あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

中国のチベット弾圧を糾弾する

2008年03月18日 22時35分39秒 | Weblog
 中国当局がチベット族に対する弾圧を激化させているようだ。情報が閉ざされているので細かいことはわからないが。中国は直ちに弾圧を止めチベット族の尊厳と自治を認めるべきである。
 それにしても一部の頭の悪いネット右翼は、まるで日本の左翼が中国の味方をしているような180度見当違いの批判をしている。日本左翼の多くは中国スターリン主義を批判してきたし(一部の中国派はともかく)今回の問題も厳しい視点を持って見ている。もちろんだからと言って中国の文化や中国革命についてすべてを串刺し的に捨て去るわけではなく、学ぶべき点は学ぼうとしてきたのだ。
 業田良家のマンガに「慈悲と修羅」というチベット問題をテーマにしたと思われる作品がある。ちゃんと読んだわけではないが、軍事力に勝る大国が小国を侵略し非道の限りを尽くすという話のようだ。これがそのまま中国とチベットの史実かどうかは不勉強にして知らないのだが、少なくともその視点は現実の問題に即していると言えるだろう。
 そのとき思うことは、中国によるチベット支配の不当性を感じるのはもちろんだが、かつての日本が中国、朝鮮等々の国々を侵略した姿も同じようなものであったろうと言うことだ。
 頭の悪い奴には何を言ってもわからないだろうが、まっとうな精神を持った人であるなら、中国を批判すると同時に、自分が生きているこの日本という国が昔おかした犯罪的行為に心を馳せ、反省し二度と加害者にならないようにしようと思うだろう。そうすることによってチベット問題は私たちひとりひとりにとって主体的なテーマとなるのである。
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宇宙開発は止めろ

2008年03月13日 13時23分48秒 | Weblog
 今スペースシャトルが宇宙ステーションとドッキングして日本の実験棟を建設する作業が行われている。
 それにしても、どうしてマスコミは宇宙開発を手放しで賞賛するんだか。ふだん「辛口」で知られるコメンテーターたちも喜んでいる。
 遠い将来ならともかく、今この時代状況のなかで莫大な費用をかけてやるような事業なのか。宇宙開発にかける費用をせめて50年間、絶対的貧困地域に投入すれば人類にとってずっと有益だと思うのだが。
 それだけではない。みんな夢とかロマンとか言うけれど、現実の宇宙開発は軍拡競争であり、また同時に宇宙空間の環境汚染である。
 人類が少しは利口になってきたかと思ったが、宇宙開発を巡ってはいまだに大航海時代並みの認識しかないというのは情けない。「開発」の名の下に以下に多くの犠牲が生まれたのか忘れてしまったのか。
 立ち止まれと叫ぶ人間はいないのか。
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Love & Peace

2008年03月09日 20時30分21秒 | Weblog
「愛と平和」はクサいか? ダサいか? カッコわるいか?
だけどそれが人間の基本だろ。
あんただって本当はそれが欲しいんだ。
アーチストが気取って「愛と平和」を口にする。
いいじゃないか。
アーチストにしかそんなことは言えないのだ。
政治家はそんなことを考えていない。実業家も考えていない。
そんなことを口に出来るのは、ノーテンキな極楽トンボだけだ。
だからアーチストは「愛と平和」を唱えなくてはならない。
口に出来る者が言わなくてはならない。
自分の中心で「愛と平和」を叫べ!
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甘やかす人であることについて

2008年03月08日 22時54分26秒 | Weblog
この社会では「甘える」「甘やかす」ということは悪である。世界は批判で満ちている。
しかし、それはすでに人間が生きていける環境としての限度を超えた。
人間にはどこかに甘えられる場所が必要なのだ。だから甘やかすことの出来る人もこの社会には必要だ。
ぼくは甘やかす人でありたい。
甘えることの出来ない過酷な環境に育った者は他者にも過酷な生き方を求める。そうして社会はますます殺伐とした社会になっていく。それは人間的な社会なのだろうか。
近現代は人間の能力を超えた力をひとりの個人に与えてしまった。
それは同時にひとりの個人に背負いきれないほどの責任を負わせることになった。
人間はオーバーフロウしてしまったのである。
社会は否応なく批判社会にならざるを得なくなった。
だからあえて、ぼくは甘やかす人であろうとするのだ。
もっとも、ぼくが甘やかす必要の無い人、すなわち、社会構造がその人を甘やかしている人、すでに権力を充分持っている人に対しては、ぼくは徹底的な批判者、糾弾者でありたいと思う。

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