あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

ビジネスからの解放

2013年08月30日 23時17分20秒 | Weblog
 当然のことながら人類はずっと労働してきた。
 それが人間と他の動物を区別する最大のポイントかもしれない。

 さてその労働は、イコール「ビジネス」ではない。ビジネスで無い労働はたくさんある。その代表的な労働は家事労働だ。家事労働は人間にとって最も基本的な労働で、家事労働の存在しない文化はおそらく無いだろう。もちろん一部の特権的階級が自らはやらないというケースはあるけれど。
 あえて言えば、現代のアメリカの都市生活者の文化からは家事労働が失われつつある。食事は店で買うか食堂で食べる。洗濯はクリーニング屋に頼む。子育てはベビーシッター。掃除は…どうしているか知らないが。つまり資本主義の最先端では、いよいよ家事労働がビジネスに置きかわろうとしているのだ。

 ぼくは20代、正確に言えば10代の終わりから30代の初め頃まで、革命家だった。もちろん革命もビジネスではない。革命運動で飯は食えない。ほんの少しの専従活動家だけが革命運動で給料をもらうことができるだけだ。とは言え、それはほとんど食費と交通費くらいにしかならなかったが。

 革命家はかなり特殊な例だとしても、人類の労働はまず第一にビジネスではなく自分の生活と生存のためのものだっだ。やがて社会が巨大化し分業が複雑化する中で労働は専門化していく。自家消費ではなく交換目的のための労働が主になる。しかしそれでも、それは必ずしもビジネスではなかった。たとえば封建領主の下での農民(農奴)の労働はビジネスとは言えない。

 もう少し言えば、賃金労働者の労働もビジネスではない。労働者は自分の労働力を資本家に売って生きているのだが、その価格は一般的に自分の裁量で決められるものではない。資本の側が決めるのだ。
 資本の側はすべての資本を自分の裁量で好きなように投資できる。と言うよりそれが仕事だ。しかし労働者は資本を持たないから投資は出来ない。労働力を売った代価である賃金は、自分と家族を生きながらえさせるために使ったら無くなってしまう。と言うよりそれが賃金の基準である。

 先日、打ち上げ延期になったイプシロン・ロケットは、日本がロケット・ビジネスに本格的に参入するために開発されたという。
 果たして宇宙開発がビジネスであってよいのだろうか。南極は南極条約に守られていて、原則的にビジネスを展開することは出来ない。ついでに言えば軍事利用も出来ない。(…ことになっている)
 日本の電気事業はビジネスである。その結果、東京電力は放射能汚染の広がりを食い止め、事態を収束させることより、自社の経営を優先せざるを得ない。

 ビジネスは(それはつまりは資本主義はと言うことだが)、科学技術を飛躍的に発展させ、人類にかつてないほどの贅沢な生活を与えた。しかしそれはつまり、かつてない程の格差を生み出し、地球環境を破壊し尽くし、そして人々の心を荒廃させたと言うことでもある。
 労働をビジネスから解放すること。それが次の時代の大きな課題である。

 マルクスとエンゲルスは初期の哲学的研究の時期にこんなことを書いている。

「(共産主義社会では)私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして狩人、漁師、牧人、あるいは批判家にならなくてよい」(「ドイツ・イデオロギー」より)

 もちろんこのワンフレーズだけを持ち出しても正確な意味は伝わらないのだが、とりあえず今は、ここに描かれているビジネスから解放された労働のイメージを感じていただけたらと思う。
 言ってみればこれが、我々自身に「労働を取り戻す」ということである。


世界と「ぼく」

2013年08月29日 22時22分42秒 | Weblog
 ぼくは20代の全部を革命家として生きた。一般的な意味での職業としては学生だったり会社員だったりしたが、自分の本職はずっと革命家だと思っていた。最後は名実ともに本職の革命家になったのだが。
 しかし革命家としての才能は残念ながらほとんど無かった。そして最後には組織から逃げ出した。

 それからの10年は何も出来なかった。もちろん飯を食うための職業には就いていたし、市民運動でボランティアをしたり、少しは政治的な集会やデモにも行った。創作活動をしたり、アーチストのファン活動もした。しかし自分の中では空白の10年である。
 それから後の10年は考え続ける期間だった。長い時間をかけて自分自身の総括をしていたように思う。
 なぜ自分は敗北したのか、自分が闘い続けていたら世界を変えることが出来ただろうか、いったい何が間違っており、何が正しかったのか。

 そうしているうちに世界は激変した。自分が所属していた組織も脱左翼宣言をして革命運動を放棄した。ぼくが最も影響を受けた(とは言え全くの不肖の弟子だったが)指導者も死んでしまった。
 しかし一方、あのころ時間を共有し、ともに日本革命の実現を目指した人々の中には(直接の知り合いではないとしても)いまだに巷間で街頭で、またあるいは獄中で戦い続けている人達がたくさんいる。

 ぼくにとって最大の疑問は、いったい世界を変えることは可能なのだろうかということだ。

 少なくとも、ぼくにもぼくの仲間にも世界を変えることは出来なかった。しかしもちろん歴史を見れば世界中で多くの革命が実現している。だがそうであったとしても、そこにももうひとつ大きな疑問が残る。それは本当に意図した革命だったのだろうかということだ。
 ロシア革命は人類史の大きな希望を一身に受けて成功した。しかしそこに出現したのは人民を抑圧する巨大な秘密警察国家だった。アラブの春で民主化したはずだったエジプトはいつの間にか逆走しているように見える。
 革命ではないけれど、敗戦後の日本は民主主義と平和と自由の国になったはずだった。しかしそれを主導したはずのアメリカは戦争と収奪と抑圧の大国であり、日本はそこにどんどん引きずられ続けている。
 革命の原点は正しかったとしても、それはいつかズレ始め、やがて醜悪な思いもよらない所に落ち込んでしまう。

 ぼくは革命を志していた頃、当然ながら革命の実現を信じていた。自分の生きている間には無理でも、必ず実現するはずだと思っていた。
 よくよく考えてみればその根拠は歴史にあった。どんな国家も政治も思想も経済体制も永久に続いた例は無い。世界は変わる、それは間違いの無い真実である。

 そうだとすれば、つまりはこういうことなのだ。世界は変わるが、思ったように変えることは決して出来ない。
 それは別の言い方をすれば、人間は自分自身をコントロールすることが出来ないということである。この社会は人間自身が作り出したものだが、一度出来てしまった社会は人間の思い通りにはコントロールできない。それは究極的には人間が自分の心をコントロールする強さを持っていないからだ。
 マルクス主義は近代主義であると以前書いたことがあったと思うが、それはまさにマルクスが(実際にはほとんど書いていないのだが)自分の共産主義理論を近代合理主義的に構想していたということである。
 つまり人間は合理的な選択をする、だから人間社会において最も合理的な経済システムである共産主義が実現するのは必然だと考えていたのである。しかし人間はどこまでも非合理的存在だった。必ずしも合理的に正しい結論に到達するわけではない。

 ここから先はまた別の問題になるので、革命論についてこれ以上の追求はやめておくが、いずれにせよ、「ぼくが」世界を変えることなどそもそも出来なかったのである。結論から言えば、自分が思ったような世の中に世界を変えるなどという夢はあきらめなくてはならないのだ。

 しかし。

 あきらめるということは、そんなに悪いことなのだろうか。
 近代主義は合理主義であると同時に実践至上主義でもある。理想よりも実利、夢よりもカネ、学問より実業が賞賛される。マルクスも有名な「フォイエルバッハ・テーゼ」で「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのはそれを変革することである」と実践至上主義を宣言している。
 そうであるがゆえに近代人は「あきらめる」ことができない。実践することだけが唯一の価値基準だから、「やらない」という選択肢は無いのである。

 しかしもちろん人間は現実には常に何かをあきらめて生きている。いつまでも我を張って固執するのは幼児性であり、正しくあきらめられるのが大人である。それなのに現代の日本では「あきらめない」者ばかりが賞賛を受ける。あきらめた者は敗北者だ。
 宗教というものを考えると、多くの宗教が、そして長い歴史を持つ宗教ほど「あきらめる」ことを教えている。仏教にも諦念という教えがある。悟りは諦念である。イエスも磔刑の最後に神に見放されたとあきらめる。
 あきらめることを知らない人類は、まだ幼年期を脱せない。

 世界は変えられないとあきらめることから、新しい見方が生まれる。あきらめたら終わり、ではなく、あきらめることから始まることもある。
 どうせ世界を変えることが出来ないのなら、何も実践的に有効なことだけをする必要はない。
 何をしてもダメなら、逆に考えれば何をしても何を考えても同じだ。それなら何をしても何を考えても良いと言うことになる。
 それならば、自分の思ったことを言い、自分の思ったことをすればよい。そして、そうすべきだと思う。

 今ではほとんど死滅してしまった言葉に「結果より過程が大事」という言葉がある。昔は学校でも家庭でも職場でも、どこでも普通に言われていた。いつの間にか「過程はどうでも良い。結果を出せ」に変わってしまったのだが。
 もちろんこの言葉は現実とは矛盾していた。いくら過程が大事と言っても求められることは常に結果だったからだ。しかし、結果は結果でしかなく、どうなっても仕方がないとあきらめることが出来るなら、この言葉は強い説得力を持つ。

 人生の目的は何かを成し遂げることではなく、どんな生き方(=過程)をするかである。人間は必ず死ぬ。いわば人間の結末は「死」だとあらかじめ決まっている。ぼくは唯物論者だから神も死後の世界も信じない。だから死は無である。それはとりわけて良い事ではないが、別に悪いことでもない。ただそうだと言うだけのことだ。
 何をしたって結論が無であるなら、無なんだと「あきらめる」ことができるなら、問題になるのは結論ではなく過程だけになる。結果ではなく、いま生きているこの瞬間に、自分らしく生きられるかどうかが唯一の問題になる。

 こう言うと、また別の疑問が生じるだろう。
 それなら自分の好きなように、自分勝手に、他人の迷惑など気にしないで、面白おかしく生きればよいのかと。
 ここに出てくるのが思想の問題である。

 自分の好きなように生きろ、と言われたとき、好き勝手に面白おかしくやるというのも、ひとつのその人の思想である。しかし、誰でも、どの時代、どの場所でも、人がそう思うわけではないはずだ。あえて極論すれば、好き勝手に面白おかしく生きるという思想は、典型的な近代個人主義的発想である。「どこで何をしていても神が見ている」と考える人は、好き勝手に生きたいと単純には思わないだろう。
 だから問題なのは、その人がどういう思想を持つかということだ。

 世界を変えることは出来ない、世界は変わるだけだ、と書いた。
 しかしそれでも世界を変えるのは人間である。自分の思ったようにすることは出来ないが、やはり人間社会を変える力は人間自身だ。それではその力の源は何か。思想である。(正確に言えば宗教なのだが、この話はまた別論になるのでここでは割愛する)
 世界を変えるのは人間自身というよりも、人間が生み出す世界思想の力なのだと思う。

 人間は結果に縛られずに自由に生きることが出来るし、生きるべきだ。しかし自由とはただの身勝手ではない。それは自由に発想し自由に考えることであり、思想を獲得する自由であり、その思想に従って生きる自由である。
 そのようにして人々が生き、考え、行動するる中で、世界を脱皮させることのできる次の思想が醸成されていき、やがてそれが広がりきったところで初めて「革命」が実現する。
 「ぼく(たち)」には世界を変えることは出来ないが、しかし世界を変える要素になることは出来る。ぼくは今そう考えている。



ビジネスが印籠になった理由

2013年08月28日 23時09分57秒 | Weblog
 現在でこそビジネスは錦の御旗になっているが、それはかなり限定された期間だけの話である。
 封建時代には商売は下賎なものだったし、金融ビジネス、すなわち金貸しはいつの時代でもたいてい悪者に見られた。「ベニスの商人」のシャイロックが典型である。
 日本でもおおっぴらに金儲けが一番でしょと言えるようになったのは、バブル崩壊後のことだと思う。新自由主義、小泉改革、ホリエモン、村上ファンドなどがそのキーワードである。

 それはもう一方で「官は悪、民は正義」の風潮とも重なるところがある。なんでもかんでも民営化が良いのだという論調は、どんどん強くなり、これだけ世の中が荒廃してもなお、「官より民」と主張する人がいる。
 余談だが、「官は悪、民は正義」という方向性は政府と自民党が作ったものだ。ようするに左派潰しキャンペーンである。というのは、かつて労働組合が今よりもしっかりしていて、資本と労働者が正面から戦う構図が出来ていた頃、労働組合の中心、かつ最先頭にいたのが官公労、つまり公務員労働組合だったからだ。

 資本主義は一番金を儲けた者が正義である。だから採算を考えてはいけない官庁・役所は資本主義にとってジレンマであり、許しがたい存在である。しかし資本家が安心して金儲けできる環境を整え守る機能も絶対に必要であって、その意味で国家や官庁は資本主義における必要悪となるのだ。
 しかしそうだからと言って、それをあからさまに言ってしまうことは長いことタブーであった。なぜなら現実には資本家より労働者、金持ちより貧乏人の方がずっと多いからである。このピラミッド構造は資本主義である以上、絶対に覆せない構造だ。
 だから資本家は労働者に反乱を起こされると大変な危機に陥るので、常に大衆=労働者、貧乏人を懐柔し続けなくてはならない。だから「金を儲けた者が正義だ」などとあからさまに言い放って、庶民の反感をわざわざ買うことはしなかった。
 そうした緊張関係の中で、労働者階級も駆け引きをしながら、自分たちの取り分をより多くすることができた。具体的には賃上げや福祉の充実である。

 しかしそのうちに世界情勢が変わっていく。
 かつて第三世界と呼ばれた開発途上国諸国が、だんだんと権利を主張するようになり、また先進諸国から少しずつ経済的権益を奪い取り始めたのである。
 もはや資本の側には余裕がなくなってきた。国内の労働者を懐柔している間に、入ってくるはずの富がどんどん目減りしてきたのだから。しかし一方で幸運なことに、資本主義にとって最も大きな脅威であった共産主義勢力が自滅、瓦解してくれたのである。ここで資本は開き直る。
 資本主義の勝利を宣言し、資本主義の原理を声高に主張したのである。すなわち「金儲けは正義である」と。ビジネスと言う言葉は水戸黄門の印籠になった。


ビジネスという印籠

2013年08月27日 23時54分45秒 | Weblog
 最近、朝日新聞が「患者紹介ビジネス」キャンペーンをやっている。集中的に一面トップで批判的な暴露記事を掲載しているのだ。
 その詳細についてはググっていただきたいが、やはりこの社会がどこかで歪んでいるということが、こういう風に所々で起こる噴出でわかると思う。

 ベンチャーとかニュービジネスとかビジネスチャンスとか、隙間産業などという言葉もあるが、いつも何かうさんくさい感じがする。
 多くが、とは言わないが、それでもけっこうな割合で合法と非合法のギリギリと言うか、グレーゾーンを見つけて、そこで大きく儲けようという奴らもいそうである。
 ターゲットの家に行って、ガラクタを置いてくればビジネスだが、言葉だけでカネを取ってくれば犯罪だ。ビジネスと犯罪の境界線は限りなく薄い。

 いま一番賞賛される人間は「無から有を生む人間」である。何も無いところからカネを生み出そうという発想である。
 2ちゃんねるの「元管理人」ひろゆき氏が、現在も実質的な2ちゃんねるのオーナーであると認定され、税務当局から重加算税を課税されていたことが発覚したが、彼などは究極の「無から有」ビジネスであろう。

 こうした「ビジネス」は、また一方でいわゆるブラック企業化する。「有から有」のビジネスであっても、最初の「有」を出来る限り「無」に近づけようとするのである。

 困ったことに、しかしこれらは資本主義システムの基本原理でもあるのだ。
 とりわけ金融資本主義は文字通り「無から有」を生む文化である。ただカネを動かすだけでカネが生まれてしまう錬金術を基盤にしているのだ。

 誰が作っている風潮か知らないが、いまや「ビジネス」という言葉は錦の御旗であり、水戸黄門の印籠である。それをふりかざせば全ての人が地にひれ伏す。
 しかし「ビジネス」も資本主義も、本質的には人間社会を維持し動かすためのシステムではないのか? そこが転倒しているから社会が大きく歪むのではないのか。


朝鮮人虐殺から差別を思う

2013年08月26日 23時36分39秒 | Weblog
 スーパーに行ったら防災コーナーが出来ていた。それでそう言えばもうすぐ9月1日なんだなあと思った。
 一応うちでも備蓄食料を用意しているが、賞味期限があるので時々は入れ替えをしないといけない。しかしこれがついつい忘れてしまう。そこで、目標として年二回、3月と9月に点検と入れ替えをすると決めた。どちらも防災用品の売り出し月だからだ。

 母の出身は新宿の角筈で、今のヨドバシカメラの本店があるあたりらしいが、生まれたのは大正13年だから関東大震災の翌年である。震災の時、母の母は、母の上に生まれていた子供を抱いてハンモックの下に逃げたという。幸い家は壊れなかったが、その後、昭和20年頃になると空襲が激しくなり、延焼を食い止める間引きのためにみんなで縄で引っ張って壊されてしまったそうだ。

 関東大震災の悲劇と言えば、甘粕事件や亀戸事件、そして朝鮮人虐殺を思い出す。
 甘粕・亀戸事件は、軍もしくは警察が大杉栄などのアナキストや社会主義者を大震災の混乱に乗じて密かに虐殺した事件だ。事件の真相は明らかになっていない。
 一方の朝鮮人虐殺はもっとわからない。当時日本にいた朝鮮人が、放火、強姦、殺人、井戸への毒の投入、暴動などを起こしているというデマが流れ、多くの朝鮮人や朝鮮人に間違われた日本人が殺された。
 どうやら一番初期の段階では軍や警察はこうしたデマを完全否定していたようだが、後になってニュアンスが変わり、朝鮮人による犯罪が頻発したとも取れる発表になった。殺された人数も警察発表、研究者の推計、また中国や朝鮮・韓国の主張などで大きく違っている。政治的思惑による虚偽発表もあるだろうから中々事実はわからないが、おそらく2500人から7000人くらいの人が殺されたのではないかと思う。
 これらの事件は政治弾圧、思想弾圧であり、またもちろん侵略問題でも民族差別問題でもあるが、同時に被差別問題や障害者差別もからまり、そういう意味からも真相は戦後になってもほとんどが闇の中に消されてしまった。

 ただ甘粕事件や亀戸事件から察せられることは、当時の軍部や警察の中に社会主義運動や労働運動に神経を尖らせ、機会を見つけて運動を壊滅させようと狙っていた部分が確固として存在していたということである。こうした動きはこの後、治安維持法の制定と昭和16年の改訂を経て合法化・日常化していく。しかし公平に言えば、この当時はまだ軍・警内部を含めて社会全体は比較的冷静、穏健で、朝鮮人を群衆から守り保護した警察や軍の施設、指揮官も複数存在した。
 なお、朝鮮人虐殺を実行したのは自警団であり、政府や警察、軍の関わりは無かったというのが、おそらく政府や行政の公式見解であるが、虐殺の犯人とされた自警団や軍関係者などに対する刑は大変に軽く、ほとんどが執行猶予か数年で釈放されている。

 本当のところ何が起きたのか確定できることはほとんど無いのだが、ただ朝鮮人暴動のデマが流れ、それを相当数の人が信じたのは事実だろう。
 それはなぜか?
 そうしたことが起きてもおかしくないと、当時の多くの人々が潜在的に考えていたということである。

 たとえて言えば、いま町行く人に、在日朝鮮人が武装蜂起したと言っても大半の人はリアルには感じないだろう。しかし中国軍が尖閣諸島に上陸したと言ったら本当だと思う人がかなりいると思う。
 つまりデマが真実性を持つのは、人々の中に不安や恐怖、場合によっては切実な希望や願望が存在しているときなのである。関東大震災当時、人々の中には朝鮮人に対する不安や恐怖が渦巻いていたのだ。
 もちろん何も無かったら人は不安や恐怖を感じない。何かがあった。朝鮮人に恨まれる何かがあると感じていた。表向きには言えないこと、と言うより、もしかしたら表層の意識では感じていなかったかもしれないが潜在的に感じていた恐怖感が存在していたのである。

 もちろんぼくにはその当時の人のリアルな感覚はわからない。しかしデマの生まれ方は今でも基本的には変わらない。
 デマはまれに誰かが意図的に作り出し拡散させることもあるだろうが、ほとんどの場合は自然発生的に生まれる。たとえば都市伝説と呼ばれる怪談もデマの一種である。
 最初は事実がある。それは取るに足らないもので、たとえば夜歩いていたら猫の泣き声がしたとか、そんなことから始まるのだ。その話が何人かの伝聞で伝わっていくうち、その話を受け止める人たちの潜在意識にある不安や恐怖もしくは願望が無意識のうちに付け加えられていく。やがて、どこそこでは夜中に不気味な声が聞こえるらしいという風に話が微妙に変形し、やがて因縁話などが付け加えられ、立派な怪談に仕上がっていく。
 話を伝えていく人々に明確な悪意は無い。ただ、人の話を聞いたときに自分なりの受け止め方をして、それをまた別の人に伝えていくだけなのだ。この時の「受け止め方」にその人の不安、恐怖、願望が反映する。

 だから多くの人に共通した不安や恐怖が存在するとき、デマは巨大な話になり広範囲に拡散してしまう。そう考えたとき、関東大震災時の朝鮮人暴動のデマがリアリティを持った背景には、当時の日本人の間に広く強い朝鮮人に対する不安や恐怖があったと考えるのが自然だし、それは裏を返せば日ごろから自分たちが朝鮮人を虐待している、だからいつか復讐されるかもしれないという(潜在的であれ)意識があったのだと言えよう。

 現代において再び、在日朝鮮人が密かに悪事を働いているという「デマ」がインターネットという新しいメディアを通じて広がりつつあるらしい。そしてそれは在特会に象徴される民族差別運動の高まりと連動しているような気がする。
 問題はこうしたデマが本当に広がっていくかどうかである。上述したようにデマが巨大化し広範囲に広がるのは、それだけ多くの人が不安や恐怖を持つということを意味している。デマは言ってみれば人の心の弱いところに侵食してくる悪魔である。本当の自分の目で物事を見ようとしない、見ることのできない人を襲う吸血鬼である。そうやって吸血鬼は増殖し続ける。

 ぼくの父は秋田出身の没落農家の末っ子、母は名古屋と福島の人を両親に持った東京っ子で、いわば普通の日本人だが、ぼくが生まれる頃に世田谷の朝鮮人に引っ越した。理由はただ経済的なものでしかなかったのだが。1950年代当時、朝鮮・韓国人の引き上げが始まっていて、朝鮮人に空き家が増えたせいだったのだろう。
 そういうわけで母の周囲には朝鮮人が沢山いた。特別に仲の良くなった友達もいたらしいが、その人もやがて北朝鮮へ渡ってしまった。
 数年の後に、両親は今度は埼玉県の鳩ヶ谷に引っ越すことになる。これもまた経済的理由であった。とにかく家を借りるのにかなり安かったようだ。

 鳩ヶ谷あたりにも在日朝鮮・韓国人はいた。同級生にもいたと思うが、ぼくは全く気にしなかった、と言うより気づかなかった。しかし後々話を聞くと小学校の中でも民族差別はあったらしい。考えて見れば小学校、中学校と、たぶんアメリカ人との混血の子や性同一障害の子もいたと思うが、そんなことを意識したことがなかった。気が合うか合わないか、ぼくにはそれしかなかった。

 自虐的に言えば、ぼくは「鈍感」なのかもしれない。大人になってからつきあった彼女はとても背の高い子でそれをコンプレックスにしていた。ぼくの方がずっと背が低かったけれど、ぼくはそれも全然気にならなかった。もっとも、同時に周囲から常に服装のセンスがないと言われ続けた。やはり気にならないのである。
 服装の件はともかく(でもないかもしれないが)、ぼくが「鈍感」であれたのは両親のおかげだと思う。両親は民族差別を含めて人間を差別しなかった。母は「天然」でそうだったのだと思うが、満州に行っていた父は意識的に心がけていたのかもしれない。

 ぼくは自分が差別的な人間ではないと言いたいわけではない。自分にもかなり差別的なところがあると気づかされることが度々ある。しかし難しいのは差別というのは差別している側はそれに気づいていないという点である。
 意識的に差別するなどという人はかなり特殊な人だろう。差別と感じずにやるから差別なのである。それが「常識」になってしまう。
 南アフリカにおけるアパルトヘイトも、ナチスドイツにおけるユダヤ人差別も、当時の「国民」にとっては特別なことではなく常識でしかなかったのだろう。しかしそれでもどこかに「間違っている」という意識、いつか逆襲を受けるのではないかという恐怖感は潜在的に存在した。そしてだからこそ、より差別は苛烈になっていった。

 人間が差別に陥るのは、ある種の宿命なのかもしれない。しかしそれを差別と理解する直感や理性も同時に備わっている。少なくとも近代社会を経験した我々はそうした能力を持っている。
 何が差別なのかという質問に答えるのは大変難しい。しかし差別なのかもしれないと気づくヒントはたくさん存在している。一番いけないのは、それと気づきかけたとき、逆に自分に対して「いや、これは差別ではないのだ」と引き戻してしまう心の存在である。なぜこんな気持ちが生じるかと言えば、それを差別と認めてしまうと自分が差別をした人に、悪い人になってしまうからだ。自己否定しなくてはならなくなるからだ。
 そこにその人の人間としての強さが試される。
 ワシントンの桜の木の教訓というのがある。桜の木を切ってしまった非を認め、素直に謝ることこそが本当の勇気だと、この教訓は教えている。出来すぎた話かもしれないが、これは近代人にとって最も重要なモラルであろう。
 自由であるがゆえに自制をしなくてはならない。自由であるがゆえに自己批判的に自分を見直し続けていなくてはならない。

 それを忘れてしまったら、それは近代的個人としてはまったく失格であろう。しかも彼はもはや前近代に戻ることも出来ない。たがの外れた人外、モンスターになってしまうのである。


面倒な関係

2013年08月25日 18時54分33秒 | Weblog
 ものすごく個人的なことなのだが、数日前から母のことで少し問題が起きている。無視しておいてもとりあえず何でもないことなのだが、いろいろ考えていると、悪い方に転がってしまう危険もあるかなとかどんどん深みにはまって行き、とても落着かない。
 家族というのは面倒くさいものだ。

 話は変わるが、先日、愛媛県で女性の遺体が入ったピンクのスーツケースが見つかった事件で女性の48歳の息子が逮捕された。無職だと言われている。男は犯行当日に行きつけのスナックで何か話しをしていたらしいが、近所の人とはほとんど付き合いがなかったという。
 その前に世間が大騒ぎした山口県の小さな村で5人が殺害された事件の犯人は63歳で、こちらも近隣とうまくいっていなかった、と言うよりイジメめの標的にされていたという話もある。
 偶然だと言ってしまえばそれまでだが、この人たちは先ごろ世の中を騒がせた麻生発言の中で批判されていた「50代、60代」の世代である。ちなみに飛び降り自殺して世間を騒然とさせている藤圭子も62歳だった。

 ぼくは密かに「おじさんクライシス」が始まっているのではないかと危惧している。

 ぼく自身がまさにそうなのだが、独身の中高年男性が孤立化する問題について10年以上前から危機感を感じていた。と言うのも周辺に同じような境遇の奴がたくさんいるからだ。
 ぼくは団地に住んでいるのだが、数年前に同じ階段の50歳くらいの独居男性が孤独死していたことがある。その人もお母さんと二人暮らしだったが、その母親が死んで間もなくのことだった。かなりつき合いの悪い人で、住民の中には怒鳴られた人もいたらしい。ぼくもその当人とはたった一回しか顔を合わせたことがなかった。
 ぼくの友人の50代の男性は若い頃からずっと統合失調症で、普通に雇ってももらえないのにも関わらず、制度上の不備から公的支援も受けられないまま老親と暮らしている。他にも、遅い結婚で子供が生まれて家を買った直後、くも膜下出血で3年入院し、失語症や身体麻痺の後遺症が残る中、離婚してひとり子供の養育費と田舎の親の生活費を稼いでいる男とかがいる。

 こうした人たちは明らかな病気が原因で困難な状況に追い込まれたのだが、しかし現実の生活の中では、周囲に嫌われたり、迷惑がられたりしている。統合失調症の症状が出れば被害妄想で近くにいる人を糾弾してしまうし、自殺衝動が出ることもある。失語症の人とコミュニケーションするには忍耐が必要だし、もともとその人の性格が少し弱くて他人に甘える傾向があると、病気の影響もあって特定の人にしつこくつきまとうようになってしまったする。
 まあ一言で言えば周囲の人間にとっては面倒くさい相手になってしまうのだ。多少面倒くさくても若く可愛い女の子なら手を差し伸べようとする人もいるかもしれないが、50を越えたキタナいオヤジでは、積極的に面倒を見てやろうという人はまず現れない。こうして彼らは更に孤立していく。

 以上の例にあげた人たちは不可抗力で周囲から孤立しているのだが、実際には特殊な事情がなくて嫌われるおじさんも多い。市民運動をやっていたころの話だが、熱心に活動する中年のおじさんがいた。工務系の職人だった。ひとつ問題だったのはシモネタ話などをするのが好な人だったのだ。彼の人生の中ではごく普通の冗談だったりするのだが、運動の中心にいたのは皆ちょっと上品な中流階級のご婦人方だったので、この人は相当に嫌われた。もっとも運動内ばかりでなく、家庭においても離婚していたし、娘さんにも嫌われていたようだった。そんな状況でひとり癌にかかった90代のお母さんの面倒をみていた。
 はっきり言って彼はそんなにひどく下品な人ではなかった。ぼくが勤めていた工場だったらむしろ上品と思われたかもしれない。しかしこの人は運動内では相当いづらかったようだ。

 ぼくの周囲には50代独身男性は他にもたくさんいる。必然的に皆一人暮らしか、親と同居しているかだ。そしてかなりの確率で社会的にも孤立ぎみである。
 こうした人たちはやがて独身中年から孤立高齢者になっていく。それを踏まえて、ぼくはかつて独身高齢男性同士で支えあうようなコミュニティを作る必要があると思っていた。理想的にはシェアハウスのようなものがあったら良いと考えていたのだが、現実には構想を立てるところにすらいかなかった。
 そもそもこういう人たちは、孤立していると言っても一応の経済基盤を持っているのだし、他人に干渉されることを強く嫌う人も多い。我が強いというか、一言で言えば気難しいのだ。もちろんだから周囲から嫌われているわけだが。

 かつての社会ではこういう人たちも社会の中に取り込んでいた。会社でも家庭でも、面倒がられ嫌われながらも、周囲の人はそうした人を見捨てられず、万年ヒラ社員とか頑固親父とかとしてあきらめつつ認めていた。
 昭和的世界である。

 昭和と言えば、「『三丁目の夕日』批判」というものが根強くある。ブームとしての「三丁目の夕日」は現実とは違う美化された昭和のイメージでしかなく、現実の昭和の社会は、暗く、汚く、臭く、貧しく、不便でうっとうしい世の中だった。現在の方が決定的に良いと言うのである。
 事実については確かに正しい。昭和は理想の天国ではなかった。多くの人の努力が積み重ねられてきた分、当然現在の方が良くなっていなくてはならない。その意味では「三丁目批判」は間違っていない。
 ただ問題にすべきなのは、価値観が変わってきた、そしてむしろこれからは積極的に変えていかなくてはならないということなのだ。

 たとえば衛生面で言えば現在の日本は大変に清潔な社会になった。しかしそのことがかえって病気に対する抵抗力を失わせたり、アレルギーの原因になっているのではないかという指摘もある。
 食事も西欧化し栄養は豊富になったが、それが肥満や生活習慣病を引き起こしているし、飽食と食品廃棄量の増加はモラルの問題としても大きい。
 交通、通信の充実、24時間の眠らない街は大変便利だが、それが人間のヒトとしての生理を乱したり、労働強化の遠因ともなってストレスが増す社会になったとも言われる。

 つまり20世紀にマイナスの評価しか無かった事象が、21世紀の今日、むしろ評価されるようになってきたのである。極端に言えば、現代の状況からしたら、もっと暗く、汚く、臭く、貧しく、不便でうっとうしい世の中になった方が良いのではないかという価値観の転倒が生まれてきているのである。
 「三丁目の夕日」ブームは単に昭和懐古のノスタルジーだけではなく、そうした価値観の変化を背景にしている側面もあるのだ。

 「『三丁目の夕日』批判」派は、昭和の「人情あふれる濃厚な人間関係」は、むしろ共同体の因習の押し付けと個人の自由への抑圧であると主張する。
 確かにそのとおりだ。多く人々は戦前の「家」制度や世襲、相互監視システムであった「隣組」などに反発し、自由な個人の確立を目指して核家族化へ向かった。やがてそれは核崩壊家庭となり孤族化した。
 それを良しとする思想を必ずしも否定しない。ぼく自身も含めてそれはそれで社会にとって必要な過程であったのだと思う。
 しかし、いよいよそれではやっていけない段階にまで来てしまった。自由な個人であることを求める人間の行動は、ついに社会自体を崩壊させかねない状況を生み出しつつある。

 うっとうしい社会、面倒くさい人間関係も、やはり完全に排除してはならないということに人々は気づき始めた。それが東日本大震災の時に流行した「絆」という言葉に現れている。
 「おじさんクライシス」とは、個々のおじさん達の危機ではない。孤立化したおじさんたちが社会から欠けてしまう、最悪の場合はそうした人たちが暴走してしまうという事態が、社会に大きな損害を与えることになるのだ。

 もちろん単純に「昭和」に戻れと言うのではない。単純に過去に戻るのはただの後退、退化である。衛生、安全、豊かさ、便利さ、自由と個性を徹底的に追求してきた歴史と成果を踏まえた上で、その現状から全く新しい社会へ脱皮していく、弁証法的に言えばアウフヘーベンしていくことが求められている。
 面倒なこと、うっとうしいこと、そうしたマイナスの事をみんなが嫌々ではなく実現できる社会。それは別にそんなにエキセントリックなことではない。今の世の中でも、よろこんでジョギングやダイエットをする人たちは大勢いる。今のところ誰も説得力のある新しい価値観を提示することが出来ていないだけのことだ。もちろんそれが最も難しいことなのだが。

プラスであれマイナスであれ、ゼロよりはましだ

2013年08月21日 23時43分21秒 | Weblog
 先日、飲みすぎたせいか胃が痛くなって胃薬を飲んだ。胃薬というのはかなり難しい薬である。と言うのは胃の症状は単純ではなく、正しい薬を使わないと逆効果になってさえしまうからである。
 そういうわけで、第一類に分類されるH2ブロッカー薬などを除くと、日本で市販されている胃薬は基本的に「効かない」ように設計されているらしい。つまり胃酸の分泌を抑える成分と胃酸を出させる成分の両方が入っていて、「気分」としては何となく効いたように思わせるが、実際にはプラスマイナスゼロになるように作られているのだそうだ。

 実は日本のマスコミも同じように設計されている。不偏不党、中立公正という名の下に、常にバランスを取り、つまりはひとつのポイントを問題にしても、別のポイントでは全く逆の主張をし、すべての問題を矛盾のカオスの中に混ぜ込んでしまうのである。
 このことは何かしらの現場にいればすぐ気づくことだ。よく市民運動をしている人たちはマスコミに取り上げられると喜んだりするのだが、たいていの場合、必ずしっぺ返しを食らう。マスコミは決して市民運動の味方ではないからだ。

 まあ、それはともかく。

 福島原発で大規模な汚染水漏れが発生し、おそらくレベル3以上に指定されるだろう。この問題はその前の地下水流出問題と関連しているかもしれない。つまり参議院選挙を前にして汚染水の海への流出という問題を秘密にしようとしたために、チェックが甘くなったり、もしくは見て見ぬふりをしたりしていて、これだけ流出が大規模になるまで公表できなかった可能性も考えられると思うのだ。
 この事態を受けて、マスコミはまた東電叩きである。当然ではあるのだが、しかしそうやって表面的にもぐら叩きのような批判をしても、本質的な解決になるわけではない。

 原発問題は、わかりにくい言い方かもしれないが、現実的解決が不可能な事象である。どのようなことをやっても解決する方法が無いのだ。不治の病と同じである。いったん罹ってしまったら、あとは進行を遅らせる対処療法しかない。それはつまり原発の即時停止と、核廃棄物の永続管理をするということである。それですら今すぐ死ぬことを回避できるだけで、永久に病と決別することは出来ず、ずっと戦い続けねばならないのだ。
 それこそ中途半端な解決法など何の意味も無いのである。

 マスコミは(マスコミだけと言ったら不公平か。政治家も同じだから)こういう話になるとすぐに、経済より安心・安全が優先だとか言いたがる。しかし話題が次に変わると、今度はいかに景気を回復するのかとか言い始めるのだ。
 経済発展と環境保全は両立しない。
 このあまりにも当たり前の事実をマスコミは絶対に語ろうとしないのだ。そしてこの正反対の問題がまるで両立するかのように、両立することが前提のように語るのである。まさにプラスとマイナスを同時に語ることによって、結局ゼロにしてしまうのだ。

 もちろん、遠い将来、不治の病を治せる画期的な新薬が開発されるかもしれない。核問題を解決する驚異の技術が生まれるかもしれない。同じように環境と経済を両立させることが出来る革命的な手法が編み出されるのかもしれない。
 しかし少なくとも今は、そんな夢のような薬や技術や手法は存在していないのだ。
 今は夢の上に砂上の楼閣を築いているときではない。今はどちらを選択するかギリギリのところで迫られている瞬間である(もちろんもうその限界を過ぎてしまっているのかもしれないが)。
 確かにこの選択はどちらを選んでも大変苦しい。
 だからと言って楽そうな道を探していたら、その間に洪水や土砂崩れに飲み込まれてしまう。なぜなら、そんな道はまだ作られていないからだ。

 マスコミや政治家が相手にしている最も大きな対象は大衆である。
 だから大衆の機嫌を損ねることは言いたくない。耳当たりの良い甘い言葉をささやいていたい。それはそうかもしれないが、そうしたら大衆は本当の厳しい状況に気づかないまま遭難してしまう。

 経済発展の道を捨てれば、確かに困窮が始まるかもしれない。しかし環境を捨てて苦しんで滅ぶよりは、ずっとましなのではないのか。
 現実には存在していない「中国の軍事侵攻」の幻想の危機を煽るより、今現実に直面している本当の危機、本当の苦しみを大衆に突きつけることが、公器としてのマスコミの使命だと思う。

ご老人、御腹召されんことを

2013年08月20日 23時27分29秒 | Weblog
 そういうことが本当に正しいかどうかは別にして、一般的な社会では大きな失敗をしたら責任を取らされる。過失であったとしても損害を与えれば損害賠償を求められるし、組織であれば降格や退職を求められる。

 よく日本では責任があいまいにされると言われるが、ぼくはそれは一面では日本文化の成熟度を示していると思っている。誰かに責任を押し付けると不毛な対立が起こる危険性があるから、あまりシビアにはやらない暗黙のルールが出来たのではないだろうか。
 しかしその代わり、日本では自ら身を引くことが美しいとされる。誰かに責任を問われる前に自分から責任を取るということだ。それが出来る人は有終の美と言われるし、出来ない人は晩節を汚したと言われる。

 この数年の間、おそらく日本ではこれまでに無いくらい多くの組織問題が発生した。スポーツ界でも産業界でも政界でもだ。しかし考えてみると責任者が責任を取って潔く辞めたという例はほとんどないことに気づき、愕然とする。中には責任を取って辞めたはずの人がいつの間にか、しれっと復活していることもある。いちいち名前を挙げていたらきりが無いほどだが、総理大臣などはその最たるものかもしれない。

 右翼はよく美しい日本の伝統を讃えるような印象を受けるが、潔く腹を切る伝統を受け継ぐ気はないのだろうか。今の右翼・極右の状況を見たら三島由紀夫はきっと泣く。そもそも極右的な言葉をもてあそんでいながら、問われたら自分は右翼じゃないとか言いそうなやつらばっかりだし。矜持が無い。

 昨日のテレビのニュースショーで沖縄の漁師が台湾漁船に漁場を荒らされて怒っていた。尖閣問題で中国と台湾の二正面対決を避けたい政府が日台漁業協定を泥縄式に結んだ影響らしい。もちろん尖閣問題をどう解決するかは難しい問題だし、日台協定が締結されること自体は歓迎すべきだが、あまりにも政治家の身勝手で物事が進められている感じがする。
 大体この問題はなぜこんなにもめることになったのか。
 石原慎太郎氏が政界再編をテコにキャスティングヴォートを握り、あわよくば総理大臣に、と画策して、尖閣諸島を都有地にすると騒ぎ始めたのが発端だったのではないか。維新の会の橋下共同代表も全面的に石原氏に責任があると明言している。
 「国士」である石原氏なら当然わかっていると思うが、ここまで問題を大きく複雑にしてしまった責任はきっちり取るべきである。なぜマスコミもネットもその責任を追及しないのか不思議でならない。ご都合主義なのかヘタレなのか。
 もはや時期を失し、晩節を汚しまくっている感が否めないが、石原さん、政治家には大きな責任があるのだということを腑抜けたやつらに示すためにも、一刻も早く御腹召されんことを。切にお願いする次第であります。


「ゲン」まで禁書にして日本を没落させる輩たち

2013年08月19日 23時20分26秒 | Weblog
 松山市がマンガ「はだしのゲン」の小学生への貸し出しを制限していた問題。マスコミ報道では「描写が過激、刺激的」などという見出しになっているが、事実は違う。
 そもそもは、日本軍の描き方が間違っていて子どもに誤った歴史観を植え付けるから、図書館から撤去しろと言う、ばかばかしい市民の陳情から始まった問題なのだ。当然市議会は否決するのだが、なぜかその直後に教育委員会が「描写が過激」という理由を無理やりくっつけて、各学校に閉架式書架にしまいこむよう指示したのである。

 噴飯ものとはこういうことを言うのだろう。
 いったい何十年も原爆問題を継承する名作として評価が固まってきた作品を、いまさら何が過激描写だというのか。ようするに、ここに来て急激に進んでいる教科書への政治的介入の一環なのだ。
 神奈川県教育委員会が県立高校の教科書選定に介入し、検定を合格している日本史教科書を強引にやめさせたり、橋下大阪市長が市立大学の学長選を認めないと言ったり、いったい日本の教育はどうなってしまったのか。時の政権が教育に介入して戦争体制を作ってしまったことを反省し、教育と政治を分離しようとしてきたのが戦後民主主義ではなかったのか。

 右翼は何を求めているのだろう? 子どもを自分たちの思い通りに洗脳したら日本が強い国になるなどと本気で思っているのだろうか。

 最近ビジネス系のネットニュースの記事に「なぜ日本にジョブズのような人物が現れないのか」というような話が載っていた。ぼくは別に和製ジョブズなど出てきて欲しいとは思わないが、その話自体には納得させられるものがあった。つまり日本の教育とアメリカのラーニングは違うというのである。日本の教育はあらかじめ先生が設定している正解を答えられるようにすることを目標にしているが、ラーニングは生徒が自分の頭でユニークな答えを考え出すことに重点が置かれているというのだ。その結果、日本ではイエスマンしか生まれず、新しいことに挑戦し開拓する人が出てこないということらしい。

 もちろんここで言われているラーニングこそ本来の教育であり、かつての日本でもそう思われていた。しかしそうした教育は必然的に現状に対して批判的な視点を持つ子どもを生み出すことになり、権力者にとっては都合が悪かった。そこで1970年代後半から80年代前半にかけて、いわゆる「筑波化」と言われる教育再編が行われ、学生、生徒にモノを考えさせない教育、○×式、選択式の教育が積極的に行われるようになったのだ。そこでは誰かが決めた「正解」を選べる者が勝ち残り、自由でユニークで革新的な発想は禁じられることになった。
 その結果いったい何かおこったのか。それこそ、学力の低下であり、活性化の喪失である。
 ただ唯一、権力者が自分にとって無害だと判断し、若者のエネルギーを政治や体制の問題からそらすために誘導したエンターテインメントの世界でだけは、多くの才能が爆発的に開花し、それが今日の「オタク」文化を発展させた。良かれ悪しかれである、まったくのところ。

 今、右翼が目指していることは、こうした過去の失敗をさらに加速させようとすることでしかない。日本を本当の意味で沈没させようとしているのは、まさに右翼勢力なのである。


誰に対するどういう責任か

2013年08月18日 11時50分57秒 | Weblog
 8月15日に靖国神社を参拝した閣僚のひとりである古屋圭司国家公安委員長兼拉致問題担当相は、「国務大臣 古屋圭司」と記帳、「私費で」玉串料を奉納して、参拝後「よその国から批判とか干渉を受けるものではない」とマスコミに語った。
 靖国問題はあきらかに侵略国家日本を象徴、賛美するエセ宗教施設であり、A級戦犯合祀の後は天皇でさえ事実上その存在を認めていない。
 そうした施設に国家の大臣が堂々と行ってこのような暴言を吐くのは日本の国内外の人々に対する挑発行為と言われても仕方ないだろう。(もっとも本人にとってはそんなことはどうでも良いことなのかもしれない。おそらく靖国が何なのか、戦争が何なのか、本当の国益とは何なのか全く理解していないだろうからである。彼の頭の中にあるのはただ選挙に勝つために必要な保守派の票数だけなのだと思う)

 ただ「よその国から批判とか干渉を受けるものではない」と言い切る以上、古屋氏はたとえば韓国で安重根を神様にしてそれを盛大に祀り上げる行事が行われるようになっても何も言わないであろう。自民党極右にしては寛大な方である。本当にもう今後絶対に他国のことに口を挟むんじゃねえぞ。

 政治家もマスコミも靖国参拝は心の問題だと言う。心の問題ならあえて形にする必要は無いではないか。誰にも気づかれないように日付をずらして隠れて参拝すればよい。なんとなれば靖国に行かなくても戦死者を弔うことは出来る。実際に日本中で多くの人が誰のためでもなく故人のためにひっそりとその霊を弔っているはずだ。
 何を言おうが、政治家が8月15日に派手に靖国を参拝するのはただのパフォーマンスであり、そのどこにも誠心など無いと断言する。

 安倍首相が今年の戦没者追悼式典でアジアへの加害責任問題に言及しなかった背景には、敗戦70年に「未来志向」の新たな首相談話を発表するための布石なのだという。
 右派にはアジア諸国に対して「いったいいつまで謝ればいいんだ」という苛立ちがあると言われる。それならぼくが答えてやろう。永久にだ!

 ここで話は唐突に変わって申し訳ないが、ある殺人事件について思い出して欲しい。とは言ってもそれは特定の現実の事件でなくても良い。なんならたとえ話と考えてもらっても良い。
 若い母親と生まれて間もない子供が家にいるところに、突然ひとりの少年が押し入り、何の落ち度も無い母子を惨殺して逃げるという事件が起こった。逮捕された少年は凶悪性が高いため裁判にかけられたが、一貫して反省の弁を述べ、判決は無期懲役となった。
 ところがその後、その少年が外部に書いた手紙が明らかになった。手紙には「欲望を抑えることができないので犯罪を起こしたのはしかたがなかった」「無期懲役とは言っても、どうせ7年くらいで出られるさ」といった内容のことが書いてあって、世間は騒然となった。
 少年は上級審で死刑判決を受け、それが確定した。

 ぼく自身は死刑制度に反対する立場から少年への死刑には反対する。また裁判のやり方についても疑義を持っている。しかし少年の罪が重いことは間違いないし、相当な刑罰が与えられて当然だと思う。
 しかし右翼の言っていることは、この少年を許してやれと言っているのと等しい。

 本人は少なくとも表向きずっと反省していると言いつづけている。しかし裏に回って自分の身内、友達には、本当は俺は悪くないと言い、そのうちほとぼりが冷めるのを待っていた。こういう少年に対して、いつまで非難するんだ、もう時間がたったのだから許してやれとは言いづらい。
 ぼくは必ずしもそうは思わないが、もし本当に反省していたとしても許せないと思う人も沢山いるだろう。ましてや少年は本心から反省してさえいないのだ。ここで誰が許せるだろう。そもそも少年の側から「いつまで責められなければならないのだ」と文句を言うなどもっての他と言われるのではないのか。許されるときが来るとしたら、それは少年の都合ではなく、被害者や社会の気持ち、考え方によるしかない。

 それはそのまま戦争の加害責任と重なる問題だ。たとえば百歩譲ってアメリカに対してなら経済封鎖をされた仕返しだと言えるかもしれない。しかし中国や朝鮮は日本に攻めてきたわけでもなく、日本の側が(もう少し公正に言えと言うなら列強各国が)一方的に攻めたのである。
 「悪いことをしたのは俺だけじゃない」と言うなら、アメリカにこそ言え。中国や韓国に言うのは全くの完全な筋違いである。

 前回のブログを書いてから気になって調べたことがある。そもそも8月15日は何の日なのか。ぼくは全く不見識にも「終戦の日」だとばかり思っていた。そうではない。政府が決めているのは「戦没者を追悼し平和を祈念する日」なのである。
 戦没者と言えば一般には戦死者のことである。戦死者と言うならそれはまず第一に戦闘で死んだ戦闘員のことである。
 ここがそもそもの間違いなのではないだろうか。なぜ8月15日が「戦争被害者を追悼する日」でなかったのか。戦争に関して一番はじめに謝罪し追悼しなくてはならないのは、何の罪も無く巻き込まれた一般人であろう。そしてそれは、国籍を問わず悼まれなくてはならない。
 日常の中でなんとなく見過ごしていることを、もっと丁寧に考えていかなくてはならないと思った。

戦没者に感謝してよいのか

2013年08月17日 18時20分08秒 | Weblog
 今年の8月15日も靖国神社前などで騒然としたが、極右・安倍政権の成立、中韓の激しい反発という背景を考えると、マスコミの取り上げ方はかなりあっさりしていたのではないかという気がする。
 安倍首相は全国戦没者追悼式の式辞ではじめて「不戦の誓い」も「アジアへの加害」への言及もせず、自らの政治姿勢をはっきり示した。本人は当日に靖国神社を参拝しなかったけれど、閣僚や国会議員は例年通り大挙して押しかけたし、安倍氏が言外に「あくまでポーズです」と言っているのは明らかだろう。

 安倍氏の式辞は、言うべきことを言わなかった点をのぞけば、広島・長崎と同様、「美しい」決まり文句を並べただけだったとも言えるが、たとえばその中にこんな一節がある。

「いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命をささげられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。
「御霊を悼んで平和を祈り、感謝をささげるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、しばし瞑目し、静かに頭を垂れたいと思います」

 こういう言葉は右翼が好んで使いたがる。まあ右翼ばかりでなくリベラルの人も好きだろうが。しかしどうにもこの言葉がひっかかる。

 それこそ橋下氏が好きな国語読解力で読み解けば、これは戦没者への感謝の言葉である。なぜ感謝するのかと言えば、その犠牲のおかげで今の平和と繁栄があるからだ。
 では現在、平和と繁栄が無かったら感謝しないのだろうか? 感謝しないのであろう。何が変かと言うとこの「感謝」という言葉が変なのである。

 なぜ犠牲者に感謝するのか。もちろん感謝してはいけないと言っているのではない。そもそも犠牲とは自分たちのために誰か(なにか)をイケニエにすることである。ナザレのイエスは人類のための生贄になったからキリストとされたのだ。
 たしかに日航機墜落事故の犠牲者も東日本大震災の犠牲者も、われわれが安全に暮らす引き換えとしての犠牲だったのかもしれない。

 しかし犠牲者の側からしたら、何で俺がお前のための犠牲にならなきゃいけなかったんだ、と言うことになるのではないだろうか。もちろんそうなると「犠牲者」という言葉自体が問題なのかもしれない。ただ今はとりあえず文脈において考えてみよう。

 同じようなことが自衛隊に対しても言われることがある。
 自衛隊員は身を挺して日本を守ってくれているんだから感謝せよと。
 そういう人たちは自衛隊員に何を期待しているのか。自分のために自分を守るために死んでくれることを期待しているのか。そうして感謝して最大限の敬意を払って憲法で禁止されている海外での戦闘に送り出しているのか。
 もし何かを守りたいんだったら、まず自分が先頭になって行け。自分は安全なところで感謝しながら、自衛隊員には死んでもらおうというのは許さない。新大久保あたりで関係ない市井の人たちに罵声を浴びせるくらいなら、どこでも好きな戦地に突撃して一番最初に死んでみろ。

 死者を悼むのはその人の死を悲しむためである。感謝するのは自分のためである。
 もちろん火災現場で消防隊員に命を救われたのなら素直に感謝してよいだろう。しかし、しなくてよい、するべきでなかった戦争に自分の意思でなく強制的に召集されて戦死してしまった人に、われわれは勝手に感謝してよいのだろうか? それはむしろ死者をさらに傷つけることになるのではないだろうか?

天皇と天皇制への視点(2)~抹消はできない

2013年08月15日 00時00分06秒 | Weblog
 戦時中の子どもたちは、どんなに不利な状況になっても最後に神風が吹いて必ず日本が勝つと教え込まれた。多くの子どもたちは素直にそれを信じたことだろう。
 ある都市伝説によると、実際に神風は吹いたのだと言う。1945年8月15日に日本が無条件降伏したとき、ちょうど大型台風が日本列島に接近していた。そのために日本占領のために待機していた米軍の本土上陸は数日間延期になる。この数日間の猶予があったために、日本人は敗戦と敵国軍の進駐に対して冷静になれて、パニックを起こすことなく、大きな混乱も無く平和的に占領期を受け入れることが出来たというのである。
 自分で調べたわけではないので、真偽のほどはわからないが、少なくとも日本を勝利させるほどの神風ではなかったようだ。日本は選ばれた神国ではなく、天皇は神ではなく、ただの普通の国でしかなかった日本は必然的に負けた。

 日本の敗戦と米軍による占領、そして米国主導の新憲法策定という戦後史をどう評価するか、もちろん今でも多くの論争が繰り広げられる問題であるが、戦後の混乱という視点から見たとき、米軍のイラク侵攻とフセイン処刑、その後現在に至るまで収まらない混乱に比べれば、日本の敗戦はまだずっと楽だった(あくまで比較としてだが)と言える。。
 その要因のひとつは天皇の戦争責任問題回避に象徴されるような、戦争指導者への責任追及と処罰をかなり恣意的に軽くした点にあるだろう。ちょうど公開中の映画「終戦のエンペラー」が描いている問題である。
 もちろんそれは日本占領策を含めた米国の極東戦略において、最も米国に有利な道を選んだ結果であることは間違いないが、理論的、倫理的、感情的批判は当然あるとしても、結果としてそれが当時の一般の日本人にとっても一番苦痛を感じない政策だったと、ぼくには思えるのだ。
 もちろん長い目で見れば、このことが70年近くたった今でも多くの問題を積み残すことになった原因でもあるが。

 天皇を処分も廃止もせずに残したことが、少なからぬ日本人にとって結果的に苦痛をやわらげた(もちろん反対に苦痛が増した人もいるわけだが)という敗戦後の光景を思うとき、このこととどこかで微妙にダブってしまう光景が2年前にも見られた。
 東日本大震災で被災地に天皇・皇后が行幸した光景である。打ちのめされた被災者を政治家や行政は救うことが出来なかった。それはカネやモノだけでは解決しない問題だったからだ(とは言っても、それ自体も圧倒的に少なかったし、今もって少ないままだが)。その時、天皇が被災者の前に登場し膝を付くことによって、救われたと思った被災者が事実として存在したのである。
 もちろん反天皇制の視点から批判するべき点はたくさんあるし、当然そうした批判は数多くなされている。それはもちろん間違ってはいないが、しかし現実の問題として、いま天皇を必要とする人たちから天皇を奪うことは(いろいろな意味において)できないことなのである。

 天皇を国家機関、国家装置として認める、存続させることの是非とは別に、個々人の(広い意味での)信仰の対象たる天皇を抹消することは、好むと好まざるとに関わらず事実上不可能である。
 天皇問題を論じるとき、このナイーブな問題を考慮しない論議は、不要な混乱と対立を生む原因になるだろう。


成熟か衰退か~20世紀は折り返し点か通過点か~(下)

2013年08月14日 00時00分45秒 | Weblog
 技術論的に考えると20世紀で最も重要な技術的「発展」は、言うまでもなく核技術の開発である。これは人類の技術史の上でまさに画期的事件であり革命であった。
 以前のブログで使った言葉で言えば核技術は技術万能神話体系の最後の一章である。まさに夢の永久機関として登場し、永久に消えずに人を襲い続ける悪魔と化した。

 人類が使うエネルギーの大半は基本的に天体エネルギーである。圧倒的な大部分は太陽による。樹木は太陽の光で育ち、風は太陽の熱、水車や水力発電に利用される水の高低差も太陽の熱で生み出される雲と雨の力だ。
 石油や石炭もはるか太古に太陽の力で生きていた動植物だし、地熱は太陽ではないが地球自身のエネルギーである。潮汐力は月の重力による。

 これらは便利だが、使える条件と量に制約がある。そこで自然力に頼らない人間自身がゼロから生み出すエネルギーが求められた。それが可能であると宣言したのが、アインシュタインの有名な公式、"E=MC2(二乗)"である。それはまさにエネルギー革命だったが、人類には制御不能の力だった。
 物理学はいまだに大きな進展を続けているが、自然力に頼らない全く新しいエネルギーは今のところ発見の兆しがない。それ以上に暴走し始めた核問題を収束する手段さえ見つかっていない。もっと重要なことはその暴走は物理学的な問題と言うより、人間の欲望によるものだからより始末が悪いのだが。

 発展し続ける科学技術が明るい未来を作るという夢はもう終わった。それを悲劇であるとは思わないし、人類がリアルな現実に目を向けるしかなくなったという意味で、それは成熟だと言ってもよい。しかしそれは同時に科学万能主義の終焉であり、技術の袋小路、行き詰まりを意味してもいる。

 このことを別の側面から表すのは、核技術の唯一の完璧な「成功」例である核兵器だ。
 核兵器は大量殺戮兵器としては完璧である。あまりにも完璧すぎてそれを使ったらもはや誰も生き残ることができない。だからそれを使うことさえ出来なくなってしまった。
 世界大戦という世界中すべて戦場であり、人類の全てが戦闘に参加し、もしくは巻き込まれるしかない戦争スタイルの「発明」とも相まって、核時代の戦争は袋小路に入り込んだ。それが冷戦である。核時代の冷戦は人類の戦争の究極形だったと言える。
 そこで起きた現象が、戦闘の縮小と戦場の拡散、戦闘員の消失である。大規模な全面戦争は不可能だ。そこで戦いは局地化する。それもポイントでの戦闘になる。戦争が面ではなくポイントで行われるようになったら、それこそ世界中あらゆる場所がポイントになりうる。さらにそこまで戦闘が小さくなれば正規軍のような巨大な組織もいらなくなる。極端に言えばたったひとりでも戦争ができる。
 それがつまり現在の世界で起きている「テロ」と呼ばれる戦闘なのだ。
 戦争もまた20世紀を頂点として行き詰まり、小さく拡散して原始化し粗暴で残虐になった。

 人類の文明は、ビートルズとロシア革命と核兵器の20世紀を頂点として、ついに下降を始めたのだろうか。それともそれは停滞から衰退を意味しているのではなく、人類が成熟期の入り口に到達しようするその直前の最後の苦しみなのだろうか。

 ブラック企業という言葉が流行っている。
 資本主義が勃興し、農民が農業から追われて都市に流入し、労働者という新しい階級が生まれたとき、労働者は過酷な労働を強いられた。やがて労働者の奴隷的労働を規制するためにルールが作られるようになる。それが8時間労働制だったり、週休制だ。それはもちろん労働者自身を守るためのものだったが、同時に資本家にとっても労働者を不用意に消耗せず安定的で高水準の労働力を確保するために必要だったはずだ。
 一方で帝国主義による植民地支配の下では、その後もずっと植民地住民への過酷な労働の強制が続けられた。しかしそれも第二次世界大戦後の植民地独立運動の高まりの中で、しだいに解消する方向へ向かっていった。
 ナショナリズムを超えて世界的な反戦運動が巻き起こったのも20世紀だった。
 20世紀はもちろん夢のようにすばらしい時代ではなかった。むしろ悲劇の時代だったかもしれない。しかしそれでも人類は一歩ずつ進歩したし、この時代が人類の最高到達点であり、そしてその記録はもっと上に伸びていくものと信じられた。

 ブラック企業が意味しているのは、まさにこうした人類の進歩の歴史を踏みにじり、一気に時代を100年以上さかのぼらせようとする人々が層として出現しているということである。
 それは20世紀に人々が獲得してきた人権を奪い取る行為である。しかしそれを易々と奪い取らせてしまうとしたら、それはそれを見過ごしている者たちも歴史に背信しているのだと言ってよい。

 また一方、世界中で右傾化が進み、極右が台頭している。
 復古主義、懐古趣味は歴史の継承ではない。復古は後ろに戻ろうとする動きだが、本当に伝統を継承しようとする者は決して昔に戻ろうとはしない。継承は前に進むからこそ継承できるのである。

 20世紀が人類にとって大きな節目であったことは間違いない。
 しかしそれが折り返し点なのか、それとも新しいステージに進むための通過点なのか、それは今現在を生きる人々の選択にかかっている。
 いずれにしても立ち止まることはできない。どちらに行くのか。何を選択するのか。
 その指標となるものは、歴史に背くのか、背かないのかという人類としての矜持なのかもしれない。 (この記事おわり)

成熟か衰退か~20世紀は折り返し点か通過点か~(中)

2013年08月13日 00時00分59秒 | Weblog
 ここまで主に日本の戦後文化を考えてきたのだが、先の戦争の規模が世界大戦であったために、世界中で似たような状況が生まれたと思われる。
 ポピュラーミュージックで言えば、プレスリーやビートルズの登場と席巻である。もちろんそれは、アンプとマイクロフォンの発明、ジャズやR&Bの出現など、前提になる文化からの影響、進化、派生と見ることもできるが、しかしやはりそこには革命があった。
 その後の戦後の世界のポピュラーミュージックは様々な展開を示したが、主流的な流れはいまだに彼らの影響下にあると言える。もちろんその前の世代であるルイ・アームストロングやエディッド・ピアフが忘れ去られたわけではないけれど、やはり主流の音楽への影響を考えると、戦前と戦後を分ける大きな変化があったと言えるだろう。

 同じことを繰り返すが、つまりそれが悪いというわけではないとしても、新しいものが生まれなくなってしまったのではないかという疑念も同時に沸いてくるのである。
 文化は停滞、もしくは衰退してきているのか、それともそんなことを言うのは急ぎすぎ、焦りすぎなのか。

 そこで視野を広げて見る。何が見えてくるだろう?
 たとえば現代世界に広まっている原理主義である。
 もともと「原理主義」という言葉は合衆国内の宗教的保守派に対してつけられた呼称である。簡単に言えば、あの進化論を否定するような人たちである。しかしそうした傾向はイスラム教の中にも発生した。言うまでもなくイスラム原理主義である。こうした原理主義の最大の特徴はそれが儀式宗教の内部に留まらず、現実政治の理念として存立している点であろう。
 ぼくは必ずしも宗教的理念と現実政治の理念が重なり合うことを否定しない。政教一致でもかまわないと思う。問題なのは政治理念がどこから来るかではない。その内容が人類の歴史の流れと整合するかどうかである。封建制の社会から近代民主主義へ発展してきた歴史の流れに沿っているかどうかである。(もっと言えばさらにその先を志向するかどうかだが)
 そうした視点から見た場合、現在のいわゆる原理主義者たちは(キリスト教であれイスラム教であれ)明らかに人類の歩んできた道を後戻りしようとしている。

 原理主義が跋扈(ばっこ)し始めた理由は何か?
 私見ではそれはソ連邦の自己崩壊と世界的なマルクス主義運動の衰退である。
 これは日本でも同じことだが、冷戦が終結してしまうと国内の左翼は急激に衰退した。社会党は事実上解体、保守二大政党体制に再編された。新左翼も多くが次々と転向し、最後に残った部分も内ゲバ、内々ゲバで疲弊し、今ではかろうじて市民運動の下支え役が出来る程度という状況である。
 今では、強固な組織でなんとか生き残った日本共産党だけが、最左派として最後の牙城を守るという事態になってしまった。

 外側に敵を失った右翼は、今度はその矛先を内側に向ける。それが合衆国ではキリスト教原理主義であり、日本では右傾化として現れている。リベラルを自認する人たちはその傾向に憂慮を感じているが、リベラルと言ってもしょせんは右派であり、現状の政治システムを基本的には守ろうとする資本主義勢力である以上、本質的なところで極右と戦うことができない。

 一方、ソ連が崩壊しマルクス主義が消滅したとしても、現実の世界で矛盾が無くなったわけではない。むしろ矛盾や摩擦は圧倒的に増大した。つまりグローバリズムという合衆国中心の世界戦略の下で、弱い国、弱い人々はより過酷な状況に陥ることになった。
 そこでそれまでそうした帝国主義のハードもしくはソフトな侵略に対抗してきたマルクス主義勢力の穴を埋める形で台頭してきたのがイスラム原理主義勢力である。

 マルクス主義は別に突然降って沸いて出てきたものではなかった。
 それは封建領主の支配体制を打ち壊した市民革命の流れの延長として生まれてきたものである。まさに「自由・平等・博愛」の正当な継承者として登場したのだ。
(だからこそ、マルクス主義は近代の「殻」を被っており、そのことがまさにマルクス主義の致命的欠陥であった。さらにレーニン主義はインテリゲンチャによる党建設のマニュアルでしかなかったのだが、それがロシア革命の成功により、マルクス=レーニン主義として革命と革命国家建設の一般的教科書にされてしまった。そのことが新左翼をしてスターリン主義と呼ぶところの腐敗を発生させ、最後には世界マルクス主義運動の壊滅にまで至らせることになったのである。この諸問題については、いつか改めてゆっくり考察したいと思う)

 世界思想と呼べるような思想は、マルクス主義以降あらわれていない。思想家によっては、もはや人類は世界全体を包括するようなマクロな思想を持つことができないと断言する人もいる。
 それが事実かどうかはともかく、いずれにしてもそうである以上、マルクス主義は少なくとも現状における人類の思想の最先端(もしくは最終端)なのである。
 それが行き詰まり消滅したとき、次に現れたのが人類史を後退させるような原理主義であった。これを単純な悲観論で語れば、人類は20世紀において頂点にまで達し、ついに今、下降線に入ったと言うことになろう。そうであるなら人類にはもはや衰退する以外の道がない。

 この問題は実は思想的な問題にとどまらない。そこで、さらにもう少し別の視点から検討してみたいと思う。 (つづく)

成熟か衰退か~20世紀は折り返し点か通過点か~(上)

2013年08月12日 00時00分08秒 | Weblog
 ちょっとだけ書いたが今年の夏の映画で気になるのは「ローンレンジャー」だ。SF映画では「パシフィックリム」が日本の怪獣映画とロボットアニメへのオマージュ作品で、ちょっと怪獣がカッコ悪いというか、やはりCGのモンスターは軽すぎてミニチュア実写の迫力に欠けるようだが、映画館で見たらおもしろいかもしれない。
 まだ公開されていないがSF大作としては他にスーパーマンの何度目かのリメイクになる「マン・オブ・スティール」とか、「スター・トレック イントゥ・ダークネス」などがある。スタトレで敵役を演じているベネディクト・カンバーバッチは英BBSの『SHERLOCK』でシャーロック・ホームズを現代によみがえらせた若き名優である。

 一方、日本の子供向け映画では今年も「仮面ライダー」の新作が公開されている。またどこかではまた「ウルトラマン展」が開催されている。さらに音楽シーンではサザンオールスターズの復活とか、宮崎駿の「風たちぬ」で使われているユーミンの「ひこうき雲」のアナログ盤が話題になっている。

 こうして眺めてみると、かなりの割合で1940~70年代に原点を持つ作品やアーチストが活躍していることがわかる。70年代と言えば今からおおよそ40年前だが、こうしたキャラクターやアーチストはもちろんずっと現役でやってきて今も現役である。

 昔では考えられないことである。1970年の時点で40年前と言えば1930年代だ。70年代の頃に1930年代のキャラクターで現役と言えたのはミッキー・マウスとスーパーマンくらいだったろう。もちろん日本の作品やアーチストで見たら、懐古趣味的には需要があったろうが本当の現役と言えるものは皆無だった。

 もちろん70年代頃にもリバイバル・ブームはあり、古い時代の作品がリメイクされたりした。丹下左膳、のらくろ、少年探偵団、赤胴鈴之助、月光仮面などがアニメ化されたが、それは大きな人気を得ることができず一過性のものにとどまった。
 それと比べて現代では、先に書いたウルトラマンや仮面ライダーの他にも、ドラえもんやルパン三世、宇宙戦艦ヤマト、ガンダムなど、50~40年前の作品がいまだに現役であり、状況が全く違っていることがわかる。
 そしてこれはアニメや特撮のキャラクターだけの話ではない。サザンオールスターズやユーミンなどのアーチストも、世代を超えて人気を保っている。親子二代のファンどころか三世代のファンがいるアーチストもいることだろう。

 現代の音楽シーンでは、世代の垣根を越えて共有できる楽曲が無いとよく言われる。しかし本当は1970年代の方がずっと世代間で共有する文化が少なかった。
 当時は、世代間のディスコミュニケーションを表す「断絶」という流行語が広く日常的に使われていたものだ。
 1970年代の音楽環境を思い出してみると、30年前の東海林太郎などはもちろん、戦後の美空ひばりでさえ若者たちには忘れ去られていた。もっとはなはだしいことには、わずか10年前のカバーポップス(その当時はロカビリーと呼ばれていた)ブームのスターでさえ若者は誰も知らなかった。
 その後そうしたロカビリー歌手たちは、歌謡曲で復活した弘田三枝子とか、作曲家に転身した平尾昌晃など、そのほか俳優や声優、アニメ歌手などとして活躍している人も多いが、これは継続的な人気というのとは少し違うように思われる。

 こうした文化的な断絶は、芸能全般について同様のことが言えた。今は歌舞伎も落語も年齢に関係なくファンがいるが、1970年代には10代、20代の若者が落語好きと言ったら変わり者に分類された。落語というのは「笑点」の大喜利のことだと多くの人が信じていた。

 いったい何故こうした激しい世代間断絶が生じたのか。
 戦争の影響は大きいと思われる。それは環境と思想の両面において言えるだろう。
 環境面ではメディアの増大と拡大、拡散があった。戦前のメディアも新聞、雑誌、書籍、映画、劇場、ラジオ、SPレコードなどいろいろあったが、戦後20年でまず検閲が廃止されて表現の自由が保証され、内容的な広がりがおきた。官製の統制された狭い情報ではなく、人々が自分から欲しいと思う情報が発信され享受されるようになった。
 また物理的環境としてもテレビが出現し、それはやがてカラー化する。テレビの出現によってメディアの中心は映画や劇場のようなパブリックメディアからホームメディアへ移行し始める。
 レコードはステレオLPレコードになってより繊細で多様な表現が出来るようになり、トランジスタラジオの普及とラジカセの開発によって、音楽はより個人的なパーソナルメディアへと変わって行った。
 こうした急激な環境変化に翻弄されて、たとえば浪曲のように戦後の大ブーム到来から一気に転落するというような事態も生まれた。

 もちろんもう一方では思想的なと言うか、精神史的な葛藤も存在した。つまり戦争への批判と忌避感、さらには敗戦を期に一夜で180度思想転換した「おとな」への懐疑である。
 若者世代に存在したこうした前の世代への拒絶感が、文化的断絶を生んだ要因であることも間違いない。

 こうした文化的混乱とも言える状況は大きな戦争が起きた後に発生しやすい。とりわけ日本のように完敗した場合には。
 しかしおそらくその混乱も70年代あたりから収束し始めたのだ。だからその頃からは文化が断絶することなく現代にまで継承されているのだろう。
 このことは不自然なことではない。おそらく江戸時代には年寄りも若者もおなじ芝居を見、同じ寄席に行き、将棋や囲碁など同じゲームで遊んだだろう。もちろん世代間での文化の違いはあったろうが、むしろ階級間の違いの方が大きかったのかもしれない。
 東海林太郎のファンは極めて限られている一方、ビートルズには三世代にわたるファンが存在しているとしたら、それは文化が混乱期から成熟期に移行したことを示していると言えるのではないだろうか。

 以上はある意味で日本の戦後文化史を肯定的に描いた図式である。
 ぼく自身は文化的成熟を歓迎するが、しかしもう少し大きな視点でこの現象を眺めてみると、別の見方も出来るだろう。つまり成熟とは腐敗と同義語だという考え方である。
 この点については、もう少し考えてみよう。 (つづく)