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先祖を探して

Vol.14 宗家に連なる人々2:池悦

屋号:上花城 2代目

名前:池悦 

当時の沖永良部の王族や豪族の家系の人々は、屋号(名字のようなものだが、引っ越しや環境によって屋号が変わる)、名前は童名(わらびな:子供のころの呼び名 幼名ともいう)、大人ってなってからの名前、唐名(中国との関係で使う中国名)があったようです。この池悦という名は、大人になってからの名前です。

出生 : 1698年~1779年2月14日(享年81歳)

役職:喜美留与人(1744年 46歳で与人になる)

この方は「2021年2月16日:逸話のある兜岩」でもご紹介したように、島の与人として大変ご活躍されたようです。お爺様の記録にこの方の出来事がわざわざ書いてあったということは、よほど活躍のあった方なのだろうと思っておりましたところ、数少ない当時のことを記録した古文書の中に池悦のことが書かれていました。古文書の原本解読は私にはできません。先田光演先生が沖永良部の隣にある兄弟島の与論島にある古文書を解読されて本を出版されていましたので「与論島の古文書を読む:南方新社」、その中からご紹介します。

 

薩摩藩への上国制度

1609年に薩摩藩が侵略後は、1613年大島奉行所が置かれ、奄美全体を支配するようになります。1616年には徳之島奉行所が置かれ、徳之島・沖永良部・与論島を管轄支配するようになります。その後1691年に沖永良部島に代官を置き、沖永良部島と与論島を支配するようになります。薩摩からは代官1人、附役4人の藩士(後に3人になる)が派遣され、この年から島役(与人)の上国制(鹿児島に献上物を届ける)が始まります。1745年からは横目(警察官のような役割)2人も派遣され、支配が強化されます。1693年には喜界島にも代官を置き、喜界島も支配するようになりました。

実はこの薩摩藩の支配下に入った奄美諸島ですが、親島である琉球も薩摩藩の支配に置かれますが、表面上は琉球国として中国の属国である形を続けます。琉球が薩摩藩の支配を受けていることは、明・清に対して隠蔽され、薩摩の支配がバレないように、冊封使が来ると、薩摩の役人達は浦添間切城間村(現浦添市城間)に隠れたそうです。貨幣に関しても同様で、冊封使が来るときには流通していた寛永通宝を回収して、琉球で使われていた鳩目銭を流通させ薩摩藩の存在を隠していたそうです。

 

左:嘉永通報 右:鳩目銭 随分貧弱です

 

鳩目銭は貧弱な銭貨のため価値が低く、
通常は400枚~1000枚を紐通しして
結び目に封をした形状で使用した。
下の写真は東京国立博物館の展示品。

そこまでひた隠しにするのは、薩摩藩にとっては琉球と中国の貿易がとても魅力的で、何が何でも継続させたかったようです。それにしても、本当に中国側を騙せていたのかは疑問ですね。。。このあたりの背景は色々とあるようですので、機会があれば記事にしたいと思います。

話はそれましたが、薩摩藩への上国制度というものは、島の役人にとってはとても重く負担のかかる制度でした。献上物の準備もそうですが、上国の際の船旅。現代のようなりっぱな船で行けるわけでもなく、帆船を使った航海は自然の中での風任せによる部分が大きく、4月・5月に南風で上国し、10月以降の北風を待って帰島したので約半年以上を要したようです。命がけの航海であり、上国の際は、藩主への献上物、家老以下への進覧物を大量に持参しなければならなかったので、島の役人にとっては負担が大きすぎる好ましくない制度だったと言えます。

そこで、与論島の与人:具志川と沖永良部島の与人:池悦が2島の与人が上国が義務付けられた64年後に繰回りで差し上るように願いを出し、それが受け入れられたことが書かれています。池悦にしてみれば、自分のお爺様にあたる池久保「2021年2月26日:26日という日に記事あり」が上国時に死亡していることもあり、これから子孫や自分の後に続く与人のことを考えての願いだったのでしょう。この願いが受け入れられたので、その背景には池悦の影響力もあったと思われます。

 

与論島の古文書を読む:先田光演 より

    

 

 

墓石建立と後年

お爺様の書によると、池悦は1760年にチュラドゥールにある屋号:上花城の墓石を建立しています。亡くなられた父母のために作られたそうです。この墓石を購入するときに、手洗いの手水鉢や船形の魚鉢も購入され、子孫がそれを保管しているとあります。現在上花城に繋がる親族は誰もこの陶器類を保管していません。島を出るときに、おそらく本家の方に預けてきたのだと思います。島に行った時には確認しようと思います。

その後の池悦は、佐久間という地名のところへ移動され、隠居生活をおくられ、1779年に81歳でこの世を去っています。隠居後の屋号は、佐久間に住んだので佐久間と呼ばれていたそうです。

池悦が建立した墓石は今でもチュラドゥールの最前列の左側に鎮座してあり、上花城の墓石として使用されています。260年ほどまえに建てられた墓石が今なお使われており、この池悦という方が歴史的な資料に名前が出ていることは、子孫として大変嬉しいものがあります。

 

義経爺様の書より


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