絶望的な力の暴力によって蹂躙されようとしている日本の民主主義。
きょうは選挙戦の最中の「どさくさに紛れ」(
新聞労連の声明より)特定秘密保護法が施行になった。その一方で米国では上院の委員会が
CIAの拷問の実体を調査した報告書を公表し、二度とこのようなことはやらないと宣言した。
米政府が世界に対して、そして自国内において犯している犯罪的行為は沢山ある。そのこと自体を許すことは出来ないが、少なくともこのような徹底的な情報公開、民主主義的装置も機能するのである。政治家同士、官僚同士が、また三権がそれぞれもたれ合い、守り合い、責任をあいまいにし、うやむやのうちに腐りきっていく日本の構造とは、やはり違うと思わざるを得ない。
数の暴力、力の暴力は、確かに民主主義のシステムの「必要悪」である。何かを決定しなくてはならない場合、そしてその決定を維持しなくてはならない場合、それは無くてはならない暴力である。どの民主主義体制でも議会と警察がある。(政界引退を表明した民主党の仙谷由人元官房長官が、以前「暴力装置」と発言して批判されたが、その本当の意味はこういうことだ。)
しかしだからこそ、その使用にあたっては十分以上の抑制的姿勢が必要なのであり、本当に必要最低限に止めなくてはならない。秘密法に象徴されるように、それを逆に最大限に強化しようというのが現安倍政権の一貫した姿勢である。
そして今や多くの日本人がそうした考え方に同調している。他人のことより自分の利害が最優先という思想が蔓延してしまった結果だ。
よくマスコミに出てくる文化人が、最近の若者は政治に関心が無い、選挙に行かないと嘆くけれど、それはもちろん若者の責任ではない。若者を批判する文化人たちがよく知っているように、かつて1960年代、70年代の若者には強い政治意識があった。
ぼくが高校に入学したのは1975年だったが、そのころはまだ学校のサークル棟にガリ版刷りのアジビラが大量に残っていた。高校生が政治闘争をするのが普通だったのだ。しかしそうした若者の政治意識の高揚は体制にとっては迷惑だった。当然つねに権力者は批判される対象であるからだ。こうして教育改革の名目で若者を政治から遠ざける政策が次々とられるようになった。日本の「教育改革」の歴史を、若者の政治意識を削ぎ落とす策略という観点から見直してみれば、どの政策も皆そうした動きであることが分かるだろう。
それと同時進行で、バブル経済とその崩壊の過程において、経済的富裕だけが人間の幸福であるという思想がまき散らされ、また能力主義の名目で経済格差の正当化が強化された。
その象徴がホリエモンこと堀江貴文氏の「お金で人の心が買える」という言葉であり、村上ファンドの村上世彰氏による「お金を稼ぐ事は悪い事ですか?」という言葉である。彼らはまさに80年代の若者であった。資本主義社会で「カネを稼ぐ」ということは、当然ながら誰かから奪うということを意味しているのであり、生きるためにしかたなく奪うという謙虚さというか、自己批判的な視点を持たなければ、それは社会的不正義になってしまう。そういう当たり前のことが覆い隠されるようになったことが、現状の、他人のことより自分の利害が絶対的に優先される思想を蔓延させたのである。
社会が不正義に完全に覆われるようになると、それに反発する動きも過激化していくしかない。今年相次いだ集団的自衛権行使容認への焼身抗議はその現れのひとつだし、また今回の選挙で、選挙公報に「大虐殺」「皆殺し」と大書きした石川二区の候補のブログが、一見して錯乱しているかのようでいて、実はかなり正当なことを書いているというのもそのひとつである。暗い時代の予兆を感じざるを得ない。