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先祖を探して

Vol.17 3号墓に行ったことがある!?

先祖探し活動は日々続いております。仕事をしながらの活動はなかなか没頭もできずに、本当にボチボチと進む感じです。しかもコロナ&遠すぎて現地に足を運ぶこともできず、現地確認もままならない。現在はインターネットが発達しているので、Googleの航空写真で現地確認ができるので、有難いことではありますが。現地に住む長老の親族の方々にもお電話でお話を伺っています。実は私は島のご長老たちとは一度も会ったことがありません。それでも急に電話をして、身分(義母のことやお爺様のことは知っておられるので)や経緯などを話すと、皆んさん親切に快くお話をして下さり、本当に感謝感謝の気持ちでいっぱいです。並行して琉球関連の研究者たちの論文や書物も読み、背景や人物などの歴史感も養っております。非常に時間がかかる。。。そんな日々です。

そんな中、島に助っ人ができました。島の高校生で、この4月から大学生になるために島を離れるそうです。島の思い出と紹介のために動画を撮っている日々だそうで、世之主に興味があり、私のブログを読んでくれているそうです。私が現地の状況が分からないことを話すと、動画を撮ってきてくれるようになりました。本当に本当に嬉しくもあり、頼りになる助っ人です。

そんな中、写真しか見たことがなく、何だかずっとずっと気なっていた3号墓。どうしてそんなに気になるのかは自分でも分かりませんが、とにかく気になるのです。この3号墓については「2月21日:チュラドゥールと呼ばれる美しいお墓」にもご紹介しましたが、新しい情報が入りましたので追記します。

 
このお墓は沖永良部島和泊町内城の泉川という地区にあります。3号墓の近くには島の島主であった世之主のウファと呼ばれる墓と、当家の墓であるチュラドゥールがあり、この3つはいづれも琉球式のトゥール墓といわれる石灰岩を掘り込んだ納骨堂を持つ墓です。
 
3号墓は林の中に人知れず眠っていたお墓のようで、数年前に発見されたそうです。発見されてからは近隣の住民に聞き取り調査などがあったようですが、誰の墓なのかなどの詳細は分からずのようで、現在も調査中のようです。
 
このお墓の動画を助っ人君が撮影してくれたので、さっそく見て感動しておりました。
世之主の墓の駐車場の奥から小道に入っていき、薮の中をどんどん進んでいくと、そのお墓は突然現れます。まるで古代の遺跡を発見したような感じです。墓にいく途中に、日本式の墓石が右手の薮の中にあって、明治19年と墓石に書いてあるそうです。周りには昭和時代のビール瓶が落ちているようで、今はもう参る人もいない墓石のようです。この墓石も3号墓究明の手掛かりになるといいのですが。
 
その動画はこちらです↓
 
 
昨夜、義母の家に行ったので義母にこの動画を見せたのですが、義母は行ったことがないようで記憶がありませんでした。同席していた義父が「俺行ったことあるよ。」というのです。驚きでした。誰といつ?と聞くと、時期は覚えていないが、もうずっと前のことだそうです。義父は島には数回しか行ったことが無いので、おそらく昭和50年代前のことだと思います。当時、島に結婚して住んでいた義母の姉(長女)と、北九州にいた義母の兄(次男)と3人で行ったそうで、義母の姉の話では、ここは一族の墓だと聞いたそうです。納骨堂の中などは見ていないそうですが。まさか身近な義父が行ったことがあったなんて、本当に驚きでした。
義父が言うように本当に親族の墓であるのかは不明ですが、昭和34年~46年の間のいつかに、チュラドゥールにあった空の骨壺を3号墓に移した話は、島に住むR叔母から聞きました。R叔母は、その墓が誰の墓かは知らないそうです。
義父の記憶もずっと前のことで、確かではない部分もあるとは思いますが、何だか1つ前進した気分になりました。
 
3号墓の件は先田先生にも確認してみましたが、納骨堂の左右にある日本式の墓石に、宝暦(1751年~1764年)の文字があり、蓮の絵が彫ってあるそうです。男性の墓石のようであるとのこと。本家と当家の当主のの中でこの期間に亡くなった人を探してみましたが、残念ながら該当者は見当たりませんませんでした。
早く現地に行って、お墓の様子などを確認したいと切望しております。
 

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