徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した。
1 秦の始皇帝が天下を握った221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。燕・斉・趙の民数万人が、朝鮮に逃避した。朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している。辰韓は秦の民が多く集まったので秦韓と呼ばれた。王輯五は、「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国のこと、鳥取県中西部)に結集した」とする。
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、辰韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていた。また、辰韓人は馬韓人とは言語や風俗が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、言語や風俗は似通っていたという。弁韓は日本から渡海して来たものを受け入れるところであったと思われる。
第二段の徐福たち3000人もこの地にたどり着いたようである。そして一斉にではなく、次々にピストン輸送して伯州(伯耆国・鳥取県中西部)に結集した。辰韓は紀元前2世紀頃から朝鮮半島南部日本海側にあった後の新羅と重なる地域である。
2 「韓国の徐福伝説」許玩鍾より
全羅北道 井邑郡 泰仁面弓四里 弓四老人会館にて七十七歳の男に聞いた徐福伝説(一九八五年・四月十八日)
秦始皇に「それならどうかその不老草をあなたが探し求めてきてもらいたい」と言われると徐市は「あそこは遥か遠く、深いところで、一、二、三年間では出来ません。十歳前後の千人か二千人の童男童女を同じく区分けして、百隻ほどの船に乗せて、一、二、三年間を過ごしながら不老草を探し求めるわけであるので、一応農事をして食事を取らなければいけません。ですから豆の種や麦、種籾も要りますし、すべての種を備え、それにシャベルやくわ、ホミ(草かき)のようなもののすべてを備えてからこれらを乗せていかなければ不老草は求められませぬ」という。秦始皇に船や種、童男童女を要求し、また着る服のために綿布千匹を船に乗せて出発する。
出発すると徐市は「まあ、これで俺たちの天下だ」と言いながら数日を掛けてたどり着いたのが日本であったが、そこは広々とした大平原だけあって野原も畑も何もない。
(徐市は)どうしようもなく男女一人ずつを夫婦に添わせてやる。森林の山のところであればヤマ、野のところであればノハラ、畑のところが多ければハタケ、川のところであればカワと名付けてから全部を日本のあっちこっちの土地に割りあてた後、「鍬を持っている人、ホミを持っている人、種を持っている人、お前らはこの辺りで種蒔きをしてお前ら同士で食って暮らしていけ」とし、また持ってきた綿布千匹で着物を作ったという。
結局、五十年間ぐらいが経ってしまい、血気盛りの童男童女たちが子供を生んで、人口が増え広がり、日本の土地に根付いてしまった。
※ 私見
徐福たちは列島に地名をつけていった。海抜4mくらいのところの海岸であったような地名は徐福たちがつけた地名である。北栄町の瀬戸・穂波・津原・灘手などはその例である。
そのほかの伝承地には「徐市過此」(徐市が此処を過ぎた)という岩文字などが残る。徐福たちは、半島の東(辰韓)に行っている。徐福は半島の東(辰韓)に至り、日本(東海の三神仙)に向けて出港した。
3 始皇帝は海外にも秦国の威勢を拡大しようとしていた。徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。徐福は「東海王」の異名ももっていた。蒜山高原の周辺では山(ヤマ)を仙(セン)と読むところが多い(50くらいの山)が、これは仙人や仙薬を探していた徐福一行が名づけたものだと思われる。徐福は純粋に不老長生の仙薬を探しに日本にやってきた。丹後に行ってからも冠島で仙薬を探している。徐福は王になるために来たのではないが結果として平原・広沢(葦原中津国)を得て王(天照大神)となった。
4 『北史』新羅伝には、「新羅とは、その先はもと辰韓の苗裔なり」とある。新羅は紀元前57年に稲飯命(神武天皇の兄)によって建国された。「新撰姓氏録」では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。神武天皇の四兄弟は紀元前70年頃、東夷を平定されるために伯耆国を発たれた。二男の稲飯命は辰韓に渡り鉄製の剣や刀や鏃を創って神武天皇たちのもとに送った。神武天皇の即位年は紀元前60年である。その3年後の紀元前57年に、二男の稲飯命が辰韓の地に新羅を建国した。着かれてから建国までにかなり年数がたっているが、人望を得るのには必要な時間であった。
5 伯耆という国名の由来
除氏は秦の姓も賜っている。伯太は「はた」と読む。魏志東夷伝には「辰韓は馬韓の東において、その耆老が言うには、古くの亡命人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いた」とある。
伯耆とは伯太の耆老から来ている可能性が高い。
6 続、宗像三女神
宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた日本での最初の巫女であった。到着した順に奥津宮、中津宮、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は天孫族を介してつながりがコの字になるが徐福の子孫である。