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自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

鳥人間コンテストと科学主義について

2022年09月03日 10時59分31秒 | Weblog

 録画しておいた読売テレビ=日本テレビの「鳥人間コンテスト」を見た。ぼくはこの企画が大好きで昔からずっと見ている。今年も良かった。

 ところで先日、fruitfulなブースカちゃんという大変見識のある方のツイートを引用した際に、

「その通り。と思うのは僕が近代人であり、近代主義で主知主義で科学主義だから。ところがそれでは自分が不利になってしまう勢力が反知主義を広げてきた。彼等は科学主義を科学絶対主義として不当に非難し、そこからの解放論として不可知主義と陰謀論を展開する。もちろん科学主義は科学絶対主義の真逆。」

 と書いた。

 これに対して、fruitfulなブースカちゃんは、ぼくのツイートをさらにリツイートして次のように述べられた。

「「科学主義」は「共産主義」として嫌悪されます。
極右反共主義者は、科学や民主主義を否定し、超自然的な信仰(架空の伝統含む)に基づく反知性主義に基づいた、家父長的ファシズム社会の実現を理想とします。
(・ω・)」
@Booskachan_Ver2・2022年9月2日

 そして添付された国際勝共連合のサイトのスクリーンショットには次の文章が書かれている。

「まず共産主義の理論は、大きく3本の柱から成り立っています。哲学と歴史観と経済理論です。そして哲学では、主に以下の三つのテーマについて論じています。

①宇宙とは何か
②人間とは何か
③事物はいかに発展するか

共産主義ではこれらのテーマについて、「科学的に」結論が出たことになっています。共産主義が「科学的社会主義」と呼ばれるのはそのためです。

先に結論を言ってしまうと、

①では「宇宙の本質は物質である、すなわち神はいない」といっています。
②では「人間は神の創造によってではなく、サルが労働によって進化して生まれた」といっています。
③では「あらゆる物事の発展は闘争によってなされる」といっています。

これが組み合わさることで、「暴力革命は正しい」という理論になっていくのです。」

 この勝共のまとめはどこから持ってきたのかとも思うが、あながち間違ってもいない。ようするに唯物史観に対する批判であろう。とは言え、3の階級闘争論はともかく、1と2はひどい書き方をしているが現代科学のパラダイムである。

 さて、ぼくの述べた「科学絶対主義」というのは「科学万能主義」と言い換えても良いが、科学は間違わない、科学は森羅万象を説明できる、科学技術であらゆる問題を解決できる、といった考え方を指したつもりだ。これはつまり科学を神に祭り上げ、宗教化することに他ならない。当然それは科学主義の精神とは相容れない真逆の考え方だ。
 科学とは疑うことであり、知り得ない事象への挑戦であり、常に過程であり固定化を否定する。間違うし、説明も解決も出来ないこととの方がはるかに多い。
 勝共のこの文言は、共産主義を科学絶対主義=宗教と措定しての批判のように読める。

 ここで指摘しなくてはならないが、確かにかつてのソ連スターリン主義などは典型的な科学絶対主義だった。もちろんこれはエンゲルスが空想的社会主義に対して自分達の社会主義は科学的社会主義であると宣言したところに端緒があり、とりわけエンゲルスは時代の子としての制約の中で、科学万能主義的であったことが否めない。(事実としてはマルクスにもその傾向はあった。)
 余談だが、この科学の神格化、言ってみればヘーゲルの神を科学に置き換える転倒を極限まで推し進めたのが、革共同革マル派の黒田寛一だろうと思う。革マル派にはある種の宗教性が色濃く漂っている。
 一方、神格化された科学の、科学の方が外れて神話に逆戻りしてしまったのが北朝鮮だ。いかに科学絶対主義が反科学的な宗教的志向であるかがわかる。

 ところでウィキペディアを見ると「主知主義」について、次のような記載がある。

「主知主義(しゅちしゅぎ、英: intellectualism)または知性主義とは、人間の精神(魂)を「理知(知力・理由)」、「意志(意欲・気力)」、「感情(感動・欲望)」に三分割する見方の中で、理知の働きを(意志や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。」
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』日本語版、2022年9月3日採録

 この記載によれば主知主義は知性絶対主義では無い。あくまで他の動機との相対的な重要度の差として位置づけられている。また当然「知」というものが時代によって異なる以上、どの時点のどの脈略で使われるかによって具体的な発現は大きく異なることとなる。

 理知、意志、感情は相互的な関係にある。意志や感情が科学を超えた「奇跡」を生むこともあるかもしれない。いかに知性があっても意志が無ければ無意味かもしれないし感情によって歪められるかもしれない。それが人間である。
 前段で神や宗教を否定するような書き方をしたが、それでも我々にはどうにもできない運、運命というものもある。科学の視点からすればそれは偶然であり確率論的な問題かもしれないが、一人の私にとってみればそれが全てになってしまう。
 知性の前に存在する信仰というものも否定できない。ずいぶん前に大江健三郎だったか、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の質問に激高し、その後そのことを深慮したというエピソードがあった。
 人間社会において他者を殺してはいけない理由を科学的に説明することは可能であろう。人間が社会的生物であり協働によってしか生存できない以上他者を排除できない。しかしまた同時に他者を殺す様々な合理的説明も可能である。それは戦争や死刑などの根拠とされる。
 しかし現代日本社会に生きる我々はまず第一番目に、理性より感情において他者を殺すことに否定的になる。むしろそこから人を殺してはならない理由を理性的に示そうとするのだとも言える。
 人間は本質的に平等であると思うのも、本質的に競争によって淘汰されるべきであると考えるのも、理性の前にあるひとつの信仰とも呼ぶべき感情だろう。そしてそのそれぞれが、そのことを理性的に語ろうとし、知に高めようとする。
 イデオロギーと呼ばれるものは(少なくとも本源的には)信仰であると、ぼくは思う。

 ぼくは人間の人間としての特異性は信仰=宗教を持つことにあると考えているが、この問題を考え始めると長くなるので、また別の機会に譲ろう。
 ともあれ、科学主義が排除しようとするのは嘘や矛盾や思い込みであって、宗教や信仰では無い。その点で、マルクス=レーニン主義者を含む少なくない近代人が間違ったことがあったとは言えよう。

 冒頭に戻る。
 「鳥人間コンテスト」とは何なのだろうか。ぼくは何故それに引かれるのか。
 それはこれこそが科学主義だからなのだと思う。
 出場者は様々な強烈な感情から挑戦を始め、それぞれが強靱な意志を持って準備を続ける。だからと言って航空力学や材料学、構造学といった科学=知性が前提に無ければ、ただのコメディにしかならない。理知的であるだけで感情と意志が無ければ出場することさえかなわない。
 もっと言えば、そこに運命の神も介入してくる。当日、その時間の天候やパイロットのコンディションは人知を超える。

 科学主義、主知主義とはこうした人間の総合的な営為を包含するものだと思うし、だからこそ未来がある。
 繰り返すがそれは科学絶対主義の対極にあるものだ。

 ついでに言えば、ロボコンも好き。



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