「最大限譲歩した和平交渉は、拒絶された」
またぞろハル・ノートに関連した日米交渉の問題か?
第一章の末尾の
「アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが
許せなかった」で反論しているのに、本の構成を度外視して波状
攻撃のように同じテーマを品を変えて繰り出すので、こちらも
波状攻撃に応じるしかあるまい。
まず小生の過去ログとwebのURLをリンクしていますので
ご参照ください。
「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽6
「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽7
日米交渉
ウィキは「日米交渉」について
「日本陸軍の中国大陸撤退条件に、満州国の国家承認、日米通商
関係の正常化などの交渉が、野村吉三郎駐アメリカ大使とコーデル
・ハル国務長官との間で始められていた。
しかし、・・・松岡洋右外務大臣が「日本の対中政策の全面承認」
を主張したために交渉は難航した。さらに、1941年(昭和16年)
7月28日に日本軍はフランスのヴィシー政権の承諾を得た上で南
部仏印進駐を行ったが、8月1日にはアメリカ政府は石油禁輸措置
等の日本に対する経済制裁を発動した。・・・」
石原莞爾が主張したように「石油が欲しいからとて戦争する奴が
あるか」を受け入れて、満州国だけにしておけばよかったものを
譲歩するどころか、「日本の対中政策の全面承認」を要求してなお
かつ仏印に進駐した。石原莞爾の政府への進言とハルノートが一致
していたのであればハルノートは無理難題を要求していないことに
なる。
しかし藤井氏曰く「同年7月から第三次近衛内閣を組織していた
近衛文麿首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談します。そこで
ルーズベルトと直接会って、日米首脳会談でなんとか日米戦争を回
避したいと強く訴えました。しかし、アメリカは妥協ではなく、
力によって日本を封じこめるべきだとして、アメリカ国務省は日米
首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示しました」
「妥協ではなく、力によって日本を封じこめるべきだ」という
主張がルーズベルト政権内部にあったという記事は、どこを
探しても出てこない。
藤井君
この部分は創作だろ
検証され立証されているweb記事と内容があべこべで
これじゃ君の本は「小説まがい」じゃないか
中国北部を占領して、満州国として傀儡政権を樹立した日本に
アメリカは「満州国」を承認する代わりに、中国から撤退するよ
うに要求していたが、これを拒否して仏印に進駐して「力」を行
使したのは日本だ。
「1931年(昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は
中華民国の提訴と日本の提案により、日中間の紛争に対し介入を
開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受
けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会では「中日紛
争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票(
日本)、棄権1票(シャム=現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)
で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制
裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆
国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が
派遣される以前の1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英
国大使が確認しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および
討議打ち切り宣言により黙殺された。」
満州事変の当初、アメリカは日本に対する国際連盟の制裁決議に
反対しているのだ。藤井君、知っているだろ?
「8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使から
ハル国務長官に提示された。8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談
を速やかに取り運ぶようとの督促を受け、野村大使に宛て「(日米
国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接
会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにあり
と信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう
訓電した。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われた
が(ルーズベルト大統領はウィンストン・チャーチル英首相との大
西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。
8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を
読み上げた。
もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に
支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段
をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と
利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一
切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」
「その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、
ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうかと返事をした。
8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳
直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥するこなく大所高
所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、
時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にし
て細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可
なり」との「近衛メッセージ」を発出した。28日に野村から
「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛
し、3日ほど会談しようと述べた。しかし、同夜に行われた野村と
ハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真
に憂慮する結果を来すとして、あらかじめ大体の話をまとめてか
ら首脳会談で最終的に決定する形式にしたいとの意向を示した」
ウィキ「ハルノート」
「(日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦
争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における
米国の必要資源獲得に協力(米国政府の確約事項)米国は南西太
平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係
の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地
位の承認仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩では
あるが、南部仏印に駐留したままでは説得力にかけるうえ、仏印中
立化どころか日本に特権的な地位を求めるなどあまりに虫のいい
提案であった。この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の
行動に深く失望したことを表明したうえで、日本が征服の政策を
捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わなかった。
米国の回答は8日にハルから示されたが、これは日本の提案は大統
領提案への回答としては不充分であると厳しく指摘するもので
あった。」
日本のアメリカに対する提案は「仏印中立化どころか日本に特権
的な地位を求めるなどあまりに虫のいい提案であった。」
ところが藤井氏は
「この(近衛首相の)和平提案は、アメリカの外交目的のほと
んど全部を達するようなものでした。日本はもちろん満州を
放棄するとは言っておりませんが、満州のことについても
フーヴァーは書いています。ですから、今で言えば日本がほとんど
アメリカの権益に便宜を図ってもいいという打診があったと
ベタ降りしているようなものだったのです。
そしてフーヴァーは、戦争は日本が始めたんじゃない、日本は
戦争を避けたかったんだとも言っています。何でこれ(近衛和平案)
を受け入れられないんだという話です。これは全く常軌を逸して
いると、批判しているわけです」
このように藤井氏のこの書籍の文章を併記すると、ウィキの
記事とは歴然とした違いが明らかになる。
この書籍の記述から藤井氏の人間像が明らかになってきただけ
ではなく、フーヴァーの人間像も見えてきた。
つまりフーヴァーはマッカーサーを大統領候補として担ぎあげ
たもののマッカーサーの嘘の議会証言によって、共和党内から
も信頼を失っていったはずで、ついに国民からもそっぽを向か
れてしまい、失意のうちに政界を引退したものと思われる。
それがルーズベルトへの恨み辛みとなって、ルーズベルト政権
やトルーマン政権の中枢にいなかったのに、伝聞を以て勝手に
想像して、一方的な記述で手記を書き上げたのではないか。
それが藤井氏が転記したフーヴァーの記述に表れている。政治
の権謀術数などおよそ想像もできない謹厳実直・真面目一方の
フーヴァーの、政敵ルーズベルトに対する嫉妬心にも似た敵愾
心が偏狭な見方になっていたことを表している。
藤井氏の転記『近衛首相が(F・ルーズベルト大統領)提案した条件
は、満州の返還を除く、すべてのアメリカの目的を達成するも
のであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余
地を残していた。皮肉なものの見方をする人ならば、ルーズベ
ルトは満州というこの重要でない問題をキッカケにして、もっ
と大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシ
アに与えようとしていたのでは、と考えるであろう』
ところがウィキ「ハーバート・フーヴァー」では
「1940年にフーヴァーはフィラデルフィアで行われた共和党大会
で講演を行った。・・・フーヴァーは、ヒトラーのヨーロッパにお
ける勝利は確実で、アメリカが必要とする大統領はヒトラーと
取引ができ、彼を疎外しない大統領であると語った。・・・」
この時、フーヴァーのもとにはヒトラーのユダヤ人大虐殺の
情報が全く入っていなかったはずで、しかし、フーヴァーは
「フリーダム・ビトレイド」では自らのこの時の演説には全く
触れていないはずで、独善的で無責任な記述と言うしかない。
長々とweb記事を転記して申し訳ありません。藤井氏の記述
には「事実」を突き付けるしかありません。
続きは次回に割愛します。
またぞろハル・ノートに関連した日米交渉の問題か?
第一章の末尾の
「アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが
許せなかった」で反論しているのに、本の構成を度外視して波状
攻撃のように同じテーマを品を変えて繰り出すので、こちらも
波状攻撃に応じるしかあるまい。
まず小生の過去ログとwebのURLをリンクしていますので
ご参照ください。
「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽6
「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽7
日米交渉
ウィキは「日米交渉」について
「日本陸軍の中国大陸撤退条件に、満州国の国家承認、日米通商
関係の正常化などの交渉が、野村吉三郎駐アメリカ大使とコーデル
・ハル国務長官との間で始められていた。
しかし、・・・松岡洋右外務大臣が「日本の対中政策の全面承認」
を主張したために交渉は難航した。さらに、1941年(昭和16年)
7月28日に日本軍はフランスのヴィシー政権の承諾を得た上で南
部仏印進駐を行ったが、8月1日にはアメリカ政府は石油禁輸措置
等の日本に対する経済制裁を発動した。・・・」
石原莞爾が主張したように「石油が欲しいからとて戦争する奴が
あるか」を受け入れて、満州国だけにしておけばよかったものを
譲歩するどころか、「日本の対中政策の全面承認」を要求してなお
かつ仏印に進駐した。石原莞爾の政府への進言とハルノートが一致
していたのであればハルノートは無理難題を要求していないことに
なる。
しかし藤井氏曰く「同年7月から第三次近衛内閣を組織していた
近衛文麿首相は、駐日アメリカ大使と9月に会談します。そこで
ルーズベルトと直接会って、日米首脳会談でなんとか日米戦争を回
避したいと強く訴えました。しかし、アメリカは妥協ではなく、
力によって日本を封じこめるべきだとして、アメリカ国務省は日米
首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示しました」
「妥協ではなく、力によって日本を封じこめるべきだ」という
主張がルーズベルト政権内部にあったという記事は、どこを
探しても出てこない。
藤井君
この部分は創作だろ
検証され立証されているweb記事と内容があべこべで
これじゃ君の本は「小説まがい」じゃないか
中国北部を占領して、満州国として傀儡政権を樹立した日本に
アメリカは「満州国」を承認する代わりに、中国から撤退するよ
うに要求していたが、これを拒否して仏印に進駐して「力」を行
使したのは日本だ。
「1931年(昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は
中華民国の提訴と日本の提案により、日中間の紛争に対し介入を
開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受
けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会では「中日紛
争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票(
日本)、棄権1票(シャム=現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)
で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制
裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆
国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が
派遣される以前の1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英
国大使が確認しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および
討議打ち切り宣言により黙殺された。」
満州事変の当初、アメリカは日本に対する国際連盟の制裁決議に
反対しているのだ。藤井君、知っているだろ?
「8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使から
ハル国務長官に提示された。8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談
を速やかに取り運ぶようとの督促を受け、野村大使に宛て「(日米
国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接
会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにあり
と信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう
訓電した。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われた
が(ルーズベルト大統領はウィンストン・チャーチル英首相との大
西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった。
8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を
読み上げた。
もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に
支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段
をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と
利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一
切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」
「その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、
ホノルルに行くのは無理だが、ジュノーではどうかと返事をした。
8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳
直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥するこなく大所高
所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、
時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にし
て細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可
なり」との「近衛メッセージ」を発出した。28日に野村から
「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛
し、3日ほど会談しようと述べた。しかし、同夜に行われた野村と
ハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真
に憂慮する結果を来すとして、あらかじめ大体の話をまとめてか
ら首脳会談で最終的に決定する形式にしたいとの意向を示した」
ウィキ「ハルノート」
「(日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦
争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における
米国の必要資源獲得に協力(米国政府の確約事項)米国は南西太
平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係
の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地
位の承認仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩では
あるが、南部仏印に駐留したままでは説得力にかけるうえ、仏印中
立化どころか日本に特権的な地位を求めるなどあまりに虫のいい
提案であった。この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の
行動に深く失望したことを表明したうえで、日本が征服の政策を
捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わなかった。
米国の回答は8日にハルから示されたが、これは日本の提案は大統
領提案への回答としては不充分であると厳しく指摘するもので
あった。」
日本のアメリカに対する提案は「仏印中立化どころか日本に特権
的な地位を求めるなどあまりに虫のいい提案であった。」
ところが藤井氏は
「この(近衛首相の)和平提案は、アメリカの外交目的のほと
んど全部を達するようなものでした。日本はもちろん満州を
放棄するとは言っておりませんが、満州のことについても
フーヴァーは書いています。ですから、今で言えば日本がほとんど
アメリカの権益に便宜を図ってもいいという打診があったと
ベタ降りしているようなものだったのです。
そしてフーヴァーは、戦争は日本が始めたんじゃない、日本は
戦争を避けたかったんだとも言っています。何でこれ(近衛和平案)
を受け入れられないんだという話です。これは全く常軌を逸して
いると、批判しているわけです」
このように藤井氏のこの書籍の文章を併記すると、ウィキの
記事とは歴然とした違いが明らかになる。
この書籍の記述から藤井氏の人間像が明らかになってきただけ
ではなく、フーヴァーの人間像も見えてきた。
つまりフーヴァーはマッカーサーを大統領候補として担ぎあげ
たもののマッカーサーの嘘の議会証言によって、共和党内から
も信頼を失っていったはずで、ついに国民からもそっぽを向か
れてしまい、失意のうちに政界を引退したものと思われる。
それがルーズベルトへの恨み辛みとなって、ルーズベルト政権
やトルーマン政権の中枢にいなかったのに、伝聞を以て勝手に
想像して、一方的な記述で手記を書き上げたのではないか。
それが藤井氏が転記したフーヴァーの記述に表れている。政治
の権謀術数などおよそ想像もできない謹厳実直・真面目一方の
フーヴァーの、政敵ルーズベルトに対する嫉妬心にも似た敵愾
心が偏狭な見方になっていたことを表している。
藤井氏の転記『近衛首相が(F・ルーズベルト大統領)提案した条件
は、満州の返還を除く、すべてのアメリカの目的を達成するも
のであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余
地を残していた。皮肉なものの見方をする人ならば、ルーズベ
ルトは満州というこの重要でない問題をキッカケにして、もっ
と大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシ
アに与えようとしていたのでは、と考えるであろう』
ところがウィキ「ハーバート・フーヴァー」では
「1940年にフーヴァーはフィラデルフィアで行われた共和党大会
で講演を行った。・・・フーヴァーは、ヒトラーのヨーロッパにお
ける勝利は確実で、アメリカが必要とする大統領はヒトラーと
取引ができ、彼を疎外しない大統領であると語った。・・・」
この時、フーヴァーのもとにはヒトラーのユダヤ人大虐殺の
情報が全く入っていなかったはずで、しかし、フーヴァーは
「フリーダム・ビトレイド」では自らのこの時の演説には全く
触れていないはずで、独善的で無責任な記述と言うしかない。
長々とweb記事を転記して申し訳ありません。藤井氏の記述
には「事実」を突き付けるしかありません。
続きは次回に割愛します。