写真:首里城公園HPより
先祖調査とは切り離せない系図ですが、当家のご先祖様が生きた時代の琉球国の王府には「系図座」という役所が首里城の中にありました。
系図座は、文字通り「系図(家譜)」を取り扱う役所でした。この系図は、士族が持つ家系に関する記録で、おもに戸籍や経歴を掲載した文書です。2部作成して王府に提出し、王府から承認の御朱印を押され、1部は家の控えとして持ち、1部は系図座に保管されました。
系図座設置までの経緯
・1635 年:島津の命により人数改→人口・居付(戸籍)の確認
・1636 年:島津の命により宗門改→人口・居付(戸籍)の確認
・1654 年:田舎人の首里・那覇への移住禁止
・1679 年:羽地朝秀(摂政)、士族へ系図提出を命ず。
→筋目の確認と同時に、士族も確認
・1689 年:系図奉行の設置(翌年、1690年に系図座の設置)
→士族へ家譜の編集を命ず。氏・名乗 も各門中ごとに定められ士
族層の確定へ。島津侵攻前後からこの段階までの間に連続して
仕 官していた者を認定。
豊王以前からの仕官者=譜代、以後=新参と設定。
家譜は二部作成し、系図座による内容認定後、御朱印を押して頒
賜。系図座と各家で保管。
・1712 年:二度目の家譜編集を許可
→新「新参」士の誕生
*訟後れ=1690 年系図座設置 以降に申請が遅れたとして訴え
出、認められたケース。
・それ以後:勲功や献金によって新「新参」士に取り立てられる
「農民」もある。
奄美群島が薩摩藩に系図の差出命令があったのが1706年ですので、薩摩藩はまず先に琉球に系図座を設置してから命令を出したことになりますね。奄美群島の島民が提出した系図は結果的に償却処分されたといいますが、火事で焼失したような話もあります。この系図座の設置を見れば、意図的な償却処分ではなかったような気がしますね。
家譜の歴史
系図は正式には家譜といい、古くからそれぞれの様式で、それぞれの家が「OO一族のなりたち」みたいな形で作成していたようです。これを17世紀になって系図座が設置されてからは統一したフォームで王府が各家に提出をもとめるようになりました。王の印鑑を押して家に保管されている物が、ときどき門中の家宝として世間に出てきているものです。
この系図座がスタートした当時に整備された系図をもつ家のみが王府に公認された士族とされました。これを譜代といい、内地の外様・譜代大名と同じ字ですね。これ以降、士族は譜代と、その後功績をあげて百姓から士族に取り立てられた人や、大金を寄付して士族になった人を新参と2つに分けてと呼んだそうです。そのような経緯があるので、公的には士族とは系図座ができて整備された時点で既に士だった家だけなんだそうです。
家譜を役所で管理した理由は
王府はなぜ家系図を役所で管理をしなければならなかったのか?
それはやはり、身分制度を強固にすることによって、王および士族、すなわち支配側の権威を高め、施策の浸透がうまくいくという効果を狙ったようです。それと行政が管理をするということは、公明正大にするということです。たとえば日本の戦国大名が氏素性がはっきりしないため、高貴な人の家系図に勝手に割り込むような行為をけん制したりする効果もあったようです。
それはやはり、身分制度を強固にすることによって、王および士族、すなわち支配側の権威を高め、施策の浸透がうまくいくという効果を狙ったようです。それと行政が管理をするということは、公明正大にするということです。たとえば日本の戦国大名が氏素性がはっきりしないため、高貴な人の家系図に勝手に割り込むような行為をけん制したりする効果もあったようです。
具体的にいえば、長男・次男までしかいない系図に、横に棒線を引いて三男をあとから書き入れて、それを分家筋として「我始祖なり」なんて宣言したりなんていうこともあり得ますので、それらから守るための要素も大きかったようです。
庶民の系図は
琉球国は日本本国の士農工商の階級と違って士農の世界でした。系図は士族しか作成が許されていませんでしたので、大多数の庶民である百姓は系図がないわけです。これはものすごい不満となっていたようです。
作成や保管が認められなかった家の人たちの中には、先祖を辿れば元士族だった家もあったわけです。
琉球の歴史のなかで、第一第二尚氏の前の時代の有力者、尚真王の時代に地方の按司を首里に呼び寄せたときに地方に残った士たち、士族の次男三男で地方に下った人たち、こういう人たちの子孫たちの不満は大きかったようです。
作成や保管が認められなかった家の人たちの中には、先祖を辿れば元士族だった家もあったわけです。
琉球の歴史のなかで、第一第二尚氏の前の時代の有力者、尚真王の時代に地方の按司を首里に呼び寄せたときに地方に残った士たち、士族の次男三男で地方に下った人たち、こういう人たちの子孫たちの不満は大きかったようです。
彼らには立派な先祖がいて、その子孫であることを代々伝え守り由緒ある家としてプライドを持っていたが、たまたま地方にいたとか、公職になかったとかで士族リストから漏れてしまった。その中には「OO家の由来記」というような形で系図を書に残していた家もあったようですが、この系図が無効になるどころか、持つこと自体が許されなくなったのですから。
裏系図屋の存在
いつの時代にもある裏の存在。
農民階級の不満を餌に、裏系図屋というものが存在していた話を聞いたことがあります。噂レベルですので、存在の詳細や有無は定かではありませんが、これらの状況を踏まえると存在していたとしてもおかしくはないですね。
薩摩と絡んだ琉球国の系図座の存在、先祖探しのヒントになる歴史背景をまた1つ知ることが出来ました。