当然のことながら人類はずっと労働してきた。
それが人間と他の動物を区別する最大のポイントかもしれない。
さてその労働は、イコール「ビジネス」ではない。ビジネスで無い労働はたくさんある。その代表的な労働は家事労働だ。家事労働は人間にとって最も基本的な労働で、家事労働の存在しない文化はおそらく無いだろう。もちろん一部の特権的階級が自らはやらないというケースはあるけれど。
あえて言えば、現代のアメリカの都市生活者の文化からは家事労働が失われつつある。食事は店で買うか食堂で食べる。洗濯はクリーニング屋に頼む。子育てはベビーシッター。掃除は…どうしているか知らないが。つまり資本主義の最先端では、いよいよ家事労働がビジネスに置きかわろうとしているのだ。
ぼくは20代、正確に言えば10代の終わりから30代の初め頃まで、革命家だった。もちろん革命もビジネスではない。革命運動で飯は食えない。ほんの少しの専従活動家だけが革命運動で給料をもらうことができるだけだ。とは言え、それはほとんど食費と交通費くらいにしかならなかったが。
革命家はかなり特殊な例だとしても、人類の労働はまず第一にビジネスではなく自分の生活と生存のためのものだっだ。やがて社会が巨大化し分業が複雑化する中で労働は専門化していく。自家消費ではなく交換目的のための労働が主になる。しかしそれでも、それは必ずしもビジネスではなかった。たとえば封建領主の下での農民(農奴)の労働はビジネスとは言えない。
もう少し言えば、賃金労働者の労働もビジネスではない。労働者は自分の労働力を資本家に売って生きているのだが、その価格は一般的に自分の裁量で決められるものではない。資本の側が決めるのだ。
資本の側はすべての資本を自分の裁量で好きなように投資できる。と言うよりそれが仕事だ。しかし労働者は資本を持たないから投資は出来ない。労働力を売った代価である賃金は、自分と家族を生きながらえさせるために使ったら無くなってしまう。と言うよりそれが賃金の基準である。
先日、打ち上げ延期になったイプシロン・ロケットは、日本がロケット・ビジネスに本格的に参入するために開発されたという。
果たして宇宙開発がビジネスであってよいのだろうか。南極は南極条約に守られていて、原則的にビジネスを展開することは出来ない。ついでに言えば軍事利用も出来ない。(…ことになっている)
日本の電気事業はビジネスである。その結果、東京電力は放射能汚染の広がりを食い止め、事態を収束させることより、自社の経営を優先せざるを得ない。
ビジネスは(それはつまりは資本主義はと言うことだが)、科学技術を飛躍的に発展させ、人類にかつてないほどの贅沢な生活を与えた。しかしそれはつまり、かつてない程の格差を生み出し、地球環境を破壊し尽くし、そして人々の心を荒廃させたと言うことでもある。
労働をビジネスから解放すること。それが次の時代の大きな課題である。
マルクスとエンゲルスは初期の哲学的研究の時期にこんなことを書いている。
「(共産主義社会では)私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして狩人、漁師、牧人、あるいは批判家にならなくてよい」(「ドイツ・イデオロギー」より)
もちろんこのワンフレーズだけを持ち出しても正確な意味は伝わらないのだが、とりあえず今は、ここに描かれているビジネスから解放された労働のイメージを感じていただけたらと思う。
言ってみればこれが、我々自身に「労働を取り戻す」ということである。
それが人間と他の動物を区別する最大のポイントかもしれない。
さてその労働は、イコール「ビジネス」ではない。ビジネスで無い労働はたくさんある。その代表的な労働は家事労働だ。家事労働は人間にとって最も基本的な労働で、家事労働の存在しない文化はおそらく無いだろう。もちろん一部の特権的階級が自らはやらないというケースはあるけれど。
あえて言えば、現代のアメリカの都市生活者の文化からは家事労働が失われつつある。食事は店で買うか食堂で食べる。洗濯はクリーニング屋に頼む。子育てはベビーシッター。掃除は…どうしているか知らないが。つまり資本主義の最先端では、いよいよ家事労働がビジネスに置きかわろうとしているのだ。
ぼくは20代、正確に言えば10代の終わりから30代の初め頃まで、革命家だった。もちろん革命もビジネスではない。革命運動で飯は食えない。ほんの少しの専従活動家だけが革命運動で給料をもらうことができるだけだ。とは言え、それはほとんど食費と交通費くらいにしかならなかったが。
革命家はかなり特殊な例だとしても、人類の労働はまず第一にビジネスではなく自分の生活と生存のためのものだっだ。やがて社会が巨大化し分業が複雑化する中で労働は専門化していく。自家消費ではなく交換目的のための労働が主になる。しかしそれでも、それは必ずしもビジネスではなかった。たとえば封建領主の下での農民(農奴)の労働はビジネスとは言えない。
もう少し言えば、賃金労働者の労働もビジネスではない。労働者は自分の労働力を資本家に売って生きているのだが、その価格は一般的に自分の裁量で決められるものではない。資本の側が決めるのだ。
資本の側はすべての資本を自分の裁量で好きなように投資できる。と言うよりそれが仕事だ。しかし労働者は資本を持たないから投資は出来ない。労働力を売った代価である賃金は、自分と家族を生きながらえさせるために使ったら無くなってしまう。と言うよりそれが賃金の基準である。
先日、打ち上げ延期になったイプシロン・ロケットは、日本がロケット・ビジネスに本格的に参入するために開発されたという。
果たして宇宙開発がビジネスであってよいのだろうか。南極は南極条約に守られていて、原則的にビジネスを展開することは出来ない。ついでに言えば軍事利用も出来ない。(…ことになっている)
日本の電気事業はビジネスである。その結果、東京電力は放射能汚染の広がりを食い止め、事態を収束させることより、自社の経営を優先せざるを得ない。
ビジネスは(それはつまりは資本主義はと言うことだが)、科学技術を飛躍的に発展させ、人類にかつてないほどの贅沢な生活を与えた。しかしそれはつまり、かつてない程の格差を生み出し、地球環境を破壊し尽くし、そして人々の心を荒廃させたと言うことでもある。
労働をビジネスから解放すること。それが次の時代の大きな課題である。
マルクスとエンゲルスは初期の哲学的研究の時期にこんなことを書いている。
「(共産主義社会では)私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして狩人、漁師、牧人、あるいは批判家にならなくてよい」(「ドイツ・イデオロギー」より)
もちろんこのワンフレーズだけを持ち出しても正確な意味は伝わらないのだが、とりあえず今は、ここに描かれているビジネスから解放された労働のイメージを感じていただけたらと思う。
言ってみればこれが、我々自身に「労働を取り戻す」ということである。