サラスワティは「教育の女神」なので祭りは主に学校で行われ、わたしはスジャータ村で3か所の祭りに参加しました。
最初に行ったのは日本人宿「幸」が関わっているNGOの学校で、サラスワティ像のお披露目の儀式をそこで観ました。
これは非常に勿体ぶったヒンドゥー教の伝統儀式で、バラモンの司祭が延々と1時間くらいサンスクリット語のマントラを唱えるのですが、小学生くらいの生徒達がそれを10分くらいも暗唱したのには驚きました。
学校では子供たちに毎日マントラを暗唱させているようで、ここまで宗教教育が徹底しているのは初めて観ました。
このNGOの学校に関わっている日本人で、教育学部の若い助教授も一緒に参加しましたが、彼はこうした宗教教育に肯定的で、日本でも子供たちがみんなでマントラを暗唱して教育の女神を讃える儀式を行えば、学校に一体感が生まれてイジメなどは減るだろうとしていました。
この儀式が終わるまでサラスワティ像にはベールが掛けられていて、この像は毎年新しくリニューアルされるので、今年はどんなサラスワティか子供たちはドキドキさせられます。
みんなでの大きな「女神に勝利を!」の掛け声でベールは外されて、シタールを持ち歌う女神像が現れました。
この像は貧しいスジャータ村で作られるので、その美術レベルはけっして高いとは言えませんが、ふくよかな白い顔に黒い目の隈が大きく目立っており、それに釣り合うよう眉毛も盛大に盛られ、クリっとした優しい目を強調していました。
この最初の学校でのサラスワテ祭は厳粛でとくに問題は無かったのですが、そこに来ていた日本語を巧みに操る、昔お土産屋で働いていたお爺さんにチャイに誘われて、付いて行ってしまったのは問題でした。
このお爺さんは本当はチャイよりもお酒が飲みたかった様で、酒が違法のビハール州では不可触賤民(ハリジャン)のバラック地帯で密造酒(焼酎)が作られており、そんなアンダーグラウンドな酒場に連れて行かれましたが、流石に昼間っから飲んでるインド人は居らず、わたしとお爺さんは子供たちに囲まれて飲む形になりました。
酔っ払うと気が大きくなり、ツマミにしていた蒸し餃子(モモ)をハリジャンの子供たちみんな(20人程)に一個ずつ振る舞ったり、生活が苦しいお爺さんを多少サポートする位は良かったのですが、その後お爺さんの家でガンジャも吸わされてすっかりハイになり、そのまま祭りのハシゴに向かったのは失敗でした。
スジャータ村の小さな丘の上で行われていたサラスワティ祭は、音楽ガンガンでガンジャもバンバン吸われており、かなりハジケていました。
外国人は滅多に来ない会場なのでわたしは珍重され、持ち上げられて祭への協賛金をまんまとふんだくられてしまいました。
そこでお爺さんとは別れて他の会場に向かい、とても盛大な出し物をやっている学校に行き着きました。
ここもNGO経営の学校で大勢の小中学生が寄宿しており、歌やダンスを積極的に教育に取り入れていて、サラスワティ祭はその成果を父兄の方々に披露する機会でもありました。
そこでもわたしは賓客として歓迎され、食事も頂いたので協賛金を出さないワケには行かなくなりました。
これはなかなかハードなシチュエーションで、ここまで大規模に貧しい子供たちのタメに学校を経営しているNGOだと、その要求額も大きくなり折り合いに苦心します。
わたしは何故、未だにインドでは学校に行かない子供たちが多く居るのかと尋ねましたが、その答えはインドでは政府が教育にまったく力を注いでおらず、パブリックスクールは形ばかりで先生方にやる気はなく、そのタメ子供たちは学校に見切りをつけて働く方がマシと考えるようになるそうです。
この悪い教育の流れをなんとか良くしようと、身銭をはたいて長年活動しているNGO職員に頼まれてしまっては、少なくて申し訳ないと謝りながらポケットの大きなルピー札をみんな差し出さざるを得なくなりました。
正直に言ってわたしは、こうしたお金だけの支援は嫌いで、「幸」と提携してる青年向けの日本語教室のクラスを担当する方がずっとやり甲斐がありました。
そこでは漢字の奥深さを知って貰おうと「しん」の字を14個挙げて熟語などを解説し、ついではわたしの「Syn」の物語の宣伝もさせて貰いました。
わたしの物語では教育の女神サラスワティの転生者が、遠い過去から近未来に掛けて主役級のパートを担うコトも紹介して、この祭りに参加できたコトを感謝して締められました。