1948年の中国では、共産党軍が物凄い勢いで全土の国民党軍を撃破しており、それはそのまま共産革命を意味しました。
支配層や資本家は皆逃げ出し、その殆どは海を渡りましたが、内陸部では山や砂漠に逃れた人達も多くいた筈です。
祭恩諧と孫文徳はそうした人達から、中国の中心地で起こっている大動乱を知ります。
恩諧はすぐに故郷(福建)へ戻ろうとしますが、彼がその時に農業指導をしていた天山山脈は最も遠隔の地で、そう直ぐに戻れる場所ではありませんでした。
しかしそのお陰で命拾いした面もあり、家族が心配で直ぐに戻ったならば、革命の嵐に飲み込まれていたでしょう。
一方、文徳の故郷はマカオなので革命の心配はありませんでしたが、孫文一族は客家(ディアスポラ)なので各地に親族がおり、そうしたかつて医療普及の旅に力を貸してくれた人々の苦難に彼は心を痛めます。
彼の場合はまだそんなに山国の奥地まで入ってなかったので、革命の激震は肌に伝わって来るようで、むしろそんな無益な争いから逃れるように更に奥地を目指します。
山の尾根をずっと奥地へ入って行き、幾つもの峰を越えると、標高3000mの大高原に至ります。
そこまで来ればもう下界のくだらない争いなどに巻き込まれる事なく、安心して医療技術の普及に専心できると、文徳は落ち着いて抗生物質を生産する施設を整えて行きます。
この活動がおよそ一年で実を結ぶと、その評判は瞬く間に高原全体に広まり、文徳の元にはチベット青年のボランティアが多く集まって、彼らも抗生物質の生産方法を覚えて故郷にそれを広めて行きます。
そうしたボランティアの中で一人特別な少女が居り、彼女は微生物の培養に特別な才能を発揮します。
それは微生物を単独で培養するのではなく、何種類かを上手く共生させて培養する技で、自然界では共生なくして微生物は生きられないので、その自然の共生を試験管の中で研究したのは彼女がパイオニア(時代の先駆者)にあたります。
ここまで書けばもう彼女がトゥルク(転生活仏)である事は伝わったかと思い、当然彼女は文徳と結ばれます。
二人は協力して共生培養の研究を行い(ここでは恩諧から貰ったカルチャーも活用)、多様な微生物代謝物質(抗生物質はその中の一つ)を組み合わせた薬の開発をスタートさせます。
この薬は幾度も改良が加えられ、遂にはエリクサー(至高の薬)と賞される程の効き目を万病に齎すまでになりますが、その話は次回にします。