さて、藤井氏は、いよいよ昭和天皇を担ぎ出します。
「開戦を回避する可能性がもうひとつあったのは、41年11月、
天皇陛下が日米交渉を3ヵ月凍結しようと提案したときだった
でしょう。
天皇陛下のお考えとしては、いくら日米交渉をやっても、現状
では行き詰まっていて、どうしょうもない。来年の春まで3ヵ月
間、日米交渉を凍結して、また3か月後の来年2月からもう一度
交渉を始めようじゃないか、という提案です。そうしたら、
国際状況がいろいろ変わってきているから、お互いの考え方も
変わるんじゃないか、ということだったろうと思います。
『日本の天皇陛下は、1941年11月に駐日米国大使を通じて、行き
詰まった日米交渉において3か月間の冷却期間をおいてはどうか
との提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否した』
実際それをやっていたら、おそらく日本はアメリカと戦争を
しなかったと考えられます。というのも、12月ぐらいからナチス
・ドイツが対ソビエト戦線で負け戦に突入するからです。
日本の頼みの綱はドイツだったわけですから、ドイツが劣勢に
なったと知ったら、どんなに反米の人たちだって、ドイツと
一緒にやろうという話にはならなかったでしょう。つまり、
対米強硬論者は後ろ盾を失って、真珠湾攻撃をやることも、
対米戦争をやることもなかったのではないでしょうか。
しかし、残念ながらこの提案もまた、ルーズベルトによって
拒否されるのです」
大胆にも天皇陛下を持ち出してきたということは、
日本人の琴線に触れることだけに、
記述には注意を要するが
藤井氏は、こともなげに書いている。
ところが昭和天皇は、1941年11月の御前会議では言葉はなかった
とある。御前会議で言葉がなかったものを、他に話されるわけ
がない。
念のためにwebの11月5日の御前会議。
「なお、昭和天皇は、9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」
に不満を示し影響力を行使したが、今回は慣例通りに発言はな
かった。この心境の変化について、天皇が東條へ絶大な信頼を
寄せていたことが指摘されている。また、対英米作戦への
成算を資料で示した統帥部の説得工作が功を奏し、天皇の戦争
への不安を取り除いた、との指摘もある(近衛は首相時代に、
天皇が「少しづつ戦争の方へ寄っておられる」と感じていたという」
「1941年11月に駐日米国大使」とはジョセフ・グルーだが
ウィキには、昭和天皇から日米交渉について提案があったという
記載は一切ない。
もっとも天皇が外国の大使に、直接、提案するはずがないので
側近の内務大臣・木戸孝一に仰せられた可能性はあるかもしれない
と思い、キーワード「木戸孝一」で検索したが、天皇が米国に対し
て提案したなどという記事は見当たらなかった。
藤井君
なんだこれは
早稲田を出て、ハーバート大学院まで出た
「国際政治ジャーナリスト」が、
こんなことも分からないのか
アメリカの大使と言えども
天皇に謁見するには
内務大臣・木戸孝一の
許可を受けなければならないはずだ
天皇の方からアメリカ大使に
直接会いたいという意向は
木戸孝一を通して伝えられるはずで
そうであれば、木戸孝一の記録に
そのことが残っていなければならない。
フーヴァーが、天皇のことを
伝聞を基に書いたとすれば
検証作業があってしかるべきで、
しかし、この文章にはその形跡もない。
だったらでっち上げということになるぞ。
藤井君
愛国心がある日本人だったら
フーヴァーのこの記述を目にした途端
激怒する
フーヴァー
無礼者めっ
藤井君
君は、本当の愛国者ではない
この本のでたらめな記述から判断すると
君は韓国の「反日」の連中の手法を
そっくり真似ているように
見えるが
どうだ
「御前会議」のキーワードでネットを検索していたら
NHKのスペシャル「御前会議」を見つけたので、転記します。
近衛の「和平提案」は「アメリカの外交目的のほとんど全部
を達するような」ものではなく、また「日本がほとんど
ベタ降り」したものでもなかったことが、ここでも分かります。
以下をご参照ください。
NHKスペシャル「御前会議」より
「 藤井茂がつづっていた日誌。
この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。
この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。
ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。
従来からの海軍の主張を、独ソ戦争を契機に実行しようと
いうもくろみであった。
原案には、「歴史に残る大文章なり」と記され、藤井の
興奮を伝えている。
当時海軍が進出をもくろんだ南方とは、今の南部ベトナム、
当時のフランス領インドシナであった。
そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、
アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。 アメリカは
南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討
を始めた。
アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲ
ンソー財務長官であった。
国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわら
ない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。
暫定協定案では日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力
を2万5,000人にとどめれば資産凍結を緩和し、民間用の
石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。」
※追伸:「昭和天皇の日米交渉に関する提案」は
「昭和天皇」のキーワードで検索しても、その
項目には見当たりませんでした。
「開戦を回避する可能性がもうひとつあったのは、41年11月、
天皇陛下が日米交渉を3ヵ月凍結しようと提案したときだった
でしょう。
天皇陛下のお考えとしては、いくら日米交渉をやっても、現状
では行き詰まっていて、どうしょうもない。来年の春まで3ヵ月
間、日米交渉を凍結して、また3か月後の来年2月からもう一度
交渉を始めようじゃないか、という提案です。そうしたら、
国際状況がいろいろ変わってきているから、お互いの考え方も
変わるんじゃないか、ということだったろうと思います。
『日本の天皇陛下は、1941年11月に駐日米国大使を通じて、行き
詰まった日米交渉において3か月間の冷却期間をおいてはどうか
との提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否した』
実際それをやっていたら、おそらく日本はアメリカと戦争を
しなかったと考えられます。というのも、12月ぐらいからナチス
・ドイツが対ソビエト戦線で負け戦に突入するからです。
日本の頼みの綱はドイツだったわけですから、ドイツが劣勢に
なったと知ったら、どんなに反米の人たちだって、ドイツと
一緒にやろうという話にはならなかったでしょう。つまり、
対米強硬論者は後ろ盾を失って、真珠湾攻撃をやることも、
対米戦争をやることもなかったのではないでしょうか。
しかし、残念ながらこの提案もまた、ルーズベルトによって
拒否されるのです」
大胆にも天皇陛下を持ち出してきたということは、
日本人の琴線に触れることだけに、
記述には注意を要するが
藤井氏は、こともなげに書いている。
ところが昭和天皇は、1941年11月の御前会議では言葉はなかった
とある。御前会議で言葉がなかったものを、他に話されるわけ
がない。
念のためにwebの11月5日の御前会議。
「なお、昭和天皇は、9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」
に不満を示し影響力を行使したが、今回は慣例通りに発言はな
かった。この心境の変化について、天皇が東條へ絶大な信頼を
寄せていたことが指摘されている。また、対英米作戦への
成算を資料で示した統帥部の説得工作が功を奏し、天皇の戦争
への不安を取り除いた、との指摘もある(近衛は首相時代に、
天皇が「少しづつ戦争の方へ寄っておられる」と感じていたという」
「1941年11月に駐日米国大使」とはジョセフ・グルーだが
ウィキには、昭和天皇から日米交渉について提案があったという
記載は一切ない。
もっとも天皇が外国の大使に、直接、提案するはずがないので
側近の内務大臣・木戸孝一に仰せられた可能性はあるかもしれない
と思い、キーワード「木戸孝一」で検索したが、天皇が米国に対し
て提案したなどという記事は見当たらなかった。
藤井君
なんだこれは
早稲田を出て、ハーバート大学院まで出た
「国際政治ジャーナリスト」が、
こんなことも分からないのか
アメリカの大使と言えども
天皇に謁見するには
内務大臣・木戸孝一の
許可を受けなければならないはずだ
天皇の方からアメリカ大使に
直接会いたいという意向は
木戸孝一を通して伝えられるはずで
そうであれば、木戸孝一の記録に
そのことが残っていなければならない。
フーヴァーが、天皇のことを
伝聞を基に書いたとすれば
検証作業があってしかるべきで、
しかし、この文章にはその形跡もない。
だったらでっち上げということになるぞ。
藤井君
愛国心がある日本人だったら
フーヴァーのこの記述を目にした途端
激怒する
フーヴァー
無礼者めっ
藤井君
君は、本当の愛国者ではない
この本のでたらめな記述から判断すると
君は韓国の「反日」の連中の手法を
そっくり真似ているように
見えるが
どうだ
「御前会議」のキーワードでネットを検索していたら
NHKのスペシャル「御前会議」を見つけたので、転記します。
近衛の「和平提案」は「アメリカの外交目的のほとんど全部
を達するような」ものではなく、また「日本がほとんど
ベタ降り」したものでもなかったことが、ここでも分かります。
以下をご参照ください。
NHKスペシャル「御前会議」より
「 藤井茂がつづっていた日誌。
この日誌には当時彼が書いた国策の原案が残されている。
この原案は独ソ戦争勃発の翌日に早くも書かれている。
ここでは資源が豊富な南方へ進出することが明記されていた。
従来からの海軍の主張を、独ソ戦争を契機に実行しようと
いうもくろみであった。
原案には、「歴史に残る大文章なり」と記され、藤井の
興奮を伝えている。
当時海軍が進出をもくろんだ南方とは、今の南部ベトナム、
当時のフランス領インドシナであった。
そこはイギリス、アメリカにとっても戦略上の拠点で、
アメリカは日本の動向に神経をとがらせていた。 アメリカは
南部仏印からの撤退が盛り込まれた乙案に初めて前向きの検討
を始めた。
アメリカ側の案をルーズベルト大統領に提出したのはモーゲ
ンソー財務長官であった。
国務省はモーゲンソー案をもとに従来の原則主義にこだわら
ない交渉継続を目指した暫定協定案を作成した。
暫定協定案では日本が南部仏印から撤退し、北部仏印の兵力
を2万5,000人にとどめれば資産凍結を緩和し、民間用の
石油の輸出を認めるという内容が盛り込まれた。」
※追伸:「昭和天皇の日米交渉に関する提案」は
「昭和天皇」のキーワードで検索しても、その
項目には見当たりませんでした。