闇船での出発
お爺さま一家が島で生活をしていた当時、1946(昭和21)年3月~1953(昭和28)年12月25日はアメリカ領でした。
本土に行くためにはパスポートが必要だったのです。そのパスポートも初めの頃はなかなか発行もしてもらえなかったようで、島民たちは闇船を使って本土に来ていたそうです。
島から九州へ向かう海域には、以前にも書いたことがありますがとても危険な場所があって、さらには闇船なので小さい船にギューギューに人が乗り込んでおり、ますます危険度も高かったようです。
そんな状況下で、長男であった叔父は闇船で九州の鹿児島に向かったのです。
叔父は小学生の頃に、北九州にいたお爺様の長兄が学校の先生をしていたこともあって、これからは教育は必要だからと呼び寄せてくれて、1年程北九州で暮らしていたのだそうです。しかし当時は第二次世界大戦中で、戦火が激しくなってきたので疎開し、叔父は島に戻ったという経験がありました。
そのこともあって、既に親族がいた北九州に鹿児島経由で行こうとしていたのです。
闇船は無事に鹿児島に到着、そこで悲劇が起こります。
島バナナ事件
叔父は当時18歳位で好奇心旺盛なお年頃の青年でした。島を出て鹿児島に降り立った時には、鹿児島の空気はとても刺激的だったと思います。
島から出てきたであろうと分かる言葉やいでたちもあってか、誘惑の手もあったようです。
鹿児島に着いて叔父が最初に魔の手に引き寄せられたのは、なんと賭博だったのです。
実家から電車代や当面の生活費など、わずかなお金を持っていたそうです。そのお金を何と全部賭博に使ってしまったとか。
あっという間の出来事だったそうです。
途方に暮れた青年、、、
落胆した青年に、一緒に船でやってきてた大人の男性が声をかけてくれたそうです。
「その背負ってるバナナを売ってみたらどうか?」って。
叔父が島を出るときに、親戚がお土産にと島バナナをたくさん持たせてくれたので、背中には何房ものバナナを入れた包みを背負っていたのだそうです。
当時はバナナは高級品で島バナナは珍しいので、この男性はバナナが売れると思ったようです。そして更に「房ではなく、1本ずつ売るように」と、教えてくれたそうです。もしかしたら男性は自分が売った経験があったのかもしれませんね。
さっそく道端で島バナナを1本ずつ売り始めると、あっという間に完売したそうで、電車代もそれで準備ができたのだそうです。
親族が持たせてくれた島バナナが叔父を助けてくれたのでした。
ちなみに、昨年私は初めて島バナナを食す機会がありました。品種はアイスクリームバナナというやつでした。
正直バナナなんてどれも同じでは?と食べる前は思っておりましたら、お味が違うんですね。普段食べているフィリピン産とかのバナナと違って、味が爽やかです。食べた後にオレンジの風味が感じられます。あっさりしてて、何本でも食べれるような感じでした。すっかり島バナナファンです。
鹿児島の方たちも、もしかしたらこの美味しさを知っていたのかもしれませんね。
今となっては笑い話、叔父が笑いながら話してくれたエピソードでした。
その頃の島に残っていた家族はといいますと、まだ叔父がこれから北九州で仕事をして、、、という状況でしたので、先行きも分からず当面は島での生活が続いていました。子供たちは島を出るかもしれない計画があることは、全く知らなかったそうです。
その後の家族のエピソードは次回書きたいと思います。