ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

検察は正義の味方なのか

2020-05-23 12:37:35 | 日記
けさ、いつものようにネットの森を散策していたときのことである。その記事のタイトルを見て、私はガツンと一発、頭を殴られた気がした。こっぴどく私の頭を殴ったのは、サイト「現代ビジネス」に掲載された記事《検察は「正義の味方」ではない…マスコミとの癒着と「暴走の過去」》(5月22日配信)である。筆者は、ジャーナリストの長谷川幸洋氏とあった。

「正義の味方」という言い方をするのであれば、私がきのう本ブログで書いたのは、「黒川検事長は『正義の味方』で居続けたかったのだ。そうでなくなるのが嫌で、自ら『検事総長』のポストを投げ出したのだ」ということである。それが、この「現代ビジネス」の記事は、検察庁も黒川検事長も、そもそもが「正義の味方」ではなかったというのである。

筆者の長谷川氏は、持論を裏付けるため、大阪地検特捜部が証拠を改ざんし、厚労省・村木厚子局長(当時)を郵便法違反の容疑で起訴した過去の事例や、東京地検特捜部がでっち上げた「陸山会事件」などの事例を引き合いに出している。

これらの事例がホントに検察の捏造した冤罪事件だったのかどうか、私にはそれを見きわめる能力はないが、よく考えてみれば、こうした「検察の暴走」は、たしかにあり得ないことではない。何を〈正義〉とみなすかは、それを見る者が身をおくそれぞれの立場によって異なってくる。ニーチェの「遠近法思想( perspektivism )」を持ち出すまでもなく、絶対的・普遍的な〈正義〉などは存在しないのだ。その意味で〈正義〉は、本来がことごとく独り善がりのものだと言えるだろう。

検察には「検察の正義」が存在する。検察がこの〈己の正義〉を唯一絶対のものとしてこれにこだわり、これを押し通すべく権力を笠に着て、証拠を改ざんしたりすれば、検察は冤罪という〈悪〉を生み出す魔の機関にもなりかねない。

問題は、検察の暴走をどうやって食い止めるかである。検察の暴走をチェックする機関が必要だということになる。

検察の暴走を生み出しているのは「三権分立」の理念だという見方がある。だからといって、この「三権分立」の理念を撤回し、「政治(政権)が検察の権力行使を制御すべきだ」ということになれば、ここにはもっと大きな問題が生まれる可能性がある。

筆者の長谷川氏は、次のように書いておられる。

「私は『検察の独立性』ではなく『検察が誰からもチェックされないような行き過ぎた独立性、すなわち暴走する事態』を心配する。検察庁法を改正するなら、内閣や国会によるチェック機能強化のほうが、はるかに重要である。
たとえば、検事総長ら最高幹部を内閣が指名したうえで、国会の同意を必要とする人事にすれば、内閣と国会による統制は強化されるだろう。」

これは傾聴に値する意見だが、かの黒川検事長は問題の「賭けマージャン」をしながら、はて、こんなことを考えていたかどうか。残念ながら、それは判らない。
コメント
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