姓と役人の立場などについて明記されています。
そんな奄美大島で、文仁演(ぶにえん:人名)崩れと言われる越訴事件が、1733年に起こります。当家のご先祖様がいた沖永良部島での事件ではありませんが、少なからずともこの事件で奄美諸島には衝撃が走り、何らかの影響があったと思われます。
そして何よりこの事件の悲惨さが、当時の薩摩から赴任してきていた代官や、島民を守ろうと必死で役目を務めていた与人たちの様子を鮮明に映し出しており、当家の与人をしていたご先祖様にだって起こったかもしれない事件として、辛く悔しい気持ちにさせられましたので、事件の詳細を記述しておこうと思います。
事件の詳細は、次回に。