夢幻に遊ぶYujin Koyamaの絵画と小説の世界を紹介します!

意外な人間の姿、風景に、きっと出会えるでしょう。フランスを中心に活躍する小山右人の世界を、とくとご堪能下さい!

たった一度の愛の告白に賭けた声

2018-02-26 21:21:49 | カルチャー
一度告白を拒まれただけで声の本質を見抜き沈黙に閉ざした青年が他にいたか?

「声」 小山右人(新潮新人賞 / Yujin Koyama)の小説

Amazon Kindle版
https://www.amazon.co.jp/dp/B071CGPXMW

【読者の声】
声を失った青年とセラピストとの交流を軸に、神話世界までを辿り行く独特の物語。大変興味深く読ませて頂きました。

「声は一度発せられると、決して消えることはない」という一文に私は引きつけられました。それは、音楽や数学にも通じる思想であるからです。
素晴らしいメロディを聴いた時、心や感情が何処か遠くへ連れさられる心地を感じることがあります。その時意思はこの世界の理、物理ではない、言葉以前の世界と触れあっているのだと感じます。
世界と感覚で触れあうこと、それが音楽なのです。対して数学は世界の物理的解釈の最小言語であり、ここにメロディと数学の共通項があるのです。
ならば、我々の発する声も、音と言葉の混じり合う声もその要素を含んでいるのではないでしょうか?
言霊とはその謂いであり、声を発するということは世界と触れ合うための一つの手段なのではないでしょうか?
故に声なき場所に地獄は現れるのです。我々と世界の架け橋が、その自在性を喪う所を我々は地獄と呼ぶのです。そしてその地獄を越えた「声」の、なんと純粋で力強いことか。このような声が世界の真理へと近づくのだと思います。

以前島尾敏雄の「贋学生」を読みました。この小説は心理療法に沿って構成されており、一人の青年の淀む生の解消で物語は終わります。
小山さんの「声」は同じように心理療法を軸にしてはいるものの、その描き方は経験的であり、主人公の苦悩・困惑を読書が、追体験するように描かれていました。これは本当に患者と対した者でなければ描くことの出来ない作品だと感じました。常々、私は芸術とは体験、意思、感情、思想を共有する行為だと思っております。
「声」を通して医療に携わる小山さんの一面を垣間見ました。

小山右人の小説

2018-02-26 13:29:23 | カルチャー
小山右人(新潮新人賞 / Yujin Koyama)の小説

「声」たった一度の愛の告白に賭けた声

Amazon Kindle版
https://www.amazon.co.jp/dp/B071CGPXMW

新人のセラピストの私は、初任地「癒しの家」で、たった一度の愛の告白を恋人に拒絶されたことによって声を断った青年と向き合い頑なさに面食らう。
青年の中には、うっかりしゃべって、二度と君の心が傷つかぬよう厳重に見張る専制君主が君臨していたのだ。
行き詰まりを感じた帰りがけ、私は街のカフェ「オイディプス」で、偶々セラピストと知って近づいてきた杉原と名乗る青年から、「声」に悩んでいることを告白される。彼は、仕事で使うコンピュータの奥から、自分を捨てた女の嘲りと罵りが聞こえてくるのだという。私は偶然「声」の魔を共有する彼と意気投合し、毎週会う約束をする。
杉原に触発され、私の声に対する認識は、オイディプス神話から想像世界へ、見知らぬ街の彷徨から未知の体験へ、移ろっていく。
杉原はさらに、荒れる真冬の佐渡ヶ島の荒波に身を晒し、「声」に向かって叫ぶことまでやってのける。
その際、かつて佐渡ヶ島に流された世阿弥の怨念の叫びを聞いたという告白に、私は強い衝撃を受ける。私自身まで「声」に巻き込まれ、夜毎に夢幻能の面に脅かされ始める。が一方、声の脅威は、秘められた意表を突く真実もさらけ出す。
〈書いた言葉や、録音した声は消せるが、ひとたび発せられた声は決して消すことが出来ない〉
心の虚を突かれた私は、むしろ逆に杉原に先導され、胡散臭い眼科の若い女医や、さらには鼓膜を貫き内耳にまで針を刺す治療を施すクリニックで、死肉と化した自身と、浮遊する魂に分離した自分を眺める衝撃に遭遇し、「自分」の手応えに還る。
癒しとは何だったか? 杉原は、身を持って至難の体験を潜り抜け、甦った自分を見せつけた。声を断った「癒しの家」の青年との意外に饒舌な「対話」も緒に就いた。
一連の出会いと体験を通じ、時空を超えて格段に聴力の幅が広がった私は、ひとたび発せられると消えることのない声が、遠い昔まで連なっていくのを感じる。その声は「癒しの家」の空に、踊り揺らめく人々の像を結び、賑やかな楽隊と共に木々の梢に渦巻き、回り続ける。