ぼくの文章はよくわかりづらいと言われる。理由はわかる。自分でもよくわからないことを書いているからだ。というより書きながら考えているのだ。特にこのブログはそもそもそういうものとして書いている。だから書き始めたときから必ずしも結論が出ているわけではない。
さらに言えば、出来る限り誰の考えにも頼らない、自分自身の内側にある論理で考えようとしている。それは実は自分の奥の奥にある価値観を基盤にするものであって、普段自分が考えたり語ったりしている表面的な価値観や論理とも必ずしも一致しない。それはあるときは直感的であり、また別の場合には緻密に論理的である。
その意味では(ぼくは哲学者ではないが)ぼくの文章はある部分で哲学者の文章と似ているかもしれない。哲学書を読むと頭が痛くなるが、それは哲学者が既存の価値観や論理にとらわれない自分独自の言語(それはつまり思考のことだが)で文章を書こうとしているからだ。
このブログで書くことには、自分の内側でモヤモヤしていることを、なんとか形にしたいというものもある。まさに今回はそうしたテーマなので、おそらくわかりにくい文章になるだろう。またもしあなたが表面的にわかったと思われたとしても、それはぼくの真意とは違っているかもしれない。
先日、自治会の役員と話をする機会があった。ぼくは自治会の役員を批判してもいないし、敵対する気もない。むしろ自治会役員のサポートをする立場にある。その上でのことだが、ある自治会の運営上の問題で、法律に違反する可能性のある点について指摘した。
相手は自分たちの解釈ではその点について自治会は法律の適用外だと考えている、それにその法規を守る能力も財力もないからしかたがない、と言った。そのことで不利益を被る人が出た場合はどうするのかと尋ねたら、それはあきらめてもらうしかないという答えだった。
ぼくは法律の専門家ではないし、確かにグレーゾーンなのかもしれない。正直言ってぼくも自治会には現状で法律を厳密に履行する状況にないこともわかる。またぼくは役員でもないし、おそらくその点について何か言う権利も義務も責任も無いのだろう。
数日前にバス会社の社長が、乗客を乗せない観光バスを運転中に、高速道路で事故を起こした。居眠り運転で中央分離帯を乗り越え反対車線を逆走する形になったのだ。幸い死者は出なかったが複数の車を巻き込んだ。実はこの社長はこの事故を起こす数時間前にも別の接触事故を起こしていたという。
この社長はワンマン社長で、報道によれば従業員はとてもついて行けず皆やめてしまったのだそうだ。まわりの人たちが忠告しても他人にとやかく言われる筋合いはないと突っぱねていたという。自分のやり方を押し通した挙げ句の事故だった。
ずっと以前、NPO法人で活動していたとき、ある契約の業務の中で軽微な契約違反があった。いわばちょっとしたミスと言っても良かったが、NPO法人の理事長はそれをごまかすような操作をした。ぼくはその点について、それでよいのかと一回だけ確認したが、そのワンマンな理事長はそんなことで文句を言われる筋合いはない、契約元から何か言われたら言い返してやると言った。ぼくはそれ以上なにも言わなかったし、当然ながらその後も何の問題にもならなかった。
一週間前に、韓国史上最悪と言われるフェリーの転覆・沈没事故が起きた。おそらく300人前後の人が犠牲になったと推察される。原因の一つは規定の四倍近い過積載で船体が非常に不安定だったことだと言われている。さらに船長が高齢の契約社員だったとか、機関士が航海士の命令とは違う過った操作をしたとか、操舵装置の電気系統に故障があったのが放置されていたのではないかとか、いろいろ言われている。ただ韓国では船舶の過積載はあまり厳しく取り締まられることはなく、一般的に常態化しているという報道もある。
特に問題となっているのは船長、航海士、機関士らが乗客の救助をせず自分たちだけが先に逃げたことで、船長は殺人罪にも問われているという。
そんな中で、20数人のクルーの中でただひとり犠牲になったのは、女子大生のアルバイト従業員で、彼女はクルーとしてはたったひとりライフジャケットを配って回り、脱出を断って最後まで乗客を避難させようとしていたという。
ぼくは20年以上前に、ある温泉ホテルで住み込みのフロントマンをやっていたことがある。今ではすでにそのホテルは倒産し、経営者は破産し、ホテル自体は廃墟になっていると聞く。
ホテル規模はそれなりに大きく数百人が宿泊していたが、増改築を繰り返して一部は迷路のような状態になっていた。このホテルではいろいろ非常識なことを経験したが、防災訓練もちゃんとやった記憶がない。全くやらなかったわけではなかったと思うが、たとえば夜間に突然火災が起きるなどという想定は全くされていなかった。
だいたい夜は夜警と呼ばれる老人が二~三人でフロントを担当していた。彼らの中には足が悪い者もいた。とても機敏に対処できるようには見えなかった。
ぼく自身はホテルの敷地内に建てられたバラックのような宿舎に住んでいたのだが、災害の発生時に何をしろと言われていたわけでもなく、正直言って夜の火事など起こったらどうしてよいかわからずにパニックになっていた可能性が高い。どこまでが自分の責任なのか、何をするべきで何をするべきでないのかなど、全く考えていなかったとおもう。
よく交通警察の取り締まりをねずみ取りなどと呼んで嫌悪する人がいる。そのくらい速度違反は常態化し普通のことになっている。むしろ法定速度を守る人が批判されるくらいだ。
横断歩道というものがある。本来なら歩行者が優先的に道路を横断するための場所だ。自動車の運転者は横断歩道わきにいて横断しようとしていたら停車することになっている。しかし実態として横断歩道で止まるクルマはめったにいない。歩行者は横断歩道であるにもかかわらず、じっとクルマの途切れるのを待ち、いそいで道路を渡る。それなら横断歩道など無くても同じようなものだが、もし横断歩道以外で歩行者が道路を渡って事故にあったら、責任は歩行者側にあるということになってしまう。何かが歪んでいる。
少し前まで飲酒運転は当たり前に行われていた。今でも実態は大して変わっていないだろうが、罰則が強化されたり、マスコミのキャンペーンなどがあって、露骨に公然とやれない雰囲気になってきた。いつかは速度超過や横断歩道での非停車も同じように「やってはいけない犯罪」になるだろうか。
憲法では軍隊の非保持と戦争の放棄が明確に規定されている。しかし現実には世界最高水準の軍隊が世界中の戦地に展開している。だんだんと、それを指摘し批判することさえ(つまり自分の国の憲法を守れと主張することさえ)反体制的行為とされるようになってきた。激しく歪んだ状況だ。しかもそれを多くの人が黙って看過している。
ぼくたちは日々目にしている様々な出来事やニュースを、あるときは身近に、あるときは遠くに感じる。遠くにあるものは簡単に批判したり評価したりできる。気楽に韓国フェリーの船長や社長を批判し、アルバイトの女子学生を讃えたりする。
しかし実は次の瞬間に自分が同じ立場に立たされるかもしれないとは思いもしない。自分が働いている職場でまさか火事が起きるなどとは考えもしない。ましてやそのとき自分がどうするのか想像もできないだろう。
しかし、本当を言えばそれはそうした極限状況に置かれる前にすべての根源がある。何かが起こる前に、火事への備えはどうなっているのか周囲に問いかけるべきだったのだ。おそらく、そんなことは起こるはずがない、そういわれても今は何もやれない、誰だってどこだって同じようにほったらかしているはずだ、という答えが返ってくるだろう。その時あなたは、確かにそうだなと思う。それ以上は追求しない。人間というのはそういうものだ。
だが、それはやがて自分に降りかかってくるかもしれない。あなたが思いもしないところで責任を問われることになるかもしれない。もちろんそうでないかもしれない。それでもそれは本当にあなたに関係ないことなのか、責任がないことなのか。
逆に言えば、この世界に自分に関係のないことなどあるのか。責任のないことなどあるのか。世界は全てつながっており、そしてあなたはその世界を構成する一人なのだから。
さらに言えば、出来る限り誰の考えにも頼らない、自分自身の内側にある論理で考えようとしている。それは実は自分の奥の奥にある価値観を基盤にするものであって、普段自分が考えたり語ったりしている表面的な価値観や論理とも必ずしも一致しない。それはあるときは直感的であり、また別の場合には緻密に論理的である。
その意味では(ぼくは哲学者ではないが)ぼくの文章はある部分で哲学者の文章と似ているかもしれない。哲学書を読むと頭が痛くなるが、それは哲学者が既存の価値観や論理にとらわれない自分独自の言語(それはつまり思考のことだが)で文章を書こうとしているからだ。
このブログで書くことには、自分の内側でモヤモヤしていることを、なんとか形にしたいというものもある。まさに今回はそうしたテーマなので、おそらくわかりにくい文章になるだろう。またもしあなたが表面的にわかったと思われたとしても、それはぼくの真意とは違っているかもしれない。
先日、自治会の役員と話をする機会があった。ぼくは自治会の役員を批判してもいないし、敵対する気もない。むしろ自治会役員のサポートをする立場にある。その上でのことだが、ある自治会の運営上の問題で、法律に違反する可能性のある点について指摘した。
相手は自分たちの解釈ではその点について自治会は法律の適用外だと考えている、それにその法規を守る能力も財力もないからしかたがない、と言った。そのことで不利益を被る人が出た場合はどうするのかと尋ねたら、それはあきらめてもらうしかないという答えだった。
ぼくは法律の専門家ではないし、確かにグレーゾーンなのかもしれない。正直言ってぼくも自治会には現状で法律を厳密に履行する状況にないこともわかる。またぼくは役員でもないし、おそらくその点について何か言う権利も義務も責任も無いのだろう。
数日前にバス会社の社長が、乗客を乗せない観光バスを運転中に、高速道路で事故を起こした。居眠り運転で中央分離帯を乗り越え反対車線を逆走する形になったのだ。幸い死者は出なかったが複数の車を巻き込んだ。実はこの社長はこの事故を起こす数時間前にも別の接触事故を起こしていたという。
この社長はワンマン社長で、報道によれば従業員はとてもついて行けず皆やめてしまったのだそうだ。まわりの人たちが忠告しても他人にとやかく言われる筋合いはないと突っぱねていたという。自分のやり方を押し通した挙げ句の事故だった。
ずっと以前、NPO法人で活動していたとき、ある契約の業務の中で軽微な契約違反があった。いわばちょっとしたミスと言っても良かったが、NPO法人の理事長はそれをごまかすような操作をした。ぼくはその点について、それでよいのかと一回だけ確認したが、そのワンマンな理事長はそんなことで文句を言われる筋合いはない、契約元から何か言われたら言い返してやると言った。ぼくはそれ以上なにも言わなかったし、当然ながらその後も何の問題にもならなかった。
一週間前に、韓国史上最悪と言われるフェリーの転覆・沈没事故が起きた。おそらく300人前後の人が犠牲になったと推察される。原因の一つは規定の四倍近い過積載で船体が非常に不安定だったことだと言われている。さらに船長が高齢の契約社員だったとか、機関士が航海士の命令とは違う過った操作をしたとか、操舵装置の電気系統に故障があったのが放置されていたのではないかとか、いろいろ言われている。ただ韓国では船舶の過積載はあまり厳しく取り締まられることはなく、一般的に常態化しているという報道もある。
特に問題となっているのは船長、航海士、機関士らが乗客の救助をせず自分たちだけが先に逃げたことで、船長は殺人罪にも問われているという。
そんな中で、20数人のクルーの中でただひとり犠牲になったのは、女子大生のアルバイト従業員で、彼女はクルーとしてはたったひとりライフジャケットを配って回り、脱出を断って最後まで乗客を避難させようとしていたという。
ぼくは20年以上前に、ある温泉ホテルで住み込みのフロントマンをやっていたことがある。今ではすでにそのホテルは倒産し、経営者は破産し、ホテル自体は廃墟になっていると聞く。
ホテル規模はそれなりに大きく数百人が宿泊していたが、増改築を繰り返して一部は迷路のような状態になっていた。このホテルではいろいろ非常識なことを経験したが、防災訓練もちゃんとやった記憶がない。全くやらなかったわけではなかったと思うが、たとえば夜間に突然火災が起きるなどという想定は全くされていなかった。
だいたい夜は夜警と呼ばれる老人が二~三人でフロントを担当していた。彼らの中には足が悪い者もいた。とても機敏に対処できるようには見えなかった。
ぼく自身はホテルの敷地内に建てられたバラックのような宿舎に住んでいたのだが、災害の発生時に何をしろと言われていたわけでもなく、正直言って夜の火事など起こったらどうしてよいかわからずにパニックになっていた可能性が高い。どこまでが自分の責任なのか、何をするべきで何をするべきでないのかなど、全く考えていなかったとおもう。
よく交通警察の取り締まりをねずみ取りなどと呼んで嫌悪する人がいる。そのくらい速度違反は常態化し普通のことになっている。むしろ法定速度を守る人が批判されるくらいだ。
横断歩道というものがある。本来なら歩行者が優先的に道路を横断するための場所だ。自動車の運転者は横断歩道わきにいて横断しようとしていたら停車することになっている。しかし実態として横断歩道で止まるクルマはめったにいない。歩行者は横断歩道であるにもかかわらず、じっとクルマの途切れるのを待ち、いそいで道路を渡る。それなら横断歩道など無くても同じようなものだが、もし横断歩道以外で歩行者が道路を渡って事故にあったら、責任は歩行者側にあるということになってしまう。何かが歪んでいる。
少し前まで飲酒運転は当たり前に行われていた。今でも実態は大して変わっていないだろうが、罰則が強化されたり、マスコミのキャンペーンなどがあって、露骨に公然とやれない雰囲気になってきた。いつかは速度超過や横断歩道での非停車も同じように「やってはいけない犯罪」になるだろうか。
憲法では軍隊の非保持と戦争の放棄が明確に規定されている。しかし現実には世界最高水準の軍隊が世界中の戦地に展開している。だんだんと、それを指摘し批判することさえ(つまり自分の国の憲法を守れと主張することさえ)反体制的行為とされるようになってきた。激しく歪んだ状況だ。しかもそれを多くの人が黙って看過している。
ぼくたちは日々目にしている様々な出来事やニュースを、あるときは身近に、あるときは遠くに感じる。遠くにあるものは簡単に批判したり評価したりできる。気楽に韓国フェリーの船長や社長を批判し、アルバイトの女子学生を讃えたりする。
しかし実は次の瞬間に自分が同じ立場に立たされるかもしれないとは思いもしない。自分が働いている職場でまさか火事が起きるなどとは考えもしない。ましてやそのとき自分がどうするのか想像もできないだろう。
しかし、本当を言えばそれはそうした極限状況に置かれる前にすべての根源がある。何かが起こる前に、火事への備えはどうなっているのか周囲に問いかけるべきだったのだ。おそらく、そんなことは起こるはずがない、そういわれても今は何もやれない、誰だってどこだって同じようにほったらかしているはずだ、という答えが返ってくるだろう。その時あなたは、確かにそうだなと思う。それ以上は追求しない。人間というのはそういうものだ。
だが、それはやがて自分に降りかかってくるかもしれない。あなたが思いもしないところで責任を問われることになるかもしれない。もちろんそうでないかもしれない。それでもそれは本当にあなたに関係ないことなのか、責任がないことなのか。
逆に言えば、この世界に自分に関係のないことなどあるのか。責任のないことなどあるのか。世界は全てつながっており、そしてあなたはその世界を構成する一人なのだから。