あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

常識じゃない大沢孝征氏の「常識」

2012年10月26日 00時12分13秒 | Weblog
 いわゆる「遠隔操作ウィルス」事件に関して、ヤメ検弁護士の大沢孝征氏が、あるニュースショーに出演してこんなことを言っていた。

 いわく「IPアドレスの主が犯人であるという常識があって、取調官は被疑者が犯人であるという確信を持っていたから、自白しないと少年院に行くぞ、認めれば軽くてすむぞ、くらいのことは当然言う。問題はその常識が実は常識ではなかったところにある。
「DNA鑑定でもそうだが警察官・検察官は技術的な部分を理解しているわけではなく、DNA鑑定の結果は正しいと信じているだけだ。今後は科捜研に匹敵するようなネット問題を鑑定する部署が必要になる云々」

 バカも休み休み言え、としか言いようがない。

 まず第一に今回の問題の根源は、これだけ冤罪が問題になっているときに、いまだに警察の現場では自白主義がまかり通っているということなのである。
 もちろん犯人の自白を取ることが不要だと言っているわけではない。しかし、何度も何度も繰り返し言われているように現在の司法においては物証こそが基本なのである。物証軽視・自白尊重は秘密警察の手法であり、冤罪と言うか権力の意のままに民衆を弾圧しようとする思想である。
 被疑者が否認しているのならそれを無理に自白させる必要は本来無い。物証が確かだと思うなら被疑者否認のまま送検すればよいだけである。裁判で心証がどうの情状酌量がどうのという話は警察のするべき話ではなく、被告が弁護士と相談して考えればよい問題だ。警察や検察が取り調べのときにそんなことを言うのは明らかに誘導であり、偽証の強要であり、デッチ上げを目論んでいるのだ(意識的にせよ、無意識的にせよ)

 しかしそれではなぜ自白尊重が無くならないのか?
 そのほうが簡単だからである。

 地道に証拠固めをするのは大変なのだ。勉強もしなくてはならないだろうし、手間と時間がかかる。
 それよりちゃちゃっと被疑者から自白を引き出してしまえば簡単だ、そういう発想なのである。
 三文芝居にはよく「落とし」のナントカとか二つ名のベテラン刑事が出てきて、我々はなんとなくそれが取調官の仕事のように思ってしまうけれど、被疑者を脅迫して自白を引き出すということは、実質上の証拠の捏造なのだということをこの際はっきりさせておかなくてはならない。
 先般大問題になった厚生労働省の郵便不正事件での証拠捏造は、それだけを見ると担当検察官が突然ありえないことをしたという印象だが、実は彼らの側から見れば常日頃から自白強要という証拠捏造をやっているのと同じ感覚で出来てしまうことなのかも知れない。

 それにしても、そもそも今回のIPアドレスの問題は、大澤氏の言うようなものすごく難しい問題ではない。
 警察官だって普通にインターネットは使うだろうし、P2Pを使ったり(もしくは過去に使っていたり)、いわゆる違法ダウンロードをしている人だってきっと沢山いるだろう。多くの警察官がウィルスやマルウェアについて大雑把には知っているはずだ。第三者のコンピューターを踏み台にしてサーバーへの攻撃を行う手法があることを誰も知らなかったとは(大澤氏はともかく)考えづらい。
 おそらく大澤氏のような罪なほど無知な上司が「IPアドレスが一致したからあいつ犯人で確定」と言ったら、部下は役人根性丸出しの事なかれ主義でこれ以上面倒なことは言わないでおこうとか思ったに違いない。
 誰か大澤サンにこれは科捜研とか言うような問題じゃないんだよと教えてやってくれ。
 ついでに言っておくと、DNA鑑定だって絶対ではないというのも常識だ。あくまで他人のDNA型が一致しないというのは確率論的な結論であって、完全に無いとは言い切れない。まして一卵性双生児などの場合、DNA型が一致したっておかしくない。大澤氏にとってはそんな常識も「常識」ではないのだろうか。

 それにどうやら検察調べの段階ではすでにログに残っていた2秒で書き込みを終了したという犯行状況が、被疑者の供述と矛盾することがわかっていたようだ。それでも起訴は止められなかった。これまたあまりに役人的な見てみぬふりである。一度決まった公共事業は何があっても止まらないというのと、どこか似たような無責任=責任取りたくない体質である。

 役人・官僚が自己保身のために手を抜いたり事なかれ主義になったら、そのしわ寄せは全部一般庶民の側にやってくる。彼らがほんの数日、ほんの数言の手間を惜しむがために庶民の一生が台無しにされる。なぜか? 彼らが紛う事なき権力者だからだ。
 マスコミも行政ももうこの辺で幕引きを図っているが、この問題はもっと徹底的に追及されるべきだと思う。

政権交代とは何だったのか(1)

2012年10月20日 18時51分05秒 | Weblog
 いよいよ民主党政権も終盤に来たところで、そろそろあの「政権交代」とは何であったのかを総括する時期だと思う。
 そもそもぼく自身は民主党政権の誕生のずっと以前から、民主党は第二自民党であり政権を取ったら自民党政権より事態が悪化すると主張し続けてきた。しかし事態はぼくの予想をはるかに越えて悪いどころか最悪の状況に至ってしまった。

 もちろん自民党政権が続いていても大差はなかったわけだが、それでも消費税の増税などが談合で何の検証もなく決まっていったのには恐ろしささえ感じる。(もっともぼくは増税派なのでなにもかも全部悪いと思っているわけでもない。ただやはり目的税としてしっかり管理し、税収が垂れ流しになるような事態にしてはいけないと考える)
 なにより、いくら民主党がひどい政党だとは言っても、ここまでマニフェストを守らないとはさすがに思わなかった。結局振り返ってみれば実質的に民主党のマニフェストは何一つ実現しなかったのである。

 民主党政権が成立した結果、もっとも日本の民衆にとって悪いことは、自民党を批判して追い詰められる勢力がいなくなってしまったことだ。
 民主党が政権を取る前なら理想論を振りかざして自民党政治の腐敗をバサバサ切って捨てることが出来た。理想論には論理的正当性があるし民主党くらいの超巨大政党ならそれをもって自民党を追い詰め、政策を転換させられるだけの力があった。
 しかしひとたび民主党が政権を取ってしまえば、民主党の化けの皮がはがれ、その実体は劣化した自民党でしかないことが満天下に明らかになってしまったのである。もはや民主党が野党に戻っても以前のようにその理想論が共感を得ることはないし、民主党自身もかつてのようなリベラルさを取り戻すことは出来ないだろう。
 第三極などとマスコミははしゃいでいるが、結局は再び自民党政権が復活する。そして今度は民主党という歯止めが失われた中でさらなる居直りと腐敗が進行していくのだ。

 ただ政権交代が必ずしもマイナスの側面だけだったかと言えば、そうではない。その点は正当に評価すべきである。
 そのひとつは地方反乱ある。結果的に民主党政権はあまりにも弱体で各所を押さえ込む力がなかった。その結果、自民党政権末期に始まっていた地方自治体のタレント首長ブームがさらに勢いを増して、(良いか悪いかの判断は置くとして)沖縄や大阪などが中央政府に真っ向からモノを言う状況が生まれた。それは東日本大震災と原発事故を経て全国的に当たり前のことになった。
 自民党中央の言いなりになっていたかつての地方政治とはもはや大きな様変わりである。
 そしてそれは一般大衆にも言えることで、官邸前の脱原発デモは60年安保以来と言われたが、それもまさに民主党政権であったが故に実現したことである。強大な自民党の圧力がありとあらゆるところに張り巡らされていた時代には起こりえなかった事態である。
(もちろんこの背景には菅前首相による自身の復権に向けた思惑があったのだが、それもまた自民党政権では考えられないことであった)

 さてこうした政権交代と民主党政権の「成果」と悪影響をざっと見たところで、次にそれでは政権交代とはいったいどのような現象だったのかを考えてみたい。

それは違うだろ

2012年10月20日 18時09分11秒 | Weblog
 いわゆる「遠隔操作ウィルス事件」で神奈川県警と横浜地検が「誤認逮捕」された19歳男性に謝罪したとの報道があった。神奈川県警の担当者は「本人は不当逮捕に怒っていた。誤認逮捕を謝罪した」という主旨のことを言っていた。
 あきれてしまった。
 これは絶対に違う。ここまで来てまだ問題をすり替えようとしている。もはや怒りを通り越してあきれかえるばかりである。

 誤認逮捕はあってはならないとは言っても人間がやることである以上まちがえることはある。これは過失である。
 しかし今回の問題は、本人がやっていないと言っているのに無理やりウソの自白をさせたことにこそあるのだ。これは自白のでっち上げ、つまりは証拠の偽造であって、まぎれもなく犯罪行為である。
 神奈川県警は違法な取り調べをして犯罪的立件をし、横浜地検はそれを検証することもなく犯罪行為に荷担したのである。

 警察は事実をごまかすな! 隠蔽するな! 脱(反)原発デモの参加者の行動をこっそり監視し跡をつけ回しているヒマがあったら、もうちょっとインターネットの勉強でもしろ!
 こういう事態がまかり通っていたら、違法ダウンロード法などという悪法がが適用され始めた現状ではさらにえん罪が増えるに違いない。警察が市民を監視する社会ではなく市民が警察を監視する社会を作っていかなくてはならない。


ボケボケの政治家。本当に悪いのは?

2012年10月20日 00時06分29秒 | Weblog
 昨日行われた民自公の党首会談は野田総理が解散の時期を明言するとかしないとか、いや言った言わないとか、まあまったく無内容な応酬をして予定通り(?)決裂に終わった。
 田中法務大臣も一昨日初めてになるはずの国会答弁をフけて、昨日は病気入院という今どき陳腐なドラマでさえやらないようなひどい終わりを迎えたようだ。

 つくづく日本は平和だなーと思わざるを得ない。
 もちろん平和なのは政治家の頭の中だけだけれど。

 憂国の士を気取っているアベちゃんも、こんなに世の中が大変なときなのに実際は平和ボケボケだ。右翼なんだから右翼らしくこんなときは「挙国一致でがんばろう」くらい言ったらどうなんだろうか。もっとも「挙国一致」というのは「あなたと一緒にがんばります」という意味ではなく「すべて俺の言いなりになれ」という意味だから、野党に身をやつしたアベちゃんが言うはずもない台詞だが。

 政治家がボケているのはある意味では安心しきって高をくくっているからだし、別の意味では切羽詰まった危機感に駆られているからである。
 安心していると言うのは、いずれにせよ日本の民衆は「民主主義」制度の枠組みから逸脱するはずがないと思っていると言うことであり、またそうであればマスコミが第三極とかいくら煽ったところで結局はどのみち自民と民主が議席の大半を取るだろうと考えていると言うことだ。
 一方しかしながら政治家は、飯のタネとしての政治家という職業に対する永遠の就活を続けなければならないし、国会議員という特権身分を守り、さらには特権身分中の特権身分たる「与党議員」の座を獲得するために文字通り命がけで戦い続けなければならない。
 ここは政治が停滞しようが、地震や戦争が起ころうが、最優先でやらなければならない戦いに没頭するしかないのである。

 マスコミはマスコミでステロタイプの「政治家が悪い」「官僚が悪い」といった大衆受けする批判を繰り返すばかり。口先では「マスコミの責任」などと言いながら、政治家同様なんの責任も取る気はなさそうだ。

 一番悪いやつはいったい誰だ?
 それはこうやって政治家や官僚やマスコミに責任をなすりつけて、自分だけが被害者のような顔をしている私やあなた、つまり日本の民衆であり有権者である。
 選挙で投票しさえすれば「民主主義」の主体になった、責任を果たしたと思い込んでいる「善人」たちである。
 政治家や官僚やマスコミが反省していないと言うのであれば我々は真摯に反省したことがあるか? 自己批判、自己否定したことがあるか?

 解決の糸口は我々自身が本気で真剣に苦痛を厭わず自分自身と向き合い対決したときに初めて、見えてくるのだろうと思う。

シェールオイル

2012年10月04日 08時37分48秒 | Weblog
 秋田県でシェールオイルの発掘に成功したという発表があって、なんだか久々に「明るい」ニュース扱いされている。
 しかし実際にはすでにアメリカではシェールオイル開発が様々な問題を起こしている。科学的に証明されたわけではないが地震を誘発しているという話さえある。
 ニュース番組ではアメリカで起きているまるでゴールドラッシュのような状況を「活気ある」「景気の良い」様子として伝えているが、なんだか強い違和感を感じざるを得ない。
 いったい現代のこの時代はそんな時代なのだろうか。
 このアメリカの様子を伝える映像を見ていると、まるで大量生産・大量消費・大量破壊の20世紀に戻ってしまったような気になる。というより、アメリカではずっと20世紀が続いているのだと考えるほうが正しいのかもしれない。

 日本人は20世紀終わりから東日本大震災までのいくつもの大きな厳しい試練に直面し、多くのことを学んできたはずだ。
 そしてそれが現在の反原発の世論、エコロジー意識の高まりを生み出してきたのだと思う。
 正直言ってシェールオイル開発はそれに逆行する事業と言うしかない。いくら脱原発だと言っても化石燃料への依存をより深めていくのではしかたがないという気がする。

 問題を解決する方向は本当はたったひとつしかない。おそらくみんなそれに気づいている。ただ気がつきたくないだけなのだ。
 すなわち、エネルギー消費の絶対量を減らすこと。エネルギーを使わないこと。

 人々が不安に思うのは、エネルギー消費を減らしたら生産力が落ちてどんどん経済が悪化していく「悪夢のシナリオ」を考えるからだろう。
 しかしどこまでも生産が増加し続けるなどということは有り得ない。なぜなら地球環境は閉じており限界があるからだ。もちろんもっともっと長いスパンで考えれば宇宙開拓もあるかもしれない。しかしそれは想像を絶するはるか遠い時代のことだ。なぜかと言えば人類が宇宙に進出するためには膨大なエネルギーが必要になり、すくなくとも現時点で推察する限り地球資源の範囲内では不可能だろうと思われるからだ。

 いま我々に必要なのは勇気である。
 よく山登りで大切なのは撤退する勇気だと言われる。気象やパーティーの体力、技術、装備などの条件をよく理解し、これ以上先に進むと遭難する危険性が少しでも出てきたら速やかに撤退すること。気持ちや気分に左右されず、つらく悔しく悲しい決断であっても必要であれば断固として決定すること。それが撤退する勇気である。
 人類の永続的な繁栄を望むのであれば、我々がいまここで遭難してはならないのだ。

 本当を言えば実はもう引き返せるタイミングをとっくに過ぎているのかもしれない。
 しかしだからと言ってやみくもに破滅に向かって突き進むのは愚か過ぎる。
 生産力を落とせば確かに今までのような「豊か」な暮らしは出来なくなるだろう。しかしあえて貧乏になる勇気を持とう。
 みんなで貧乏になれば怖くない。


 

福田氏と安倍氏

2012年10月01日 17時47分56秒 | Weblog
 以前のブログで福田康夫氏の首相辞任の仕方を評価したことがあった。
 そのとき比較して批判した対象が安倍氏だった。
 今回も同じような気がする。
 安倍氏が自民党総裁に選ばれた直後に福田氏は引退を表明した。あてつけとは思わないが、しかしこれも福田氏らしい自己主張だったのかもしれない。
 小泉氏もそうだったが福田氏も自分の引き際を知っていた。それが良いことかどうかはともかく、そこには日本的な美意識がある。
 安倍氏は石原都知事が作り出した政局にうまく乗っかって再び総理大臣の座を狙い始めたが、これは醜悪である。まあ、麻生、鳩山氏などそうした老害政治家はたくさんいるけれど。いつの頃からか、ぼくたちは政治をまるでコメディーバラエティショーを見るような感覚で眺めるようになってしまった。だから政治家がどんなに醜悪でも特別な感慨を抱かないのである。
 島田紳助や中田カウスと同じような感じに見えてしまうのは平和なことなのか不幸なことなのか。

日本の不思議

2012年10月01日 17時00分36秒 | Weblog
 年配の女性が必死の思いではいつくばる。
 それを何人もの警官が手足を持って放り投げる。
 それをフェンスの向こう側で外国軍の兵士が笑ってみている。

 21世紀の日本、昨夜の普天間基地の映像だ。

 こんな風に自国民が馬鹿にされているのに右翼は怒らないのか。
 現代日本における最大の不思議だ。

 オスプレイ配備に反対する人々は(そして賛成する人もきっと)政府がこの危険性に対して絶対に責任を取らないことを知っている。
 安全性を確認したと言うが、それならその責任を取るのかと言えば、もちろん政府にはそんな気はさらさらない。
 そのことは原子力発電の顛末を見れば明らか過ぎるほど明らかではないか。
 事故が起きたら「想定外」と言えば済むのである。「絶対安全だったはずなのだから事故が起きたとすればそれは人智を越える事態が起きたのだ」と言えばよいのだ。きっと誰一人責任を取らないだろう。そしていくら事故が起きても「これはたまたまだったのだからもう次は起きない」と言っておけばよいのである。何度でも、何度でも。

 うんざりしている人はまだましだ。
 みんなすぐに忘れてしまうのだから。