当家のご先祖様である世之主が自害するに至った1つの説として、当家本家に保管されている平安統惟雄が1850年書いた「世之主由緒」にはこんな話が記録されています。
島尻村の国吉里主と申すものが勝負馬弐四所持していた。一匹を城主へ献上したいと申したところ、世之主が自分が使っていた馬の方を欲しがった。その馬は自分が気にっており、毎日それでお城まで行っていたので断ったところ、無理やり奪われた。そのことを恨みに思った本人が、中山王に泣きついて、もともと世之主が持っていた宝剣を中山王が欲しがっていたのを知っていたので、宝剣のありかを教えた。中山王は世之主の奥方に仕える女のスパイを送り込んで、その宝剣を盗み出した。その結果、中山の船が来た時に、和睦と知らず身を守る宝剣も無くなっていたので、自害に至ったとの流れである。
ざっくりとこのような話なのですが、私が着目したのは馬です。
沖永良部で古代に馬が飼育されていたんだ、、、今はそのようなイメージが無かったので驚きました。しかも国吉里主という人がお城まで馬で通勤していたように日常的に移動の足として利用していたようですね。和泊町誌にも競争馬として祭りにはレースがあったようなことが書かれていますので、やはり昔の島では馬が飼育されていたのでしょう。
そして馬と言えば、琉球が明との冊封で朝貢の品として馬を船で運んでいた話を思い出しました。
琉球が三山時代であったころから馬は献上されていたそうです。三山統一までの馬の献上は以下の通りです。『明実録』より
中山王 60回の進貢のうち57回馬を献上
南山王 27回の進貢のうち15回馬を献上
北山王 13回の進貢のうち10回馬を献上
その他の資料からも、明との朝貢関係が成立した1372年から貢馬が終了した1680年までの308年間に、馬を献上した記録は313回もあるそうです。
なぜ明国にこれほど長い期間馬を献上していたのか?それは明国での戦に馬が使用され、琉球の馬がとても力強く丈夫なので戦いに向いており重宝されたからのようです。
そして、この馬を船に乗せて輸送するには、それなりに馬の扱いに長けた人々が必要だったわけですが、そのような人々を琉球では準備ができたようです。
また、その力強い馬たちですが、古琉球・奄美地方で飼育されていた馬の種別の研究データがありました。結論からいうと、その馬は対馬で飼育されていた馬のようです。(対州馬:たいしゅうま)
沖永良部は根皿原遺跡から馬の骨が出土しており、馬を飼育していたことが分かります、そしてその馬は対州馬に近いデータになっています。
それが何を物語っているかというと、琉球地方で明への朝貢のために飼育されていた馬は、対馬産で、その馬は対馬からやってきていた。
琉球は古い時代から対馬と関わりがあったということです。しかも明に船で運んでいたのを助けていたのは、倭寇の可能性が非常に高いということです。
琉球国が古くは倭寇や対馬と関わりがあった話、当家の先祖が対馬の宗家説など、少し真実味をおびた情報がご先祖様が書いた「世之主由緒」から導かれました。しかし、このお導きはあくまでも私の考察です。