1 宮崎県高千穂町の四皇子(しおうじ)峰
「宮崎県高千穂町の四皇子峰は神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある」とする。
四皇子峰の案内板には「神武天皇の御兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御聖域とされている。彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子鵜鵝草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は高千穂の宮で東征について彦五瀬命とご相談され、日向から筑紫、安芸、備後熊野を経て大和に入られ、平和国家を築かれたという」とある。
※ 私見
四皇子峰には四王子を守るための構造は何もなく、高いところに柵をして囲っただけのように見えた。鵜鵝草葺不合は彦火火出見のあだ名であり、彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子ではない。日向3代ではなく日向2代であった。
※ 私見
四皇子峰には四王子を守るための構造は何もなく、高いところに柵をして囲っただけのように見えた。鵜鵝草葺不合は彦火火出見のあだ名であり、彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子ではない。日向3代ではなく日向2代であった。
2 鳥取県倉吉市の四王寺(しおうじ)山
彦火火出見(鵜草葺不合)は鳥取県倉吉市の四王寺山に宮を定めた。
宮崎県高千穂町の四皇子峰の周囲には何もない。遺跡もない。鳥取県倉吉市の四王寺山の周辺からは旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が見つかっている。
四王寺山の麓の集落は大谷と北面があるがこの集落を通らないと四王寺山に上がれないようになっている。
宮崎県高千穂町の四皇子峰の周囲には何もない。遺跡もない。鳥取県倉吉市の四王寺山の周辺からは旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が見つかっている。
四王寺山の麓の集落は大谷と北面があるがこの集落を通らないと四王寺山に上がれないようになっている。
倉吉市大谷集落。大谷集落の前にある高さ3mの丘陵地から紀元前100年頃の住居跡が発掘されたので、高さ3mの丘陵は紀元前100年頃には存在していた。高さ3mの丘陵地は大谷集落を守るために存在していたと思われるので、大谷集落も紀元前100年頃には存在していたはずである。
下(南)の県道側の集落正面から3mの丘陵をくぐり抜け大谷集落に入っても、入山口はわからない。まっすぐ行けば寺に突き当たる。私は寺で聞いたが、誰かに聞かないと入山口はわからない。古代、準王一族(出雲神族)が入山口を尋ねたら殺されたと思われる。
下(南)の県道側の集落正面から3mの丘陵をくぐり抜け大谷集落に入っても、入山口はわからない。まっすぐ行けば寺に突き当たる。私は寺で聞いたが、誰かに聞かないと入山口はわからない。古代、準王一族(出雲神族)が入山口を尋ねたら殺されたと思われる。
倉吉市北面集落。入山口が分からないとグルグル廻ることになる。分かってもしばらく監視が続く。怪しい者は殺されたと思われる。
この2つの集落が四王子(しほっつぁん)の世話と守りをしていた。大谷集落の人々は親しみを込めて「しほっつぁん」と呼ぶ。
四王子山に入る集落を二か所にし、しかも入山する者は集落の多くの家に監視されながら家の前を通らなければならない。その集落も外からは見えないようにしてある。大事な四王子を守り育てるならこの構造がベストである。寺を守るだけならここまでしない。このような細工をした山は全国でも倉吉市の四王寺山だけと思われる。「古代の山城」といっても過言ではない。
「四王寺山に神武天皇の4兄弟がいたのではないか」と大谷集落の長老に質問してみるとよい。「そんなものはいなかった。四王寺があるから四王寺山という」と答えるはずである。おかしいと思いませんか。普通なら、「そうであったら、ここが全国的に知れ渡り有名になっていいのですが」と答えるはずである。全国から隠そうとしている。そう答えるように藤原氏に暗示をかけられていると思われる。同じように否定する人物は湯梨浜町の宮内にもいる。宮内の人物もそれ以上調べさせないよう話してくる。
この2つの集落が四王子(しほっつぁん)の世話と守りをしていた。大谷集落の人々は親しみを込めて「しほっつぁん」と呼ぶ。
四王子山に入る集落を二か所にし、しかも入山する者は集落の多くの家に監視されながら家の前を通らなければならない。その集落も外からは見えないようにしてある。大事な四王子を守り育てるならこの構造がベストである。寺を守るだけならここまでしない。このような細工をした山は全国でも倉吉市の四王寺山だけと思われる。「古代の山城」といっても過言ではない。
「四王寺山に神武天皇の4兄弟がいたのではないか」と大谷集落の長老に質問してみるとよい。「そんなものはいなかった。四王寺があるから四王寺山という」と答えるはずである。おかしいと思いませんか。普通なら、「そうであったら、ここが全国的に知れ渡り有名になっていいのですが」と答えるはずである。全国から隠そうとしている。そう答えるように藤原氏に暗示をかけられていると思われる。同じように否定する人物は湯梨浜町の宮内にもいる。宮内の人物もそれ以上調べさせないよう話してくる。
3 鳥取県倉吉市の四王寺山の南には、伯耆国庁跡・法華寺畑遺跡・伯耆国分寺跡など8世紀に主要な建築物が建てられていた。鳥取県西部には、孝霊天皇の足跡が多く残っているにもかかわらず、鳥取県中部は伯耆国の中心として位置ずけられていた。それだけ大事なものがあったのである。
この鳥取県倉吉市の四王寺山は9世紀に新羅の海賊から守るために四王寺を建てただけの山ではない。「しおうじ」は四王寺ではなく四王子であった。藤原氏は古事記の字を同じ発音の別の漢字に書き換えて日本書紀を作っている。同じ発音の別の漢字にあてるのが得意の藤原氏である。元は「子」とあったのを「寺」に書き換えている。
筑前国の四王寺山は神武天皇たちがしばらくおり、天児屋根・建御雷神・事代主を祭っていたという伝承が残っている。鳥取県倉吉市の四王寺山から葦原中津国を見ると事代主は北栄町亀谷におり、建御雷神は北栄町妻波におり、天児屋根命は北栄町穂波にいた。神武天皇たちにとっては事代主も建御雷神も天児屋根も身近な存在であった。
4 鳥取県倉吉市の四王寺山のすぐ北には葦原中津国がある。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであった。神武天皇たちは日向から出発したという。この地は日当たりの良い地であると瓊々杵命がいい、瓊々杵命は日向之御子というあだ名まで付けられている。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであり、神武天皇の四兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(日向)から九州の平定に出発した。九州平定後、船で倉吉市清谷(日下)に帰ってきたが、イツセが亡くなり、再び山陽に出て倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
藤原不比等は鳥取県倉吉市の四王寺山に神武天皇の四兄弟がいたことを知っていた。地名・伝承を宮崎県と奈良県に移し鳥取県倉吉市の四王寺山の伝承は二百年かけてきれいに消した。人的にも物的にもである。また鳥取県中部の各集落の調査を断念するよう仕組んである。
おまけ
宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝
宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝
高千穂町にはほかに天真名井がある。
伯耆国(米子市淀江町)にも妻木晩田遺跡と稲吉角田遺跡の近くに天真名井がある。うけいが行われたのは、おそらくここである。三女神がいた米子市胸形にも近い。
伯耆国(米子市淀江町)にも妻木晩田遺跡と稲吉角田遺跡の近くに天真名井がある。うけいが行われたのは、おそらくここである。三女神がいた米子市胸形にも近い。