前回でSFF(スペシャルーフロンティア-フォース)のリーダーである「地の塩ターシャ」の生い立ちを語ったので、続いて彼女が戦うタメに生まれて来た因縁について語って貰います。
ーー 私が指揮した東チベット-ンガパ県のウラン鉱山(労働改造所)での蜂起は、半年以上に渡り戦った末に、人民解放軍の戦術核ミサイルによって全滅させられました。
この間の経緯は「戦いの女神カーリー」が持ち込んだスマホによってライブ配信し続けたので(上空の衛星が撃ち落とされるまで)、ご覧になった方は多いかと思います。
この戦いの詳細については、カーリーがすでに著書「Two of the Exodus (2人のエクソダス)」を出して世界的なベストセラーになったので、ここで付け足すコトはありません。
私がウラン鉱山の最深部に30日間籠って、核ミサイル攻撃からの唯一の生き残りとなった経緯もすでにインタビュー等で語ったので、ここではその間に私が見た不思議な夢について語らせて貰います。
私が籠っていた最深部の部屋には空気孔を多く設置しましたが、その全てが核爆発によって塞がれたので、坑内に残された僅かな空気だけで30日間を過ごすコトになりました。
そのタメ呼吸は最小限にする必要があり、一分間に一回の瞑想する時の呼吸で過ごしました。 この呼吸法は、脳に睡眠時と同じシーター波を生じさせるので、私は起きながら夢うつつの状態になり、かなり理性が働くリアルな夢を見ました。
その夢はまるで本当の人生のように長く続き、私はすっかりその夢を現実と信じ込みました。 これはまあよくあるコトで、夢の舞台も故郷の優樹(ユーシュー)だったので懐かしかったのですが、時代はどうも私の母が若かった頃の様で、私は子供時代の母と一緒に遊んで友達になりました。
そこでの私の家には父が居らず、それは母の家も同じで、他の多くの家もそうでした。 どうやら優樹の男達はみんな何処かへ連れ去られてしまったようで、その代わりに中国兵が時おり我が物顔で家に居座るコトがありましたが、彼等は酔っ払って女性に暴行し、子供を身籠らせても責任を取りませんでした。
母も私も当然そうした野蛮人を憎みましたが、生きていくタメには彼等に従うしかなく、私は彼等が建てた学校で優秀な成績を収めたので、この地区を代表して北京の大学へ進学するコトとなりました。 当時はようやく文化大革命の混乱が収束し、それでも憎しみの連鎖が絶えない故郷に未練はありませんでしたが、母と離れ離れになるのは寂しくて手紙交換する約束をして北京へと旅立ちました。
北京での学生生活は思いのほか楽しく、当時の80年代は経済の「改革開放」が行われて、日本の漫画やアメリカの映画、ビートルズやキンクス、クィーンやボウイなどの英国ロックまで流行っており、北京の大学生達はみんな明るい未来を描いていました。 私はそれを手紙で母に知らせて、彼女も未来に希望を抱けるようになりました。
当時は政治的にも東西冷戦が終結し、ソ連が解体されてファシズム(全体主義)は否定され、中国にも民主化の波が押し寄せていました。 大学生達は当然それを支持して、当時の総書記だった胡耀邦も民主化こそが国を発展させる道だと信じて、その方向へと舵を切っていました。
しかし、古い独裁政権にしがみつく者達は総書記を追放し、彼は間もなく心臓発作で亡くなってしまいます。 胡耀邦の追放と死は学生達を憤慨させ、彼の名誉復活と追悼のタメの集会を天安門広場で開き、この葬儀集会には延べ百万人以上の人々が参列しました。
私たち学生は正に革命を訴えており、教師等や市民も多くがそれに賛同しました。 この民主革命の機運は世界中からも注目を集めて、東欧やソ連に続いて中国も自由主義国になるかと期待されましたが、その私たちの夢は無残に打ち砕かれました。
集会が開かれてから49日目の午前1時に天安門広場へ向けて四方から軍隊が突入し、広場に居た5万人もの若者たちは逃げ惑いました。 私は疲れてグッスリ寝ていたので、騒ぎが起きても逃げる気にならず広場に留まりました... そうした学生達はみんな一緒に逝くコトとなり、逃げた若者たちも多くが殺されて、その数は人民解放軍の内部資料によると31978名にのぼります。
これだけの殉死者を出した葬儀はおそらく史上初で、私もその中の一人ですが、輪廻転生を信じていたので魂は迷わずに、故郷の母の胎内に向かえて今の人生へとつながりました。 --