こう聞くと、ずいぶん簡単に解脱できる宗教に聞こえますが、それだけヒンドゥー教では安易にファンタジーが信じられており、それはシビアな現実から逃避する手段にもなっています。
インドの現実はシビアですが悲壮感はあまり無く、人々はみんな「自分の人生を生きている」といった充足感を持っている様に見受けられます。
それは「足るを知る生き方」で、多くを求めない美徳がヒンドゥー教にはあるようです。
これは「葉っぱ」の作用とも考えられ、麻には些細な物事でも感謝して味わえるようになる効果があり、ヒンドゥー教ではこれを儀式に活用しています。
これはプリミティブ(原始的)な感じの儀式で、子供のママゴトのようでもありますが、生活の一部となっていて彩りと充足感を与えてくれます。
インドはこの伝統を失うべきではなく、宗教心を保ったまま発展して行って欲しく思います。
そうした発展はこれまでの様な、大量消費による環境破壊的なモノではなく、少欲知足によるエコロジカルな発展になるコトを期待します。
この先駆けとしてシッキムは完全有機農業の州となり、そこの紅茶はインド中に流通し、インドではどこでも美味しくて健康的なチャイが飲めます。
こうした食物と国民性の関係は研究テーマにもなっており、健康的な食物を取っている国民は幸福度が高いとされています。
この尺度から見るとインド人はアメリカ人よりもずっと幸福で、その悠久の歴史が育んだカレー料理はこれからも進化して行くコトでしょう。
話をタイトルの「ねむれ嘩祀」に移しますと、これはたまたま今回バナーラスの本屋で入手した金子光晴の「ねむれ巴里」に感銘を受けて付けました。
その詩的な文章は実に味わいがあり、大正時代の日本の芸術家達のコトを知れて面白かったです。
「ねむれ巴里」はそうした無数の芸術家達へのレクイエムで、「ねむれ嘩祀」もカーシーに涅槃を求めてやって来る人達へのレクイエムとして、3回シリーズで描いて行こうと思います。