あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

年末のご挨拶

2014年12月30日 23時18分34秒 | Weblog
 年末だから、というわけでもないのだが、今ある新しい試みを模索していて、その関係に神経が向かってしまいブログを書く気力が出ない。ぼくはどうも極端な一点集中型で何かをやっていると他のことが全然出来ないのだ。そう言うと皆「誰でもそうだよ」と言うのだが、実際にそれでぼくが他の全てを放り出していると、あきれたり怒ったりする。しかしそういわれても仕方がない。これが会社とプライベートをはっきり分けられるような環境だと、そこで切り替えが出来るのだけれど、現状ではあらゆることが混沌と入り交じっているので、なかなか区切りというものがつかない。
 そんなわけで、今年の最後はブログの更新もほとんど出来ないまま終わるけれど、この一年、当ブログをお読みいただいたことに心より感謝申し上げる。
 世の中がどんどん暗く重たくなっていくので、なかなか来年の希望を語る気にならないのだけれど、ともかくも生きている以上、なんとか一日一日を過ごすしかないと思っている。
 2015年もどうかよろしくお願いいたします。

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今日のネット署名

2014年12月25日 21時15分50秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

TOKYO ZEROキャンペーン ~ すべてのペットが幸せになれる東京へ~

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三井住友銀行のCM

2014年12月23日 23時55分16秒 | Weblog
 三井住友銀行のテレビCMが気にくわない。吉高由里子と西田敏行が出ている「投資信託」編というやつだ。

吉高:「投資って全然イメージできないんですけど」
西田:「ほおぉ投資…、投資って言うと難しいけど、大人への第一歩って言うとなんかいい感じじゃない」
吉高:「なぁるほど」
西田:「んー、だから自由に言い換えちゃえばいいんだよ。未来のお楽しみとか、それから自分への期待とか」
吉高:「やる気のぉ塊っ!とか」
西田:「えーっへっへっへー。なーんかわかんないけどいいねぇ。いいねえ、いいなあ」

 こんな具合である。みんな何かおかしいと思わないのだろうか。

 いま日本では子供の六人に一人が貧困状態にあると言う。ひとクラスに三~四人の貧困児童がいるということだ。これは尋常ではない。これではとても「先進国」などと胸を張れたものではない。
 若年層ほど貧困率は高く、学校に行けないとか、奨学金の返済のために卒業したら破産してしまうとか、あってはいけないような悲惨な自体が日常化している。

 ところがその若者たちは政治に関心がない。投票に行かない。彼らは新聞も読まないそうだ。彼らが信じるのは、差別を肯定・助長するネトウヨのヘイトスピーチがあふれるネット上の「まとめサイト」なのだと言う。
 いったいなぜ若者たちは自らをどんどん地獄へ落とすような方へ向かうのか。

 テレビをつけると、そこには何万円もする豪華なレストラン・メニューを珍妙な格好で食べるタレントや、何人前もの量をテレビ画面の外で吐き戻しながら食べ続ける大食いコンテストの模様が繰り広げられている。夕食にひとり百円しかかけられない子供がいる家のテレビに、そんな光景が映し出されている。
 テレビのCMは高級車や、豪華な家電や、高価なスマホ、高価なテレビゲームを見せびらかす。一方、貧困と格差を糾弾するニュースキャスターたちは、彼ら自身は信じられないほどの高額のギャラを涼しい顔をしてもらっている。

 若者たちが「テレビの向こう側」を信じないのは当たり前ではないか。そこは自分とは全く別の世界でしかないのだ。そこで行われていることに、自分たちがコミットできると思えないのも無理はない。

 三井住友銀行のCMはそんな若者に、さらに歪んだ欲望を提示する。カネのない若者に「投資」を呼びかける。
 投資は未来へのお楽しみか? 自分への期待か? やる気の塊なのか?

 本来なら投資は投資であるべきだ。投資とは何らかの社会的事業(すべからく正当な企業は社会的機関であり、また本質的には人類社会を支える必要不可欠な公益的事業である)に対して、自分も共同出資者として参加し、ともにその事業を実現させようとする行為である。つまり個人の力ではできない規模の事業を行うために資本を集中する手法である。
 もちろん、その事業で生まれた利益は出資者に還元される。そのことは、その範囲では当然な報酬と言ってよいだろう。

 しかしこのCMで言われていることは明らかにそういうことではない。このCMが誘っているのは投機であり、博打である。
 テレビCMで流されているのは確かに高額商品だけではない。宝くじ、競輪、競馬、競艇、そしてご丁寧にもサラ金とサラ金への過払い金を多額の手数料を取って取り返しますという弁護士事務所、そんな中にちょっと上品そうな顔をした保険や投資のCMが繰り返し流される。
 あたかも高額商品が欲しかったら、博打を打って一か八かに賭けてみろと言っているようである。そして実際にこの社会は人々にそれを求めている。

 歪んだ資本主義なのか、それとも、そもそも資本主義が歪んでいるのか。ハイボールを飲み過ぎて、なんだかよく分からなくなってくる。(蛇足。吉高由里子は好きなんだけどな)
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今日のネット署名

2014年12月18日 21時11分24秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

クラスに必ず1人いる子のこと、知ってますか?~セクシュアル・マイノリティの子どもたちを傷つける教科書の訂正を求めます~

 ぼくの中学の同級生にもいた。
 少数派をいじめの対象にしてしまうような教育は歪んでいる。
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困ったもので

2014年12月17日 23時03分58秒 | Weblog
 先日、一日人間ドックに行った結果はやはり「C」だらけだったが、とは言えさほど緊急に問題になる項目はなかった。しかしやはりそれなりに毎日体力というか、生命力のようなものが減少していくのだということは間違いない。
 今日は銀行に行ったり母の衣料品や食材を買いに数時間外出しただけなのだが、途中で息苦しくなり、なんだかとても疲れた感じがする。若い頃には無かった感覚だ。

 イラストレーターの水玉螢之丞さんが亡くなった。ぼくより若いと勝手に思っていたのだが、同い年だった。追っかけと言うほどのファンではなかったが、とても好きな作家だった。
 同年代の友人や知人もずいぶん死んでいる。それはしかたがない。ヒトの寿命は基本的に50歳だからだ。日本でも男子の平均余命は敗戦の時まで50歳を越えていなかった。この長寿社会はわずか半世紀のうちに急激に進んだものだ。50を越えた後の人生は全くのオマケだと思った方がよい。

 とは言え、こういう社会構造になっているから、なかなか死ぬわけにいかない事情もある。ぼくの場合は母の面倒を見る必要がある。もちろん施設に入ってもらうという方法もあるだろうが、90歳の母にとって最も幸せなのは、現在の状況を続けることのようだから、出来る限り、出来れば死ぬまでこの状況を守ってやりたい。
 ぼくも若い頃は、ごく普通のダメな子供だったから、母の手伝いなどしたことはなかった。食事の後片付けだってやったことがなかった。母はよくぼくと弟が小学校、中学校だった頃、土曜になるとパートの職場から駆けて帰ってきて、食事を作り、自分は何も食べないで急いで職場に戻ったという思い出話をする。今思えば申し訳ないことだが、もちろんその頃はそれが当たり前のこととしか思っていなかった。

 その当時の母の年齢になり、それを越した今、こうして毎日母の食事を作る生活が出来るのは幸運なことだと思う。
 毎年、年を越す頃合いになると、来年には母がいないのではないかと思うのだが、でも結局いつも母と正月を過ごす。ありがたいことだ。ところが最近は母の調子が大変によい。このまま、ぼくの方が先にいなくなったら洒落にならない。おちおち弱ってもいられない。

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確かにわからない日本の政治

2014年12月16日 17時44分38秒 | Weblog
 「なんだかよく分からないから選挙に行かなかった」と言う人を批判しようと思うのだが、実際のところ、ぼくにも日本の政治というものがよく分からない。
 日曜におこなわれた衆議院選挙の結果は、自民党の微減、公明党の微増で、最悪のケースと思われた自民単独2/3確保は阻止された。とは言え、自公の与党では安定多数となり、結果的には改選前と変わらないということになった。
 一方、民主党は2割増し、共産党は1.5倍増(!)の大躍進、社民は変わらず、また維新と生活は微減、次世代が激減した。新党改革とみんなの党は事実上選挙前から衆議院では消滅している。

 この数字だけから言ったら、相対的に野党の健闘と言うべきだろう。自公は勢力維持だが内訳は公明の比率が高まったのだし、安倍政権を全面支持していた次世代の党が存在感を失い、与党に近づこうとしていたみんなの党もいなくなった。与党法案に賛成する可能性の高い野党は維新くらいになった。

 一応得票率も見てみると、大雑把に言って、全国の比例区での与党の得票率が50%、野党の得票率が48%でほぼ拮抗しているが、議席獲得率ではこれが79%と19%になってしまう。小選挙区制のマジックだが、これが比例区で言うと、与党が47%、野党52%で、野党の方が多いにも関わらず、議席率では与党52%、野党48%と完全に逆転してしまっている。
 いずれにしても与野党の支持はほぼ半々なのに、議席は与党が2/3を取った。繰り返し言われているように、選挙制度が非常に歪んでいて有権者の意識を反映しないのだ。

 もうひとつ、投票率は52.66%となり戦後最低だった前回を大きく下回り、最低記録を更新してしまった。これは諸外国の投票率と比べても大変低い数字である。多くの国で投票率を上げようとする工夫をしているのに対して、安倍氏はあえて投票率を下げるような戦術をとった。このことはまた別に議論したいが、とりあえず投票率の低い選挙で選ばれた議員には代議士としての正当性に疑問が持たれざるを得ない。

 これだけのことがあるのに、しかし全てのマスコミ報道は安倍さんの一人勝ちであると言っている。この選挙の結果、党内にも、官僚にも、公明党にも、安倍氏の影響力が圧倒的に強くなったのだそうだ。
 事実がそうだからそのように報道されるのだろうが、これは大変奇怪なことである。このような理解しがたい日本の政治が「わからない」と言われるのはしかたないことなのだろう。
 だが、理解不能の政治を作ってきてしまった責任は有権者に(も)ある。このことはまた次の記事で書きたいと思う。

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選挙直前に

2014年12月13日 18時22分19秒 | Weblog
 今日が南京事件の日であるということは、申し訳ないが知らなかった。終戦記念日とか開戦記念日は忘れることがないのだけれど。中国では今年から今日を「南京大虐殺犠牲者の国家哀悼日」と定め、習近平国家主席が出席して式典を行ったという。

 こうしたメモリアルデーの制定には当然政治的思惑があるはずだし、南京虐殺の規模については歴史家によって大きな違いがある。ぼく自身どの程度のものであったかもちろん分からないけれど、しかし事件が起き、日本の兵隊が中国人を殺害したことは間違いない。当時の日本軍は徴兵された一般の国民が配属されており、おそらく日本国内ではごく普通に暮らしていた人が歴史的偶然によって人を殺すことになったのである。
 その後、これもまた普通に暮らしていた人々が、思いもかけない遠い異国に送られて、残虐な戦闘を強いられ、相手を殺し、自分も無念のうちに死んでいった。国内で普通に暮らしていた人々も、沖縄で、東京で、大阪や多くの地域で、自分が日常生活を送っている場所で空襲を受け、恐怖にさらされ、殺されていった。
 もちろん、それは中国人も米軍兵も、また多くの国の兵士や庶民が同じ目にあったのである。戦争とはそういうものである。戦争は普通の人の普通の生活の中に殺戮が入り込むことである。それは現代では無差別テロという形で、思いがけないくらい身近のところに潜んでもいる。

 南京で人を殺した人も、空襲で恐怖の日々を過ごした人も、おそらくその10年前までは、自分がそんなことになるとは思いもしなかっただろう。歴史というのはそのようにドラスチックに展開するものなのである。
 我々は幸いなことに歴史から学ぶことが出来る。同じ道を回避して行くことが出来る。いま自分のことだけ、目の前のことだけに意識を奪われるのではなく、ほんの少し過去と未来について考えることができれば、世界の人々、自分と少し違う立場の人々のことに思いを馳せることが出来れば、歴史的な判断をすることが出来る。

 明日の選挙が、戦争の10年前にならないために、ぜひ少しだけ冷静に少しだけ客観的に、少しだけ利他的に、投票をして欲しい。
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選挙への無関心は社会崩壊につながっていく

2014年12月13日 09時10分39秒 | Weblog
 世の中には二種類の政治家がいる。民主主義が好きではない政治家と民主主義が大嫌いな政治家だ… というのは下手なジョークだけれど、この選挙とはいったい何なのだろうと思う。

 選挙というのは民主主義の象徴だけれど、現実の世界では非民主主義的政治を隠すための形式的なイベントにされていることも少なくない。香港の学生たちが反発したのも、実は「一人一票」の制度を導入するという一見民主主義的改革に見える政府方針に対してだっだ。住民全部に投票権を与えるというのは良いのだけれど、その候補については政府が容認した人物しか認めないという、事実上は政府の政策を否応もなく押しつけるシステムだったからだ。それでも形としては普通選挙で住民が自分の意志で選んだと言うことにしてしまうのである。

 今回の選挙が不意打ちだったことも関係しているかもしれないが、いま流れているテレビCMはなんだか自民党のものばかりのような気がしてならない。金と権力を持つ者がより多くアピールできるというシステムは民主主義的なのか?
 年末の忙しいときに、また寒くて人が出かけたくないときに、野党に準備する暇を与えないようにして、マスコミに圧力をかけて(つまり争点を隠しわざと投票率が下がるような状況を作って)、しかもそもそもが自民党に圧倒的有利に作られている選挙制度によって行われる選挙は、いったい民主主義的選挙なのか?

 選挙制度はどんどん自民党(と財界)に有利なように変更され続けてきた。負けそうになるとルールを自分に都合良く変更してきたのだ。何度も指摘していることだが、実は民主党による「政権交代」でさえその一環としてあった。

 これは民主主義の形骸化であり、つまり民主主義の破壊の歴史である。人々は政治にも選挙にも関心を失っている。それは自民党の目論見であったのだけれど、同時に人々の間にどんどん閉塞感が強くなってきた。安倍氏はアベノミクスが成功して閉塞状況から脱したと高らかに宣言したけれど、現実の庶民の感覚はますます重く暗く淀んでいる。
 そして今回の選挙で自民党が単独で衆議院の2/3を獲得したら、おそらくそれは限界に達する。国会において民主主義が全く機能しないことになるからだ。
 人が選挙にも現状の政治体制にも関心を持たなくなるということは、つまるところ民主主義に対して何の期待も持たないのと同義である。民主主義によって社会が変わるという原則を否定してしまうことであり、そうなったら今度は民主主義ではない手段が選択されるようになるしかなくなる。
 この数年、犯罪自体の件数は減っているのにも関わらず、我々の感覚では粗暴としか言えないような、めちゃくちゃな犯罪が増えているように思える。町中で突然まったく関係ない人を暴行して金を奪うとか、危険ドラッグを使ってクルマを暴走させるとか、後先のことを考えない犯罪が頻繁に報道されている。それは自分と社会との関係が薄れている、もしくは断ち切れているから起きる犯罪だ。普通なら多少なりとも相手の気持ちを感じるだろうし、自分の将来のことも考えるだろう。それは人間が社会的存在だからである。そしてそれは現代日本においては民主制度という形で目に見えるように作られているはずなのだが、それが実質的に失われていけば、表面的には国家主義的な力が強まっていくのに、実体としては人々の価値観がどんどん混沌の中に融解していくことになる。

 アメリカ型資本主義の蔓延の中で、経済的な共同体ではもう人間としての繋がりが希薄化してしまった。終身雇用も家族的経営も無くなった。日常的友人関係もストレス社会の中で、空気を読むことを求められ、体裁をつくろって生きていくか、SNSでのバーチャルな関係にすがるかしかなくなった。そして政治の世界では民主主義が機能しなくなり、主権者として社会に対する影響力も持てず、同時に責任も感じられず、人々はアウトローになっていくしかない。
 これがまさに「疎外」である。

 いま社会が崩壊しようとしている。すでに崩壊してしまった国も世界にはたくさんある。閉塞感と絶望と断絶の中で、人々は社会との関係を断ち切られ、そしていつか暴走を始めるかもしれない。
 明日の選挙は、もしかするとその結節点になってしまうかもしれない、と怖ろしい気持ちがしている。
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マララ・ユスフザイ氏を巡る報道

2014年12月12日 21時58分01秒 | Weblog
 今度の日曜日、総選挙投票日は日本列島に寒気が入り、投票率が下がると言われている。文字通り「さむけ」のするニュースだ。
 香港では学生たちを中心に大量の逮捕者を出しながら、なお普通選挙を求めて闘っているが、日本では多くの人が投票を棄権しようとしている。もちろんそれは有権者だけの責任ではない。政治家が作り出し、マスコミが操作し、そうした重層的な環境の中であえて作り出された「無関心」であり右翼へのシンパシーが背景にある。

 先日も書いたけれど、もし「日本国民」がノーベル平和賞を獲得していたら、たぶんずいぶん雰囲気は違っていたかもしれない。もっとも今のマスコミでは肝心の所をすべて隠してしまったかもしれないが。菅原文太の反戦、反原発のメッセージを隠してしまったように。
 その平和賞の受賞者であるマララ・ユスフザイ氏に対してタリバンが批判の声明を出した。マララさんについて沢山ある報道の中から、ぼくが注目したニュースをいくつか紹介したい。
 どのように考えるかはあなた次第だが、これが現実の世界であり、その中であなたがどういう決意で生きるべきかを、マララさんが鋭く問うていることだけは間違いない。

「反イスラムの兵士」=マララさんのノーベル賞受賞を批判―タリバン
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141212-00000147-jij-asia


ノーベル賞:平和賞マララさんに母国パキスタン内に反感も
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20141211k0000m030126000c.html


ノーベル平和賞マララの知られざる顔
http://lite-ra.com/2014/12/post-699.html


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「過激」で「カルト」な環境保護運動

2014年12月12日 10時40分06秒 | Weblog
 環境保護団体グリーンピースがナスカの地上絵にメッセージを置き、遺跡を破壊したと批判されている。ぼくはグリーンピースのメンバーでこそないが、サポーターをやっているので大変残念だ。

 ナスカの地上絵遺跡に多少なりとも知識があれば、それが大変貴重であり、かつ大変デリケートな遺跡であることを知らないはずがない。というのはナスカの地上絵は砂漠の上にほんの数センチだけ掘られた溝でしか無く、その場の石を蹴飛ばしただけで消えてしまうようなものだからだ。それがなぜ千年とか二千年とかいう長い時間残されたかというと、この場所には雨も風もほとんどないために風化しないからである。
 グリーンピースのコメントを聞くと、そのことを知った上でそれを気候変動に対する象徴として利用したらしく、それなら何故それだけの知識があって立ち入り禁止区域に入り込んだのか理解できない。
 グリーンピースには原因の究明と今後の再発防止に全力を挙げてもらいたい。

 ぼくは以前、地元の環境NPOに立ち上げから関わって活動していたことがある。そこに集まってくる人達は当然みなエコロジストかナチュラリストだった。しかしぼくだけは常に自分はエコロジストでもナチュラリストでもないと言い続け、ずっとひんしゅくを買っていた。そう言われてもそれが事実なのだから仕方がない。
 ぼくは別にとりわけ自然が好きなわけではない。森や山に入ると気持ちがよいし、たまには散歩や山登りをしてみたいと思うけれど、実際にはそんな機会もほとんどないし、また自然と触れあっていないと駄目という性格でもない。人混みも嫌いだが、どちらかと言えば都会の方が好きかもしれない。そう言う意味ではぼくは普通の町っ子である。

 それでも自然保護に関心を寄せ、実践的に、もしくは金銭的にそこに支援をするということを続けてきた。そのことこそが大事だと思うからである。
 自然環境問題は自然好きの人だけの問題ではない。当然のことながら我々人類が生きるための絶対的前提の問題である。そうであれば、エコロジストやナチュラリストでない、普通の生活者こそが環境問題に常時ベーシックにコミットしていかなくてはならないと信じている。好きか嫌いか、情熱があるか無いかの問題にしてはならないのだ。
 そのことをずっと訴えたのだが、残念ながらエコロジストの人達には理解されなかったようだ。環境NPOの中心メンバーである以上、エコロジストでなければならない、エコロジストを宣言しなくてはならないと言うのである。

 さてそう言う人達が、現場については確かに直感的に大変優れた状況判断と対処が出来るのだが、逆に科学的知見=一般的学説を軽視するところがあり、学者はこう言っているが現場の感覚は違うから信用できないということも良く言うのだ。極端な例では温暖化と地震とではメカニズムもスケールも違うのに、そういうことを「直感的に」結びつけてしまったりする人もいる。
 それは確かに政治的(プロパガンダ)には効果がある。否定の証明が出来ないことは全て「あり得ること」であり、たとえば行政がその土地を開発したくて、その自然を代替地に移植するという「学者的」な提案をしたとき、それは現場の経験上失敗するはずだと、拒否するための論理として使えたりする。
 開発を阻止することは政治的には必要で正しい対応であり、開発圧力に抵抗する手段としての「経験的・直観的判断」の主張は、有効ではあるが、一面ではカルト的独善に陥る危険性もはらんでいて、とても難しいところがある。例の「美味しんぼ」の福島に行ったら鼻血が出たというエピソードなど、まさにその辺りのギリギリの線の闘いであると言えよう。

 もうひとつ付け加えれば、こういうエコロジストの人達は地元の自然環境の問題には大変神経質に、また激しく闘っているのに、たとえば捕鯨問題とかになると案外冷たくなる。もう少し範囲を広げれば、農家の人達の経済的問題とか、都市生活者の安全と利便性の問題とかについても、しばしば忘れられてしまうところがある。
 だからこそ、環境問題にエコロジストでない人間が積極的に関わることの意味もあるのだが、現場の活動家は実際上、消滅の瀬戸際にある目の前の自然を守ることに必死にならざるを得ず、なかなかそうした全社会的視野で問題を捉え返すことにまで関心を広げられない。

 もちろんエコロジストが悪いのではない。悪いのは社会的に巨大な力を持ち、環境保護の訴えに耳を貸さず、立ち止まりもせず、壊滅的な環境破壊を続ける勢力の方である。そして自分の「快適な生活」のことだけしか考えず、そうした環境危機に対して無関心でいる多くの人々の責任でもある。エコロジストは視野狭窄に陥らざるを得ないほどに追い詰められているのだとも言えるのだ。

 グリーンピースを代表格として、しばしば先進的な環境保護運動は「過激」「カルト」とレッテル貼りされる。しかしそれ以上に過激でカルト的なのは、現代の資本主義社会の方だ。今やまさに多くの島々が海に沈み、台風や豪雨、豪雪、干ばつが世界中で激化しているのに「経済がまず優先」と言い、福島原発事故という取り返しのつかない破滅的被曝事故を経験してもなお原発と核兵器に頼ろうとする、この社会の権力者とそれを黙認する大衆の構造こそが、過激でカルトなのではないのか。
 それに異議を唱えると「科学的証明」を求め、それが出されたら今度は金と権力の力で「逆証明」を作りだし、「経済の低迷」という魔法の言葉で人々を不安に陥れ、どこまでも富裕者の特権を維持し抜こうとする。こうした世界のあり様の方が間違っているのではないのか。

 もう一度繰り返すが、だからと言って貴重な遺跡を壊して良いことにはならない。迷信じみた非科学的誤りに陥ってはならない。それは当然のことだ。だが世界が一瞬たりとも止められない現代資本主義という「狂気」に支配され続けているとしたら、いったい「正気」の人々はどうしたらよいのだろう。
 環境保護運動は批判されなくてはならないが、批判する側の人にも徹底的な自己批判が求められていると思う。
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ノーベル賞授賞式の報道を見て

2014年12月11日 11時06分41秒 | Weblog
 高校生の頃だったと思うが、NHK教育テレビ(現Eテレ)で夕方に子供向けの科学技術番組が放送されていた。たとえば電子工作技術とか、工芸技術とか、具体的に言えば自由基盤にトランジスターなどをハンダ付けして電子回路を作るとか、銀蝋付けをしてアクセサリーを作るとか、そういうやり方を紹介する番組だった。
 そのころはビデオ・レコーダーは高級品で、とてもうちで買えるような物ではなかったので、ぼくは学校から急いで帰り、テレビの前のちゃぶ台で、広告の裏をメモ用紙にして一所懸命ノートを取った。実際には道具や材料自体を手に入れる場所もおカネも無かったから、実際にそれを作ることはなかったのだが、科学工作とか工芸とかがとにかく好きだったのだ。今でも家の収納家具の三分の一はDYIだし、デスクトップパソコンは基本的に自作している。いま飾っているクリスマス・デコレーションのいくつかも手作りである。

 その番組の中で初めて発光ダイオードというものを知った。当時最新の画期的アイテムだった。きれいでかっこよく意味もなく使ってみたいと思ったものだ。たしか色は赤しか無かったので、だからぼくのイメージの中では発光ダイオードは赤である。
 やがて発光ダイオードはLEDと呼ばれるようになり、ある時あり得ないと言われていた青色LEDが突然のように登場した。もうそのころには電子工作をする状況でもなかったので、別に欲しいとは思わなかったが、20世紀の科学技術の進歩の速度のすさまじさを感じたものだ。
 また中村修二教授をディスってると言われるのも困るので、初めに言っておくが、科学技術が進歩すること自体に異議はない。問題はその技術に対して人間の意識、思想、社会がちゃんと追いつき、バランスがとれている必要があるということなのだ。

 今回のノーベル賞は、もしかすると一番印象深かったかもしれない。ひとつはLEDという身近な自分史に重なるところのある技術開発が対象になったこと。またマララ・ユスフザイ氏というマルクス主義者が、しかも最年少で平和賞を受賞したこと。そして、もし文学賞で村上春樹氏が受賞していたら今の日本と世界の状況について何を世界に向けて語ったろうかということ。更になにより「平和憲法を守りぬいた日本国民」が平和賞を受賞していたら、この状況下で安倍総理はいったいどうしたろうかと考えるのである。

 日本のマスコミは、スウェーデン国王主催の晩餐会で天野浩教授夫妻がダンスをするかしないかという誠に平和な取材に奔走していたが、一方の平和賞授賞式のノルウェーでは武装した警備隊が厳戒態勢を取るという緊迫した状況にあった。非常に皮肉な話である。
 平和賞では自分の命をかけて人々の平等を求める人達が銃に守られており、物理学賞ではアメリカ的金儲け主義社会を礼賛する人が豪華な祝宴の中にいる。もちろんある年にはそれが全く逆の場合もあるわけだが、今年は内外の情勢を考えるとこの授賞式の風景が、とりわけ何かを示唆しているように思えたのである。

 実は数日前にウィーンで開かれていた「核兵器の人道的影響に関する国際会議」で、日本の佐野利男軍縮大使は、これまでの同会議で確認されてきた「核兵器の爆発時には対応できないほど悲惨な結果を招く」という見解に対して反対し、「悲観的過ぎる。少し前向きに見てほしい」と発言していた。
 佐野氏の主張は、核爆発後に現場に入って救助活動などの対応をすることは可能で、それをあらかじめあきらめるなということのようだが、それはつまり核兵器は使いうる、使っても(もしくは使われても)なんとかなるということである。核兵器でさえない福島原発事故がどうにもならない状況にあるのに、そしてもちろんあの広島と長崎の悲劇を知っているはずなのに、なぜ核廃絶を話し合うべき場で核使用を前提にした話をするのか、全く理解に苦しむと言うしかない。
 しかもこの問題はマスコミでほとんど取り上げられていない。

 さらにその数日前には、沖縄で退任を四日後に控えていた仲井真前知事が、突如、防衛省の辺野古基地建設に関する工法変更申請を承認してしまうという暴挙に出ていた。このことは大変な事件であって、有権者の民意を全くないがしろにした、民主主義と選挙の意味を失わせかねない重大な不祥事である。しかし少なくとも本土の反応はあまりにも悪すぎる。

 繰り返すが、ぼくは日本人学者がノーベル賞を受賞したことを否定的に捉えているわけではない。しかし、もしかしたら今、青色LEDで飾られた夜間ライトアップの話題より、日本の戦争と平和のあり方への重い問いかけが突きつけられていたかもしれないのだ。というより、突きつけられているのに、それをことさら無視するような状況になっているのだ。
 朝日新聞の記事によると今回の選挙を取り上げるテレビ番組が激減しているという。前回の選挙時と比べて1/3だそうだ。背景には自民党によるマスコミへの強い圧力がある。小泉郵政改革選挙の時には異様なほどマスコミを利用し、憲法改悪に向けては黙らせるという、このようなあり方が民主主義なのか。これでよく日本政府は韓国の朴大統領のメディア封じを批判できたものだとも思ってしまう。
 ノーベル賞はある意味で日本の平和主義に見切りを付けたのだと言えるかもしれない。見限られてもしかたがない。しかたがない状況に日本はあるが、しかし我々は日本に住んで生きていて、金持ちのように逃げ出すこともできない以上、見限ることさえできないのだ。

 青色LEDの開発によって可能となったLED電球は、まだ相当に高い。正直に言うが、ぼくにはまだ買えない。しかたなく電球型蛍光灯を買っている。しかしもちろんLEDは地球環境と人類の将来のためには重要な技術である。自分のことを棚に上げて言うのも気が引けるが、未来のためにいま痛みを引き受けないと先には破滅しかないのである。
 耳に当たりの良い言葉を並べ立てて、あり得るはずのない幻想の繁栄を訴える政治家たちに踊らされることなく、いま自分自身に対して厳しい、受け入れづらいオルタナティブだとしても、正しい判断をしなくてはならない。戦前の愚かな過ちを繰り返してはならない。

 それだけだ。
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安倍政権の「暴力」

2014年12月10日 18時32分04秒 | Weblog
 絶望的な力の暴力によって蹂躙されようとしている日本の民主主義。
 きょうは選挙戦の最中の「どさくさに紛れ」(新聞労連の声明より)特定秘密保護法が施行になった。その一方で米国では上院の委員会がCIAの拷問の実体を調査した報告書を公表し、二度とこのようなことはやらないと宣言した。

 米政府が世界に対して、そして自国内において犯している犯罪的行為は沢山ある。そのこと自体を許すことは出来ないが、少なくともこのような徹底的な情報公開、民主主義的装置も機能するのである。政治家同士、官僚同士が、また三権がそれぞれもたれ合い、守り合い、責任をあいまいにし、うやむやのうちに腐りきっていく日本の構造とは、やはり違うと思わざるを得ない。

 数の暴力、力の暴力は、確かに民主主義のシステムの「必要悪」である。何かを決定しなくてはならない場合、そしてその決定を維持しなくてはならない場合、それは無くてはならない暴力である。どの民主主義体制でも議会と警察がある。(政界引退を表明した民主党の仙谷由人元官房長官が、以前「暴力装置」と発言して批判されたが、その本当の意味はこういうことだ。)
 しかしだからこそ、その使用にあたっては十分以上の抑制的姿勢が必要なのであり、本当に必要最低限に止めなくてはならない。秘密法に象徴されるように、それを逆に最大限に強化しようというのが現安倍政権の一貫した姿勢である。

 そして今や多くの日本人がそうした考え方に同調している。他人のことより自分の利害が最優先という思想が蔓延してしまった結果だ。
 よくマスコミに出てくる文化人が、最近の若者は政治に関心が無い、選挙に行かないと嘆くけれど、それはもちろん若者の責任ではない。若者を批判する文化人たちがよく知っているように、かつて1960年代、70年代の若者には強い政治意識があった。
 ぼくが高校に入学したのは1975年だったが、そのころはまだ学校のサークル棟にガリ版刷りのアジビラが大量に残っていた。高校生が政治闘争をするのが普通だったのだ。しかしそうした若者の政治意識の高揚は体制にとっては迷惑だった。当然つねに権力者は批判される対象であるからだ。こうして教育改革の名目で若者を政治から遠ざける政策が次々とられるようになった。日本の「教育改革」の歴史を、若者の政治意識を削ぎ落とす策略という観点から見直してみれば、どの政策も皆そうした動きであることが分かるだろう。

 それと同時進行で、バブル経済とその崩壊の過程において、経済的富裕だけが人間の幸福であるという思想がまき散らされ、また能力主義の名目で経済格差の正当化が強化された。
 その象徴がホリエモンこと堀江貴文氏の「お金で人の心が買える」という言葉であり、村上ファンドの村上世彰氏による「お金を稼ぐ事は悪い事ですか?」という言葉である。彼らはまさに80年代の若者であった。資本主義社会で「カネを稼ぐ」ということは、当然ながら誰かから奪うということを意味しているのであり、生きるためにしかたなく奪うという謙虚さというか、自己批判的な視点を持たなければ、それは社会的不正義になってしまう。そういう当たり前のことが覆い隠されるようになったことが、現状の、他人のことより自分の利害が絶対的に優先される思想を蔓延させたのである。

 社会が不正義に完全に覆われるようになると、それに反発する動きも過激化していくしかない。今年相次いだ集団的自衛権行使容認への焼身抗議はその現れのひとつだし、また今回の選挙で、選挙公報に「大虐殺」「皆殺し」と大書きした石川二区の候補のブログが、一見して錯乱しているかのようでいて、実はかなり正当なことを書いているというのもそのひとつである。暗い時代の予兆を感じざるを得ない。

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民主党のCMをどう読むか

2014年12月09日 22時02分38秒 | Weblog
 民主党の選挙用テレビCMの評判が悪い。女性たちが「夢は、正社員になること!」とか「お金を貯めて彼氏と結婚したいです」と言うものだが、正社員になることが夢というところに違和感を感じる人が多いと言う。
 確かに人生の夢が正社員になることでは、あまりにも悲しい社会であろう。むしろそこは夢に向かってのスタートラインであるべきだ。いったいどうしてこんなセンスなのだろうか。そこに民主党とは何なのか、日本の社会と政治の根本的な病理とは何かを見て取ることが出来る。

 ここしばらくテレビの報道番組では、有名なキャスターたちが口々に自民党の政策に疑問を投げかけてきた。集団的自衛権行使容認、秘密法、原発再稼働、消費税増税、アベノミクスの成果などなど。となると必然的に、そうした安倍政権の問題政策の多くに対して一番真正面から批判し反対しているのは共産党と言うことになる。ところが実際には共産党の主張がクローズアップされることはほとんどない。そのことを矛盾と思っているかいないかよくわからないけれど、たぶん有名キャスターたち自身もまず共産党支持者ではない。実際のところ野党支持者であるかどうかさえ怪しいものだ。

 社会正義という意味で言ったら、共産党、社民党の主張はほとんどの点で正義の側に立っていると言って良い。しかし多くの人にとって社会民主主義、社会主義、共産主義は敵であるかのようだ。不思議なものである。
 それはつまり社会主義や共産主義が本質的に近代=資本主義=自由主義=市民社会に対するアンチテーゼだからである。自分たちが現に暮らしているこの社会のあり方を否定するものだから、そこに同調できないのだ。別の言い方をすればそれは人々に自己批判、自己否定を迫るのである。(もちろん、もう一方では社民党や共産党が、実は社会主義や共産主義とは全く違うブルジョア民主主義=近代主義でしかないという左側からの批判もごくわずかには存在するのだが。)

 この世界が閉塞的状況にあることを、おそらく誰もが感じている。しかしそれが近代そのものの限界であり、近代自体を乗り越えない限り解消し得ない問題だと言うことは、誰も言わないし、多くの人は気づきもしない。
 もっともそれを復古主義的に指摘した勢力はいた。たとえば日本で言えばいわゆる「近代の超克」論などがそうだし、現在のイスラム原理主義者たちもそうかもしれない。そんな中で、未来志向において近代を乗り越えることを提起したのはマルクス主義だけだった。その残滓というか、系譜の中にあるのが、日本共産党と社会民主党である。だが彼らにも大きな限界がある。
 近代を超えるには近代主義を超えた思想が必要である。復古主義の場合は近代以前の思想を利用するわけだが、当然われわれには新しい思想が必要だ。ところが、われわれ自身が近代社会の中で近代人として作られてきてしまっているから、近代的思考からなかなか抜け出すことが出来ない。残念ながらカール・マルクス自身もそうだったのだと思う。
 近代の成果を肯定し、その遺産の上に、近代を否定した新しい思想を構築することが求められるのだが、いまだにそれを成し遂げた論はない。それが現代人にとっての最大の悲劇なのかもしれない。

 ニュースキャスターたちに至っては、そもそも現代社会の変化自体にさえついて行けていない。いまだに選挙の動向を、与党対野党という形でしかとらえられなかったりする。
 いったい野党とは何か。与党の政治理念に反対し、政策に対してオルタナティブを提示するのが野党の役割ではないのか。その意味では現在の「野党」の中にどれほど野党がいるのか。確かに55年体制時代の与党と野党なら、それぞれの政党にはっきりした政治理念の違いと政策に対するオルタナティブがあった。与野党という構図はそう言う場合には意味があるが、現状ではそうした勢力図にはほとんど意味が無い。
 経済に対する感覚も同じだ。株価がどうだ、物価指数がどうだと言っても、もはやそんなものはある特定の人々にとっての儲けの尺度であるだけで、経済動向が人々の幸福とは全く関係ないということはずでに明らかになっている。それでもマスコミはまず真っ先に経済問題を取り上げる。政治家はそうして作られた幻想に乗っかって(もしくは乗らざるを得ず)、経済の「復活」だの「成長」だのを公約の第一番に持ってくる。

 民主党のCMへの違和感は、ようするに民主党が第二自民党として、現状の日本資本主義を何が何でも存続させるという立場から、むりやりアベノミクスと違う主張をせざるを得ないというところから発生している。
 民主党にしても格差を撤廃するなどという資本主義の根幹を否定するような主張は出来ない。庶民は庶民、金持ちは金持ちでいてもらわなくてはならない。経済学的に言えば、労働者と資本家が常に存在しなくてはならないのだ。格差を縮めると言っても、「下の上」をせいぜい「中の中」に上げるという程度でよいだろうと思っているだ。あからさまに言えば下層は正社員になるという程度の夢で十分だと言っているのだ。「上の上」を引きずり下ろそうなどとは全く思ってもいない。

 このことをもっと現代史的に解釈するなら、近代自体の限界には目を向けず、ただ表面的にそれを塗り隠してリニューアルしたように見せようとしているだけだということである。
 民主党への違和感をもし人々が掘り下げていくことが出来るようになれば、そのときはじめて本当の光が見えると思うが、それはやって来るとしてもずっと先のことにしかならないのだろう。
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最初の悲劇か二度目のコメディーか

2014年12月08日 16時53分05秒 | Weblog
 いよいよ選挙の争点は憲法九条が無くなるかどうかに絞られてきた。毎日新聞によれば、すでに自民党単独で2/3を獲得する可能性があるという。それなのにマスコミは安倍氏の意向に沿って、いまだにアベノミクスがどうのという報道ばかりをしている。
 ぼくは一年前に、最悪の場合、年内にも日本が戦争に参加する可能性があると指摘した。幸いにも多くの人が危機感を共有して世論形成が進み、ギリギリここまで持ちこたえることが出来てきたが、この選挙でついに防波堤は決壊しようとしている。

 有権者が劣化し、政治家が劣化し、日本の戦後平和主義が崩壊する。いったいどうしてこんなことになってしまったのか。
 自民党による長い長い「反平和戦略」の積み重ねによるのだろう。それは実に粘り強く、じわじわと、人々の欲望を巧みに煽りながら続けられてきた。教育、マスメディア、選挙制度、労働運動つぶし、警察力による言論・思想・運動への弾圧、そうしたものが60年以上、陰に陽に少しずつ進行してきた結果である。
 おそらく、ぼく自身もその戦略にあらがいきれず、屈してしまった者のひとりだ。

 ぼくが子供のころ、1960年代に日本の戦争が正しかったなどと言う人はほとんどいなかった。2000年ころにはまだ、なんで当時の人々は戦争を止められなかったのかと言うような疑問が話題に上がっていた。
 今はかつての戦争を否定すると表明すること自体が、なにかしらのリスクを伴うようにまでなってしまった。憲法九条を礼賛することが「当たり前の常識」から「危険な政治的発言」と目されるようにまでなってしまった。あまりのことに愕然とする。

 ぼくの母は開戦時に16歳だった。今日が12月8日と知ると「大詔奉戴日」だ、嫌な日だと言う。先日も書いたが、母の父は一介の時計職人だったけれど戦争に反対していた。しかしその母でさえ、「お国のため」と思って千人針に立ち、神風が吹くと信じていた。何かやはり今と当時の時代が不気味に似ていると思う。
 昔はなぜ日本が戦争に向かっていったかを分析した本がその辺に普通に沢山あった。戦争の背景に、財閥が自分たちの利権を確保するために大陸に侵出して行く構造があったのは常識である。しかしいつの間にか、そうした歴史的な分析はどこかへ押しやられ、なんであれ日本が正しいという立場に立たない議論は最初から「偏向」「反日」として排除されてしまう。

 明治の経済発展があり、大正のデモクラシーが開花し、やがて関東大震災から大不況の時代がやってきて、資源のない日本は海外へ出て行かなくてはならないという勢力が、大昔の南進論や征韓論を復活するかのごとき大陸進出、南洋侵出をさかんに宣伝するようになる。人々はそうした景気の良い話に沸き立ち、やがて中国大陸の利権を巡ってイギリスと対立し、ドイツとの防共協定を少しずつ深化しながら決定的な軍事同盟へと発展させていく。
 この歴史上の固有名詞をひとつずつ入れ替えたら、どうだろう、まさに今の日本とそっくりではないか。

 もちろん歴史は繰り返さない。同じ歴史は存在しない。あったとしたらそれはブラック・コメディーでしかない、というのはマルクスの言だが、歴史教育の重要性を熱心に説いている勢力が、一番歴史に学ばないというのも、これはひどいコメディーではある。
 なぜか人間は、わかっているのに、あえて自らが破滅する道を選びたがる。あのレミングの伝説の旅のように。戦前にも多くの人々が戦争と侵略の愚かさを指摘し反対していた。しかしそれは、あるいは無視され、あるいは弾圧され、時代の波の中に消されていった。
 止めることは出来ないのかもしれない。しかしたったひとりでも、あらがうことだけは出来るだろう。
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9条消滅のカウントダウンが始まるのか?

2014年12月07日 10時01分19秒 | Weblog
 さて、投票日まで一週間になった。前回のブログで自民党単独300議席はさほど不思議ではないと書いたけれど、それが軽々しい問題ではないと言うこともまた事実である。
 もちろん現状でも自民党独裁であることに違いはない。しかし与党と極右が議席の3分の2を獲得してしまったら、それはいよいよ憲法第9条廃止へのカウントダウンが始まるということを意味する。
 ほんの少し前まで、この年末がこれほどまでに今後の日本の将来を左右する重要な歴史的転換点になるとは、誰も思っていなかった。本当に歴史というのはドラスティックなものだと思う。

 ただ一番の問題は、実は選挙そのものにあるのではない。自民党および保守系政治家の、はなはだしい劣化にこそ問題の本質があるのである。野党などと言ってはいるが、現在の保守系野党は基本的にもともと自民党であった。逆に言えば自民党というのは保守合同で作られた連合党であり、本来的には内部に複数の小政党が内包されていたのである。これが自民党の派閥と言われるものであった。ところが、この構造がいわば足の引っ張り合いとなり、自民党の腐敗の象徴とされ、派閥解消が長年の自民党のスローガンとなった。
 現状の自民党では派閥の力は大きく削がれ、安倍総裁の独裁体制となっている。それでも自民党議員の腐敗ぶりだけは変わっていないのは皮肉な話だが、しかし本来の多用な意見を反映させるという機能の方はしっかり失われてしまった。

 アメリカの二大政党制が良いとは思わないが、アメリカの二大政党は二大政党であるがゆえに、どちらにも多用な意見を持つ政治家がいてその存在感を示している。そこにはある面でしぶとい民主主義の伝統を感じざるを得ない。
 そう言う意味では、二大政党制における政党として日本の民主党は当たり前の構造をしているのだが、いかんせん無理矢理作られた党であり、あまりにも未熟で何を主張し、何を実行しようとしているのかがさっぱりわからず、政権交代でその実態が明らかになった後は、有権者にはますますとらえどころがなくなってしまった。

 というよりは、おそらく日本の政党は21世紀に入って、本来的な政党としての意味を失ってしまったのだ。本来なら政治理念があり政策があり、それを実現しようとする集団が政党であるはずだが、現在の日本の政党の多くが選挙互助会に堕してしまったのである。だから「出来てきた党」ではなく、「作られた党」ばかりになってしまったのだ。
 テレビである極小野党の「党首」が「現在の野党は選挙のために離合集散している」と野党批判をしていたが、彼の党自体がそもそも初めからずっと選挙互助会として転変してきたことを知っているので、思わず吹き出してしまった。

 自民党がなぜ安倍独裁になってしまったのかも、そういう脈絡で考えればよくわかる。つまり選挙に勝つことだけを目的にするのであれば、強いところに黙ってついて行くのが一番効率的だ。自分の意見を主張して「足の引っ張り合い」と批判されるより、何も言わずに多数派の言いなりになって自分の身の安泰を図っておいた方が得だということである。
 もはや政治家の理想などどこにもない。ただ家業として営利のために政治屋をやるという状況が蔓延してしまった。政治家の劣化も極まったと言えよう。

 しかし実はこういう状況を、我々は初めて経験するのではないということも忘れてはならない。そう、それは昭和ファシズム時代における大政翼賛化である。国家の危機というアジテーションにあおられて、民主主義が弾圧され、日本は「国防色」一色に染められていった。
 その結果、政治は暴走し破滅的な戦争へと突入した。その悲劇の最終章の幕開けとなった開戦記念日が、明日またやってくる。
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