2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】』
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その2】』
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その3】』
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その4】』
の続きです。
------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------
母が亡くなった朝。
6時前に、訪問看護の看護師さんがこの一週間お休みだった担当医の先生を連れて家に来てくれました。
いつもバッチリお化粧の先生がスッピンに近い顔で来てくれたので、急いで来てくれたんだと思います。
その後すぐに葬儀屋さんが来て、お葬式の話等、色々決める事がありました。
先生はすぐに帰り、看護師さんだけが残って母をキレイにしてくれました。
私は、看護師さんの相手をしている妹に呼ばれたり、お葬式の話をしている旦那様に呼ばれたりでてんやわんや……。
お葬式は、棺桶はまぁ、燃えるのでそんなに良い物じゃなくていい。
でも、骨壺はちょっとこの模様が入ったのがいいんじゃないかな、とか……。
(実際には白い布みたいな箱みたいなのに入ってるから外からはよく見えないんだけど……)
宗教は何ですか? と言われても、何もない……。
母の実家と父の実家は宗派が違うし。
来てくれるお坊さんは誰でも良いですと言って、おまかせしちゃいました。
(……適当……)
お通夜はそんなに人が来る訳でもないので家でやる事にして、お葬式は葬儀場で。
私は何も見ていなかったんですけど、看護師さんはシャンプーをしたり、身体を拭いたりしてくれていたようです。
当時、中学生だった姪っ子も一緒に母のシャンプーをしていました。
これは、自宅じゃないと出来ない事だと思うし、姪っ子にはいい経験になったと思います。
おかげで、姪っ子は医療従事者になりたいという目的が出来たようでした。
このときだったか、母の歯が抜けていると言われました。
どうしてこんな事になったのか。
どのタイミングで抜けていたのか……。
痛かっただろうな。それも、わからなかったのかな……。
看護師さんが帰って、葬式の打ち合わせも終わって。
良い時間になったら親戚に連絡をして。
お通夜が25日。火葬と葬儀が26日に決まりました。
母と最後のお別れをして。
26日。
火葬と葬儀を終えて帰る途中。
車から虹が見えました。
ちなみにこの後、四十九日の法要の時、お盆の迎え火の時にも虹が出ていました。
偶然ってあるものですね。
葬儀が終わった後には病院でお世話になった人に挨拶に行き、レンタルしていたベッドや車椅子、スロープを返却して。
訪問看護の方にただで借りていたポータブルトイレを返却して。
仏壇を買ったり、どんどん落ち着いていきました。
母が亡くなる前に、「何かやりたい事ないの? 元気なうちに行っておきたい所とか、会っておきたい人とか」と聞きました。
母はほとんど希望を言いませんでした。
私たちに言い残す事もほとんどありませんでした。
ほとんどっていうか、全然?
母の癌がわかった時、母のためにも自分のためにも出来る限りの事をしようと思いました。
実際に後悔しないだけの事が出来たかといえば、それは出来ないですよね。
どれだけの事をしても、後悔は残ります。
それは最初の病院選びの所からです。
あの時地元の病院でなく、大学病院を選んでいたら違ったんじゃないかとか。
がんセンターにしておけば良かったんじゃないかとか……。
でも地元の病院にしたおかげで、腹水で苦しんでいる時に早く手術が出来ました。
仕事帰りに毎日病院へ見舞いに行く事も出来ました。
腹膜播種の状態では、どこの病院で手術をした所で、遅かれ早かれ同じ結果になっていたと思います。
癌に有効なのは、とにかく早期発見、早期治療なんでしょうね。
私は今年も乳がん、卵巣がんの検診を受ける予定です。
皆さんも、どうか検診を受けて下さい。
勢いのまま書いてしまったのでまとまりないし、誰かの参考になるかわかりませんが……。
お付き合いいただいてありがとうございました。
にほんブログ村
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】』
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その2】』
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その3】』
『腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その4】』
の続きです。
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母が亡くなった朝。
6時前に、訪問看護の看護師さんがこの一週間お休みだった担当医の先生を連れて家に来てくれました。
いつもバッチリお化粧の先生がスッピンに近い顔で来てくれたので、急いで来てくれたんだと思います。
その後すぐに葬儀屋さんが来て、お葬式の話等、色々決める事がありました。
先生はすぐに帰り、看護師さんだけが残って母をキレイにしてくれました。
私は、看護師さんの相手をしている妹に呼ばれたり、お葬式の話をしている旦那様に呼ばれたりでてんやわんや……。
お葬式は、棺桶はまぁ、燃えるのでそんなに良い物じゃなくていい。
でも、骨壺はちょっとこの模様が入ったのがいいんじゃないかな、とか……。
(実際には白い布みたいな箱みたいなのに入ってるから外からはよく見えないんだけど……)
宗教は何ですか? と言われても、何もない……。
母の実家と父の実家は宗派が違うし。
来てくれるお坊さんは誰でも良いですと言って、おまかせしちゃいました。
(……適当……)
お通夜はそんなに人が来る訳でもないので家でやる事にして、お葬式は葬儀場で。
私は何も見ていなかったんですけど、看護師さんはシャンプーをしたり、身体を拭いたりしてくれていたようです。
当時、中学生だった姪っ子も一緒に母のシャンプーをしていました。
これは、自宅じゃないと出来ない事だと思うし、姪っ子にはいい経験になったと思います。
おかげで、姪っ子は医療従事者になりたいという目的が出来たようでした。
このときだったか、母の歯が抜けていると言われました。
どうしてこんな事になったのか。
どのタイミングで抜けていたのか……。
痛かっただろうな。それも、わからなかったのかな……。
看護師さんが帰って、葬式の打ち合わせも終わって。
良い時間になったら親戚に連絡をして。
お通夜が25日。火葬と葬儀が26日に決まりました。
母と最後のお別れをして。
26日。
火葬と葬儀を終えて帰る途中。
車から虹が見えました。
ちなみにこの後、四十九日の法要の時、お盆の迎え火の時にも虹が出ていました。
偶然ってあるものですね。
葬儀が終わった後には病院でお世話になった人に挨拶に行き、レンタルしていたベッドや車椅子、スロープを返却して。
訪問看護の方にただで借りていたポータブルトイレを返却して。
仏壇を買ったり、どんどん落ち着いていきました。
母が亡くなる前に、「何かやりたい事ないの? 元気なうちに行っておきたい所とか、会っておきたい人とか」と聞きました。
母はほとんど希望を言いませんでした。
私たちに言い残す事もほとんどありませんでした。
ほとんどっていうか、全然?
母の癌がわかった時、母のためにも自分のためにも出来る限りの事をしようと思いました。
実際に後悔しないだけの事が出来たかといえば、それは出来ないですよね。
どれだけの事をしても、後悔は残ります。
それは最初の病院選びの所からです。
あの時地元の病院でなく、大学病院を選んでいたら違ったんじゃないかとか。
がんセンターにしておけば良かったんじゃないかとか……。
でも地元の病院にしたおかげで、腹水で苦しんでいる時に早く手術が出来ました。
仕事帰りに毎日病院へ見舞いに行く事も出来ました。
腹膜播種の状態では、どこの病院で手術をした所で、遅かれ早かれ同じ結果になっていたと思います。
癌に有効なのは、とにかく早期発見、早期治療なんでしょうね。
私は今年も乳がん、卵巣がんの検診を受ける予定です。
皆さんも、どうか検診を受けて下さい。
勢いのまま書いてしまったのでまとまりないし、誰かの参考になるかわかりませんが……。
お付き合いいただいてありがとうございました。
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コメントありがとうございます。
先月ですか。まだまだ辛いですね。そしてお母様、まだお若かったのですね。
心中お察しします。
気軽に元気を出してなんて言えないので、私の事を。
私も当時はよく泣いていました。数は減りましたが、数年経った今でも泣くことあります。
私に関しては、それも供養かなと思っています。
引きずっているわけではないけど、忘れてないよ、って事で。
きっとうちの母は体も楽になって、今頃好きなことしてるんだろうな、なんて想像しています。
ベタですけど、やっぱり時間が気持ちとか色々整理してくれるんだなぁ、と思っているところです。