筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

野間焼について6

2013-03-31 22:44:25 | 野間焼

(皿山道路更正碑の桜)
時は移ろい、花は散り次の季節へと流れていきます・・・・

今や野間の皿山の名前は自動車試験場がある場所
としてしか認識されていないことでしょう。

昭和50年代までは岡本窯がかろうじて操業していましたが、
今や地名のルーツたる窯場は遺跡と化してしまい、
宅地造成で地面が削られる際に姿を現すこととなって、
弥生や縄文時代の話しと変わらない世界になってしまっていました。


野間皿山の窯跡は遺跡としては4か所に窯場が想定されます。
一つは山王神社のある丘陵をよりどころにした場所で、
澤田瞬山の窯があったとされ、安永、佐々木家がその跡を継ぎ、
末裔の家が今もそこにあります。

野間焼について5

2013-03-25 22:53:50 | 野間焼
(4)「野間焼」(「日本近世窯業史」1921年(「日本窯業史総説」1991年柏書房第5巻収容))
「那珂郡野間村の陶器は、安政三年、藩庁より京都の陶工佐々木與三を招きて、陶業を起こすに創まる。明治十二年、與三の帰京に際し、同村澤田舜山が其工場を購ひ、日用雑器を製して、今に継続す。原土を同村柳河内に取り、釉薬は天草深江、其他五島のもの、及び本村近傍多尾村(長尾ないし中尾の誤りか?)の地より買収すといふ。(明治十八年の調査による、)。

 (イ)なほ参照するに、野間焼は安政三年六月、当藩主の命により、佐々木與三、横田與七の両人が那珂郡野間村の字柳河内に於て創製せり。京焼の類にして、土瓶、急須、茶碗等を製出す。近年来、其需要頗る多しという。

 (ロ)当窯は、安政四年、黒田家の御用にて開きしが、廃藩の際に止めり。かくて其時、従事せる京工佐々木與七の両人にて、之を継続したり。澤田舜山も栗田陶工にて、先に当国須恵村の製磁業のため、当藩主に招かれしが、廃藩後は須恵焼を自営せり。然るに明治十年、佐々木與三兵衛の帰京に際し、其跡を引受て之に入れたり。(年代及び人名に小差を見るも、姑く略す。)」


澤田舜山作とされる染付磁器徳利(科学呉須による絵付け。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/t-shien/charm-event/nisihanahata/nishihanahata-nomayaki.html より)


(旧西花畑公民館収蔵資料 野間焼の土瓶(京焼風)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/t-shien/charm-event/nisihanahata/nishihanahata-nomayaki.html より)

野間焼について4

2013-03-24 23:00:53 | 野間焼
(5)「行平」(「現在の日本民窯」昭和十七(1932)年柳宗悦編昭和書)

「窯は福岡県筑前国高宮野間皿山。福岡や博多の裏通りの唐津屋によると、きっとこの行平を棚の上に見いだすであろう。今も盛んに作る。
 販路はもとより北九州一帯で熊本あたりでも見かける。この窯のことは本文に記載するのを洩らしたから、ここで短く語らう。福岡市内だが謂は郊外である。静かな陶郷で、仕事は三箇所に分れる。山の麓の一軒が石炭窯で汽車土瓶を焼くが、奥の二軒が行平だとか土瓶だとかの雑器を焼く。
 土瓶は二種類あって、一つは明らかに信楽系統の山水絵の土瓶で、一つは、「いっちん描き」である。郷土色の濃い雑器である。ここに掲げた「行平」は後者の手法で、蓋にも胴にも横に黒の線を入れ、縦に白のいっちんを引く。もともと行平は土鍋であるが、この野間の皿山のものは最も特色あるものとして省みられていい。把手の作り工合も他では見かけない。寸法丈四寸八分、胴布五寸。ごく小型のも作る。」


(旧西花畑公民館収蔵資料 いっちん描き用の漏斗状の道具
白土や石英粉などの混和剤を入れ、ケーキにデコレートする要領で描画する。
博多や太宰府の江戸末から明治にかけての遺跡で梅紋様や文字を
イッチン描きで表現した製品が出土している。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/t-shien/charm-event/nisihanahata/nishihanahata-nomayaki.html より)


野間焼について3

2013-03-24 22:10:11 | 野間焼
(3)「市窯業研究所」(昭和4(1929〉年3月27日福岡日々新聞の記事
「福岡市史J第4巻昭和前編(下)昭和4工(1966)年福岡市役所に収容)

「堅粕にあって、本市の持産品である高取焼、野間焼および博多人形を始め、各種窯業の改善発達を図る目的を以て、昭和四年三月設立を見た。同所は窯業に関し各種原料の品質試験・輸出向硬質人形の製作試験およびタイル製作試験等を行う外、諸種の講習会又は講話会を催し、これら特産品の品質向上のため、不断の研究を続け、指導奨励に努めた。
 (中略)近時欧米諸国に新販路を求めている博多人形を始め、駅売茶瓶を一手に製造する野間皿山焼並びに封建時代より有名なる高取焼をそれぞれ改善発達せしめて、現在の生産額総計約六十万円を更に大いに増加すべく、福岡市は市立窯業研究所を市内中の島に建設し、咋二十六日午後一時前記三種の生産団体肝入りで、火入式を兼ね研究所落成式を挙行し、市長、産業課長、市参事会貝等列席した。
 因に同研究所昭和四年度経費予算は九千八百八十八円である。」

※堅粕は福岡市博多区堅粕で、窯業研究所は現在の博多青松高校付近にあったものか。
※中の島は博多区中洲中島町

(野間焼による初期の駅売り茶瓶(ロクロ引きの徳利形) 
内面に鉛ないしホウシャ釉を掛けた軟質陶器で、駅で回収して
再焼成して使用したというリユース品だったとか・・・
(その後、水ガラス入りの溶き粘土を用いた流し型によるものに変更された)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/t-shien/charm-event/nisihanahata/nishihanahata-nomayaki.html より)

野間焼について2

2013-03-24 08:49:59 | 野間焼
(2)「福岡市史」第1巻明治編第四編産業第二章工業
(「福岡市史」明治編昭和34(1959)年福岡市役所)

「物名陶器(土瓶、茶碗、ユキヒラ、丼鉢、瓶、揺盆、井樋、植木鉢、素焼類は七輪、火
鉢、火掻、炮ろく等なり。)
 産地名那珂郡博多上新川端町、瓦町、社家町、下祇園町、同郡野間村の内柳河内、早原郡
鹿原村の内西皿山、粕屋郡須恵村等にて焼出す。
 産額数量明治十一年の産額は博多素焼七輪、火鉢、火掻、土瓶、炮漉の類七万八千七百十
個、その価二千八百三十三円五十六銭とす。野間焼は土瓶、ユキヒラ、茶碗の類四1万四千個に
してその価一千二百十円なり。須恵焼は土瓶、茶碗、丼鉢の類十八万個、その価二千四百円な
り。西血山は瓶、播盆、井樋、植木鉢の類二万五千個にして、その価二千円なり。総数三十二
万七千七百十個にして、総価額金八千四百四十三円五十六銭なり。
 性質功用博多の素焼七輪・火鉢・土瓶・西皿山の瓶・擂鉢等は粗品なりと錐も・人家日用
のものにてその需要頗る多し。野間焼は京焼に擬せしものなり。
産地面積広陶器製那珂郡博多十七戸、窯所一所に付凡そ十坪、同郡柳河内三戸、窯所二所
共に横三間縦八十五間、粕屋郡須恵村窯所三百九十坪、早良郡西皿山窯所三所、内一所は九畝
五歩、一所は一反二十七歩、一所は六畝歩なり。
 自国消費野間焼、須恵焼は悉く自国消費とす。博多の陶器生産額の二部、西皿山焼産額の
八分は自国消費と見倣す可きなり。
内国輸出博多の陶器は大阪、馬関、越前、越中、越後、阿波、安芸、長門、豊前、豊後、
筑後、肥前、長崎、唐津、肥後、壱岐、対馬等の諸国へ輸出す。その数は産額の八分と見倣す
可きなり。早良郡西皿山の陶器は馬関、肥前長崎等へ輸出す。その数は産額の二分とす。概し
て八分と見做すときはその価額六千七百五十円余なり。
 外国輸出なし。
 費用賃金標準費用賃金区々なるを以て詳かにサず。
 事業人当標準事業人当同右
 沿革景況早良郡西皿山は享保三年旧藩主の命にて設置す。明治の頃梢や衰微に及びしをま
た、藩命を以て興起し、爾後格別盛大到らざれども、連続して現今も猶焼出す。粕屋郡須恵焼
は宝暦年中設置逐年繁盛せしが、その後梢や衰微すれども現今の景況尚依然たり一。又博多瓦町、祇園町は近世陶器製数戸となり、即今の景況最も隆盛なりとす。那珂郡野間焼は安政三年是又旧藩主の命にて興起するなり。現今の景況資金に乏しくして盛なるに至らず。野間焼の如き京焼に類して需要広し。蓋し資金を入れて拡張せば、将来盛大に至るべきと想像するなり。

(旧西花畑公民館収蔵資料 野間焼のユキヒラ
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/t-shien/charm-event/nisihanahata/nishihanahata-nomayaki.html より)