あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

ツイッター(現X)決別宣言

2025年01月29日 23時56分25秒 | Weblog

 米国でトランプ大統領が再任した。
 その最大のブレーンであるイーロン・マスク氏は、米民主党からは影の大統領だと指摘されている。

 承知の通り、マスク氏は2022年にツイッターを買収して「X」に改名し、その後ツイッター(現X)は大きく変容した。米連邦議会乱入事件の首謀者とされたトランプ氏の永久凍結されていたアカウントを復活させたり、偽情報や人権侵害対策のための人員を削減したりした。
 そして今年(2025年)に入ってからは、政府効率化省のトップとして米国政府予算の大幅な削減を断行しようとしている。そこで削減されるものの中には人権に関わる重要な費目が含まれているようだ。
 報道では米国はすでに国際人道援助を停止し、紛争地域では即座に人命が失われる危機に直面しているという。
 米国内においても同じように各種プロジェクトへの資金拠出が停止されそうになったが、直前に裁判所が差し止めたとも伝えられている。その中には貧困層への支援や、多様性社会を拡大・維持させる機能と人員などが含まれていた可能性がある。

 翻って我が国では、1月27日に報告書素案が提示されたと言われる兵庫県・斎藤知事を調査する百条委員会で、メンバーを務めていた議員がネットリンチとも呼べるような激しい誹謗・中傷・脅迫を受け、議員辞職に追い込まれたばかりか、ついに自ら命を絶つという悲惨な状況が生まれた。
 他方、全国規模ではSNSを通じた詐欺や犯罪勧誘などの事案が憂慮される現状となっている。

 こうした状況下で、ネット情報のファクトチェックの強化は必須であるにも関わらず、マスク氏の現Xの運営方針は「対戦型SNS」という名目でいたずらに対立を煽り、一方で投稿の収益化を喧伝することよって、偽情報や憎悪情報を蔓延させている。

 ぼくは、マスク氏によるツイッター買収のころから、同氏の対応について疑問を感じ、以降、次第にツイッター(現X)の利用を控えるようになってきたが、今般のマスク氏のトランプ政権での重要ポストへの起用、およびその前後における同氏の言動について、さらに大きな憂慮を感じざるを得なくなった。
 ここに至って、もはや現Xを支持することは出来ず、イーロン・マスク氏の運営方針ならびに、彼の政治家としての言動に強い抗議を示すために、ツイッター(現X)の利用を明示的に停止することとした。

 現Xのアカウントは当面残しておくが、現Xの運営方針が変更されるなどの改善が見られない限り、今後も一切使用はしないので、ご理解いただきたい。
 ついては、今後の発信は当のサイトなどで行うつもりなので、気になる方はチェックしていただければ幸いです。

あなたから一番遠いブログ(当ブログ)
https://blog.goo.ne.jp/zetsubo

Another Option エッセイ・カテゴリー
https://era.change.jp/wp/?cat=4

 

 なお最後に、誤解の無いように付け加えるが、ぼくはマスク氏の言う検閲の排除と、表現の自由は、それ自体は絶対に守られるべきと考えている。その一点においてはマスク氏に賛同する。
 しかし、その前提として、発言、発信に対して発言者、発信者、拡散者が適切な責任を負うべきであり、プラットフォーム側は当然そのための仕組みを構築し運用しなくてはならないと考える。
 また、情報の受容者に「見ない権利」、「触れない権利」が確保されねばならず、これについてはネットにかかわらず、一般的にあらゆる情報や行為は、一定の条件によって「棲み分け」が行われることを原則とするべきだと思う。
 インターネット上のプラットフォームは、この原則を徹底する義務を負っている。
 こうした措置を講じた上でこそ、表現の絶対的自由が真の自由としてなり立つのだ。

 表現の自由を人民が自ら獲得し、それを絶対に手放さずにすむように、発信者、発言者、拡散者、プラットフォームは永遠に努力し続けねばならない。ゴールはない。常に自分と自分達、社会と常識を疑い、批判し合い、議論し、更新し、また疑うことの繰り返しでしか、これは実現しない。
 その前提にあるのは平等で、かつ妥協を恐れず一致点を探り続けるという民主主義思想の一般原則の遵守であり、その不断の強化であり、その普及とそれにともなう民度の錬成だろう。

 困難な道だが、それを進むしか道は無いと信じる。

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Nさんへの手紙(12)~なぜハマスはイスラエルへの越境攻撃を強行したのか

2023年10月13日 10時16分30秒 | Weblog

Nさん

 なぜ今回ハマスが無謀で残虐な行為に出たのかという話ですね。

 2023年10月10に、パレスチナ・ガザ地区を実効支配するハマスは、突然イスラエルとの境界を越えて大規模な戦闘作戦を決行しました。作戦名は「アルアクサの洪水」と言うそうです。
 大量のミサイルをイスラエル領内に撃ち込むとともに、1000人以上の戦闘員がバイクやハングライダーで境界壁を越えて侵入し、老人、子どもを含む数百人の非戦闘員を殺害、100人以上の人質を拉致した模様です。
 これに対してイスラエルも反撃。ガザ地区へミサイル攻撃を続け、また電気、水、食料、燃料等のあらゆる物流を遮断して完全に孤立させています。イスラエルでは挙国一致の臨時内閣が組閣され、数日以内に地上軍をガザに突入させるだろうと言われています。
 すでに両勢力あわせて数千人の犠牲者が出る、大惨事となっています。

 Nさんには言うまでもありませんが、パレスチナ問題には二千年以上の長い歴史があり、第二次世界大戦末期からの現代史においても極めて複雑で悲劇的な歴史的経緯が積み上がっています。ここでそこから説明するのは無理ですが、いずれにせよ、今回の戦争は起こるべくして起こった戦争だと言うしかありません。

 ぼくが思うに今回の事態の直接的原因のひとつは、イスラエル国内政治の混乱でしょう。
 長年イスラエルの首相として実権を握ってきたネタニヤフにはもはやイスラエルを率いるだけの力はありません。国民から信頼されていません。そこで彼が取った戦術は超極右勢力と手を組むことでした。その結果イスラエル史上最も右翼的な内閣が誕生し、これによりパレスチナ人やガザ地区への締め付けや攻撃が激化、今年は何度も衝突が起きてきました。
 これに対して、ガザ地区の住民の中にも実効支配するハマスへの不満が溜まり、ハマス批判のデモも起きました。ハマスとしては何らかの対応を取らざるを得ない状況にありました。

 もちろん、今回の作戦は、数年の時間を掛けて綿密に準備された作戦でしょうし、その背後にはイランの革命防衛軍が存在していると思われます。
 その意味では、米トランプ政権が中東の政治的、軍事的バランスを壊してしまったという背景もあると思います。トランプはエルサレムをイスラエルの首都として認定し、イスラエルとUAE、バーレーン、モロッコ、スーダンとの国交正常化を仲介し、一方でイランとの核合意を破棄しました。
 この結果、イランやパレスチナは加速度的に追いつめられる事態となり、その後のバイデン政権も、こうした政策を取り消すどころかトランプの中東政策を引継ぎ、今やイスラエルとサウジアラビアの国交正常化も近いと言われるまでになってしまいました。
 つまりこれまで中東のイスラム諸国では、少なくともパレスチナ支持で一定の合意が形成されていたものが、ここに来てそれが壊れようとしているのです。
 ハマスはそこに大きな不安を抱き、もはや誰も自分を味方してくれないという絶望感に陥り、玉砕戦略に出てしまったのかもしれません。

 三つ目に言えることは、ロシアのウクライナ侵攻の影響です。
 世界の目はウクライナに集中し、その他の紛争地、侵略行為に対する関心が薄れてしまいました。ミャンマーや香港で闘っている人々にとって、それは打撃であり、パレスチナ人、ハマスにとっても同様であったろうと思います。
 そして米国や西側諸国はロシアの暴虐については非難し、こぞってウクライナへ大きな支援をしているのに、パレスチナ問題では、全く逆に侵略者であるイスラエルを支援し、被害者であるパレスチナ側をテロリストとして非難、否定しているという矛盾、ダブルスタンダードがはっきりしました。
 こうした中で、パレスチナ、ハマスはもはや自力で戦い、血路を開く以外の方向性を失ってしまったのです。

 ぼくは今回のハマスの非道な行為を支持するつもりはありません。
 しかし、それと同時にこの悲劇の責任はハマスだけにあるのではなく、パレスチナを侵略し今なお追いつめ続けるイスラエルや、そのイスラエルを全面的に支援する米国をはじめとした西側の諸大国、パレスチナ問題を利用したり逆に目をつぶったりしているイランやサウジアラビアをはじめとした中東の諸大国、さらには国連安保理事会常任理事国としてあるまじき侵略戦争を起こして世界情勢を不安定化させたロシア、それを実質的に支えている中国など、世界中の国々の政府と政治家の責任であると考えます。

 大国の身勝手な論理、自己中心的、自己保身的なあり方こそが、この事態を生んだのだと言うべきです。
 ぼくには何の力もありませんが、それを糾弾し続けます。
 もう力ある者の横暴はたくさんです。

 

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ガーシー議員とNHK党への疑問

2023年02月25日 11時24分18秒 | Weblog

 ガーシーという国会議員がいるそうだ。
 「そうだ」と言うのは、ぼくは彼のことを断片的にしか知らないからだ。知っている人は良く知っているのだろうが。
 国外にいるため議員に当選してから一度も国会に登院せず、本会議での陳謝をするようにという処分が下った。まあ軽い処分だが、もし陳謝しなければ次は除名という話もある。ぼくにはそれが適切なのかどうかわからない。どういう政治家なのか知らないのだから。

 ただ彼は名誉毀損で刑事告訴されているという。日本に帰ってくると逮捕される恐れがあるから帰れないという。ただし国会議員には不逮捕特権がある。今は国会開会中だから帰ってきてもすぐに逮捕されるわけでは無い。

 彼の態度や処分を巡っていろいろな意見が飛び交っている。多くはガーシー議員に否定的だ。
 それでも一部に彼を擁護したり、処分に疑問を呈したりしている人もいる。それは健全なことだと思う。しかしそうした意見の中にはどうもしっくりこない、違和感を感じるものもある。

 まず、国会に登院しない議員は他にもいる、もしくは出る可能性があるという議論だ。確かにしばしば病気を理由に欠席する議員はいる。また身体障がい者も登院が難しいというケースもあり得るだろう。
 だがガーシー議員の国会欠席は病人や障がい者と同じなのだろうか。病気や障がいは不可抗力だ。物理的な問題なのだ。一方でガーシー議員は自分の意志で帰国せず登院もしない。ガーシー議員の不登院に正当性があるとしても、これは別のカテゴリーの問題で同列には語れないと思う。
 もちろん現実には「仮病」で雲隠れする議員も多い。これは許されることでは無い。これもまた別の問題として何らかの対応が必要だとは思うが。
 国会に出てきても居眠りしている議員がいるとガーシー議員は言うが、出て来ないより出てきて醜態をさらす議員の方がずっとマシだ。少なくとも国民はそれをその議員の政治姿勢を評価する判断材料にすることが出来る。

 不逮捕特権への考え方にも大きなズレがある。
 国会議員の不逮捕特権は政治弾圧に対する保護措置として存在する。時の権力を批判する議員を口封じのために行政府が逮捕したりできないように、この権利がある。
 ガーシー議員は立候補の理由として、この不逮捕特権を得ることが目的であるかのように言っている。つまり彼の主張は自分が政治弾圧されているということになる。
 果たしてYouTuberとしてのガーシー氏の「暴露」は政治活動であるのか。政治活動であるなら、それはどのような政治的利益を国民に与えてくれているのか。それを彼はちゃんと説明できるのか。
 不逮捕特権は政治弾圧に対抗するものであるから、当然一般刑事事件には適用されないと考えるのが妥当であり、過去にも国会が議員の逮捕を許諾した例はある。
 一部に、どうしてもガーシー議員を登院させたいのなら国会が逮捕許諾しないと確約すれば良いという意見もあるが、これは転倒した議論だ。国会は別にガーシー議員に登院して欲しいとお願いしているのではない、登院するのが義務だと迫っているのだ。国会がガーシー議員に頭を下げる筋合いは全く無い。

 少数派の国会議員を排除するなという意見もある。
 それは確かにそのとおりだが、ガーシー議員は少数派なのだろうか、というより、そもそもどういう政治活動を行っているのだろうか。
 少数派が国会議員になる意味は、議員活動を通じて少数意見を述べ、論戦し、多数派意見に抗していくことにある。初めから議会に参加しないと表明している議員とは一体何なのだろうか。彼が議員になる理由はどこにあるのだろうか。議会に行かないなら、今わざわざ議員になる必要は無いのではないか。
 議員にならない政治活動家は山ほどいる。本当に必要な政治行動が議員活動であるとは限らない。デモや集会、署名活動、言論活動など、やるべきこと、やれることはたくさんある。
 ガーシー議員はすでにYouTuberとして有名であり、自由に意見を述べ、論戦し、多くの人に広く伝えることが出来ているのだから、国会議員にならなければ自分の意見が世の中に届かないという立場では無い。
 国会に出られないのなら、なぜ国会議員であろうとするのか、明確な説明をする必要がある。

 少なくとも、信念を持って政治活動をやっていると言うのなら、法律的な壁はあるかもしれないが国会議員としての歳費は返上するくらいのことは言うべきだろう。
 また彼を比例区の候補として擁立したNHK党の立花党首も、初めから彼に登院しなくて良いと言っていたそうだから、ガーシー議員の分の政党交付金は受け取らないと言うべきだ。
 そうでなければ、ただカネが欲しいから選挙をやっていると思われても仕方ない。それは民主主義政治の否定であり、有権者を冒涜した許されざる行為である。


(ちなみに、NHK党が地方議会に多くの候補を擁立するのは政党交付金を得るためだという告発もある。)
”「立花党首から言われたことに開いた口が塞がらなくなった」NHK党のアイドル議員が離党した理由 ”
https://news.yahoo.co.jp/articles/4b049a4c6b44f90b27325de7722cb6c875c2e693?page=2


 立花党首はガーシー議員が除名されたら、繰り上げで別の幹部を議員にするのだそうだが、その議員もまた登院させないと言っている。まったく理解に苦しむ。ガーシー議員には、それが正当かどうかはともかく、逮捕される可能性があるという理由があるから不登院は分からないでもないが、何でもない議員を登院させないとはどういうことか。
 国民は理由無く働かない国会議員に歳費を払わなくてはならないのか。ふざけた話だと思う。

 なんであれ、ガーシー議員とNHK党は、こうした疑問に対し明確な説明するべきで、それが国会議員、国政政党の責務だと思う。

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「外国人が無人島を買う」問題の本当の問題とは

2023年02月17日 11時15分32秒 | Weblog

 今、中国の実業家らしき女性が沖縄の無人島を買ったというSNS投稿を巡って、マスコミ報道が過熱している。
 問題となっているのは沖縄の米軍基地から数十キロメートルのところにある無人島で、安全保障上問題があるのではないかと言われている。政府は昨年、一部から疑問が呈される中で重要土地等調査規制法を施行したが、その制度では規制外なのだという。

 ただ、細かく報道を見ていると、どうもその島は「いわくつき」の島だそうで、かつてから土地が細かく分割されて900以上の地権者がおり、しかもその所有者は数年毎に入れ替わるという、かなり複雑な状況にあるのだそうだ。
 どうやらかつての原野商法的な売られ方をしたようで、土地を買った人達の多くが現地を見ておらず、図面上で整然と区分けされた土地が、あたかも整地された区分のように思える錯覚を利用して売りさばかれたのではないかという。
 実際に中国女性が購入したのは島の土地の半分くらいの面積なのだが、その中には他の地権者の小さな土地が無数に点在している。実際に何か開発などをするとなれば、この他の人の土地を買っていく必要が出てくる。
 女性によればリゾート開発をするとか、自分が住むとかいう話らしいが、水道などのインフラも通っていないようで、SNSで高い価値のある投資だと語っているが、事実はむしろ騙されて使いようのない土地を買わされたという方が正しいような気がする。
 なお、船を着けられるたぶん唯一の埠頭(?)を含む島の海に面するかなりの部分は村有地となっている。

 そういう意味では、今回の問題は別段軍事的脅威などは無さそうに見えるが、ただ一般論として、同じようなケースが安全保障上の問題になるかどうかは今後も議論が続くだろう。

 この議論には三つの観点が必要だと思う。
 一つ目は、政府や自民党、右派の言うような日米安保や外国からの侵略の脅威などという問題意識は、問題を矮小化させるだけだと言うことだ。
 思い出して欲しい。過去に広大な土地を購入し、軍事拠点として整備し、日本中を震撼させたのは誰だったか? 中国スパイではない。日本のオウム真理教だ。
 我々生活者にとっての安全保障とは、米国のためのものでも、政治家の集票のためのアジテーションでもなく、現実に日々生活している人々にとっての生活の安全のことである。もちろん防衛問題を排除するつもりはないが、我々が直接さらされてきた脅威とは、そうした大上段から振りかぶった外国軍による侵略脅威論の中にではなく、むしろ人権、人命を軽視するオウムや統一教会などのカルト、原発事故を起こすような企業や経済構造、長期保守政権の中にこそあったというのが現実であり、歴史的事実である。

 二つ目は、今回の件も含めて、外国人による土地購入だけが突出して軍事的脅威になるわけではないという点だ。
 実は今回の件でむしろ気になるのは、件の中国人女性が個人として直接島を買ったのではなく、中国系とも言われる東京の企業名義での購入だったことだ。というのは、この企業、登記先に実態が無い。実際にそこにあるのは郵便物等の転送会社らしい。
 これは外国企業のみの問題では無いが、こうした実態不明の企業が普通に経済活動をすることが出来てしまうことも大きな脅威である。
 そしてそれは土地購入に限らない。一昨年騒がれたDappi問題を思い返そう。どこからともわからない(というか事実としては自民党のようだが)多額の資金を使って、ネット上で野党を排撃する世論工作が行われた。情報社会において、情報工作は直接的軍事以上の脅威にもなり得る。
 言っておくが、もちろんこうしたことは逆に特定の目的を持った外国勢力によって行われないとも限らない。現に統一教会は正体を隠して盛んにやっている。
 現実には裏貿易やスパイ活動なども企業、個人に関わらず行われているのであって、むしろ公然と日本の法律に従って土地を購入することは、軍事的脅威としてはあまり大きな問題では無いとも言えるではないだろうか。

 三つ目に、上記の二点とも関連することだが、我々の日常生活において最も脅威なのは、軍事面より環境面ではないかということだ。
 外国人が水源地を購入しているということが、安全保障上の問題として指摘されているが、それは当然国内企業であっても同じ事が言える。
 外国人は何をするか分からないが、日本人なら大丈夫だろうなどと考えるのは全くナンセンスだ。日本人が日本国内で利権目当てにどれほどの環境破壊を行い、人々の命や健康や生活に被害を与えてきただろうか。しかも知らずにやっているのではなく、分かった上で不法投棄や違法埋め立て、森林伐採などの環境破壊・汚染を行い、水俣病のように因果関係を知りながらそれを隠蔽するなどという事例が、それこそ山のようにある。
 しかも、そうした問題のほとんどは、原状回復などの責任を取らず、ひどい場合には裁判にもかけられずに済まされているのだ。
 無人島を買った中国人はまだ何をやったわけでもない。だが、実際に開発に着手して、それが頓挫し、自然を破壊したまま逃げ出すなどというケースは、別に外国人で無くても過去にたくさんある。
 そんなことが起きれば、本当に取り返しがつかなくなる。

 繰り返すが、今回の無人島購入問題は、確かに多くの問題を示している。しかし、それをマスコミや右派が主張するような問題に単純化したら、それはもっと大きな問題なのではないだろうか。
 本当は何を見るべきか、何をどう判断すべきか、それを過去の歴史と現代の見識をもって考えることが、我々にとってのリアルな安全保障の第一歩であると思う。

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鏡の左右は逆転しているか?~常識と科学について

2023年01月01日 11時43分06秒 | Weblog

 2022年大晦日の朝日新聞「天声人語」の一節。

「右と左は鏡のなかで逆になるのに、なぜ上下は反転しないのだろう。片目をつぶってみたり、顔を斜めにしたりしても変わるのは左右だけ▼ひょっとして私の目が横についているからか。それとも地球の重力のせいか」

 うむむ…

 真面目に言えば鏡像は反転していない。
 透明なガラスにマジックで菱形を書く。各頂点にA、B、C、Dと記号を打つ。これを鏡に映してみよう。
 この時、鏡に映った菱形の各頂点をA'、B'、C'、D'とする。A点とA'点の関係を見ると、A点から出てくる光は鏡表面のA'点に当たって真っ直ぐA点に戻ってくる。B点からの光もB'点で反射してB点に戻る。C、C'、D、D'の関係も同じだ。(*)

 つまりどの点を取っても光の射出と反射の関係は全く同じ構図になっている。この関係はどの方向、どの角度から見ても変わらない。首を右左に曲げても、逆立ちをして見ても同じ関係性のままだ。ガラスを回転させても関係性は変わらない。
 もっと言えば、ガラスを透かして見ればガラスに書かれた菱形と鏡に映る菱形は全く同じに見えるはずだ。

(*)「A点から出てくる光」と書いているが、もちろんそれも実際には反射光である。この説明の記述は全体的に相当に模式的に単純化しているので実際に起きている物理現象を正確に説明できているわけでは無いが、煩雑にしたくないのでご容赦ねがいたい。

 ではなぜ人間には左右が逆に見えてしまうのか。

 結論から言えば、これは現象が反転しているのではなく、人間の感覚、もしくは常識の方が反転しているのである。
 人間の生活において、天は御天道様の射してくる方角、右は御箸を持つ手の方向である。これは文化的な感覚だ。文化的、慣習的な感覚で天地左右を考えるから、一般的な物理現象に直面したときに混乱してしまうのだ。物理現象においては天地左右は座標上の相対的な位置関係に過ぎない。
 左右が逆転しているように見えるのはたんなる錯覚である。

 人間が鏡を見ると、一見、常識的に箸を持つ手とは逆の手に箸を握っているように思えてしまう。しかしこれは思い込みに過ぎない。人間が常識の霧の中でさまよっているだけだ。
 別の言い方をしよう。猫に鏡を見せると猫はそこに映る自分を自分とは認識できない。猫は相手を捜そうとして鏡の裏に回り込む。しかしそこには誰もいない。
 つまり鏡に映っているのは、ただの反射像に過ぎないのに、猫は鏡の中に本物の世界が存在していると思ってしまうのだ。
 人間の錯覚も同じだ。鏡に映っているのは光の反射でしか無いのに、ついそこに本物の世界、本物の自分がいるように思ってしまうのである。だからそこにいる自分が、まるで常識外れの行動を取っているように感じて戸惑うのである。
 人間も猫並みのオツムしか持っていないとも言えよう。

 科学者というのは(自然科学のみならず、社会科学や人文科学でも)、こうした人間にかけられた常識の霧を、科学的手法で吹き飛ばしていく人達である。
 科学的手法とは実証の積み重ねと論理の積み重ねの歴史を重んずるということだ。先人が積み上げてきた科学的論拠を前提としつつ、もしそこに視界を遮っている「常識の霧」があると思ったならば実証と論理でそれを晴らす、それが科学者のあり方であり、近代人のあり方である。

 ニュートンが本当にリンゴの実が木から落ちるところを見て万有引力の法則を発見したのかは疑わしいが、「モノは上から下に落ちる」という常識に対して、引力は「万有」であって、質量の違う物体同士が引きつけ合った結果、リンゴが落ちるように見える現象が発生するという発見はまさに科学だ。
 確かに普通に生活する上で、モノは上から下へ落ちる、太陽は東から昇って西に沈む、地面はどこまでも水平に続いていると考えてもほとんど何の支障も無い。
 しかしだからと言って、万有引力を否定し、地球の公転と自転を否定し、地球が丸いことを否定していたら、人類はその先には決して進めない。

 進まない方が良いという考え方もあるのかもしれない。先に進むことが逆に破滅への道なのかもしれない。そこにも一理あると思う。しかし、人類がここまで進歩してきてしまって、しかも日々進歩し続けている以上、今より後ろに戻ることは出来ないし、それこそそこには破滅しか無いように思える。
 それに、どの道に破滅が待っているのかを判断するためにも、より進んだ科学的知見が必要となる。
 科学と科学的手法と科学的思考と知見を、止めること無く自由闊達に発展させること、現代社会にはそれ以外に選択肢は無い。

 人間は間違うことがある。むしろ間違うのが当たり前だ。しかし意図的に間違えるようなことはあってはならない。鏡の中にあるものが、ただの幻想、ただの反射像ではなく、もうひとつの本物の世界であるべきだという観念を守るために、あえて先人の積み重ねを無視し、実証されない論理でむりやり「常識」を押しつけて物理現象を否定するようなことがあってはならない。
 その「常識」を捨てることがどんなに辛いことであったとしても、科学を受け入れるしか無い。

 自然科学においても、社会科学、人文科学においても、先人の知見を安易に無視し、否定し、自分にとって心地よい観念に置き換えるようなことをしてはならない。それはフェイクであり、「歴史戦」などという非科学的姿勢に他ならない。歴史戦など必要無い。科学的手法による実証と論理を積み重ねれば良いだけである。
 近代人である以上、宗教もイデオロギーも科学の基盤上にあらねばならないし、科学を認めて共生せねばならない。宗教もイデオロギーも科学を否定してはならない。
 論争は続くだろうし、終わりは無いかもしれない。しかし論争を終わらせるのでは無く、続けることこそが科学であろう。

 最後にふたつだけ付け加えたい。
 どうしても鏡の中に「常識的世界」を再現したければ、二枚の鏡を90度に組み合わせて見れば良い。これで左右は逆転して見える。実用的に意味があるかどうかは知らないが。

 もうひとつ、CMの言葉では無いが常識は簡単にひっくり返る。
 人間の視覚の実験として、プリズムを使って天地が逆転して見える眼鏡をかけて生活するというのがあるそうだ。
 もちろん最初は何も出来ないが、しばらくして慣れてくると、天地が逆に見えていても普通に行動できるようになるらしい。
 そもそも人間の眼球の構造では、本来世界は天地逆さまに見えているはずだ。しかし我々は全くそんな風に感じない。脳が補正しているのかもしれないが、いずれにせよ、常識というのは破られるまでは絶対的なものに見えるが、いったん破られてしまえば全く違う世界が新たな常識となって、人々はそれに馴染んでいく。
 常識を破ること、新たな常識を獲得することを恐れる必要は全く無い。

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玉川徹氏は何を言ったのか?~テレ朝懲戒処分を巡って~

2022年10月05日 12時31分04秒 | Weblog

 テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」でレギュラーコメンテーターを務める同社社員の玉川徹氏が10日間の謹慎処分(出勤停止10日間)となった。
 10月4日の定例会見で同社の篠塚浩社長は「事実に基づかない発言を行い、番組および会社の信用を傷つけ損害を与えたことによる処分。誠に遺憾と思う」と述べたという。
 この事実に基づかない発言というのは9月28日の「モーニングショー」において、玉川氏が「これ電通入ってますからね」と発言し、国葬の運営に電通が関わっているという誤情報を口にしたことを指す。
 もちろん事実としては東京都江東区のイベント会社「ムラヤマ」が演出業務を1億7600万円で落札しており、電通が関わっているということは少なくとも表面上は確認できない。これは確かに重大な事実誤認であって、玉川氏に非があることは間違いない。玉川氏は翌日の同番組で誤りを認め謝罪した。
 これがなぜ重大な問題なのかと言えば、この「ムラヤマ」こそ、安倍政権において例の「桜を見る会」の運営を任されてきた会社であり、かつ今回の国葬演出の受注においても、この会社一社のみが入札に参加できるように国が入札条件を操作した疑惑が持たれているからである。

【入手】安倍氏国葬の入札に出来レース疑惑 受注した日テレ系1社しか応募できない「条件」だった 44枚の入札説明書で判明
https://news.yahoo.co.jp/articles/4933736678a073e5233ba2ca094e6ed330e55a15

「安倍氏国葬儀」企画演出業務発注で、内閣府職員に「競売入札妨害罪」成立の可能性
https://news.yahoo.co.jp/byline/goharanobuo/20220926-00316872

 確かに「ムラヤマ」の受注前は一般にまた電通案件だろうという予測が多くされていたが、予想に反して同社が落札したことはそれだけ大事件であった。そのことをいやしくもジャーナリストを自認するものが誤認するとは情けない話としか言いようがない。
 直前に分割した夏休みを取るなど、玉川氏の気の緩みがあったと言われても仕方ないだろう。

 とは言え。

 果たして玉川氏は本当に懲戒処分を受けねばならないような発言をしたのだろうか。
 問題の発言箇所の前後の番組の流れを書き起こしで、以下たどってみる。

 


テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」
22/9/28 9:00AMころ~9:06ころ

司会:羽鳥慎一
コメンテーター:
玉川徹
浜田敬子
安部敏樹

羽鳥:
まあ、ね、最初に弔辞ということがありまして、そんなかで浜田さん、やっぱり管さんの弔辞っていうところが、まあ、葬儀でありながら拍手が起こると、いう、んー、ところがある…

浜田:
一連の報道を見ていても昨日の国葬で一番話題になっていたのは、この管さんのやっぱりこの弔辞でしたよね。で、先ほどもおっしゃいましたけども、なぜこれを総理時代にこのくらいの、やはりあの、スピーチが菅さん出来るんだったら、やらなかったんだろうなってのをやっぱり思いましたよね。で、それは、一番言葉を尽くさなきゃいけない人は誰に対してかっていうと、やっぱり私は国民に対してだと思うんですね。で、まあ安倍さんもあの、親しい人に聞くと、ほんとに優しい人だって聞くんですよ。だからやっぱりその、自分と近い考え方の人とかにはたぶん言葉を尽くされたりとか非常に感情こもった、あの、ことを話されると思うんですね。管さんもそうだったかもしれないですけど、でもやっぱり首相とか総理という立場になったらですね、やっぱり会見とか、管さんの場合特に官房長官の時の会見が非常にやっぱり鉄面皮のような受け答えだっだわけですよね。何を聞いても同じ答えしか返ってこない。その時にやっぱりこれくらい、やっぱりなぜ私たちはこういう政策を進めたいのかとかっていうことをやっぱり説得し納得してもらうというような、ま、その、時には管さんの素顔も見えるような、で、やっぱり政権運営をしていたら色々な逡巡とかも実はあるからっていうような、こうやっぱり生身の部分とかが少し見えたらもっとやっぱり私たちのやっぱり感情も違っていたかなとは思います。

羽鳥:
まあ何人かね、昨日あの弔辞というかスピーチとかありましたが、管さんが一番刺さったなという感じはね、聞いててもありましたけれど。玉川さんいかがですか。

玉川:
まあ…、これこそが国葬の政治的意図だと思うんですよね。あのー、ま当然これ、これだけの規模の葬儀ですから、ま儀式ですからね。あの荘厳でもあるし、それから、その個人的な付き合いがあった人は、当然悲しい思いを持って、その心情を吐露したのを見ればですね、同じ人間として、胸に刺さる部分はあるんだと思うんですよ。しかし、それはたとえばこれが国葬じゃなくて自民党・内閣葬だった場合に、テレビでこれだけ取り上げたり、またこの番組でもこうやってパネルで紹介したり、さっきのVTR流したりしたかっていうと、なってないですよね。(羽鳥「うーん」)つまり国葬にしたからこそそういう風な部分を我々は見る、見る形になる。ぼくも仕事上こうやって見ざるを得ない、という風な状況になる。で、それってある種たとえればですね、それは自分では足を運びたくないって思っていた映画があったとしても、半ば連れられて映画を見に行ったら、なかなか良かったよと。そりゃそうですよ。映画作ってる方はそれは意図があって、あの、楽しんでもらえるように、それから胸に響くように作るわけですよ。だからこういう風なものも、我々がこういう形で見ればですね、それは胸に響く部分はあるんですよね。で、そういう形として国民の心に残るんですね、その、国葬ってのがありましたと、あのときにああいう風な、あの刺さる、胸に刺さる言葉がありました、いう風な形で既成事実として残るんですよ。これこそが国葬の意図なんですね。だから、ぼくは国葬自体が、やっぱり無い方がこの国には良いんじゃないかと、これが政治的な意図だと思うから。

羽鳥:
そうか…なるほどねぇ。ま、私はここの部分だけはちょっと違う感じがしたなあっていう風には思いましたけれどもね。うーん…。安倍さんはいかがです

安倍:
そうですね、あの、玉川さんがおっしゃっているような話の政治的意図って言うのが出て来る可能性っていうのがあるっていうのはやっぱりあるなと思って、その点に関しては留保しなきゃいけないなとは思うんですけど。なんかこう、ぼくがすごく思うのはこう、管さんのこのスピーチ、私自身も読んだり見たりしてすごく感動したんですけど、あのー、たぶん今のこう現代の生きてる日本の国民の多くの人は、これ政治利用だなって思うようなものっていうの対してけっこう鼻が効くようになっているとは思うんですよね。で、鼻が効くようになってるなと言うこと自体も、管さんとかっていういわば政権とかにいるような人は理解していて、だからこそそういうことを出してもどうせ上手くいかないからやりたくないと。ちょっと、たとえば管さんの場合なんか、私ガースーですとか言って滅茶苦茶スベったわけですよね。滅茶苦茶スベって、大失敗してなんかちょっと人気も下がったみたいなね、話もあったりするわけですけど。そういう風な意味で言うとたぶん、ある程度今いる政権の中の人達は意図的にそういうのをやったことが見透かされてしまう時代に生きていると。そういう中で、たぶんこれはもうその見透かされる可能性があるとかそういうの関係なく、管さん自身が思っていたことを言ったからこそ、こう響いているんだと、いう風に思っていて、その意味で国葬というものが政治利用されるんじゃ無いかということを玉川さんがこう指摘すると、ま、これ自体は健全なことだと思うんで良いなと思う一方で、たぶんこのスピーチ自体が多くの人に対して響いたのは、そういったその政治的意図を越えたもので個人の感情として彼がお話になったと言うのが良かったんじゃないかなというように思いましたね。

玉川:
僕は演出側の人間ですからね。あの、テレビのディレクターをやってきましたから。それはそういう風に作りますよ、当然ながら。あの政治的意図が臭わないように、それはあの、制作者としては考えますよ。当然、これ電通入ってますからね

羽鳥:
うーん…。(安倍「ま、これ、だから、どっちか分からない…」)ま、どう、いや、そこまでの見方をするのか、それともこれは、ここは本当に自然に言葉が出たんだろうという見方はいろいろある…

玉川:
いや、あの、管さん自身は自然にしゃべってるんですよ。でも、そういう風な、届くような人を人選として考えてるっていう事だと思いますよ。

安倍:
ま、これ玉川さん、これいつもそう、面白いなと思いますね、ぼくはね。ま、テレビって言うのもそういう仕組み(が)な訳じゃないですか、ある意味それで言ったらね。(玉川「そうそう」)テレビっていうのは、その番組を見てそのコンテンツの間に広告を挟んでビジネスが成り立っているわけですから、ま、その意味で言うと広告の話とかって言うのは、この、ま、ある種国葬的なね政治利用の観点にも近いような構造があったりするんだと思うんですけど。ま、その上で、ま、たぶんそこの部分にはかなり多くの人々が鼻が効くようになっているんじゃないかっていうのがぼくの考え方なんですけどね。どうですか、それは。

玉川:
まあ、あの、それは演出家の考え方ですね。はい。

安倍:
なるほどね。うーん面白い。


引用:テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」
22/9/28 9:00AMころ~9:06AMころ



 ここで分かるように、玉川氏の発言で明確に誤っていたのは、まさに「これ電通入ってますからね」の、たった一言だけである。
 仮にこの電通がムラヤマだったなら、別段何も問題ないのでは無いだろうか。

 そもそも「ムラヤマ」は「企画・演出」として業務を請け負っているのである。はっきり演出が仕事とされているのだ。
 実際、上記で紹介した記事「「安倍氏国葬儀」企画演出業務発注で、内閣府職員に「競売入札妨害罪」成立の可能性」には、警備会社セコムの子会社が入札に参加しなかった理由として、「企画・運営の比重も多く、セコムジャスティックは基本、常駐警備の会社なのでそこまでのノウハウがありません。そうしたことから、入札することは考えていませんでした」と述べたと書かれている。
 国葬が演出されていたことは、言うまでもないことだが事実である。
 更に言えば玉川氏は、管氏の弔辞の話題をきっかけにして国葬全体の演出とその意図について語っているのであって、管氏の弔辞自体については「管さん自身は自然にしゃべってる」と認めている。

 彼の発言はテレビマンとしての経験による感覚として、国家的イベントが政治的意図をもって演出がなされるのは当然だという意見であって、それ自体は何も不思議な意見では無い。

 国際政治学者(?)の三浦瑠麗氏は「安倍チームに安倍さんの思いを言葉にする極めて有能なスピーチライターたちがいたことを知っていれば、安易にこうした決めつけをしなかっただろうと思います」と述べたとされる。

三浦瑠麗氏「有能なスピーチライターがいたことを知っていれば…」 玉川徹氏の謝罪に
https://news.yahoo.co.jp/articles/aec9117d2bf9b4a3b1dec9f424d51cc9898ce91c

 彼女は「国葬の場で発される言葉とは政治そのものであり、誰にでも応用できるマーケティングや感動演出の域を超えています」と言っているが、もちろん現代政治における政治家がマーケティングなど広告・宣伝のプロによる演出を行うことは珍しくないし、その意味で当然スピーチライターの書く文章もまた演出の一貫であることは周知の事実である。
 加えてあえて言うなら、メディアの政治利用はレーニンが体系化し組織的に運用したことで広まりそれはヒトラーにも利用された。一方でもちろん連合国も利用したし、日本では戦前から発行されてきた「アカハタ」(当時)が民衆の政治動員に大変大きな力を発揮したことから、戦後は自民党から公明党までこぞって全政党が政治機関紙を発行するようになったのである。

 言っておくべきは、政治が演出をしたりメディアを利用したりすること自体が悪いのでは無く、何を目的にした演出であり利用であるのかということだ。
 玉川氏はテレビの演出家として、演出そのものを否定しているのではなく、今回の国葬の演出が岸田政権の特定の政治的意図をもった演出であったということを指摘したに過ぎない。

 しかし、なぜこの程度のことで玉川氏がこんなに厳しい処分を受けたのか。
 そこにはいくつかの理由があると思う。

 ひとつはテレ朝の社長が篠塚浩氏であること。
 彼はもうずっと以前から政権、安倍派とべったりの関係であることが指摘されている。
 たとえば次のような記事はネット上ですぐに見つかる。

テレビ朝日元社長が安倍首相と癒着する早河会長ら現幹部を「腹心メディアと認知されていいのか」と批判! 株主総会で追及も
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_3278/

テレビ朝日で統一教会報道がタブーに!『モーニングショー』放送差し替え、ネット動画を削除! 圧力を囁かれる政治家の名前
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_12403/

 また、今回の玉川氏への攻撃と処分について、マスコミが国葬擁護派寄りの報道ばかり繰り返す不思議がある。
 果たして電通に対する配慮があるのか、それとも政権への忖度か。
 ただ指摘できるのは、今回の国葬には複数のテレビキー局が深く関わっている点だ。企画・演出を受注した「ムラヤマ」は現在日本テレビの100%子会社であり、国葬の司会をしたのはフジテレビの現役アナウンサーである。もちろん各キー局は全国紙やスポーツ紙、夕刊紙を含めたメディア複合体に所属している。
 ちなみに関係は無いかもしれないが、今日のモーニングショーの冒頭で厳しく玉川氏を糾弾し、再謝罪を求めた羽鳥慎一氏はご存じの通り日テレのエグゼクティブアナウンサーだった人であり、今も日テレの最重要人物である。

 今回の玉川氏の事実誤認の発言はもちろん容認できないものの、10日間もの出社停止を受けるような事柄ではない。これはまさしく政治弾圧であり言論封殺である。
 玉川氏への批判者、攻撃者はいったい彼の発言の何に怒っているのか。ぼくには理解できない。それはおそらく彼等の怒りは玉川氏の間違った発言には無いからだ。
 彼等は玉川氏の反国葬、反政権、反アベ政治の態度に我慢できないだけだ。たまたま彼が一言失言したことで足下をすくい、ここぞとばかりに集中攻撃しているだけなのである。

 それはまた、大多数を占める反国葬の国民世論をひっくり返すための戦略的攻撃でもある。
 たいしたことのない間違いに対して、あたかも大問題であるかのように大騒ぎし、それをもって反国葬、反岸田政権の世論を沈静化させようというのが、その裏に隠された最も大きな彼等の目標だ。実は政治的意図を持った演出はまだ続いているのである。玉川攻撃こそ、反国葬派は悪意を持った嘘つきであるという政治的宣伝、演出である。
 本当のことを言えば、ぼくは玉川氏の信者ではないし、むしろ批判者側だが、この言論弾圧を見過ごすことは出来ない。
 この問題に多くの人が気づき、言論の自由を守る意志を示すことを期待する。

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鳥人間コンテストと科学主義について

2022年09月03日 10時59分31秒 | Weblog

 録画しておいた読売テレビ=日本テレビの「鳥人間コンテスト」を見た。ぼくはこの企画が大好きで昔からずっと見ている。今年も良かった。

 ところで先日、fruitfulなブースカちゃんという大変見識のある方のツイートを引用した際に、

「その通り。と思うのは僕が近代人であり、近代主義で主知主義で科学主義だから。ところがそれでは自分が不利になってしまう勢力が反知主義を広げてきた。彼等は科学主義を科学絶対主義として不当に非難し、そこからの解放論として不可知主義と陰謀論を展開する。もちろん科学主義は科学絶対主義の真逆。」

 と書いた。

 これに対して、fruitfulなブースカちゃんは、ぼくのツイートをさらにリツイートして次のように述べられた。

「「科学主義」は「共産主義」として嫌悪されます。
極右反共主義者は、科学や民主主義を否定し、超自然的な信仰(架空の伝統含む)に基づく反知性主義に基づいた、家父長的ファシズム社会の実現を理想とします。
(・ω・)」
@Booskachan_Ver2・2022年9月2日

 そして添付された国際勝共連合のサイトのスクリーンショットには次の文章が書かれている。

「まず共産主義の理論は、大きく3本の柱から成り立っています。哲学と歴史観と経済理論です。そして哲学では、主に以下の三つのテーマについて論じています。

①宇宙とは何か
②人間とは何か
③事物はいかに発展するか

共産主義ではこれらのテーマについて、「科学的に」結論が出たことになっています。共産主義が「科学的社会主義」と呼ばれるのはそのためです。

先に結論を言ってしまうと、

①では「宇宙の本質は物質である、すなわち神はいない」といっています。
②では「人間は神の創造によってではなく、サルが労働によって進化して生まれた」といっています。
③では「あらゆる物事の発展は闘争によってなされる」といっています。

これが組み合わさることで、「暴力革命は正しい」という理論になっていくのです。」

 この勝共のまとめはどこから持ってきたのかとも思うが、あながち間違ってもいない。ようするに唯物史観に対する批判であろう。とは言え、3の階級闘争論はともかく、1と2はひどい書き方をしているが現代科学のパラダイムである。

 さて、ぼくの述べた「科学絶対主義」というのは「科学万能主義」と言い換えても良いが、科学は間違わない、科学は森羅万象を説明できる、科学技術であらゆる問題を解決できる、といった考え方を指したつもりだ。これはつまり科学を神に祭り上げ、宗教化することに他ならない。当然それは科学主義の精神とは相容れない真逆の考え方だ。
 科学とは疑うことであり、知り得ない事象への挑戦であり、常に過程であり固定化を否定する。間違うし、説明も解決も出来ないこととの方がはるかに多い。
 勝共のこの文言は、共産主義を科学絶対主義=宗教と措定しての批判のように読める。

 ここで指摘しなくてはならないが、確かにかつてのソ連スターリン主義などは典型的な科学絶対主義だった。もちろんこれはエンゲルスが空想的社会主義に対して自分達の社会主義は科学的社会主義であると宣言したところに端緒があり、とりわけエンゲルスは時代の子としての制約の中で、科学万能主義的であったことが否めない。(事実としてはマルクスにもその傾向はあった。)
 余談だが、この科学の神格化、言ってみればヘーゲルの神を科学に置き換える転倒を極限まで推し進めたのが、革共同革マル派の黒田寛一だろうと思う。革マル派にはある種の宗教性が色濃く漂っている。
 一方、神格化された科学の、科学の方が外れて神話に逆戻りしてしまったのが北朝鮮だ。いかに科学絶対主義が反科学的な宗教的志向であるかがわかる。

 ところでウィキペディアを見ると「主知主義」について、次のような記載がある。

「主知主義(しゅちしゅぎ、英: intellectualism)または知性主義とは、人間の精神(魂)を「理知(知力・理由)」、「意志(意欲・気力)」、「感情(感動・欲望)」に三分割する見方の中で、理知の働きを(意志や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日本語版、2022年9月3日採録

 この記載によれば主知主義は知性絶対主義では無い。あくまで他の動機との相対的な重要度の差として位置づけられている。また当然「知」というものが時代によって異なる以上、どの時点のどの脈略で使われるかによって具体的な発現は大きく異なることとなる。

 理知、意志、感情は相互的な関係にある。意志や感情が科学を超えた「奇跡」を生むこともあるかもしれない。いかに知性があっても意志が無ければ無意味かもしれないし感情によって歪められるかもしれない。それが人間である。
 前段で神や宗教を否定するような書き方をしたが、それでも我々にはどうにもできない運、運命というものもある。科学の視点からすればそれは偶然であり確率論的な問題かもしれないが、一人の私にとってみればそれが全てになってしまう。
 知性の前に存在する信仰というものも否定できない。ずいぶん前に大江健三郎だったか、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の質問に激高し、その後そのことを深慮したというエピソードがあった。
 人間社会において他者を殺してはいけない理由を科学的に説明することは可能であろう。人間が社会的生物であり協働によってしか生存できない以上他者を排除できない。しかしまた同時に他者を殺す様々な合理的説明も可能である。それは戦争や死刑などの根拠とされる。
 しかし現代日本社会に生きる我々はまず第一番目に、理性より感情において他者を殺すことに否定的になる。むしろそこから人を殺してはならない理由を理性的に示そうとするのだとも言える。
 人間は本質的に平等であると思うのも、本質的に競争によって淘汰されるべきであると考えるのも、理性の前にあるひとつの信仰とも呼ぶべき感情だろう。そしてそのそれぞれが、そのことを理性的に語ろうとし、知に高めようとする。
 イデオロギーと呼ばれるものは(少なくとも本源的には)信仰であると、ぼくは思う。

 ぼくは人間の人間としての特異性は信仰=宗教を持つことにあると考えているが、この問題を考え始めると長くなるので、また別の機会に譲ろう。
 ともあれ、科学主義が排除しようとするのは嘘や矛盾や思い込みであって、宗教や信仰では無い。その点で、マルクス=レーニン主義者を含む少なくない近代人が間違ったことがあったとは言えよう。

 冒頭に戻る。
 「鳥人間コンテスト」とは何なのだろうか。ぼくは何故それに引かれるのか。
 それはこれこそが科学主義だからなのだと思う。
 出場者は様々な強烈な感情から挑戦を始め、それぞれが強靱な意志を持って準備を続ける。だからと言って航空力学や材料学、構造学といった科学=知性が前提に無ければ、ただのコメディにしかならない。理知的であるだけで感情と意志が無ければ出場することさえかなわない。
 もっと言えば、そこに運命の神も介入してくる。当日、その時間の天候やパイロットのコンディションは人知を超える。

 科学主義、主知主義とはこうした人間の総合的な営為を包含するものだと思うし、だからこそ未来がある。
 繰り返すがそれは科学絶対主義の対極にあるものだ。

 ついでに言えば、ロボコンも好き。

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統一教会と保守政界の癒着の本質的問題

2022年07月31日 21時40分35秒 | Weblog

 もうずっと言い続けているのだけれど、少なくとも現在の日本の保守、右派、右翼、復古主義者、民族派という連中のほとんどは、本当の意味の復古主義でも民族主義者でもないエセ右翼である。今回の安倍元首相殺害事件に端を発した旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合、以下統一教会)と保守政治家の癒着問題は、それを改めて示した。

 統一教会は「反日」主義であり、政治や文化をすべて自らの教義の下に統一しようとする運動だ。お笑いなのは、それに頼って選挙に勝ち、あまつさえ教義と教祖を絶賛するような政治屋連中を、熱烈に支持してきたのが「嫌韓」派だということ。普通に考えたら統一教会の目的は日本政治の韓国側からの乗っ取りであり、日本支配なのに、である。
 岸信介以来、保守派は統一教会と国際勝共連合などの反共運動で結びついてきたと言われるが、現実には教会は北朝鮮を認める方向に動いており、少なくとも日本のウヨクが思うような「反共」では無くなった。それでも日本の右翼政治家が統一教会と癒着するのは、ようするに自分の権力、権益を守るためと言うことに尽きる。つまり選挙に勝ち、政権を維持するために力を利用する、それだけだ。そこに政治信条など関係無い。
 もちろん統一教会もただ利用されているわけでは無い。むしろ彼等からすれば日本の政治家を利用して、自分達の野望を着々と実現しているのだと言える。
 巷間では、悪印象の強い「統一教会」の名称変更が実現したのも安倍政権への食い込みの成果だと言われているが、そうでなくても政権党の「お墨付き」を得て信者を拡大し、資金を集め、何より日本政治への影響力を強めている。教会側の政策がそのまま自民党に採用されているかどうかはともかく、「家庭」=イエ制度の重視、反LGBTQ・反同性婚などの政策は自民党右派が押し進める政策と一致しているのだから、彼等にとっては実質的に自分達の求める方向に向かっているのと同じである。
 もっと言えば、これだけ長いあいだ統一教会が日本政治に介入し続けていることを考えれば、保守政治家の中に純粋の統一教会信者が隠れている可能性も十分あり得る。実際、若いときに原理研だったという噂のある有力政治家もいるし、公然と信者だと紹介された政治家もいる。

 しかしなぜこうも易々と「反日」と「嫌韓」が癒着出来るのか。それは右翼にとって、これは別段特別な事でも不思議なことでもないからだ。明治維新以来ずっとやってきたことだからだ。
 これも何度も言っていることだが、明治維新は西欧絶対主義とキリスト教文化の密輸入であった。その文化的基盤であるキリスト教文化を天皇制(*)・皇国史観・国家神道として創作した、これが近代日本の始まりである。(*)ここでの「天皇制」は本来の意味での「天皇制」、すなわち近代日本における天皇制を指し、それ以前から続く歴史的天皇制度とは区別する。
 そもそも「尊皇攘夷」は佐幕派のスローガンであった。彼等にとっての尊王攘夷は伝統的な「日本」の護持であったかもしれないが、討幕派はそのスローガンから攘夷を抜き去り、尊皇を換骨奪胎して異形の天皇制国家を生み出したのである。
 その歪みは日本近代の根底に延々と残り続けることになる。それは「脱亜入欧」から「大東亜共栄」、そして日米安保へと、矛盾した政策と思想が単純な一本線の上で繋がることを可能にさせた。それは何故なのか。

 それはこういうことだ。
 日本近代の支配層は、まさに世界史的必然として資本主義社会における勝者となることを唯一の目的としてきた。彼等は本質的に近代人であった。彼等は倫理や思想では無く欲望を解放された個人として、自らの欲望に向かって突き進む人間として自己形成された。本来であれば彼等は合理主義者であり、伝説的・神話的価値観などに縛られることは無い。
 その一方で、資本主義社会の圧倒的多数は「敗者」である。これまでの人類史のどの時代でそうだったように、少数の「勝者」は多数者である「敗者」を服従させ取り込まねばならない。更に言えば近代の基盤は「自由・平等・博愛」(*)だから、資本主義は民主主義と(少なくとも建前上は)一体であることで初めてその正当性を主張できる。(*)ぼくはあえて「博愛」という用語を使っているが詳細はここでは展開しない。
 近代人である新たな支配層は民衆にその支配を納得させるするための思想的根拠を示す必要に直面した。それがレトリックとしての皇国史観であった。そして合わせてそれを実体化する義務教育と国家神道が整備された。
 支配層にとって皇国史観はあくまでレトリックであり、彼等自身がそれを信じる必要も縛られる必要もない。ただ被支配層にはそれを徹底して植え込み、信じさせなければならなかった。支配層は(意識的であれ無意識的であれ、事実上)右翼・民族主義者を演じ、被支配層を煽り続けた。支配層の唱える復古主義は真の意味での古来日本文化では無く、実は西欧近代主義を和装させただけのニセモノでしかなかったのだが。

 近代人として自分の利益の追求には合理的である支配層と、非(反)近代的思想に「洗脳」された被支配層という構造が、一見矛盾に満ちた近代日本史の謎の答えである。
 戦後史で言えば、自己保身のために米国の支配の下にためらいなく入った支配層と、その支配層が演じるナショナリズム、自国第一主義の幻想を信じて支える被支配層という構図が、矛盾を矛盾のまま放置させることを可能にした。今問題となっている「反日」統一教会と「嫌韓」ウヨクが結果的に矛盾を放置しながら癒着できるのも、その構造の故である。
 もちろんこれは日本だけの構造では無く、北朝鮮でも中国でもロシアでも同じ構造が見られるし、それはまた、まさにカルト集団の教祖と信者の構図とも重なるのである。

 統一教会の反社会的な様々な問題は糾弾され、排除されなければならない。政治の腐敗も問われねばならない。しかし最も重要なことは、これが近代日本の本質的問題と深く繋がっており、また現代の専制主義国家の一般的構造とも重なっていることを理解することにある。仮に表面のサビを削ることが出来ても、その腐食の原因を見つけて取り除かない限り、いつまでもサビ続け、やがて全てが崩壊していくことになるのだから。

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安倍氏殺害事件と右翼のカオス化

2022年07月18日 21時32分05秒 | Weblog
 安倍元首相殺害事件の実行者について、すでに多くの情報が世の中に出てきている。本人の供述、手紙、SNSの書き込み、さらに近親者の証言などが公開され、その半生から動機まで、良く分かってきたと思う。
 一部のテレビ・コメンテーターがしつこく背景に何かの組織が関与しているという陰謀論を展開しているが、話の脈略から、どうやら安倍氏と統一教会の関係が無かったことにしたいらしい。別の元政治家のコメンテーターは統一教会の支援を受けた可能性を指摘され、政界やマスコミの中に根深く統一教会が食い込んでいる様子が透けて見える。
 特にNHKは、組織的に統一教会と政治の関わりについて触れないよう指示していると言われ、反統一教会の立場を取るジャーナリストの発言を無視し続けたそうだ。
 また、政府の子ども庁の名称が多くの反対にもかかわらず子ども家庭庁に変更されたのも統一教会の働きかけによるものだったとする教会=勝共連合のホームページが話題となっている。
 さらに動画サイトでは、かつて警察が統一教会摘発に動いた際に、それを阻止したのが安倍晋三氏だったという暴露も行われている。
 こうした統一教会と政治、とりわけ安倍氏を頂点とする極右系政治家との癒着は、いかに政治とマスコミが隠蔽しようとしても、今後ますます明らかになっていくだろう。
 殺害実行者の目論み通りになったとも言える。

 さて、こうした報道の中で、実行者がいわゆる確信的なネット右翼(ネトウヨ)であることが分かってきた。これは当初多くの人々が考えていた、左派による政治テロという図式とは真逆の展開である。
 以前、ぼくはツイッター上で某氏と議論したときに、日本の右翼界に危険とも言えるような価値観の崩壊が起きていることを感じた。今回の事件もそうした日本の右翼の混乱とカオス化の影響を受けているのではないかという気がする。

 我々の常識的感覚で言えば、ネトウヨも旧来型右翼と同じ価値観の延長線上にいて、つまりそれは日本近代史上の経緯が生んだものに見える。
 明治維新政府は西欧型絶対主義を日本に導入することで、日本を欧米と匹敵する国家にしようとした。当然、西欧型絶対主義にはその基盤の存在が前提となる。キリスト一神教的価値観である。
 そこで仕組まれたのが、キリスト教的価値観と秩序の密輸入としての天皇制、皇国史観、国家神道の創作であった。これらはそれまでの日本に(少なくとも主流的には)無かった思想と制度であり、全体像を見れば西欧の絶対王制、キリスト教、教会制度の形と瓜二つであることがすぐにわかる。

 日本右翼の系譜は、この明治期に創作された非論理的、神話的ニセ歴史観を基底にすることがスタンダードであり、またそうしなければ、自らの正当性を担保することが出来ない。それを代々受け継いでいくことが彼等のアイデンティティーだった。
 不幸にも米国が敗戦国日本を利用するために戦争責任をあいまいにし、右翼の系譜を断ち切らせなかったことで、戦後、そして今日までも、これが延々と続くことになってしまった。それは現在的には岸信介~安倍晋三の戦後極右政治家を中心軸とするラインとして認知されている。
 我々がこれまで見てきた政治シーンの中では、秋葉原で安倍氏や自民党政治家がアイドルのように大声援を受けることもあり、ネトウヨもまたそうした価値観を共有しているかのように見受けられた。

 しかし、かの某氏は安倍氏を共産主義者と呼び、今回の実行者は現実的に安倍氏を殺害してしまった。
 右派の中に、これまでの日本右翼とは全く価値観を異にする流れが生まれていることを感じさせる。
 もちろん、これまでも右翼のテロが保守派政治家に向かったことはある。しかしそれは何らかの政治的妥協や融和を批判し、より原理主義的方向へ向かうことを主張してのものだ。安倍氏のように(本音はともかく表面的には)まさに原理主義者の先鋒、主導者を敵対視するというのは、全く意味が違う。
 また逆に崇拝の念が強すぎて殺してしまう「神殺し」「犠牲」というケースもあるが、今回はこれでもない。
 確かにテレビ・コメンテーターが「理解できない」と発言するのも無理ないところはある。

 これは完全に推測であり予断のそしりを免れないかもしれないが、印象として、いわゆるY世代以降、失われた30年代に育ったネトウヨは、伝統的な右翼の歴史観・世界観、つまり右側から見た日本近代史と切り離され、それまでとは違う経緯から右傾化しているのではないかと言う気がする。
 予断に予断を重ねてしまうことになるが、彼等は思想的と言うより、経済的、生活者的切迫性・必然性から差別的、反平等主義的、自己防衛的に生きざるを得ず(つまり激しい競争社会と社会的に押しつけられた貧困の中で、自分のことを優先するしかなく)、それが政治主張として表層的に似ている旧来型右派と親和したにすぎないのではないだろうか。
 そこに政府自民党による歴史教育の破壊という事態が重なる。「不都合な真実」としての日本近代史を封印したために、逆に右翼の正当性を担保するべき近代史さえ若い世代に伝わらなくなった。残ったのは漠然としたイメージとしての国家神道や皇国史観だけになってしまった。科学的視点は失われた。

 普通の(と言うのも予断だが)若いネトウヨは、単純に中高年のネトウヨ(この層がネトウヨの主流)に感化され疑問を感じないのかもしれないが、それでも自分の頭で考えたいと思う人間はいる。
 彼等は知的であり優秀であるが、いかんせんこうした状況下に置かれたため科学的、客観的知識が無い。そうした中で、自分の頭の中で世界を再構築し、つじつまを合わせていくしかなくなる。実際、某氏も知的で鋭い視点も持っていたし、今回の実行者も冷静で理知的な判断をすることの出来る人物だったようだ。
 しかし、残念なことに当然ながらこうした自分の中だけで完結する思考は歪んだものにならざるを得ない。彼等は右翼的世界から脱出する出口を持たず、その世界の中だけで相矛盾した言説に自分なりの解釈を加えていくしかない。
 そもそも排外主義で「嫌韓」の右翼が、世界制覇を狙い日本を属国と見る韓国の宗教団体とつるむのは、もはや冗談のような話だし、憲法を「押しつけた」米国の安保条約は唯々諾々と受け入れ、周辺国の領域侵犯に怒りつつ、首都圏の航空管制を完全に米国の支配下として奪われているのに何も言わず、「同胞」であるはずの国民の中に激しい差別と格差があるのに、それを排外主義の言説で誤魔化してしまう、まさに右翼の世界は矛盾だらけなのだ。
 こうした矛盾は右翼的世界の外側から見れば、ようするに資本主義社会(というより、ありていに言えば金持ち達)を守るための嘘とペテンなのだということがすぐわかる。そのために歴史を歪曲し、事実を隠蔽し、排外主義を煽っていることも。

 右派勢力は左派を排除するために人々から知性を奪ってきたが、その結果、自らの内部崩壊の危機を孕んでしまったと言える。
 これは左派がざまを見ろと笑っていられるような話では無い。
 右翼が右翼内部を思想的にコントロールすることが出来ず、予想も付かない行動に出るローンウルフへと分解していく危険が生じているのだ。それは今回の事件が示すように社会不安を生み出す原因となっていく。放置していけば社会全体が崩壊する。
 現在の右翼的、ナショナリズム的に偏向した政治、マスコミ、教育を終わらせ、知性的、理性的、科学的な本来的な近代主義を取り戻さねばならない。

 もし今回の事件の実行者が、その右翼的世界から脱することが出来ていたなら、偏見無くもっと広い世界(彼が嫌悪するサヨクがいる世界)と繋がることが出来ていたら、彼と同じ苦しみを持つ者がこの社会と闘い続けていることが分かったら、そしてその苦しみのもっと根本に、現代という時代の矛盾があることに気づけたら、彼の行動はもっと違うものになったかもしれない。

 今朝見たテレビ番組でジャーナリストの有田芳生氏が、統一教会の問題は30年間マスコミから無視されてきた、だから多くの人から記憶が薄れ、被害者は救済されず、政治が蝕まれてしまったという主旨の発言をしていた。
 まさにその30年は、保守政治が経済的、思想的に子供達から奪い続け、追い込み続けた30年でもあった。
 この現在の日本社会は作られるべくして作られた社会であり、穿った言い方をすれば、安倍氏殺害もその結果として起こるべくして起こったと言えるのかもしれない。
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安倍晋三を英雄にするな

2022年07月09日 09時56分45秒 | Weblog
 安倍元首相が暗殺された。正直に言えば全く驚かなかったし、申し訳ないが悲しくもない。
 ただ、アベノミクスの失敗や安保法制問題、閣僚たちが起こした多数の不祥事などの政治責任、森友、加計学園、桜を見る会などの法的、道義的責任などなど、本来問われ罰せられるべき多くの問題を放置したまま安倍氏が消えてしまったことは、大変残念だと思う。

 意外だったのは、この暗殺がぼくらが考えてきた政治的暗殺とちょっと違う、「今風の」暗殺であったことだけだ。
 ぼくらのような年寄りは暗殺というのは確固とした政治主張を持って政敵を倒すことだと思っているが、今回のはある宗教団体に対する個人的恨みからの単独犯だった(ネットではそれを統一教会ではないかと指摘する声が上がっている)。

 ちなみに、政治家のコメントやマスコミの論調は「暴力によって言論を封殺しようとした」というものだが、落ち着いて見てみれば、犯行現場がたまたまやりやすい街頭演説の場であっただけで、実行者は別に安倍氏の言論を止めようとしたわけではない。実行者はもう何ヶ月も前から準備していて、偶然この日、この場所で決行しただけだと言うことははっきりしている。
 広い意味で政治家としての安倍晋三への攻撃かもしれないが、それは本来の政治の外側で(あのモリカケのように)暗躍していた安倍氏の行動に対する報復だと言えよう。

 さて、ぼくが今回の事件に驚かなったのは暗殺事件を予想していたからだ。
 物騒なことだと思われるかもしれないが、彼の足跡をたどるとそうなるような気がしていたのだ。
 安倍氏は祖父の岸信介の轍を追いかけるような生き方をしていた。安倍氏は政界のサラブレッドとして颯爽と登場し、史上初の戦後生まれの総理大臣となったが、挫折した。岸もエリートととして戦前の政界に登場したが、敗戦によって戦犯となり公職を追われた。
 しかし、岸がしぶとく復権したように、安倍氏も総理大臣に復活して史上最長の首相となった。
 岸が日米安保条約で国民の意思を踏みにじって強行採決を行ったように、安倍氏は安保法制で同じことをやってしまった。

 岸の場合は、その直後に総理辞任に追い込まれ、さらにその後、暗殺事件にあって重傷を負う。その後復活した岸は政界の実力者として君臨し続けた。
 ぼくは安保法制の時に、安倍氏も岸と同じ運命をたどるのではないかと思った。だが安倍氏はそこで踏みとどまった(もしかすればここが岸と安倍氏のちょっとした運命の違いを生んだのかもしれない)。
 安倍氏を追い込んだのは新型コロナを背景に桜を見る会問題などの噴出であったが、その後も実質的な自民党ナンバーワンの地位を保ち続け、死の直前まで日本のプーチン=アベーチンとして(ラスプーチンの方が合ってるかもしれないが)、復古主義、専制主義、軍拡主義、改憲の旗を政界の最先頭で振り続けた。

 しかしやはり安倍氏は祖父と同じ災厄に遭う。それは安倍氏が岸より大きな仕事をより長くやったと天が認めたせいなのか、祖父のように生きながらえることなく最期を迎えた。

 トランプ前米国大統領と侵略者プーチン露大統領の二人から丁寧な弔文を受けたことが象徴するように、安倍氏はある意味まさに21世紀世界の盟主の一角であった。それは暗い圧政の象徴であった。
 おそらく安倍晋三の名は今後日本の歴史に長く残り続けるだろう。少なくとも百年後の教科書には載っているだろう。

 これから安倍氏の神格化が始まる。
 憂国の士、英雄として称えられるだろう。
 すでに選挙中にもかかわらず、テレビは一斉に安倍氏の功績を称賛し、アベノミクスや安保法制がいかにも時代に即した正しい政策であったかのように喧伝し始めている。
 本当に危険な兆候だ。

 安倍氏の死を個人の死として悔やむのはともかく、政治家としての彼を称える大きな声に消されないように、我々は彼の誤りを決して忘れず訴え続けていかねばならない。
 彼は日本を最悪の国に変えようとしてきた。
 それを求める勢力は、今後彼の名を掲げてアベイズムの継承と貫徹を目指し突撃してくるだろう。
 負ければ本当に平和国家日本が終わる。負けることは出来ない。
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Nさんへの手紙(11)~一周回ってロシア国民の責任について

2022年05月23日 12時03分53秒 | Weblog
Nさん
 ごぶさたしております。
 いろいろ大変なことになってきましたね。

 さて、今回のウクライナ侵攻について「ロシア兵だって戦争へ行って死にたくはないだろうし、悪いのはプーチンのみで一般国民には罪は無い」というご意見は確かに一義的にはそうだと思います。
 ましてや日本国内にいるロシア人に対して、誹謗中傷や差別、暴力を振るうなどということがあってはなりません。

 ただ、もう少し深く考えるとなかなか難しいところがあります。

 確かに現在行われている侵略戦争については、始めるのも終わらせるのも、その決断が出来るのは世界中でプーチンただひとりしかいませんから、彼に全責任があるという点に間違いはありません。
 ただこの事態全体の責任と言うことであれば、実際に兵力を動かして侵略戦争を遂行したり、国内の反対者を弾圧したりしている大臣や官僚や大将がおり、また現場的には明らかな戦争犯罪を犯している兵士もおります。
 こうした者たちも当然責任を問われねばなりません。

 しかしもっと言うならば、侵略を指揮するそのプーチンを支持し支えているのは、現実的には多くのロシア国民なのでもあります。
 プーチンは急に強権政治・専制政治を始めたわけではありません。様々な不正や策略があったのかもしれませんが、やはり選挙で選ばれているのは事実であり、支持率が高いのも事実でしょう。

 ロシアでは情報統制が行われており、それは特にウクライナ侵攻後は極めてひどくなっています。だからロシア国民は本当のことを知らず、騙されているとは言えるのですが、それでも中国などに比べれば格段に緩いと言われています。若者層を中心にインターネットを通じて情報は入りますし、いま現在はともかく海外旅行も出来たのですから国際世論も知っているでしょう。国際電話も使えるので国外にいる親族から状況を聞いている人もいます。
 まして、ウクライナは兄弟国とも言われ、親戚、縁者、友人、知人などがいて、連絡を取り合うケースも多いです。

 それでもなおかつプーチンを支持する国民に、全く責任が無いと言いうるのか、この点はとても引っかかります。

 これが日本だったらどうでしょう。

 安倍晋三氏のような扇動者に煽られ、いま多くの日本国民がどんどん戦争をやる気になっています。自民党が掲げている「反撃能力」は、プーチンが先日の戦勝記念日の演説で語っていた「やられそうだから先に攻めるしか無かった」と言う説明と全く同じです。そして世論調査では、それを支持する国民が非常に多くなっています。

 あまり言いたくはありませんが、このままでは7月に行われる参議院選挙では自民党が圧勝するでしょう。そしてその流れが止まらなければ、自衛隊に「反撃能力=敵基地攻撃能力=侵略体制」が与えられ、戦争が出来るような改憲が行われることになるでしょう。
 いつか本当に日本は他国を侵略してしまうかもしれません。

 その時、悪いのは自民党だ、総理大臣だ、国民は悪くないと言えますか?

 日本だってすでに事実上の報道統制が行われています。
 テレビで、ロシアと和解しようとか、アメリカも悪いとか、交戦能力を持つべきでは無いとか発言したら、その場で共演者に怒鳴りつけられても当たり前になってきました。恐ろしいことです。もちろんそういう発言は即座にネットで袋ただきにあい、翌日の夕刊紙とかでガンガン批判されます。
 本当に今は反戦平和など口に出せない空気が作られています。

 プーチンが悪いのは誰でも分かるし、どんな非難をされても当然ですが、ロシアであれ日本であれ、プーチンや小プーチンを生み出してしまう人々がいる、そしてそれは自分自身の問題なのだということは、絶対忘れてはならないと思います。
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日本をロシアにしてはならない

2022年05月22日 22時17分51秒 | Weblog
 Twitterでは何度か書いたが、ウクライナ侵攻を誰のどういう立場で見るかということが決定的に重要だ。

 自民党を筆頭に、これを好機に改憲と軍拡を進めようとする勢力が文字通りウヨウヨわき上がっている。こう言うと現実の世界が変わったのだから憲法や防衛政策をそれに合わせて転換するのは当然だという反論をされる。しかしそれは全くの嘘だ。なぜなら改憲と軍拡を主張する勢力は、もっともっと以前、事実を言えば現在の憲法が成立する以前から同じ主張をしてきたからだ。憲法はもう古くなったと言うのなら、明治憲法の護持(もしくは復活)や軍拡の主張はそれより更に古い主張だと言うしかない。
 改憲・軍拡主義者は別に情勢が変わったから改憲と軍拡を唱えるようになったわけでは無い。ただその時々の状況を利用して、こう言って良ければ地道に本当にしつこく、自らの主張を延々と繰り返してきたにすぎない。

 それを踏まえた上で、今日この頃の彼等の主張はどういうものか見てみれば、日本をウクライナになぞらえて、ロシアや中国や北朝鮮にいつ侵略されてもおかしくない、そのために軍備を増大し、先制攻撃が出来る武器と憲法・法律が必要だと主張している。そのためには国民を動員できる法律も必要だとも言う。結局、結論は今まで言ってきたことと何も変わらない。ただウクライナ侵攻をダシに使っているだけだ。
 これらの主張の問題点はまた改めて検討したいが、ともかくもこうした論議は完全に日本国内向けの話でしか無いということは指摘しておきたい。

 それでは世界は日本をどう見ているのか。
 日本はロシアや中国に狙われているか弱い小国と思われているのか。
 当然ながら全く逆である。
 日本は世界から見たら、ロシアのようになって近隣諸国を侵略する危険性があると思われていると考えるべきである。

 ウクライナのゼレンスキー大統領が米議会でのオンライン演説で、ロシア侵攻を真珠湾攻撃になぞらえたように、世界は日本のかつての侵略戦争を忘れていない。
 もうそんな昔の話は良いだろうなどと、お気楽に接してくれるほど世界は甘くない。ドイツを見よ。いまだにナチスは全人類共通の敵であり悪魔として非難され拒絶され続けているでは無いか。国際社会ではナチス式敬礼やハーケンクロイツは絶対的タブーのままだ。韓国が日章旗を批判するのに、日本世論は半ば冷笑的に半ば不遜な態度で対応しているが、それは我々が日本という島国にこもっているからそれで済んでいるだけで、世界が日本の味方になっているわけではないということに気づかねばならない。

 現在でさえ日本の防衛費は世界9位である。GDP2%になれば世界3位の軍事大国となる。とてもではないが侵略されそうな弱小国に見えるはずが無い。
 しかも近隣諸国から見れば日本はまさに米軍の不沈空母である。日本中に何の制限も受けない米軍基地が大量に置かれており、今でこそあまり騒がれないが、そこに核兵器が配備されている可能性は排除できない。
 日本人は日本が侵略に出る危険があると思われていることに鈍感だが、中国や北朝鮮から見たら、過去に侵略を行った世界9位の軍事大国と現在世界中で侵略を行っている世界一の軍事超大国が目の前にいるのである。恐怖を感じたとしても不思議では無い。

 問題はハード面だけでは無い。日本は公式にはかつての侵略戦争を誤りと認め、被侵略国に謝罪したことになっている。ところが日本の政治家達は折に触れ侵略戦争を正当化したり美化する発言を繰り返してきた。これでは表向きと違って本心は全然反省していないと思われても仕方ない。
 たとえばこれが一般の犯罪者だったとしたらどうだろう。他人の家に強盗に入って家人を傷つけた者が、裁判では反省の弁を述べ、二度としませんと涙を流したのに、裁判の外では、強盗したのはカネが無かったから仕方ないことだった、強盗に入った先は自分より低級な奴の家なんだ、とか言っていたら、これは誰も許す気にはならないだろうし、もし刑務所から出てきたらまた強盗をやるんじゃ無いかと思うだろう。

 とりわけ自民党が「反撃能力」という意味の全く違う言葉で無理な言い換えをしているいわゆる「敵基地攻撃能力」は、それ以上に問題である。
 彼等の主張は、日本が他国からミサイルなどで攻撃される気配があったら、その前に相手国の発射装置や拠点施設を攻撃する能力を持つべきというものだ。安倍元首相は、対象を基地に限定することなく相手国の中枢への攻撃も含めるべきとさえ言っている。
 解釈のしようも無く無限定の先制攻撃能力のことを指している。
 これを先の対独戦勝記念日におけるロシアのプーチン大統領の演説と比較してみよう。プーチンはウクライナ侵攻について「ロシアが行ったのは侵略に備えた先制的な対応だ」と述べた。まさに自民党の「反撃能力」と全く同じである。

 繰り返すが、世界から、日本はロシアのように侵略をする危険があるように見えるのは間違いない。そして残念ながら(少なくとも右派政権の下では)それは事実である。
 だから言っておきたい。ウクライナ侵攻に重ね合わせて、日本を次のウクライナであると考えることは、実は逆に自らを次のロシアにしてしまう思考回路に他ならないのだと。

 そうではなく、日本をロシアにしてはならないと考えることこそ重要である。
 ぼくらはロシア国内外で、理性的で賢明なロシア人が反戦、反侵略の声をあげているのを知っている。彼等はロシア政府からの過酷な弾圧を受ける危険性を理解した上で、なお反対している。ぼくらはその理性と勇気に共感し心打たれる。尊敬の念を持つ。

 あなたはプーチンと反侵略派のどちらになりたいと思うだろうか。遠い話では無く、いま喫緊の問題として、ぼくらはその答えを出さねばならない。
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ポスト近代に突入した世界と革命、専制主義国家の矛盾

2022年05月22日 11時32分08秒 | Weblog
 オーストラリアの政権交代が伝えられた。保守連合が敗れ労働党政権が誕生するという。韓国では「革新」文在寅氏が退任し、「保守」の尹錫悦大統領が就任した。
 この数年で各国の政権交代の動きが目立つ。米国のオバマ→トランプ→バイデンという激しい変化は強烈だが、今年になってドイツでもメルケルが退き、フランスでは「極右」ルペンが大統領の座に肉薄した。
 どう評価するかはともかく「安定」しているのは、中国、ロシア、北朝鮮、シリア、フィリピンなどの専制主義、もしくは準専制主義の国々と日本くらいかもしれない。とは言え、日本でも安倍=菅極右内閣から岸田内閣への小さな変化は起こったわけだが。

 もっとも専制主義国家が本当に安定しているわけではない。逆だ。
 むしろ国内に大きな問題を多数抱えており、だからこそ強権的にそれを抑える、それが専制主義だ。報道・情報を規制し、思想教育を強制し、軍・警察・行政執行機関による直接的暴力による弾圧をもって異論を排除する。そのことによって、かろうじて政権を維持しているのがこうした国々である。

 話を戻せば、もちろん民主主義体制において政権交代が起こるのは健全な現象である。ただ近年の政権交代の背景にはやっかいなキーワードが存在する。「分断」である。
 かつてから分断というか、大きな意見や主張の対立は存在した。しかしこれまでは、それはひとつの社会の中に共存しうるレベルで対立を収めてきたし、仮に収められないのなら内乱・内戦から革命という手段で対立を解消するという過程をたどった。
 現状の「分断」はそうしたかつての「収まる対立」と革命勃発との中間あたりまで深刻化しており、何より革命に至るほどに一方の圧倒的優勢には至らない、まさにどこまでも解消されない対立となっているように見える点がまさに深刻なのである。
 別の表現をすれば、現代は絶対的多数派が失われた世界であるとも言えし、また別の言い方をすればお互いが許容できる共通の土台を失った世界だとも言えるだろう。

 これは何か。
 つまり人々の価値観の多様化、多極化が起きてしまったということだ。

 その意味で、中ロなどが米国のグローバリズムに対して「多極化」を主張し批判しているのは、皮肉であり大きな矛盾である。対外的には多極化を自らの正当化の根拠にしつつ、自国内の多様化・多極化を認めないのでは、一遍の説得力も無い。

 人々の多様化・多極化というのは、言うなればポストモダン思想の大衆化である。脱構築、脱中心が一般の人々の実生活の中に現れてきたと言うことだ。
 これは別段不思議なことでは無く、近代の思想史を辿れば、初めは哲学者の難解な(つまり当時の常識の中に無かった)理論の中で語られていた思想が、数十年の内に大衆の常識になっていくことは一般的な現象である。民主主義などその典型であろう。
 悲劇なのは、そうした大衆の思想や実在が大きく進捗しているのに、政治体制がそれに追いつかないという点であり、残念ながらそのこともまた世界史的には常にそうであったのである。

 それでは人類はこうした問題をどう解決してきたのか。
 「革命」によってである。
 革命は多くの場合、進歩した民衆の意識と生活実態に対して、遅れて硬直化した政治体制が桎梏となり、もはや従来の法律や社会体制の枠内で解決することが不可能となり、暴力をバックボーンとした超法規的な体制変革として発現する。

 ただそれは、前に触れたように、多数の民衆がひとつの共通認識の上に立つことによって成立するものであって、ポストモダン的な分散・拡散型の社会において従来型の革命が可能なのかどうかは分からない。
 これが、現代革命を難しくしている最大の理由だ。
 しかし、人類が滅びること無く生き続けようとするなら、いずれ革命は起こらざるを得ない。それは来年のことかもしれないし、何百年も後のことなのかもしれないが、近代の終焉はすでに始まっているわけで、そのことに気づく人々がどれだけ増えるかが、今後の人類史の大きな鍵となるのだろう。
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革命の実現性と目指すところ、そして情けない自分~異端乃猿氏の返信に答えて(3)

2021年12月21日 21時53分05秒 | Weblog
反レーニン主義(中の人)より

 異端乃猿氏からの返信はどんどんレベルアップしている。今度はとんでもなく難しい質問が来た。
 この返信ツイートの前には「私有財産を国有化して生産手段を共有化」なんてフレーズのツイートもあって、正直、哲学も経済学もずっと劣等生だった僕はドキドキするしかない。お手柔らかに願いたい。本当にもうそろそろ対応できなくなりそうだ。

 それで、今回の問題は主に2点。ひとつは「日本は民主主義の国家だから半数を超えれば、共産主義国に変革できるだろう。これは暴力革命とは異なる革命の手段だ」という意見、もうひとつは「日本が共産主義国となれば、何を変えるつもりでいるのだ?経済、防衛、分野は多岐にわたる」というものだ。

 まずは答えやすい方から。


■民主主義的手段で革命は可能か

 前半の意見は、つまり民主主義国では民主主義的手続きの範囲で「共産主義革命」が実現でき、暴力革命は必要無いという主張だ。つまりこれは、綱領で暴力革命を否定した日本共産党の立場である。
 しかしそれは本当に可能だろうか。
 絶対に不可能とも言い切れないところが難しい。ただこの問題に対して良く引かれるのはチリのアジェンデ政権の成立と崩壊の歴史である。マルクス主義者であったサルバドール・アジェンデは1970年に選挙で大統領に選出される。世界で始めて自由主義選挙によって成立した「社会主義政権」である。
 だがそれはわずか3年しか保たなかった。米国ニクソン大統領(当時)による経済封鎖とクーデター策謀によって国内は混乱、最後は後に独裁者として圧政を敷くピノチェット将軍によるクーデターに倒れてしまった。

【参照】ウィキペディア『サルバドール・アジェンデ』

 ここでの教訓は、仮に実際に血が流れるような内戦を起こさないとしても、社会主義を目指す政権が誕生し社会主義的政策を行おうとする以上、実質的に軍事力を持っていなければ、軍事を掌握した勢力に簡単に潰されてしまうと言うことである。
 いや、日本の自衛隊がそんなことするはずないと言う人がいるかもしれない。しかし本当に楽観できるだろうか。戦後何度も自衛隊内のクーデター計画や極右的指揮官の出現という現実を、僕たちは見てきた。
 もし合法的に成立した左翼政権が、軍事的に全く無力であると見たら、反左翼勢力が逆に暴力的な対応をする可能性は高いと思う。
 それにもし左翼政権が出来たら、米国はどういう対応をするだろう。日米安保を廃棄し米軍を日本から追い出すと言ったら、それに素直に従うだろうか。チリと同じように経済封鎖などで揺さぶりをかけ、日本国内を混乱させようとするのではないか。封鎖にあえぐ国民の不満を背景に、自衛隊を裏側から支えて政権の転覆を謀らないと言えるだろうか。実際に中東をはじめ各国で米軍は反政府クーデターを主導してきたではないか。
 奇しくも左派政権誕生直前のチリではすでに不穏な空気が漂っている。
 もちろんこのような反革命軍事クーデターは米国だけがやるのではない。記憶に新しいのはアウンサンスーチーを逮捕して実権を握ったミャンマーだ。
 つまり革命は、仮に選挙戦によって実現する戦略を採るにしろ、実質的に暴力革命と同じ内容を持っていなければ、失敗してしまうのである。

※ただし、左翼政権と言っても、それが真に革命的で無いなら別に右派がわざわざ暴力的に潰しにかかる必要は無い。どうせまた選挙で右派が勝てば良いだけだから。この場合、真に革命的であるというのは国家体制の根幹の部分を変更するかしないかということだ。たとえば憲法を丸々違うものにしてしまうとか、実質的に同様のことをするとかである。米国で民主党と共和党が交互に政権を取り合ってもそれは別に革命では無いし、日本で旧民主党が政権を取っても誰も革命とは言わなかった。


■果たして革命勢力は多数派になれるのか

 ただ、むしろ本当の問題は、ほとんどの場合、革命派は過半数に達することがないという事実である。
 それは国家権力が教育を握っているからだ。国家は基本的に自国を肯定するよう教育をする。それが強まれば愛国教育と言うことになる。人々は当然のようにそれが正しいことだと思うようになる。
 たとえば僕等の目から見たら、中国は自由も人権もない専制政治の国に見える。しかし、大多数の中国人は自分の国こそ一番良い国だと思っている。実際、海外旅行をしたり留学したりする中国人は沢山いるが、その人達が日本や欧米に行って民主主義を目の当たりにしても、別段、反中国になるわけではない。
 逆に考えればわかる。僕等がいくら中国やロシアに行ったところで、日本より中国やロシアの政治の方が良い、日本もああなれば良いと思うようにはならないだろう。それは僕等が日本や欧米の民主主義的価値観を生まれたときから叩き込まれているからだ。
 これは歴史をさかのぼってみても、ほとんど同じである。たとえば倒幕から明治維新において、一般の日本の庶民は別に日本が変わることを望んだわけではない。日本人の中の一部でしかない武士階級の、さらにその一部の政治的意識の高い人々だけによって行われた軍事クーデターだったからだ。


■必ず反体制派を削り取る権力

 また仮に反体制派が国内に増えてきそうになったら、権力者は様々な手段を使って、その芽を摘みにかかる。
 最近では香港で民主派が大弾圧され、反中国共産党の人々は選挙に立候補することすら出来なかった。これは極端にしても、日本でも自民党はかつて中選挙区制を廃して小選挙区制を導入し、国会における圧倒的有利を作り出し、その力を利用してマスコミや教育への介入を続けてきた。今でも最近話題のDappi問題など、カネの力を使って世論操作をより巧妙に深く広く進めている。

 もっと生々しいことを書けば、僕が左翼党派に所属していた頃、しょっちゅう家宅捜索(ガサ入れ)を受けたものだ。その理由は、ゲリラ闘争があったからとか、誰かが捕まったからとかだが、しかしその実、ガサで公安警察が持って行くのは名簿類ばかりだ。
 党派のメンバーやその支持者や周辺にいる人の身元を特定し、その人の職場や学校や家族にタレ込むためだ。ぼくもそれで何度も実質的なクビにあった。クビになれば食うにも困る。組織も収入を絶たれる。そうやって組織から人とカネを削ぎ取るのが公安の日常業務であった。
 もっと直接的には公安調査庁のスパイの潜入なども何度もあったし、はっきり言って公安は憲法も人権も法律も守らない。それだけ必死に反体制派を潰しにかかるのである。まあ、こっちも非合法活動をするのだからお互い様ではあるが。

 そんなことはともかく話を戻せば、おそらくよほど人々が利口になり、かつ高度に倫理的になり、自衛隊や警察を含めた公務員が政治的に絶対中立の立場を堅持するという状況にならなければ、完全非暴力の革命は成功しないだろう。


■共産主義者は何をめざそうというのか

 さてそれでは、次の大変な難問に立ち向かわねばならない。
 「革命を起こしてどんな国を作ろうとしているのか?」という問題である。
 これはおそらくマルクス主義者に向けられる一番の質問だろう。しかし、同時にマルクス主義者にとって一番答えづらい問題でもある。
 ここから先は、大きく見解が異なる意見が沢山あるだろうから、あくまで僕個人の現時点での考え方を述べることとする。ここに書いたことを他のマルクス主義者が肯定しない可能性は大きいので念のため。

 「革命によって何をしようとしているのか」。この質問をされると本当にきつい。なぜなら結論的に言えば、ノープラン、もしくはあらゆる可能性があると言わざるを得ないからだ。もちろんこれでは答えにならないのは重々承知だが。


■マルクスは共産主義をどう考えたか

 まず、マルクスは革命によって作られる共産主義社会をどのようなものと考えていたのか。実はほとんど何も言っていない。ほぼ唯一、それに言及した著作が『ゴータ綱領批判』という文章で、多くのマルクス主義者がこれを元に共産主義や社会主義を語っている。
 この中には、共産主義とは「私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして狩人、漁師、牧人、あるいは批判家にならなくてよい」社会だと、まあ分かったような分からないようなことが書かれていたりする。

 一般的にマルクスが考えていた共産主義社会とは、階級が無い社会、国家が無い社会、貨幣が無い社会、労働が強制されない社会といった社会だと言われている。
 いろいろ疑問が湧くでしょう? わかりづらい。それでどうやって人は生きて行くだろうかと。
 はっきり言って具体的なことは誰も分からないのだ。当のマルクスでさえ。

 誤解を怖れずに言えば、マルクスは共産主義を考えたのではない。過去から現在(マルクスが生きていた当時の)を分析し研究しただけである。一番有名な『資本論』という本は共産主義の本では無い。資本主義とは何かを研究した本なのだ。
 マルクスは資本主義社会を経済学的に、また哲学的に研究し、何故人々は資本主義社会の中で苦しまなくてはならないのかという問題に取り組んだ。
 ここではそれを細かく述べることが出来ない。僕の能力が追いつかないのが一番の理由だが。
 ただものすごく簡単にいくつか触れると、たとえば資本主義社会では人間がおカネに置き換わられてしまって人間的な生き方を奪われているんだとか、資本家階級は労働者階級を使って商品を作らせて儲けを出しているが、その過程で労働者は知らないうちに自分の労働力を奪われているんだとか(まあ、かなりいい加減なまとめだけど)と言うようなことが指摘されている。

 このような資本主義の中の人間を苦しめる要素を取り除いた社会が、つまり共産主義だと言うことだ。それが先に示したような抽象的な社会像である。


■共産主義の実現とは何か

 それじゃあ、その共産主義はいつ出来るんだよ!と言われても、たぶんお分かりのように、本当に実現するのか、実現するにしたって何百年も、ひょっとしたら何千年もかかるんじゃ無いのかとも思えてくる。
 だから共産主義革命は中々終わらないのだ。仮に暴力革命で現政権を転覆したからと言って、それで社会主義とか共産主義が出来るというものでは無い。そもそも全人類が平等である社会を作ろうとしたら、ジョン・レノンが『イマジン』で歌うように、全ての国境を無くさなくてはならい。
 いわゆる二段階戦略とか三段階戦略とか言うけれど、旧ソ連や中国や日本共産党が楽観的に考えるような簡単なものでは無い。そんな簡単にパラダイスみたいな世界になるはずが無い。

 前にノープラン、もしくはあらゆる可能性と言ったのは、結局ここに書いたような理想に向けて、一歩ずつ進んでいくしか無く、そこではその時代、その社会にどんな技術が存在し、どのようなリソースがあるのかによって、いろいろな選択肢を検討し、試行錯誤も繰り返しつつ、少しずつ社会を作っていくしかないからだ。

 ただ、はっきりしているのはその方向性だ。
 我々がどこから来てどこに向かうのか。それを理解していれば、時には間違うかもしれないが、概ね正しい方向に向かうことが出来るだろう。
 では、僕等はどっちから来たのか。それは古代的社会から、封建主義を経て、近代へと歩んできた道程である。マルクス主義は近代と資本主義を否定するが、それは決して近代を捨て去ることを意味しない。そうでは無く、近代を土台にして、近代社会が得た成果を基にしてより高い次元に登っていこうとしているのである。だからマルクス主義者は復古主義に反対し、民主主義を擁護する(と言うか、しなくてはらない。中国や北朝鮮は全く間違っている!)。
 そして向かっていく先はどこか。ここで書いてきたように、貨幣経済に支配される資本主義を脱していく方向であり、労働者からの搾取を終わらせ、階級を廃絶していく方向だ。


■僕の限界性(もしくは自己批判)

 具体的には何をどうするのか。
 それはまだ分からない。
 分からないのは、今の時点で日本における革命の展望が無いからだ。革命が実現する時点において社会が何を持っていて、何を持っていないかによって、具体的な政策は変わってしまう。
 答えになっていないかもしれないが、残念ながら今は革命の時期では無く、その準備期間なのである。
 もちろん準備期間だからと言って何もしなくて良いとも思わないが、申し訳ないが僕自身はまだ逡巡し迷走している。革命運動の最前線から離れてもう何十年も考えているが、情けないことに、どうしたら革命を実現できるか、その方法が分からないままだ。

 今できることは、上に述べたように時代を逆行させないように、言論を通じて闘うことであり、本当はどうしたら良かったのか、どうしたら良いのかを考え続けることだけなのである。
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異端乃猿氏との議論について~閑話

2021年12月20日 21時03分27秒 | Weblog
反レーニン主義(中の人)より

 数日間続けている異端乃猿氏との議論について、なぜやっているのか不審に思われる方がいるかもしれない。なぜと言われても一言で言えるものでは無いが、ひとつは面白いからである。
 そもそもこちらの話に付き合ってくれる右派はまずいない。その点で彼は真面目で真剣だと言える。逆の立場に立ってみれば分かるだろう(異端乃猿氏のジェンダーにつていは知らないので、ここではとりあえず<彼>と呼んでおく)。
 もちろん言っていることは無茶苦茶で矛盾に満ちていて、おまけに尊大な物言いでマウントを取りたがるが、まあそこはご愛敬。実際にリアルに目の前にいたら殴りたくなるかもしれないが、これが人間の縁であり、付き合い方が出会い方に左右されてしまうのは仕方ない。

 彼は面白く、興味深く、とても勉強になる。
 と言うのは、彼がある意味、新しいタイプの右翼なのでは無いかという気がするからだ。反安倍、反自民のネトウヨが出現してきたことが大変興味深い。

 僕は右翼は大嫌いだが、そうは言っても過去にいろいろな右翼と接触してきた。その中で異端乃猿氏は、昭和的既成右翼でも無く、保守系文化人でも無く、20世紀後半の新右翼でも、新自由主義右派でも無く、21世紀初期から出現したオタク系、ジジイ系、オカルト系などのネトウヨとも違う。
 彼は反知主義者にも見えないし、なにかしら自分なりに考えようとしているようなのだが、いかんせん、基礎知識・基礎体力が無いので、ネット上に散乱しているバラバラの、しかも自分にとって心地よい情報だけをつなぎ合わせて行くことしか出来ない。その結果として矛盾に満ちた珍妙な話をすることになってしまう。結果型の反知者だ。

 しかし、それは彼個人の責任か? むしろ彼に体系的な知を与えられなかった社会の問題なのではないのか。
 まあ、もちろん僕が今から彼を変えることなど出来る訳が無いし、する気も無いが、出来得るなら三島や西田とは言わないまでも、右翼であれ近代的知の上にいて欲しいところなのだが。

 それはともかく、なぜ彼のような右派が出現するのか。
 結論から言えば、彼もまた近代の終焉のひとつの象徴なのでは無いかということだ。

 彼がどういう世代の人かは知らないが、その内容から、現下の自己責任論時代の影響が大きいところは見て取れる。公助の否定、共助の無償主義、唯自助主義というスタンスがはっきりしている。
 一方で、刹那的ネット情報依存型というか、反知主義では無いものの非体系的で、かつ陰謀論的な部分はネット社会の(もしくはいわゆるネット民的な)影響が強い。別の言い方をすればリアルな世界での社会的紐帯の喪失をインターネットで補っているタイプだ。
(一応補足するが、それはいわゆるリア充では無いという意味ではないので念のため。社会的紐帯の喪失は資本主義の本質的問題である。)

 彼は共産主義を批判したいのだが、マルクス主義も経済学も、ごく一般的な日本史、世界史も理解できていないので、自分の中で作り上げた虚像としての共産主義を自分で批判するという自家中毒的な状況に陥っている(彼が共産主義を否定する動機の本質には興味があるが)。
 少なくとも、これまでの右派、右翼はここまでひどくは無かった。それは左派、左翼と論争せざるを得なかったからだ。どうしてもリアルな世界からは抜けられなかった。それは人間社会における人間活動である以上当然のことだった。だから論争のために最低限の体系的知識を(歪んでいたとしても、どこかには全社会的に通用する部分を持った体系的知識を)身につけざるを得なかった。

 しかし異端乃猿氏には、もはやそうした知も無い。何が自分の主張に近くて何が遠いのかというパースペクティヴも持たないので、不思議な誤爆を繰り返す。また誰からもそれを指摘されることなく、永遠に自分がどれだけ変なのか知ることも無い。そしてそれがそれで済んでしまうのである。
 大きな悲劇と言うしかない。

 蛇足ながら少し細かいことを言えば、彼には技術も足りない。まあ良いのだが、他者を説得したり何かを論証する力が足りない。
 これは派生的問題だろうが、Twitterやネットニュースなどの短い文章しか書かない、読まない層の特徴かもしれないし、ディベート教育の影響かもしれない。一言で相手の急所を突こうとするというか、相手を「論破」するのではなく証拠と論理の積み重ねで「説得」するという、本来的な議論を構築していく姿勢を感じない。

 これは例の「はい、論破!」型の文化である。彼がツイート返信文の末尾に「じゃじゃーん笑」などと同じ言葉を繰り返し付けるところは、まさに「はい、論破!」そのもの。こうした飾りをつけざるを得ないのは、自分が本当に相手を論破したと思っているのでは無く、逆に自信が無く、論争に持ち込みたくないからここで終わらせたいという意識の(無意識の?)表出だ。
 異端乃猿氏に悪気があるとは思わないし、こうした文化の中で生きていく以上こういうスタイルを取らざるを得ないのだろうが、成熟した文化的世界の中で信頼を得て理解されることに繋がることはない。狭い仲間内で「ウケ」る以上にはならない。
 彼は会話を議論とはき違えているし、議論を勝ち負けでしか捉えられない。論争というものを、本当にただ闘うだけと思っている限り他者に理解されることは無い。そこに説得という要素が無い論争は不毛だ。ただそれには論争する両者が成熟していることが不可欠で、批判を説得としてお互いに理解できるかどうかということでもある。もっとも残念ながら、我が国では国会の議論さえあまりにも低レベルに終始する現状で、国民が生産的な議論を行えるような民度に達しないのも仕方ないのかもしれない。
 ここには「拒絶」によるコミュニケーションの断絶という深刻な問題もあるのだが、脱線しすぎてしまったので別の機会に譲る。

 話を戻す。異端乃猿氏はマルクス主義もマルクス経済学も近代史も知らないから、なぜ近代経済学が生まれ、どういう役割を担ってきたのかが分からない。だから誤解し誤爆する。
 世間の人達が気づかないうちに、実はこうしたタイプの人間が増えているのかもしれない。右左以前にこうした大混乱が広がってしまったら日本の文化は崩壊し、やがて社会も瓦解する。悪貨は良貨を駆逐する。知的な文化とそこから疎外される非知的層が分断され、まるでポルポトのような文化破壊型の粛正が起きないとも限らない。その末路は冗談では無く『猿の惑星』になるだろう。

 なぜこんな事態になっているのか。

 あえて二つの要因に分けて指摘すれば、ひとつは社会の複雑化だ。
 冷戦期、55年体制下では政治的スタンスは単純だった。政治思想は右から左に引かれた1本の線上のどこかにあった。人はその場所を指させば良いだけだった。異端乃猿氏もこの時代だったらおそらく「異端」にはならなかったように思う。
 しかしポスト冷戦時代において、政治的スタンスは一次元的座標軸では表せなくなり、三次元もしくは更なる多次元的な座標でしか表せなくなってしまった。もはや右とか左とか、保守とか革新とかという言葉は意味を成さなくなった。
 ちなみに今はテレビのニュースショーでさえ、政治家のスタンスを二次元座標で表さざるを得なくなっている。もちろん実際にはそれでさえ単純化しすぎているわけだが。
 このため、人々は今までの時代とは全くレベルの違う知性を求められ、大変な困難を強いられることになった。異端乃猿氏が僕に右か左かという単純な位置づけを迫るのは象徴的である。現代人はこの複雑さ、多様性にとまどい、押しつぶされ、単純な世界への逃避を願うようになる。それは理解できないことでは無いが、しかし乗り越えねばならない宿命的壁でもある。

 こうした世界史的変化に対応して、それに見合った知が人々に与えられねばならない。
 実際のところ、僕たちが若かった頃、1970年代から80年代に、構造主義だポストモダンだ、デリダだフーコーだと言われてもあまりにも難解で匙を投げたものだが、実際にその思想世界が現代においては実社会に実現しているのである。泣きたくなるような地獄図絵だ。
 とは言え、人々はそれに対応できる。僕等の時代に僕等の親世代がマルクスやサルトル実存主義を理解できなかったように、江戸時代の人々が民主主義や資本主義を理解できなかったように、我々が今新しい思想について行けないと感じるのは不思議なことでは無い。しかしそうした過去の時代を人々が乗り越えたように、我々もいつかはこの困難を乗り越えられる。
 そのために、さらに高い知性が必要なのは明白だ。

 ところが現実の世界はそれに逆行するような動きを見せている、というのが、二つ目の問題である。反知主義の台頭だ。
 キリスト教やイスラム教の原理主義、ロシアや中国の言論・思想統制、トランプ的なフェイク情報の駆使、オカルティズムや陰謀論の拡散。日本政府のデータ隠蔽や改ざんもその延長にあるのかもしれない。

 それではなぜ今の時代に反知主義が蔓延するのか。
 もちろん、それは先に書いたように民衆が新しい時代の複雑さに辟易としているからであり、権力者がそれを利用しようとするからである。しかしそこで留まらない。むしろ権力者達は反知主義を再生産し拡大しようとしており、これが最大の問題なのだ。

 世界レベルでこうした問題が意識されてきたのはこの十年ほどかもしれないが、こうしたいわゆる愚民化政策はずっと古くから各所で行われてきた。そしてそれに対抗し打ち勝ってきたのが現代史の流れだったはずだ。

 ただ日本においては、何度も指摘してきたように、1950年代後半から巻き起こった安保闘争に対して、政権転覆、革命の危機を感じた自民党政権が、70年代に「教育改革」に着手し、学生運動の拠点潰しを行い、教科書検定などを通じた反共、反人権、復古主義的教育を推進し、マスコミを使って反過激派キャンペーンを行った。これが事実上の<モノを考えない学生作り>となり、当時言われた三無主義的な青年達を大量に生んだのである。
 最近、今後日本人はノーベル賞を取れなくなるだろうと言われるが、その根本原因がここにある。独創的、反逆的な知性が封印されてしまったのだ。
 そしてこの世代が大人になった頃、バブルが崩壊し、もはやその危機に対応できる人材がいないために、日本の没落が始まったのである。
 それにも懲りず、自民党政権は自らの政権維持のために、復古主義的思想統制を深化し続け、年号法や日の丸・君が代法制を強行して皇国史観を復活させ、マスコミを恫喝して報道を規制し、歴史を改ざんし、そして今に至ってなお、その流れを加速している。

 ところがここに異端乃猿氏のような人物が出現した。反自民党型ネトウヨである。
 知を壊しすぎてしまったために、逆に保守政治自体が内部崩壊する危機に陥ろうとしているのである。本来、反革命のために構築されたシステムさえ、何もわからず破壊しようとする勢力が出現してきたのだ。
 これは米国のトランプ支持者による国会襲撃にもどこか似ている。右翼、というより反知的民衆が暴走し始めたのだ。そして、現代の反知的民衆の暴走の恐ろしいところは、それが中心を持たないローンウルフ型にならざるを得ない点だ。その典型はIS(イスラム国)である。統率者がいない。だから誰にも制御できなくなる。

 反知主義的政策や、ここでは触れきれないが高度に発達した民衆管理システムの構築は、各国の権力者にとっては必須のものだっだ。それが無ければ権力も既得権益も守ることが出来なかった。しかし、そこには自壊の萌芽が同時に含まれていたのだ。
 異端乃猿氏の出現は必然であった。クライシスは迫っている。まさに、にっちもさっちもいかない近代の終焉期なのだと思う。

 しかし、これは何も権力者側だけの問題では無い。この点も強調しておかねばならない。立ち位置に関係なく注意すべき問題である。
 たとえば、ドイツでナチズムを完全排除したが故にナチズムを知らない世代、免疫の無い世代がネオナチに流れてしまうような事態や、戸定梨香問題に見られるようなリベラルによって表現者が排除されるような事態を、僕等は深刻に受け止めねばならない。
 いわゆるポリコレが逆に健全な社会を壊すことになりかねないパラドックスを自覚しておくべきである。

 ぼくは中学生当時からいわゆる言葉狩りに疑問を感じてきた。作文に書いた思い出がある。しかし、左翼になった頃には差別語に敏感になった。これはどちらかが間違っているというような問題では無い。永遠の課題として取り組み続けるしかない問題だ。人権を守りながらいかに思想・信条・信教の自由をまもるかを考え続けるべきなのだ。

 何事であれ、それが反社会的なものであれ、隠そうとすることが結果的に社会に悪影響を与えると僕は思う。「不都合な事実」を隠しても社会に何も良いことはない。
 批判する対象を知らないと正しい批判は出来ないし、それを禁じていくと腐ってしまう。滅菌しすぎると逆にアレルギーが起こりやすくなるとも言う。
 危険を学ぶためには危険を知らねばならない。福島原発事故などで僕等が学んだのは、形式的な危機管理、<理想的>な危機モデルは意味を成さないということであり、どうしても生の危機を正面から見なくてはならないのである。

 話が若干それたかもしれないが、普遍的に言えることは、批判者を排除し、批判が無くなったら腐敗が始まると言うことだ。
 安倍政権やロシアの腐敗を見れば明らかだろう。時事的に言えば日大理事長問題もそうだ。

 既成概念を破壊して新しい独自の意見を生み出すことは否定されるどころか人類にとって非常に重要なことである。だから反自民党ネトウヨという存在は歓迎すべき事でもある。異端乃猿氏のことは良く知らないので何とも言えないが、ネット上に跋扈するトンデモ右翼の中には、なかなかユニークで面白い個性の人物もいる。
 しかし、それがトンデモである限り、社会にとって有益にはなり得ない。これは仮に左翼であっても同じ事だ。
 体系的知の獲得とは、ひとつの閉じた知の中の体系のことだけを言うのではない。世界全体、宇宙全体を包括した体系の中に、自分の位置を知ることなのでもある。
 そのためには自分に対する批判者の存在は不可欠だ。批判者こそが自分の位置を明らかにしてくれる指標である。批判者を排除すること無く、かつ自らの思想、表現をしっかり確立し保つこと。それが大切なのだと思う。
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