筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

宝満山の博多牡丹2

2018-04-21 22:22:44 | 日記

前号で紹介した今年の写真と比較してください。
これは同じ場所の2011年5月の宝満山の牡丹です。
葉の茂り具合、花芽の大きさなど同じ木と思えない位に勢いが感じられます。
かつて福岡城にあった最後に残った貴重な一株です。


博多の謡曲に博多牡丹の研究者であった椿屋遊園を主人公にした演目があります。

ワキ
 是は筑紫冷泉(れいぜい)の津 袖の湊に住居(すまひ)仕る遊園と申す者にて候。
 我れ若年より百花を養ふことを手馴候程におのづから家業の如くなりて候。
 頃は弥生の上旬なれば数多の数寄人の許へ差越江色よき花をも眺めばやと思ひ候。
 我れ元より園に遊べる身とて〈 憂世の塵を春風に吹はらひつつたどり行く。
 茲(ここ)は櫛田の宮(みや)居(ゐ)とて暫し念じて立居たり〈 (※〈 繰り返し記号 以下同じ)
シテ
 なふ〈 彼(あ)れなる御方(おなた)に申すべき事の候。
ワキ
 ふしぎやな由ありげなるさまより妙なる女房の我に言葉をかけ給ふは如何なる人にてましますぞ。
シテ
 花のあるじとゆふ園(江ん)の手にふれ給ふ一本はいかなる花にて候ぞ。
ワキ
 思ひもよらぬおん尋ねかなこれは我等が園生(そのぶ)なる岩波と申す花よなふ。
ワキ
 いづれの古歌にも此花を二十日(はつか)草ふかみ草とこそよめ是はことなるおん答えやな。
ワキ
 仰はもつとも然ることなれども唐士(もろこし)にて詩を賦する異名にも
シテ
 玉盤錦芭(きんは)さまざまに品をかへ色を添〈 富貴の花と名づけたり。今は我国に類(るい)多しと以(い)ひながら殊に筑紫の春の色々いかにやいかに、釣(す)簾(だれ)のひまに花をあらそふ御(み)景色其名ゆかしき許りなり。
シテ
 我名を何と岩波の落てくだくる習ひあり、其花に尋ね給へかし、花もの言はぬ色なれば暫し迷へる我心
ワキ
 あやしき今の言葉よな。
シテ
 さすが非情の姿とて雨露(うろ)霜雪(そうせつ)にまとはりし迷ひの雲も晴れやらす。
ワキ
 ふしぎやさては草木のかりに現はれ給へるか。
シテ
 まことや我はゆふ白の由良の戸わたる梶枕うかむことなき身なり、あら恥かしと言ひ捨て、形は見へずなりにけり、跡方もなく成にけり。
中入
ワキ
 さては牡丹の精かりに現はれて我に言葉をかけしなぞと、此理にまかせつつ花の供養をなさんとて〈 、貴き僧を請じつつ花壇を清め閼伽を汲み南無白霊露地白(びやく)牛。
シテ
 あら有難の法(のり)の庭やな、もとより此身は白妙(しらたへ)のかさねも重き罪科にうつらふ物もみな寄する博多の海の底もなく恋こがるる人(ひと)心(こころ)千尋(ちひろ)にのこる妄執(もうしう)哉(かな)。
ワキ
 不思議やな半夜(はんや)の鐘の響にひらく姿は、なほも昨日みし御簾の追風に匂ひ来て。
シテ
 恥かしながら仏果(ぶつくわ)の縁(えにし)に江める許りのありさまなり。
ワキ
 嬉しやさては手向(たむ)けの花も誠の道に
シテ
 通ひけり。熟々(つらつら)。飛花落葉を観ずるに一生は夢を結ぶに似たり、人間七十古来稀なり。
シテ
 牡丹花下(くわか)の酔(すい)猫(びやう)は蝶に心のありとかや。されば我(わが)朝(てう)大内山、都鄙遠近に至るまで今に絶江せず翫(くわん)賞(せう)せり。仰(そもそも)雪月のふたつの色をあらそひ、水晶の光あきらかに彼(かの)玉堂を照らしけり。出雲八重垣や、かみやが園のふかみ草、寺前(じぜん)の花をかぞふるに閑松院のくれない慈悲万行の乙女白、太子堂の紅白、士農工商家々に其色々をにぎはせり。老を養ふ紅や残(のこ)んの雪に下萌(したもへ)の緑も四方(しほう)に匂ふらん。小夜姫の袖のうちしほる天が下、紐うちとけがたき初霜のおきまどはせる白野菊。ヨシ〈 言葉の花ざかり、色をあらそふ数々に人の家名をかたどるは名有るに勝さる品多しそのぬしひとり楽しみあるかなきかの清瀧や、もろこし船の唐錦、童子(わらご)や天の羽衣。袖の湊(みなと)をかざしつつ供養の鐘をききゐたり。
シテ
 木の間の月もおぼろ〈 花にしたる露の光、
シテ
 伝へ聞く文殊の浄土に咲く花は獅子たはぶれて愛をなす、愛をなす御怯(みのり)の庭の草木まで悉皆(しっかい)成仏の
シテ
 色香もはなやかに情(なさけ)ぶかみ草、その面影もみへつかくれつ散りゆくやみへつがれつ吹ちらす東天紅(しののめ)の空とぞなりにける。

(春山育次郎著 博多毎日新聞「博多物語」二十牡丹の名花と博多人四 大正12年より)
 


宝満山の博多牡丹

2018-04-20 21:57:59 | 日記

博多牡丹は戦国期から江戸期にかけての博多在住の花奔園芸の好事家が
お互いの切磋により作り出した複数の品種の総称で、
椿屋遊園(木陳居士・山村新八)元禄四(1691)年著の「紫陽三月記」には144種の記載があります。
往事は実生から栽培し一つの品種に50年以上の時間をかけており、
江戸初期にこれだけの栽培者と品種があったことは、花奔園芸の歴史の中でも特筆されることのようです。
アジアに開かれた貿易都市を象徴する文化事象といえます。
遊園は福岡城の庭園管理もしていた伝承があり、城内のものもいわゆる
「博多牡丹」であったと考えられます。

福岡城から下し渡された牡丹がつくり継がれて宝満山の麓の個人宅にあります。

今年はいつに増して開花が早く、
今日の時点ではすでに盛りをやや過ぎていました。


今年は積雪や遅霜の影響か葉も花も至って小ぶりです。


今年も無事に開花している姿を見ることができました。

石井幸孝氏の褒章を祝う会

2015-01-31 17:54:06 | 日記

 石井幸孝さんの旭日重光賞の受賞を祝う会が博多川端のホテルオークラで開かれ、
九州内外の政財界や有識者300名近くが集いました。
 石井さんはJR九州の草創期の会社運営を軌道に乗せ、一線を退いた後も九州に残られ、
福岡城跡の顕彰をおこなうなど、九州浮揚の活動を続けていらっしゃいます。


1987年に民営化で発足した九州旅客鉄道株式会社(JR九州)初代代表取締役社長に就任。
早速、"部内本位からお客様本位"、"系統本位から会社本位"、"予算本位から収支本位"など「国鉄流10の反省」を提唱。自らも営業能力の高さを発揮し精力的なトップセールスを行い多角化を推進した。デザイン戦略を経営戦略として位置付け、水戸岡鋭治をデザイナーに起用し787系電車『つばめ』、883系電車『ソニック』、885系電車『かもめ』、九州新幹線800系電車『つばめ』など多くの斬新なデザインの特急車両を世に出し、他の交通機関との激しい競争で当初厳しい経営を予想されたJR九州の業績アップの原動力とした。これらの車両はブルーリボン賞、ブルネル賞など国内外の多くの賞を受賞した。
また、九州新幹線の整備、博多 - 釜山間国際航路『ビートル』の開設や熊本駅、鹿児島中央駅、由布院駅などの整備や駅舎改装、博多駅コンコースの大改装、『あそBOY』などの観光列車を次々と走らせるなど、鉄道を通じて九州各地のまちづくりやインフラ整備、および九州観光に大きな業績を残し国鉄行政改革をJR九州で実践した(Wikipediaより)。