かつて新聞は絶大な権威を持っていた。その理由の一つはメディアの数が少なかったからだ。敗戦までは新聞の他には、雑誌・書籍類とNHKラジオ、ニュース映画を含む劇場映画、演劇等の公演くらいしか無かった。一言付け加えれば、これらは全て国家による事前・事後の検閲が行われた。劇場には検閲官が派遣されていて問題となりそうな発言があれば「弁士中止!」と命令し公演を中断した。
戦後になって新憲法の下、検閲は全て禁止された。新聞は自由な言論の牙城として果敢な取材と自由な思想でもって、戦前までの日本と決別した民主主義日本を建設する基盤的役割を果たしていくことになる。
戦後の言論界は今とはだいぶ違って完全な自由を持っていた。とりわけ雑誌は戦前の検閲の息苦しさを吹き飛ばすように多様な論議を行った。もちろん別に高尚なことばかりではない。終戦直後に乱造されたエロ・グロのカストリ雑誌などはそのひとつの象徴だろう。ただしこの時期には実は裏側でGHQの検閲が行われていたと言うが。
だが新聞は慎重なメディアであった。権威を保つためには基本的に社会の最大公約数の人々に受け入れられる論調である必要がある。それはつまり保守的であるということでもある。
もともとをたどれば新聞には権威など無かった。それは民間発祥のメディアだったからで、庶民(かならずしも下層民と言うことではない)の主張したいこと、知りたいことを好き勝手に書いて広げるものだったからだ。しかし日本では明治政府が新しい国家建設に活用できると考えて擁護したり(ただし後に検閲によって規制するようになるが)、昭和の戦争期には国が大本営発表を掲載させるなど国民統合の手段として利用したため、一般の国民からは「信頼できるメディア」として認知されるようになったのだと思う。このことも新聞の保守的傾向を生む土台になっているかもしれない。
ところが1960年代初め、出版・言論界に大きな衝撃を与える事件が起きる。『風流夢譚』事件である。作家深沢七郎の短編小説『風流夢譚』が皇室を侮蔑したとして右翼からの強力な反発を受け、掲載誌の中央公論の社長宅で家政婦と夫人が殺傷されるテロ事件へと発展したのだ。
現状からでは想像もつかないが、中央公論を含めて現在日本の右傾化の推進役として右翼論壇を形成している有名月刊誌は、その当時はこぞって「進歩的」な論調を掲げていた。言論の自由を喜んでいたからである。しかし、こうした事件を受けて出版・言論界は次第に保守的論調へと転換していくのである。
こうしたメディアへのテロはその後も散発的に発生し、標的にされた朝日新聞に対して、1980年代には赤報隊事件、1990年代には野村秋介拳銃自決事件が起こされている。
すこし脱線するが、1960年代以降急速に新聞からメディア王の座を奪ったテレビは、「放送法」という縛りもあってより保守的なメディアであるのだが、そのテレビに対しても2010年代には韓流ドラマ反対の右翼デモがかけられる事態が発生した(皮肉にも標的にされたのはメディアの中でも最も極右に近いフジテレビだったが)。
マスコミが保守的なのはある意味当然である。前述のように「最大公約数」である必要があることもあるが、さらに前提として国や大企業の「認可」がなければやっていけないからでもある。新聞でもテレビでも常に自民党やスポンサーの圧力がかけられている。それは度々週間のネタにされるほどだ。だから新聞に中立とかリベラルとかを期待したら当然裏切られる。
ぼくがマスコミ嫌いなのはそういう思いを何度も経験したからだ。最初はこちらよりの報道をするとしても、必ずその反対の論調が掲載され、結局のところプラス・マイナス・ゼロあたりで終わってしまう。もっともそうなるだけマシかもしれない。たいていは報道もされないか、マイナス報道だけされるかということが多い。
だがだからと言ってマスコミは不要なのかと言うと、やはりそうは言えない。マスコミは権力者から圧力をかけられるとしても、それでもなお力を持っている。ある場合には権力者の足下をすくうような大きな力を発揮することもある。世論形成の力を持っているのだ。それはつまりもうひとつの権力だと言ってもよい。権力同士がけん制しあうことは悪いことではない。まあ実際は協力し合うことの方が多いのかもしれないが。
さらに言えば、マスコミの中にも良心的なジャーナリストはいるだろう。力はないとしても、そうした人が時には良い仕事をすることもあるはずだ。新聞の読者はただ記事を読むのではなく、そうしたジャーナリストの良心を行間に読まなくてはならないのかもしれない。
少なくともマスコミの取材力は強力だ。良くも悪くも権力者の中に食い込んでいるのだから。その力を我々が利用すればよい。つまり新聞報道の記事を読みつつ、それをただ鵜呑みにするのではなく、そこから何が真実なのか何が重要なのかを自分で考えていくのだ。
それはスポーツ紙を読むようなカタルシスは無いだろう。しかし新聞記事をただ娯楽のように、自分を満足させるためだけに読んでいたら、それこそ自分というものを失ってしまう。新聞は自分を形成するための道具でしかない。
もう一つ言えば、ネット社会も成熟しつつある。インターネット時代に入って混沌の時期があり、やがて携帯電話の普及に伴う「便所の落書き」時代を経て、いまやっとネットにおける質の高い論壇や報道が定着しようとしている。
たとえば次のような記事は大変に質が高く、新聞を初めとしたマスコミの報道だけでは飽き足らない真実の部分をよく解き明かしていると思う。
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【安倍「破憲」改造内閣の奇怪な正体(2)】高市早苗総務大臣と「ネオナチ団体代表」とのツーショット写真
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捕鯨礼賛大本営放送NHKがニュージーランドに宣戦布告!?
ただし忘れてはいけないことがある。マスコミだけを信用してはいけないと言っても、ネット情報だけを信頼するのはもっと危険だと言うことだ。
インターネットは人類史上初めてと言って良い「完全自由」で「完全開放」されたメディアである。それは同時に何ひとつ保証のない言説であるとも言える。
ぼくたちのような老年世代は子供のころ辞書を引いた。ぼくは国語辞典と百科事典を「読む」のが好きだった。そう辞書は読むものだったのだ。一つの項目を引いたとき、その隣の項目が目に入る。それを読むと今度はその関連項目に飛んで続きを読む。そんな風にしてぼくは辞書を読みふけった。
ネット検索では自分が必要な項目だけをピンポイントで知ることが出来るが、どういうわけか中々それ以上に広がらない。あることを深く知ってオタク化するのには適しているが、バランスある知性は身につかない。
新聞は辞書と同じだ。こちらが選ぶのではなく、新聞の方が勝手に記事を選んで掲載してくる。新聞を眺めていれば当然関係のない見出しも目に入る。ネットのポータルサイトでも同じようなことがあるけれど、やはり新聞の方がずっと関係ない情報を目にすることが多い。それがムダだと思う人もいるだろうが、しかし実はそこにこそ全体を見回す力を付けるヒントが存在しているのである。
自分のことだけ、自分に興味のあることだけ見ていたら、世界は狭まるばかりである。見ると言うことは理解することであり、自分の許容範囲を広げていくことでもある。
いま日本では極端な右傾化が進んでいる。それは多様な意見や立場が排除され、たったひとつの思想に偏っているということを意味している。バランスが悪くなっているのだ。
かつて過激派と呼ばれた新左翼は、誤りもたくさんあったが、それでも社会の左脚であった。しかし社会は新左翼を排除した。次に既成左翼が排除され、今はリベラル勢力が批判され排除されようとしている。このまま行けば、やがて保守の中の穏健派や民主主義者が排除され、最後は独裁者言いなりにならない極右が排除されることになるだろう。
新聞はひどい。間違っていたり、悪意があったり、民意に逆行することもある。しかしそれでも新聞をこの社会から排除してはいけない。批判はすべきだが排除はいけない。自分の気に入ったものだけを残そうなどと思ってはいけない。自分の気に入らないものだからこそ慎重に扱い、尊重しなくてはならない。最後には自分の首を絞めることにならないように。