ささやんの天邪鬼 ほぼ隔日刊

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

長生きは幸福なのか、という問いをめぐって

2020-05-14 11:47:11 | 日記
その昔、「長生きは幸福なのか?」と考えたことがある。18世紀のドイツの哲学者・カントの著書を読んでいたときのことである。なにせ三十数年も前のことだから、この本の中でカントがどんな例を出していたのか、もう思い出せないが、その例には目から鱗(うろこ)の思いで「なるほどなあ!」と感心させられた記憶がある。私が憶えているのは、「金持ちになっても、幸せになるとは限らない」と主張する、こんな件(くだり)である。金持ちになると、泥棒に金を奪われないかと心労が増し、夜も眠れなくなる。カネ、カネ、カネ、と、日々の心配・気苦労で、かえって不幸になる、云々。

この例からもわかるように、カントは「幸福」に関する我々凡俗の常識を破壊しようとしているのである。その破壊作業の一環として、「長寿は幸福である」という我々の常識があげられていたように思う。たしか「長い人生が長い苦痛の連続だったとしたら、この長い人生は幸福な人生と言えるのか」というのが、カントの投げかけた問いだった。

その頃、私はまだ若かった。だから私は、カントのこの問いを実感として受け止めることができず、頭の中だけの「哲学的な」練習問題として受け取った。カントが差し出したこの「哲学的人間学」の練習問題について、当時の私の記憶が曖昧なのは、そういう理由からである。

ところが今、古希を越えた歳になって、私はこの問いをリアルに、切実な私自身の問題として実感するのである。東日本大震災があった9年前、脳出血に倒れた私は、以後、片麻痺の後遺症にとらわれ、苦痛と向き合う毎日を送らざるを得なくなったが、その私は今、幸福な人生を歩んでいると言えるのかどうかーー。

私の答えはこうである。苦痛は慣れるものだ。慣れれば苦痛は苦痛とは感じなくなる。たとえば入浴のとき。衣類の脱ぎ着などで、これまでに比べれば倍の労力と倍の時間が掛かるようになったが、この労力はジム・トレのーーリハビリのーー一環だと考えればよい。時間に関しては、私はそれを持て余しているほどなので、倍の時間をとられても、そんなことは痛くも痒くもない。かえって暇潰しができて、有難い位である。

では、幸福かどうか。この問いを前にするとき、私の脳裏には、何人かの人物が浮かんでくる。いずれも現役のころ、私がライバル視していた人たちである。だいぶ記憶は薄らいだが、こういう(幻のような)ゾンビたちに向かって、私は「どうだ。俺の方が上なのだぞ」と言いたがっている。そのとき私が儀式のように持ち出すのが「幸福」の観念なのである。

「幸福」とは、言ってみればマウンティングのための武器にほかならない。「あんたは五体満足だが、メンタルはどうなのだ。どうせ遣る瀬ない、ストレスの多い毎日を送っているのだろう。そこへ行くと、俺の方は身体こそ不自由だが、精神的には充実した、満足な毎日を送っているのだぜ」。そう言って私は自分を納得させ、心を宥めるのである。

だから私は今、年をとっても「苦痛の多い人生」を送っているとは思わない。私は生きがいに充ち、充分に幸福である。そう思っている。
私が何年か後に「胃ろう」を受ける身になったとき、この確信がどんなふうに変わるかは、自分でもわからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする