筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

野間焼について23-名残の遺構12-

2013-06-15 12:21:49 | 野間焼

現在の西花畑公民館は花畑中学校の前に移転していました。
公民館のホールには展示ケースが置かれており、
その傍らにおそらく岡本工房にあったロクロを
台ごと掘り取って展示してありました。


展示ケースにはもとの公民館に置いてあったコレクションが
そっくり納められています。
筑前野間焼に関する図録などが残されていない中で、
このコレクションが残されているのは貴重です。

野間焼について22-名残の遺構11-

2013-06-15 06:14:23 | 野間焼

皿山1丁目の山王神社の隣にかつてあった西花畑公民館に
野間焼のコレクションがありました。
92年の時点では徳利(染付磁器)、土瓶、行平、瓶子、土釜、駅売り茶瓶(徳利型)
などが写真に写っています。




駅売り土瓶は徳利の形をしていて、肩の部分に紐穴のあいた耳が付いており、
お猪口がセットになっています。
黄灰褐色の素地に透明の釉薬が掛けられています。

2009年更新の福岡市のHPにはカラーでひとつひとつの製品が紹介されています。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/minamiku/k-shinko/charm-event/minamijouhouhassinntai/nisihanahata/nishihanahata-nomayaki.html

明治時代のものと比べると、山水土瓶などは小型化して
絵柄も簡略化され後退している感がありますが、様式は
しっかり受け継がれています。

昭和の段階で作られていた野間焼の概要が知られます。


野間焼について21-名残の遺構10-

2013-06-12 05:56:09 | 野間焼

皿山2丁目の北側の分岐路に桜のある余剰地があります。
ここには野間村の分村であった皿山に野間村から
道路が整備された時の更正の碑が建てられています。




昭和7年に起工して、翌8年に竣工しています。
途中の野間大池は太平洋戦争時には
南方戦線での戦闘を想定した軍事演習がおこなわれたような地勢で、
言わばジャングルのような状況だったわけで、
野間焼の製品搬出にとっては道路更正は悲願だったと思われます。










土地寄付者の芳名の中に小林、安永、吉原、岡本、高尾など
往時の製陶業者の名前が見えます。

また、博多で陶器を販売していた下沢商店(はくせん)の名前も見えます。
この碑の存在により、野間焼の製造・販売の両者で市に働きがけして
道路整備がおこなわれたことが考えられます。

野間焼について20-名残の遺構9-

2013-06-09 23:29:44 | 野間焼
記事を書くと気になるもので、その「奥の1軒」の場所に行ってみました。


新しいコンクリート積みの壁面に時間の経過を感じつつ
恐る恐る近寄ると・・・・


なんと窯そのものは時間の経過も感じさせない雰囲気で
そのままそこに残っていました。
筑前陶器の一大産地であった野間皿山に残された
地名の由来を示す貴重な遺構です。

野間焼について19-名残の遺構8-

2013-06-09 00:37:29 | 野間焼

92年撮影のフィルムにはもう一つの貴重なカットがありました。
小林窯とは丘陵の反対、南西側にある煉瓦積みの空吹窯の跡です。


外壁と竹林の中に埋もれたような状態で撮影されています。

『現在の日本民窯』昭和十七(1932)年記事の「奥の二軒」のうちの
1軒に当たる屋敷の敷地入口にこの窯はありました。
92年当時に小林家にいらした奥様にお話を伺った際に、
奥の家には戦後山水土瓶の絵付け名人の
お婆ちゃんがおられたことを話されていました。
『現在の日本民窯』の記事からも小林家が行平を
奥の家は土瓶を得意として製造していたようです。