あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

今日のネット署名

2014年09月30日 16時21分41秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

代替策のある サンルダム建設の中止を

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社会の紐帯を再生するための思想を

2014年09月29日 21時33分44秒 | Weblog
*御注意 これは9月29日投稿の「きずな再構築の方向性」に加筆訂正を加えたものです。(14/10/3)

 神戸市長田区の小一女児殺害・死体遺棄事件で、逮捕された容疑者の男が知的障がい者の認定を受けているという報道があった。ぼくには何人か障がい者の友人がいるが、ある友人はこれでまた障がい者狩りのようなことが起きるのではないかと警戒している。
 その前に埼玉県の川越駅で盲学校に通う女子高生が蹴られた事件で逮捕された容疑者も障がい者だった。
 それぞれの事件についてはまだ解明されていないことも多く、軽々に断定は出来ないが、ひとつだけ言えることは、社会的なつながりこそが重要な鍵であるということだ。事件を加害者と被害者の問題に限定していては何の予防も解決も出来ない。障がい者が悪い、障がい者を捕まえて閉じ込めておけなどという話でないことは誰にでも分かるだろう。周辺にいる人達が注意して気をつけること、被害者になり得る人へのフォローは当然だが、加害者になりそうな人にも手厚いフォローをすること、まずなにより他人ごとにしない、無関心でいないことが必要だ。

 そうなると、昔はこんなんじゃ無かったと言う話が必ず出てくる。確かにそうだ。近代は個人主義の時代であり、それは同時に社会的紐帯(つながり)が細くなることを意味する。だから社会が近代化の純度を高めれば高めるほど、人間のあいだの繋がりは薄くなっていく。
 明治政府は武家社会のシステムを基本にして家制度を確立した。しかし敗戦後にそうした封建的制度は否定され、個人の尊重がうたわれ、家族は核家族化し、さらにそれが核崩壊して今では個族と言われるような究極の個人主義社会が到来した。
 だからと言って昔の封建的時代に戻せと言うのは乱暴な話である。歴史は戻せない。この時代、そして次の時代の基盤になるような新しい社会環境と文化を、難しく困難であるとしてもなんとかして生み出していく以外に、この状況を突破する方法はない。復古主義は事態を更に悪化させるだけである。

 ぼくの周囲もひとり暮らしの人がとても多い。更にはぼくも含めて将来的にひとり暮らしになる予備軍も多い。ぼく自身はSNSとか出会い系サイトとかに何の意味も感じないが、考えてみれば、ぼく自身も日常では同世代、もしくは若い世代と話をすることはほとんど無いし、新たに誰かと知り合う機会もない。まあ別に孤立しているとも寂しいとも思わないし、今の生き方が一番自分に合っていると思っているのだが。
 しかしもちろん、ただ気楽だから良いというものでもない。意識的に社会と関係を持つ努力も必要だろう。それはそれで疲れることだが、出来うる範囲で何かをしようという気持ちを持つことが、まず必要なのではないかと思う。

 もちろん社会的な関係性が薄いと現実に困ることもある。正社員として安定的に勤めている人はまだ職場という関係性が存在するが、非正規雇用や失業者になってしまうと、どこかに住むにしても、働くにしても、保証人を探すのが大変になるし、病気になったとしても助けてくれる人がいない。おそらく社会制度が現代人のライフスタイルに追いついていないのだ。もっともそれは政治家やその政治家を選ぶ有権者の意識が変わっていないと言うことでもある。少し前に都議会の野次問題が話題になったが、それこそ「結婚すればよい」という位のことしか言えない政治家が主導権を握っている限り、どうにもならないだろうなあとも思ってしまう。

 もう少し言えば、そういう古い価値観でしかものを見られない「変わらない人達」は、実は自分たちの既得権をいつまでも保持していたいのかもしれない。これまでの社会秩序の中では自分たちが優位に立つことが出来た。だからそれをずっと維持したい。それは社会から自分たちの秩序に適合しない異分子を排除するという動きにつながっていく。
 結婚をしない人、ひとり暮らしをする人、そういう新しいライフスタイルを受け入れることが出来ず、昔ながらの「普通の家庭」だけを求めていると、自分たちの価値観では計れない「変な人」を遠ざけ、関わらず、排除しようというだけのことになってしまう。その結果、多くの人達がますます社会から孤立する結果を生むのだ。

 監視社会にはならず、昔に戻らず、それでも人々の絆が強まるような社会。それはまず自分の価値観に固執せず、自分の利害だけに固執しない、そうした思想への転換から始められなければならない。近代の個人主義が社会の紐帯を切り裂いてしまったのは、近代における個人が、自分にとっての最大の利益を求めて活動する「自由人」であったからだ。近代においては欲望を解放することが推奨された。私財を増やすことは賞賛の対象だった。しかし時代はもう行き詰まっている。そのことを理解せねばならない。

 時代が未来に向けて輝くとき、政治はたいてい人々の中に根深くよどんでいる古い価値観の少し先を行っている。明治維新の政治がそうであり、敗戦後の政治がそうであった。人々の意識が制度を作るのか、作られた制度によって人々の意識が変わるのか、もちろんそれは相互作用ではあるのだが、現在のように政治がポピュリズムに偏り、人々の古い価値観に(それはつまり近代主義における欲望の解放こそが唯一の正義であるという価値観に)迎合し、「こちらがお得ですよ」「こうすれば先進国民の特権が守れますよ」というような政策しか提起できない政治ばかりでは、人々は新しい世界に目覚められない。永遠の夢を見続けさせられるだけだ。
 人類がもう一皮むけることが必要であり、その時は迫っているはずなのだが、しかしこの一皮はなかなか強じんな一枚でもある。人類史から考えれば、先進的思想がそれを突き破る刃物となるはずなのだが、それをやりきる思想家はまだ出て来ていない。待望されるところである。
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今日のネット署名

2014年09月27日 00時00分48秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

愛護動物の虐待及び殺害の厳罰化-刑の厳格化を
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ギャンブルについて考える

2014年09月26日 11時12分25秒 | Weblog
 ぼくはギャンブルが大嫌いだ。公営ギャンブルの馬券とか車券とかは買ったことがないし、パチンコももう35年くらい打っていない。自分の意志で宝くじを買ったとはないし、理由はちょっと違うがこのところ年賀状のお年玉くじの当たりも調べていない。
 ギャンブルの掛け金というのはギャンブルをするための料金だと思っているので、当たることのないギャンブルにかけるカネがあるなら、その分を何か他のものに使う方がずっと楽しいと思う。パチンコに使うくらいならゲームセンターに行くし、宝くじを買うよりお菓子を食べたり文庫本を買ったりする方がずっと良い。

 人生も同じだ。ぼくは人生で賭をするつもりがない。一か八かに賭けるより現状維持で静かに暮らしたい。だから資本主義が嫌いなのか、資本主義的世界観が嫌いだからギャンブル的人生が嫌いなのか、もうよくわからなくなってしまったが。

 そもそもぼくがギャンブルと決別したのは子供の時である。たぶん中学生の頃だと思う。
 そのころ町の商店街ではサービスシールが流行っていた。買い物の金額に応じてシールがもらえて、それを冊子に貼っていく。シールを貼りきった冊子を何冊か集めると、いろいろな景品と交換できるというアレである。
 その景品でぼくは親にルーレット・セットをねだった。ちゃちなプラスチック製のルーレットと、プラスチック製のチップ、そしてビニールシートのレイアウト(チップを置く数字などが升目に印刷されたもの)、それに解説文がついてきた。
 ぼくはルーレットにハマった。相手は弟や友達だったと思う。もちろん実際におカネや品物をやりとりすることはない。本当の遊びだった。ぼくは強かったと思う。ルーレットの賭け方は複雑である。いろいろな方法と組み合わせが可能だ。出る目の確率が低い賭け方をすると配当は高く、確率が高ければ配当は低い。
 もちろんそれ自体の面白さで言えば確率の低いところに賭けて勝つのが面白いのだが、賭け事としてのトータルのゲームで考えれば最終的に手元に残るチップの多さで勝利が決まる。ぼくはこのチップの多さを競うところがものすごく面白かった。この場合、一回一回のルーレットでの賭け方は地味でつまらない。配当も少ない。しかしリスクが少ないから結果的に勝負をする者より最後のチップは多くなるのである。

 あるとき本当に突然なのだが、ぼくはこの面白さがとても怖ろしくなった。自分がルーレットそのものではなく「賭け事」にのめり込んでいることに気づいたからである。まだ子供だったから社会的な意味でのギャンブルの問題について何かを知っているわけではなかったのだが、自分自身の内部にあるものをとても不気味に感じた。
 その時からぼくはルーレットで遊ぶのをやめた。そしてそれ以来、ギャンブルが嫌いになった。なんであれ「賭ける」ということに抵抗を感じるようになったのだ。

 人間は依存する生き物である。他者に、なにかのコトに、モノに、人は依存する。人間が関係性の中に存在する以上、それは必然でもある。それは何か進化の過程で刷り込まれた生物学的、生理的な原因があるのかもしれない。それは仕方がないとしても、しかし依存「症」になることには警戒しなくてはならない。そのことを自覚しながら、何とか自分をコントロールしていかなくてはならないのだと思う。
 依存症になるということは、何らかの意味で生活に支障をきたすというこである。支障があるのか無いのかという境目はとても分かりづらい。だからこそ危険である。

 いま政治家や企業家や文化人などの中に、カジノ合法化への動きが活性化している。もう今度の臨時国会にも法制化される可能性がある。ここには多くの問題が存在しているのだが、世の中の関心はまだ低い。

 ひとつにはこの背景に巨大な利権が存在していると言うことだ。たとえばアメリカにある世界最大のカジノ運営会社は早くも日本のカジノ事業へ100億ドル投資すると言っている。
 実は日本の企業もすでに海外でのカジノ事業に進出を始めており、大手パチンコ・パチスロ企業がフィリピンでカジノ事業を展開するにあたり、現地で数十億円に上る賄賂を使った疑惑も浮上している。この企業は2012年の衆議院選挙で石原宏高候補に自社の社員を丸抱えで派遣していたとして問題になった。言うまでもなく宏高氏の父親は石原慎太郎氏であり、カジノ合法化推進の中心人物である。
 バクチ場を開けば胴元が大もうけする。それは大昔から変わらない。しかもはっきり言って製造業ほどの巨大な先行投資はいらないのだから、企業にとってカジノ参入は大変魅力的な利権になる。

 そんな中、先月には厚労省が日本におけるギャンブル依存症の調査結果を公表した。実に成人全体で4.8%、男性に限ってみれば8.7%で、他の国の2.5倍から10倍と非常に高い数値となっている。このような中でギャンブルを営利事業として国家公認にしていこうというのはいったいどういう神経なのか。危険でもあり倫理的に大きな問題があると言わざるを得ない。危険を承知で外国に原発を輸出するのと同じようなことだ。

 しかも政治家たちはこうした危険な「禁断の果実」を餌に使って政治利用をしようともしている。
 昨年5月、橋下徹氏が代表を務める「大阪維新の会」と、現在沖縄知事選に立候補を表明している下地幹郎氏が実質的代表である地域政党「そうぞう」との間で、政策協定が締結された。このとき橋下氏は普天間基地について「県外移設なんて実現不可能だ」と県外移設の実現性を否定し、その代わりに(?)政策協定の中に沖縄の負担軽減策として、日米地位協定の改定促進、道州制推進、憲法改正、国会・行財政改革と並べて、統合型リゾート=カジノを含めた観光施設建設を盛り込んだ。下地氏は統合リゾートについて「法律ができ、場所の選定になれば沖縄で誘致したい」と述べた。
 このときの橋下氏の訪沖が、その直後に問題になる、例の米軍司令官に「もっと風俗嬢を活用してほしい」と進言したとされるあの時のものである。
 ちなみに「そうぞう」はその当時、沖縄自民党も言わない中で唯一、普天間基地の辺野古移転を推進すべしと主張した政党であった。

 ギャンブルについては、また別の角度から気になる動きがある。競馬を資産運用の手段として認める判決が出ていることだ。
 競馬の払戻金に対する課税を巡っては税務当局は一時金と判断し、巨額の払戻金を得た人に対して所得税を課税する姿勢だが、多額の馬券を買い続けている人は相当額の、たぶん多くの人は払戻金以上のハズレ馬券を買っている。そうした人達がハズレ馬券は経費であると主張し、払戻金への課税に対する控除があるべきだと訴えているのである。
 一般常識で言えば競馬は娯楽である。それを資産運用だと言われることに違和感を感じる人も多いだろう。しかし昨今の裁判所の判断はそうした常識とは反対のものとなっている。今のところ競馬だけが問題になっているが、識者の中には資産運用論が正当化されたら海外のカジノでバクチをすることも資産運用で、負けた額を経費として控除しろという論議も起きてくるのではないかと指摘する人もいる。

 今のところギャンブルは娯楽だという、いわば健全な常識が生きているけれど、もしかするとそうした常識は崩れていくかもしれない。それはつまり我々が容認しているこの資本主義社会そのものが、ギャンブルを前提的に肯定しているからだ。投資というのは経済活動であると同時にギャンブルでもある。本質的に経済活動がギャンブルであってはいけないのだが(つまりそれでは人類は安定的に生存していけなくなるから)、近代という特異な時代においてはそうした「経済原理」が通用しない。
 一か八かの世界が肯定される以上、それが純化していけば、全ての人にギャンブル的人生が強要されるようになり、それは結局、人類文明の荒廃につながっていくことになるだろう。
 人間がギャンブルから完全に自由になることは無いかもしれないが、それを理性的にコントロール出来ないと、未来を失うことになりかねないのである。
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Nさんへの手紙(9)~もう一度イスラム国について

2014年09月25日 10時09分19秒 | Weblog
 なるほど、その韓国人がイスラム国に義勇兵として参加したという情報を確かめるために情報収集されているわけですね。ぼくはその話は知りませんでした。

 ただ現在、イラクやシリアには複数の日本人の男女が義勇兵として参加していると言われています。イスラム国にもいるとのことですが、反イスラム国側にもいるようです。先日イスラム国に拘束された民間軍事会社を名乗る青年も、ある意味でそのひとりでした。
 ちなみに1970年代には日本赤軍などが、1980年代には右翼がパレスチナやアフガニスタンで軍事活動を行いましたね。
 拘束された青年の目的ははっきりしませんが、彼の場合は田母神氏経由で安倍政権中枢から何らかの指令を受けていたという噂もあります。あくまで噂ですが。

 Nさんは、イスラム国に参加する韓国人はムスリムではなく、単なる軍事オタクなのではとお考えのようですが、確かにイスラム国に合流する人々は案外軽いノリで行く人が多いかもしれません。しかし、それでも命を捨てる覚悟は持っているわけで、たとえは悪いかもしれませんが、死刑になってもかまわないと叫ぶ無差別殺人犯にも近いような気がします。捨て鉢なのです。もちろん国と宗教を捨てて、イスラムに改宗することも前提です。
 なぜそんなことをするのかと言えば、その背景にあるのは格差と差別と貧困です。この社会における強力な支配システムの下で、もはや絶対に浮き上がれないと絶望した者がイスラム国というファンタジーに引きつけられるのだと思います。
 Nさんはクルアーンに造詣が深いので何も知らないぼくが言うのもなんですが、イスラムの基本理念は平等です(現実はともかく)。そこに強い賛同をおぼえる人達が増えるのは時代の必然でしょう。

 かつてはそうした人達を吸収するのは西欧思想を基盤にしたマルクス主義でした。いかに資本主義と非妥協だと言っても西欧思想が基盤だから、欧米的価値観を共有する人々との間で対話がまだ可能でした。しかし人々はこぞってマルクス主義を否定し排除してしまいました。
 グローバリズムというかアメリカ一極支配体制というか、そういう時代が到来しました。しかし当然虐げられている人々は無くなっていないし、むしろもっと虐げられるようになって、そうした人々がすがったのがイスラム原理主義だったのです。
 ところが欧米陣営はアフガニスタンやイラクに戦争を仕掛け、イスラム原理主義勢力の指導部を壊滅させてしまいました。そこで出現したのがより凶暴で手の付けられないイスラム国のような、捨て鉢、やけっぱちの勢力です。

 ここでイスラム国を壊滅させたとしたら、今度はもっともっと手の付けられない事態になります。皮膚病の時、痒いところを掻いてはいけないといわれます。確かにその時は掻かずにいられないかもしれないが、そうすると病気がもっと広く深く悪化してしまうからです。この問題も同じです。力による制圧は事態をどんどん悪化させます。
 唯一の解決策は時間がかかっても各国における格差と差別と貧困を無くし平等な社会を作ることだけなのですが、当たり前ですがどの国の支配層もそんなことをする気がありません。残念ながら世界が本当に壊滅的事態にならないと変わらないのかもしれません。
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新聞を排除しない

2014年09月20日 18時43分37秒 | Weblog
 かつて新聞は絶大な権威を持っていた。その理由の一つはメディアの数が少なかったからだ。敗戦までは新聞の他には、雑誌・書籍類とNHKラジオ、ニュース映画を含む劇場映画、演劇等の公演くらいしか無かった。一言付け加えれば、これらは全て国家による事前・事後の検閲が行われた。劇場には検閲官が派遣されていて問題となりそうな発言があれば「弁士中止!」と命令し公演を中断した。
 戦後になって新憲法の下、検閲は全て禁止された。新聞は自由な言論の牙城として果敢な取材と自由な思想でもって、戦前までの日本と決別した民主主義日本を建設する基盤的役割を果たしていくことになる。

 戦後の言論界は今とはだいぶ違って完全な自由を持っていた。とりわけ雑誌は戦前の検閲の息苦しさを吹き飛ばすように多様な論議を行った。もちろん別に高尚なことばかりではない。終戦直後に乱造されたエロ・グロのカストリ雑誌などはそのひとつの象徴だろう。ただしこの時期には実は裏側でGHQの検閲が行われていたと言うが。
 だが新聞は慎重なメディアであった。権威を保つためには基本的に社会の最大公約数の人々に受け入れられる論調である必要がある。それはつまり保守的であるということでもある。

 もともとをたどれば新聞には権威など無かった。それは民間発祥のメディアだったからで、庶民(かならずしも下層民と言うことではない)の主張したいこと、知りたいことを好き勝手に書いて広げるものだったからだ。しかし日本では明治政府が新しい国家建設に活用できると考えて擁護したり(ただし後に検閲によって規制するようになるが)、昭和の戦争期には国が大本営発表を掲載させるなど国民統合の手段として利用したため、一般の国民からは「信頼できるメディア」として認知されるようになったのだと思う。このことも新聞の保守的傾向を生む土台になっているかもしれない。

 ところが1960年代初め、出版・言論界に大きな衝撃を与える事件が起きる。『風流夢譚』事件である。作家深沢七郎の短編小説『風流夢譚』が皇室を侮蔑したとして右翼からの強力な反発を受け、掲載誌の中央公論の社長宅で家政婦と夫人が殺傷されるテロ事件へと発展したのだ。
 現状からでは想像もつかないが、中央公論を含めて現在日本の右傾化の推進役として右翼論壇を形成している有名月刊誌は、その当時はこぞって「進歩的」な論調を掲げていた。言論の自由を喜んでいたからである。しかし、こうした事件を受けて出版・言論界は次第に保守的論調へと転換していくのである。
 こうしたメディアへのテロはその後も散発的に発生し、標的にされた朝日新聞に対して、1980年代には赤報隊事件、1990年代には野村秋介拳銃自決事件が起こされている。
 すこし脱線するが、1960年代以降急速に新聞からメディア王の座を奪ったテレビは、「放送法」という縛りもあってより保守的なメディアであるのだが、そのテレビに対しても2010年代には韓流ドラマ反対の右翼デモがかけられる事態が発生した(皮肉にも標的にされたのはメディアの中でも最も極右に近いフジテレビだったが)。

 マスコミが保守的なのはある意味当然である。前述のように「最大公約数」である必要があることもあるが、さらに前提として国や大企業の「認可」がなければやっていけないからでもある。新聞でもテレビでも常に自民党やスポンサーの圧力がかけられている。それは度々週間のネタにされるほどだ。だから新聞に中立とかリベラルとかを期待したら当然裏切られる。
 ぼくがマスコミ嫌いなのはそういう思いを何度も経験したからだ。最初はこちらよりの報道をするとしても、必ずその反対の論調が掲載され、結局のところプラス・マイナス・ゼロあたりで終わってしまう。もっともそうなるだけマシかもしれない。たいていは報道もされないか、マイナス報道だけされるかということが多い。

 だがだからと言ってマスコミは不要なのかと言うと、やはりそうは言えない。マスコミは権力者から圧力をかけられるとしても、それでもなお力を持っている。ある場合には権力者の足下をすくうような大きな力を発揮することもある。世論形成の力を持っているのだ。それはつまりもうひとつの権力だと言ってもよい。権力同士がけん制しあうことは悪いことではない。まあ実際は協力し合うことの方が多いのかもしれないが。
 さらに言えば、マスコミの中にも良心的なジャーナリストはいるだろう。力はないとしても、そうした人が時には良い仕事をすることもあるはずだ。新聞の読者はただ記事を読むのではなく、そうしたジャーナリストの良心を行間に読まなくてはならないのかもしれない。
 少なくともマスコミの取材力は強力だ。良くも悪くも権力者の中に食い込んでいるのだから。その力を我々が利用すればよい。つまり新聞報道の記事を読みつつ、それをただ鵜呑みにするのではなく、そこから何が真実なのか何が重要なのかを自分で考えていくのだ。
 それはスポーツ紙を読むようなカタルシスは無いだろう。しかし新聞記事をただ娯楽のように、自分を満足させるためだけに読んでいたら、それこそ自分というものを失ってしまう。新聞は自分を形成するための道具でしかない。

 もう一つ言えば、ネット社会も成熟しつつある。インターネット時代に入って混沌の時期があり、やがて携帯電話の普及に伴う「便所の落書き」時代を経て、いまやっとネットにおける質の高い論壇や報道が定着しようとしている。
 たとえば次のような記事は大変に質が高く、新聞を初めとしたマスコミの報道だけでは飽き足らない真実の部分をよく解き明かしていると思う。

【安倍「破憲」改造内閣の奇怪な正体(2)】高市早苗総務大臣と「ネオナチ団体代表」とのツーショット写真

捕鯨礼賛大本営放送NHKがニュージーランドに宣戦布告!?

 ただし忘れてはいけないことがある。マスコミだけを信用してはいけないと言っても、ネット情報だけを信頼するのはもっと危険だと言うことだ。
 インターネットは人類史上初めてと言って良い「完全自由」で「完全開放」されたメディアである。それは同時に何ひとつ保証のない言説であるとも言える。
 ぼくたちのような老年世代は子供のころ辞書を引いた。ぼくは国語辞典と百科事典を「読む」のが好きだった。そう辞書は読むものだったのだ。一つの項目を引いたとき、その隣の項目が目に入る。それを読むと今度はその関連項目に飛んで続きを読む。そんな風にしてぼくは辞書を読みふけった。
 ネット検索では自分が必要な項目だけをピンポイントで知ることが出来るが、どういうわけか中々それ以上に広がらない。あることを深く知ってオタク化するのには適しているが、バランスある知性は身につかない。
 新聞は辞書と同じだ。こちらが選ぶのではなく、新聞の方が勝手に記事を選んで掲載してくる。新聞を眺めていれば当然関係のない見出しも目に入る。ネットのポータルサイトでも同じようなことがあるけれど、やはり新聞の方がずっと関係ない情報を目にすることが多い。それがムダだと思う人もいるだろうが、しかし実はそこにこそ全体を見回す力を付けるヒントが存在しているのである。

 自分のことだけ、自分に興味のあることだけ見ていたら、世界は狭まるばかりである。見ると言うことは理解することであり、自分の許容範囲を広げていくことでもある。
 いま日本では極端な右傾化が進んでいる。それは多様な意見や立場が排除され、たったひとつの思想に偏っているということを意味している。バランスが悪くなっているのだ。
 かつて過激派と呼ばれた新左翼は、誤りもたくさんあったが、それでも社会の左脚であった。しかし社会は新左翼を排除した。次に既成左翼が排除され、今はリベラル勢力が批判され排除されようとしている。このまま行けば、やがて保守の中の穏健派や民主主義者が排除され、最後は独裁者言いなりにならない極右が排除されることになるだろう。
 新聞はひどい。間違っていたり、悪意があったり、民意に逆行することもある。しかしそれでも新聞をこの社会から排除してはいけない。批判はすべきだが排除はいけない。自分の気に入ったものだけを残そうなどと思ってはいけない。自分の気に入らないものだからこそ慎重に扱い、尊重しなくてはならない。最後には自分の首を絞めることにならないように。
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新聞勧誘員が来た

2014年09月19日 11時53分02秒 | Weblog
 昨日、新聞勧誘員が訪ねてきた。そんなに珍しいことではない。よく少し気弱そうな青年やおじさんが、一生懸命まわっていますという感じでやってくる。たいていは二言、三言で、「うちは朝日とってるので…」「変える気はないんだよねー」くらい言えば、しおしおと帰って行く。昔は新聞配達は配達専門だったが、今は普通に新規開拓をノルマでやらされると聞いたことがある。気の毒だが、うちも何紙もとる訳にもいかない。
 ところが昨日の勧誘員はちょっと雰囲気が違った。Y紙だったが、堂々としていかにも勧誘慣れしているプロの気配があった。ドアを開けたらいきなりタオルを渡された。さらには足下にビールを一ケース置いている。
 普通は前記のような会話だけで終わるのだが、この勧誘員はなかなかしぶとい。とは言っても嫌な感じではなく、トークに長けている感じでこちらが何を言っても笑顔で気さくに話を続けるのだ。この人が普通と違うのは「なぜY紙ではダメなのか」と訊いてきたことだ。正直言ってこれは新聞の勧誘員としては当然のことだろうが、最近ではそんなことを訊かれたことがなかい。
 ぼくが「だって右翼じゃない」と言うと、すかさず「それは否めませんねー、政府側ですからねー」などと素晴らしい受け答えをする。で次に朝日のサービスは?と訊いてきた。別に特別なことはないと言うと、「ビール飲みませんか?」と来た。今どき堂々と法律違反のオマケ攻勢である。「だって違法でしょ」と言うと「よく知ってますね」と涼しい顔だ。

 まあそこまでで帰って行ったが、この階段をずっと上からまわっているんですと言う泣き落としから始まって、紙面の内容、賄賂攻勢まで、まさに流れるような勧誘テクニックを見せてくれた。これはつまり、噂のアレなのだろう。
 今回の朝日新聞の「誤報謝罪」騒動で、Y紙は一気に拡販戦略に打って出たのだという。そのために誤報に関するパンフレットまで作っているという。さすがに大企業、すごいと思わざるを得ない。
 ただやはりこの一連の騒動はやり過ぎで、もううんざりと言う話があちこちで出てきている。視点は違うかもしれないが、それぞれ説得力のある論である。

某紙ベテラン記者が警鐘!安倍官邸の「新聞支配術」で危険な分断が先鋭化している
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140917-00035800-playboyz-pol


朝日だけじゃない! “新聞サマ”はすでに死んでいる……論客ご意見番たちがメッタ斬り
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140916-00035815-playboyz-soci


アクセスジャーナル<短期集中連載コラム>日本におけるメディアと慰安婦問
第一回
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=7010

第二回
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=7015

第三回
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=7018

第四回
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=7025


朝日新聞は間違っていたのか?! バッシングの陰で見過ごされる原発事故の反省と教訓 ~緊急共同記者会見「ついに公開された政府事故調 吉田調書 私はこう見る」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/169155


 さて、前出の勧誘員にぼくはちょっとだけ言わなかったことがある。「朝日以外の新聞は読んだことがないんですか」と言う質問に、「実は読売を読んでたこともあるんだけどね。やっぱり朝日に戻ったんだ」と答えたのだが、嘘ではないがそれはもう40年ほど前の話である。まだこれほど各紙の見解が異なっていない頃の話だ。読売を読み続けなかったのは、もしかしたら父がアンチ巨人の阪神ファンだったからだけなのかもしれない。
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政治家の本音と有権者の責任

2014年09月18日 23時33分16秒 | Weblog
 高市総務相、稲田政調会長に続いて、安部極右ガールズの三番手、山谷えり子国家公安委員長が人種差別行動団体・在特会の幹部と撮った写真がホームページに掲載されていたことが明らかになった。もちろん過去の話とは言え、国家公安委員長だから問題は大きい。そういう人が日本の治安対策の大本締めをやっているとなれば、当然公正さに疑問が生じる。
 今回も政治家サイドは「知らない」「関係ない」「問題ない」と繰り返すばかりだ。問題だと思っているから知らない、関係ないと言うわけで、言い訳したり擁護したりすればするほど話が破綻してくる。
 また市氏については、過去に「ヒトラー選挙戦略」という本に推薦文を書いていたことも問題になっている。「著者の指摘通り勝利への道は『強い意志』だ。国家と故郷への愛と夢を胸に、青年よ、挑戦しようよ!」だそうだ。
 東京都議会では、こともあろうにと言うか、先般の自民党都議の「早く結婚した方がいいんじゃないか」ヤジ問題の再発防止を検討する「男女共同参画社会推進議員連盟」で、会長を務める自民党の野島善司議員が、「結婚したらどうだ、というのは僕だって言う」と記者に対して発言、懲りていないというか、事態について全く理解していないことを自ら暴露してしまった。

 市氏が推薦文を書いた「ヒトラー選挙戦略」は、当時の自民党東京都支部連合の事務局広報部長が執筆したもので、装丁からしてヒトラー礼賛の雰囲気がわき上がってくるような本だ。筆者から分かるようにこの本はまさに自民党の若手候補にヒトラーから学んだ選挙対策を教えるためのもので、推薦人には市氏もかすんでしまうくらいの多数の、それも大物政治家がずらっと並んでいる。
 昨年の麻生副総理の「ナチスの手口に学んだらどうか」という発言も、別に突然思いついたわけではなく、こうした「地道」な自民党によるヒトラー研究の基盤があってのものだったと推察せざるを得ない。

 ただ、ぼくは政治家がこうやって本音で語ることは全く悪いことではないと思う。極右ガールズの皆さんも、「知らない」「関係ない」ではなく、立派な同志だと思ったから喜んで写真を撮ったくらいに、堂々と肯定してもらいたい。それが政治家の信念というものなのではないのか。騙されたみたいな言い方は、現役の日本の最高指導幹部である人たちの言葉としてはあまりにも情けない。
 政治家だから本音を言ってはいけないみたいな批判が一部にあるが、それこそ間違っている。政治家だからこそ本音を隠さずに言ってもらわねば困る。心にもない甘い言葉を使うのは、むしろ有権者を欺く行為である。

 そしてそうやって本音をしっかり明らかにした上で選挙に臨むべきだ。そうなたっら有権者はもう「政治家に騙された」などと言えなくなる。まさに有権者としての見識と責任が問われることになる。極右や差別主義者を自分たちの代理人として選ぶのかどうか、選挙が本来持つ重みを噛みしめなくてはならないことになる。
 現在スコットランドで行われている独立の是非を問う国民投票を見るがいい。スコットランド人は自分たちのアイデンティティと将来の命運をかけて、ひとりひとりが重い決断をしようとしているではないか。
 政治家が正直に自分の信条を表明し、有権者がしっかりとそれを理解して自分の主権を預ける。それが無かったら民主主義は本当に形だけのものでしかなくなる。それは言うならば民主主義の破壊である。もし今の日本が荒廃してきているとしたら、それは民主主義を破壊してきた「あなた」の責任かもしれない。

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今日のネット署名

2014年09月17日 10時31分07秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

ウズベキスタン:家族への脅迫と暴行 拷問・えん罪被害者に正義を!

フィリピン:銃を突きつけられて、強いられた自白。警察の拷問に苦しむ被害者を救え!

 事実などは全くわからない。しかし少なくとも拷問によって自供を取ることは絶対に許されないと思う。
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国益が本当に一番大事なのか

2014年09月15日 11時30分29秒 | Weblog
 政治家や各メディアが鬼の首でも取ったかのように勝ち誇り、朝日新聞を叩いている。そんな中でまたまた以前の任天堂社長へのインタビュー記事がねつ造であったことが発覚。朝日も朝日だと思う。

 ぼくはそもそもマスコミをさほど信用していないし、はっきり言って嫌いだ。今までいろいろな関係で新聞記者と話す機会もよくあったけれど素晴らしいと思える記者には会ったことがない。一般的な常識も知らないとか、根性はあるが分析力がないとか、本当にただのグータラ親父だったりとか、そんな人も多いのだ。たぶんテレビドラマに出てくるような鋭さを持った敏腕記者は架空のヒーローなのだろう。
 新聞記者に取材力が無いというのは、ある意味では仕方のないところもある。たとえばSTAP細胞の取材をするにしても、取材相手はその分野における最先端で生きている。新聞記者と言っても基本的にはただのサラリーマンで、ごく普通の平均的な庶民でしかないのだから、そこから何かを引き出すことはとても難しい。科学分野に限らず新聞記事になるような話題はどのようなことでも同じことが言える。
 環境問題でも地域問題でも、歴史問題や、もちろん政治問題でも、ただの普通の人である記者がディープで複雑な問題の、それも多くの場合隠された部分について取材しなくてはならないのだ。難しいに決まっている。ぼくは最近よくミリタリー関連のサイトを見に行くのだけれど、そういうところの「軍事オタク」は、マスコミには戦車と自走砲、戦闘機と攻撃機、軍艦と戦艦(これを混同するのはさすがにひどいとは思うが)などの区別がつかないと言ってさかんにディスっている。

 さてそういう次第だから、新聞記者の中でも専門化していくしかない。その世界のトップと同じレベルで話をして分析できるエキスパートが必要になってくる。ただそうなると、今度は新聞社内で他の記者がそのエキスパートの言うことを理解できなくなるという事態も起きてくるだろう。重層的なチェックをすると言ってもなかなか難しいところである。
 今回の吉田調書問題については、そうした背景も存在していると言うことは出来よう。それだけの問題ではないにしてもだ。

 そもそも論であるが、新聞記事がスクープになるのは、何か隠された真実が存在するからだ。吉田調書問題で言えば、そもそも公開されることが公共の利益になるはずの吉田調書を政府が頑なに隠していたことが最初の原因だ。少なくとも朝日が報じた時点で公開することが出来たはずなのに、それをずっと先延ばしして、右傾メディアの朝日包囲網が完成した時点でタイミングを計って出してきた。ぼくにはこれは狙い撃ちであったように見える。
 結局、吉田調書から原発事故とその対応について汲み取るべき教訓がたくさんあるはずなのにも関わらず、人々の関心は朝日の「誤報」にばかり向けられることになってしまった。

 従軍慰安婦問題で言えば、朝日が誤報を認めるのが遅かったという一点にのみ絞り込んで、安倍政権や右傾メディアは全ての責任を朝日に被せようとしている。しかし実際には吉田証言は当時他のメディアも報じており、かつ吉田清治氏自身の著作も存在していて、これが広まったのは別に朝日ひとりの力によるものではない。
 また朝日が記事を訂正しなかったと言っても、現実には虚偽証言であったという調査や言説は20年ほど前から巷間に流布していたわけで、朝日が訂正するかしないかが(とりわけ国際世論において)大きな影響を持ったとは言えないだろう。
 そもそも現在の国際世論は安倍首相の言う「狭い意味での強制」の有無に関心を持っているわけではない。安倍氏自身も認める「広い意味での強制」があったこと自体を問題にしているのである。日本国内での朝日バッシングは、「国際社会への信頼」とか「国益を損した」などという名目で行われているが、ただ国内世論に向けた左派・リベラル叩き戦術に過ぎないのである。

 先日のブログ記事でぼくは、むしろ産経の方が国益を害していると皮肉ったが、もう少し真面目に言えば「国益」を考えて報道するマスコミなどに何の意味があるのか。それはようするに戦時中の「大本営発表」をただ垂れ流すだけの、権力者のために庶民をコントロールする機関としてのマスコミと同じことを意味するのではないのか。そして現在のNHK会長はまさにその通りのことを言っているのではないのか。
 ジャーナリストは国益など放っておけばよい。肝心なのは個々の人々の人権であり、あえて言えば「民益」=公共の福祉である。歴史を振り返ればよくわかる。国家はしばしば民衆の利益に敵対してきたし、今もなおそうではないのか。そうである以上マスコミが「国益」のために政府や権力者の言いなりになったら怖ろしいことになる。

 現状のような一方的な朝日バッシングが起き、ジャーナリストに対する圧力がますます強まっていく限り、しっかりした記者はさらに少なくなっていくのではないかと心配である。
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自由連想

2014年09月14日 23時51分12秒 | Weblog
 アメリカの若者の間にリバタリズムが広がっているらしい。リバタリズムの語源はリバティ(liberty=自由)であり、リベラルと同源である。ところがここで分かりづらいのは、リバタリズムとリベラリズムは意味が違うというところだ。
 リベラリズムは自由主義=資本主義を改良するという意識が強く、社会保障の拡充などを通じて全ての人が生きやすいシステムを志向する傾向にある。一方のリバタリアンは人民に対する束縛を否定し、国家が人の生き方に介入することを嫌う。いわゆる小さい国家を理想として、極端な場合は税金を取ることにすら否定的な場合がある。行き着く先は無政府主義のようにも見えるが、一般的には軍事だけは国家が担うべきというケースが多いような感じがする。
 ただ現在のアメリカ合衆国の若者の間には戦争疲れがあり、アメリカが外国の紛争に介入する必要はないという、いわば伝統的な孤立主義が広がっているようだ。よく知らないが、その背景には9.11後の合衆国に重苦しくのしかかる国家主義的雰囲気に対する不満があるのかもしれない。

 さらに分かりづらい話をすると、英語では自由を意味する言葉がふたつある。リバティとフリー(free)である。リバティは政治的な自由というようなニュアンスがあり、フリーには好き勝手というニュアンスがあるらしい。
 実は日本語の「自由」という言葉は明治維新にリバティの訳語として福沢諭吉が考えたと言われている(別の説もあるようだが)。しかしそれ以前にも中国語や仏教語として自由という言葉は使われていた。その場合の自由はまさに好き勝手、傍若無人というような意味だったという。

 自由という言葉が単純なものではなく、どこか複雑で分かりづらいところがあるというのは、おそらく人間にとって、いつでもとても欲しいけれど、その実よく考えると雲をつかむようなものであるからかもしれない。
 近代以前の西欧では、自由は特権階級にのみ許されるものだったという。だからこそ近代のスローガンが「自由・平等・友愛(博愛)」になったのだろう。特権階級の特権を民衆の手に奪い取るという意味がそこには込められている。それがまさに民主主義だったのだ。
(当ブログでは以前に「自由・平等・博愛」について考察しているので、もしお暇ならそちらもご一読いただきたい。2014/7/11『自由、平等、博愛』http://blog.goo.ne.jp/zetsubo/e/d5c84f4d4d6dfa7afb1cc194c946f08c

 さて現代日本は自由主義社会である。もちろん自由主義を名乗る国はたくさんある。合衆国も西欧も、アジア、アフリカ、南アメリカでも多くの国が自由主義を掲げている。もっともここで言う「自由」は自由主義経済=資本主義の意味でしかない。それは民衆の人権としての自由とは必ずしも一致しない。
 自由とは何なのだろうか?
 冒頭に紹介したように、自ら自由の象徴であると公言する合衆国の内部にさえ「自由」を掲げ、さらなる「自由」を求める様々な政治潮流が存在している。そこに自由というのものの複雑で難しい性質を見て取ることが出来るだろう。

 あまり思い出したくない苦い想い出なのだけれど、ぼくが左翼党派から逃亡した時、同じ党派の中につきあっている彼女がいた。ぼくはその当時、党による束縛からとにかく逃げたかった。束縛というのは肉体的・物理的なものではない。一般的な党則とか党活動の問題でもなかった。言葉にするのが難しいのだが精神的な檻のようなものに閉じ込められている感じがあって、それに耐えきれなかったのだ。自分が何か考えようとすると、どこかで自分を縛ってしまい、そこから自由に物事が考えられなかった。
 ぼくは彼女に「自由になりたい」と言った。しかし彼女は「党を抜けても自由にはなれない。どの社会にも自由はない」と言った。それはぼくにも分かっていた。しかしぼくは自由になりたかった。
 今でも「自由」という言葉を使うとき、必ずそのやりとりを思い出す。ぼくは自由になったのだろうか。今ぼくは自由なのか。

 スーバーに買い物に行く。とにかくまず探すのは安い品物だ。雑貨は基本的に100円ショップから探し始める。衣類などはまず古着屋を見るし、床屋に行かないで自分で頭を刈っているが、そうもいかないものは今度はアマゾンで格安品を買うことになる。
 そういう品物はかなりのものが輸入品か「ワケあり品」だ。そのからくりは知っている。安い賃金で作られたものだったり、そこには多くのひずみが背景に存在する。格差問題や環境問題などなどである。
 自分が批判してる現代社会の問題にもかかわらず、一方で自分がそうした問題を抱えた商品を買い、その構造を支える一翼になっている。
 本当はそういう商品は買いたくない。しかし買わざるを得ないのだ。正直に言って現在のところ、ぼくにはほとんど収入がない。選択の自由は極端に狭められているのである。
 なるべく各種の社会運動団体や被災地に寄付をしたい。しかしそれもだんだん難しくなってきた。現状では働きに行ったり、ボランティアに行ったするのも簡単ではない。思ったように身動きがとれないという意味でも自由はあまりないと言えるのかもしれない。

 政治的に自由でも、経済的貧困と社会的地位がその人の自由を奪う。そこには世間のしがらみという束縛も加わってくる。
 もちろんヒトがヒトである限り、人間が人間である限り、完全な自由など存在しない。動物としてのヒトには生物学的、生理的限界が存在する。関係概念としての人間には社会の一員として、好むと好まざるとに関わらず社会を支えなくてはならない宿命がある。「自分は自由だ」と思っている人でも意識しないレベルで何かによって束縛されているはずだ。マインド・コントロールだなんだと騒ぐまでもなく、人間は誰しも刷り込まれた倫理観とか宗教とかそうしたものに支配されている。イスラムの女性がヘジャブをかぶるのは彼女たちにとっては権利であり、自分の意志だけれど、他教徒から見たら宗教の束縛が見えるのである(もちろんそれは否定されるべきことでもないが)。

 自分の自由が他者の自由を奪うこともよくあることだ。それこそ日本人が自由に飲み食い出来るのは、世界中の人々から「自由」を収奪してきた結果である。一握りの先進国が世界の富の大半を獲得しているというのはそういうことだ。
 先述した福沢諭吉は、日本にリバティの思想を紹介し根付かせようとした一方で、アジア各国に対しては徹底的に蹂躙し支配しようと考えていた。
参照:『【岩上安身のツイ録】「圧制もまた愉快なるかな」~福沢諭吉の「時事新報」論説を読む 「栄光の明治」の延長としての「暴走の昭和」、そして現代 』http://iwj.co.jp/wj/open/archives/118697

 自由でありたいと思う。それは人間として当然のことだし、限りない自由を手にすることは理想中の理想であろう。しかし、それは不可能なことなのだし、そもそも人間は何が自由で何が自由でないのかさえしばしば分からなくなる。エーリッヒ・フロムの古典的名著『自由から逃走』は、時には人は自由を自ら拒否してしまうことを明らかにした。
 自由はとても難しい。しかしだからこそ自由とは何なのか、何が守られ侵害されてはいけない自由なのか、何が社会が律していかなくてはならない自由なのか、それを考え続けることが重要なのであり、またそうやって考えている自分をさらに一歩引いたところから眺めて、自分を縛っているもの(こと)は何なのかを冷静に理解することが大事だと思うのである。


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あえて朝日にエールを送る

2014年09月12日 10時28分28秒 | Weblog
 朝日新聞の社長が記者会見し、「吉田調書」スクープ記事と「慰安婦」証言記事の問題で、記事を取り消して謝罪し、編集担当取締役の更迭、社長の報酬返納、辞職の示唆をおこなった。
 もちろん誤報は訂正されるべきだし、必要に応じて謝罪もするべきだ。しかし何か今回の「騒動」にはとてもモヤモヤしたものを感じる。

 テレビも新聞各社もこの問題を大々的に報じている。その前から自民党や保守系メディアによる朝日新聞バッシングが過激化していた。朝日はその中で数少なくなったリベラル系メディアとして右翼による包囲網と戦っている印象があったのだが、ついに耐えきれず膝を屈したという感じがする。
 その引き金を引いたのが、例の池上彰氏のコラムの不掲載問題だったのだろう。池上氏は理不尽な右翼とは違う理性的良心的なジャーナリストだ。いわば反右傾化の同じサイドからの批判に対して、それを抹殺するような対応をしたことが、右翼勢力のみならずリベラル派からも、さらには朝日内部からさえ批判される結果となってしまった。

 ただ誤報を無くすことは出来ない。もちろん商業メディアとして売らんがためのセンセーショナルなスクープを狙い、ねつ造に近いことをしてしまったらダメだとは思うが、しかしそれとても各メディアがよくやっていることでもある。
 誤報は文字通り誤りだが、包囲バッシングは政治的圧力である。産経新聞は朝日は影響力のあるメディアだから問題だ、国益を損する悪玉だとさんざんキャンペーンしているが、なぜ朝日が影響力を保つのかと言えば、やはりトータルとして妥当な報道をし続けているからだ。なぜ産経が世界的に影響力のあるメディアになれないのか、しっかり自己検証してみればよい。国益を損するという意味で言えば、レイシズムを煽り、軍事大国化を煽り、警察国家的独裁化を賛美する産経の方がずっと日本の国益を害していると、ぼくは思う。

 ぼくは必ずしも朝日新聞の報道が正しいとか、良いとか思っているわけではない。リベラルと言ってもしょせんは資本主義=保守思想である。現状の日本社会を根本的に変革するような立場ではない。結局いつでも最後は自民党政権に屈してきた。
 しかしその朝日でさえ、ここまで叩かれる時代になったと言うことが気持ち悪い。『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』ではないが、まさにこの数十年の間に、まず極左が、続いて既成左翼が、そしてついにリベラルまでが排除される空気になってきた。君が代を歌わない教師が排除されたり、政権中枢の人物が「ナチスに見習え」とばかりの発言をしたり、秘密法が成立したり、ネオナチのサイトに自民党幹部の写真が掲載されたり、靖国参拝の支持者がじわじわ増え、ヘイトスピーチが堂々とまかり通る。
 こんな状況を、日本を「奪い返した」安倍政権は、暗い時代を抜けて明るい日差しが射してきたと自画自賛してきた。まるでレニ・リーフェンシュタールのナチス賛美映画を見ているかのような悪夢的な気分がする(レニは好きだけど…)。

 こうした「事件」を通じて朝日新聞がより右傾化していくとしたら、本当に日本はより危険な状況に入っていくだろう。あえて朝日が権力と右翼によるバッシングに負けないようエールを送りたいと思う。
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もうひとつのガザ~岩上氏のウクライナ状勢分析

2014年09月11日 11時05分32秒 | Weblog
 IWJの岩上安身氏がウクライナ状勢について、ウクライナ新政府=アメリカの立場に偏ったメディアの報道を痛烈に批判している。
 もちろん岩上氏もロシアが正義の味方であると思っているわけではないだろうが、しかし事態を冷静に公平に考えない限り問題解決の糸口は見えなくなってしまう。その結果、悲惨な目にあい続けるのは一般庶民なのだ。
 いまドネツクやルガンスクは、ガザのような状態に陥っているという。我々にとってまず必要なことは知ることであり、誰の言葉にも無批判に流されることなく自分の頭で考えることだと思う。
 その参考のために以下の記事を紹介しておきたい。

【岩上安身のニュースのトリセツ】「ロシア軍による国境侵犯、ウクライナ軍が撃破!」とポロシェンコ大統領の「から騒ぎ」~ウクライナと西側総ぐるみの「8.15虚報!?」とその後の「だんまり」(前編)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/165271

【岩上安身のニュースのトリセツ】「ロシア軍による国境侵犯、ウクライナ軍が撃破!」とポロシェンコ大統領の「から騒ぎ」~ウクライナと西側総ぐるみの「8.15虚報!?」とその後の「だんまり」(中編)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/168218



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今日のネット署名

2014年09月11日 09時05分10秒 | Weblog
 毎度のことだが、ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

イスラエルはガザ封鎖の完全解除を!
AMNESTY INTERNATIONAL


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極右シスターズは「トンデモ」の香り

2014年09月11日 00時00分08秒 | Weblog
 安倍自民・極右シスターズとも言うべき、高市早苗総務大臣と稲田朋美政務調査会長が極右団体代表の男と撮ったツーショット写真があって、この団体のホームページに掲載されていたという。海外メディアが問題視している。ちなみに稲田氏と親密な極右・西田昌司議員の写真もあるそうだ。
 先日の「イスラム国」に拘束された青年と田母神俊雄元航空幕僚長の写真の時もそうだったが、政治家側は「ぜんぜん知りません」と繰り返す。まあ本当に知らないこともあるだろう。田中眞紀子前衆議院議員などは選挙応援に行った応援演説の壇上で、その候補者の名前を知らないと公言したことさえある。

 重要な点は、仮に政治家側が相手を知らないとしても、そういう人がその政治家の強力な支持者であるという事実だ。民主主義体制における政治家が有権者の代表であるとするなら、まさにその政治家はその支持者の代弁者である。それは民主主義の大原則だと思うのだが、選挙がお祭り騒ぎの人気投票でしかない我が国のマスコミは、そういうことにとても鈍感だ。ただの軽いスキャンダルで終わらせてしまう。
(ただしこれが左翼であるとなると話は別だ。ただの知り合いだとしても徹底的に叩く)

 それにしてもこの極右団体はなかなか興味深い。「国家社会主義日本労働者党」というナチスを模した党名を名乗っており、主張もファッションもナチスのカリカチュアという感じである。
 反米、反ユダヤ、民族浄化主義を主張しているが、それを取ったら何も残りそうにない。ようするに独自の主張、独自の思想が無いのだ。そもそも党章が鉤十字である。鉤十字の意味は当然ながらキリスト教の十字架だ。この団体はキリスト教なのだろうか。確かにそれなら反ユダヤの「根拠」にはなるが、さらに不思議なことにそれにも関わらずイスラム原理主義を支持しているようにも見える。果たして神道とか天皇との関係はどうなってしまうのだろう。

 例の「イスラム国」に拘束された青年と言い、なんだか「トンデモ」な感じの人々が政治権力の中枢と絡むようになってきた。必ずしも「トンデモ」な人々を排除するべきだとは思わないし、むしろぼくは好きなのだが、こういう事態の広がりはなんとなく政治文化の劣化を感じさせるところがある。
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