あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

納得いかないSPEEDI利活用方針

2014年08月25日 23時46分12秒 | Weblog
 どうしても納得いかないことというものがある。そういうのはたいていの場合、その裏に何か別の事情が隠されている。
 たとえば広島の土砂災害時の安倍首相の行動だ。早朝に連絡を受けたのにそのまま右翼・笹川氏の別荘でのゴルフを強行した。官房長官からのアドバイスでいったん東京に戻ったものの、夕方にはまた別荘に戻った。もちろん「着の身着のままだったから」というのは言い訳にもなっていない。誰かにもって来させればよいだけなのだから。ものすごくゴルフがしたかったという説もある。それもちょっと不自然だ。いくら遊びたいからと言って、これだけの大災害が起きたのに中止できないなら、中毒というか依存症レベルだ。
 おそらく別荘での休暇にはもっと全く別のとても重要なミッションが存在したのである。それが何かは誰にもわからない。わからないように、わざわざ東京を離れ隔離された他人の別荘に閉じこもったのである。内閣改造の構想を練っていたという報道もあるが、あんがい「イスラム国」で拘束された青年の問題の対応をしていたのかもしれない。もちろんただの当て推量だが。

 JTのテレビCMも何だかおかしい。「JTの取り組み紹介/分煙篇」というやつだが、主人公(?)が友人の経営するレストランを訪ねると、JTの担当者が分煙の仕切りの検査をしている。ここで「あいつが人を気遣う大人になっていた」というモノローグが入る。
 これはおかしいだろう。飲食店で分煙化するのは経営者の義務だ。地域や規模によっては条例等で規制されているかもしれない。むしろ分煙をしないのは犯罪行為であるとも言える。それを何か人格の問題のように「人を気遣う大人」だと持ち上げることには、はなはだしく違和感を感じる。ここにもタバコ産業のイメージ戦略が背景にあり、義務と善意のすり替えが行われているのだ。

 そんな中、きょう一番わからなかったのは、政府がSPEEDIの規模を縮小し、原則的に利用しない決定をしたというニュースである。なぜそのような方針が出たのか、いろいろな媒体で少しずつニュアンスが違う。結局のところよくわからない。
 朝日新聞(8/25)によれば「地震や津波で電源を失って原子炉の情報が得られず、どの部分から放射性物質が漏れているのかもわからなくなった」「放出源情報を把握し、予測できるという考え自体が安全神話だった」「こうした教訓から、原子力規制委員会が昨年改定した指針では、予測に頼らず判断することにした」ということで、確かにそう言われればそうかもしれないとも思う。
 しかし同日のテレビ朝日「ニュースステーション」の古舘伊知郎氏は、福島原発の事故の際には、公表されなかったことは問題だったが予測はおおむね正しかったと指摘し、今回の政府方針に疑問を示した。
 朝日の記事には「(事故原発から)5キロ圏は放出の有無にかかわらず即避難。5~30キロ圏は屋内退避を原則とし、実測値をもとに避難の必要性とタイミングを地域ごとに判断する。不確実な予測よりも迅速で的確に対応できるとの考え方が背景にある」と書かれているが、SPEEDIで「地震や津波で電源を失って原子炉の情報が得られ」ないことが問題だったのなら、そもそも30キロ圏内の実測データだって手に入らない可能性が高い。なんだかあまりにも矛盾した話だ。

 ここにもなんらかの、誰かに都合の悪いことが背景に存在しているのではないだろうか。うがって考えれば、むしろSPEEDIが正しく予測してしまうことが不都合なのではないのか。なんともすっきりしない話だ。

「選別・純化」と「寛容・多様化」

2014年08月24日 10時25分44秒 | Weblog
 清潔が行きすぎた無菌世界になると、今度はアレルギー疾患が増えるという話がある。昔の日本の衛生環境は今よりずっと悪く、ぼくも子供の頃に寄生虫検査の検便を毎年おこない、「虫下し」を飲まされた記憶がある。その当時からもちろん花粉症やぜんそく、アトピーなども存在していたが、まだまだ少数派だった。
 人間が快適で安全な生活を求めれば求めるだけ、それをあざ笑うように地球環境は新しい危機を生み出してくる。さらに開発と国際化によって交通が飛躍的に発達したために、いったん発生した新たな感染症があっという間に広がり、対策が追いつかないうちにパンデミックを引き起こす構造が作られてしまった。
 だがこれは病気だけの話だろうか。
 「イスラム国」の報道に接する度に、ぼくはこれも政治的な無菌状態を作り出そうとした世界に対するしっぺ返しのように見えてしまう。ポスト冷戦というアメリカ一国支配体制戦略、すなわちグローバリゼーションを欧米陣営が、しかも結局は圧倒的な軍事テクノロジーをもって強行しようとしたことが、「イスラム国」のような誰にもコントロールが利かないカルト的暴走を生み出したのだと考える。
 20世紀の世界では政治を「右翼」「左翼」とカテゴライズしたけれど、すでにそのような分別は不可能となった。ぼくはむしろ「選別・純化」派と「寛容・多様化」派として考えた方がよいのではないかと思う。
 我々がいわゆる「右翼」としてイメージするのは、たとえば民族主義とかナショナリズムという形で自分と他者の違いを見つけ出し、自分と違う他者を自分のエリアから排除しようとする動きである。これはつまり「選別・純化」の動きだ。しかしもちろんそれは、いわゆる右翼だけのものではない。かつてのソ連や日本の新左翼運動の内ゲバを見てもよくわかる。
 「選別・純化」には、放っておくとそれがどんどん深まっていくという性質がある。はじめは普通の隣人がただ自分と違う宗教であるというだけの認識だったものが、やがて変な人、自分と違う人になり、社会の疎外物と思われるようになって、ついに社会の敵として排除の対象になる。しかし「選別・純化」の深化の問題はそれだけではない。こうした動きと同調して、同じ宗教同士の間でも他宗教を積極的に擁護する人々が排除され、そのうち同情していただけの人が排除され、最後はただそうした疑いをかけられただけで排除されるという過程が進む。もちろんこれは別の場合には宗教ではなくて政治思想だったり、種族であったりするのだ。いわゆる「クレンジング」はこうした状況である。
 「選別・純化」に対抗する手段として一番わかりやすいのは、同じような「選別・純化」で対抗することである。なぜなら「選別・純化」に「寛容・多様化」で挑んだら結局相手を認めて飲み込まれてしまうからだ。しかし「選別・純化」同士が戦っていっても結局「選別・純化」がさらに進行するだけである。
 その答えはおそらく近代合理主義をどう乗り越えるのかということにかかってくる。しかもそれは近代からの後退であってはならないというところがやっかいだ。だがそれを見つけない限り、現状を打破することは出来ない。

局地的豪雨・出血熱・原理主義

2014年08月21日 23時40分50秒 | Weblog
 広島では昨日(20日)未明、局地的な豪雨による同時多発的な土砂災害が発生し多数の死傷者・行方不明者を出した。テレビでは現地に多数のレポーターを集結し大きな枠で報道を続けいてる。どうもいまだに被害者は増えているようだ。大変悲惨な状況である。

 余談だがこの災害を受けて天皇、皇后、皇太子一家は恒例の夏の「御静養」を取りやめたのだが、安倍総理大臣は夏休み中で、右翼・笹川日本財団会長の別荘から対策を指示しただけでそのままフジテレビ会長らとゴルフを開始。しかしさすがに管官房長官がまずいと判断したため、2時間で切り上げ東京に戻った。ここで記者らに顔を見せたのだが、実はまた夕方には別荘にとんぼ返りして、やっと今日(21日)の午後別荘を出立したと言う。ネトウヨは盛んに別に問題ないと安倍批判に対する反批判に躍起だ。いろいろなことを感じさせる動きである。

 広島の災害でそれ以外の話題は吹き飛んだ感じだが、世界的にはエボラ出血熱の拡大が深刻な問題となっている。一部の報道では東南アジア圏でも発生したのではないかと伝えられた。
 マスコミや政府は「日本は大丈夫」と繰り返すが、本当のところはよくわからない。「原発は安全」と言われ続けてきた結果が現状のような先の見えない無限の悪循環である。たぶん日本にはエボラ出血熱の患者が出現した場合の対応マニュアルが無い。もしくは全く世の中に浸透していない。もう聞き飽きた観がある「想定外」がまた繰り返されることになるだろう。

 一方で政治的・軍事的問題も解決の糸口が見えないまま、各地で泥沼化している。アフリカ中部、ウクライナ、中国国内テロ、パレスチナ、そしてシリア、イラクの「イスラム国」である。
 日本人拘束に続いて今度はアメリカ人ジャーナリストの処刑動画がネット上で流された。彼らを止める術(すべ)は今のところ無い。

 また余談だが、「イスラム国」に拘束された日本青年の背景はいまだに不可解である。全く軍事的訓練を受けたことがない青年が、なぜ突然民間軍事会社を立ち上げ、最も複雑で危険な紛争地に単身乗り込んで銃を撃って見せたりするのか? ただの軍事マニアの酔狂だったのか、それとも何か全く別の背景が存在するのか。とにかく何から何まで不自然で不可解である。
 そんな中、IWJ等の報道によればこの青年は右翼政治家との密接な関わりがあるということがわかってきた。とりわけあの極右・田母神元航空幕僚長とのツーショット写真がマスコミに注目されている。しかし当の田母神氏は青年との関係を全面否定してこの問題に対して一切関わろうとしないので、逆に表に出せない関係性があるのではないのか思えてしまう。うがった見方をすれば、安倍政権の集団的自衛権行使戦略のために裏側で何かをさせようとした可能性もある。そうでもなければカネも力もないただの青年が唐突に民間軍事会社を立ち上げられるとは思えないのだ。つまりこの会社は何か(誰か)のダミーであると考える方が自然である。…とまあ、それはともかく。

 こうした自然災害や疫病、原理主義者の跋扈という問題は、もちろん全く関連性のないことのように見える。しかしもう少し深いところで見れば、これらはいずれも近代という時代の限界を示しているのだと見ることも出来ると思うのだ。

 広島の災害を生んだのは、いわゆる過酷気象であり、その原因は地球温暖化にある。温暖化の原因が何なのかというのは学者のレベルではいまだに論争の渦中にあるが、事実上、温暖化物質の地球規模での制限が全く出来ないことが原因であることは間違いない(科学的原因がなんであるにせよ、これを食い止めるには温暖化物質の排出を無くさねばならないという意味)。
 エボラ出血熱は密林の開発、減少に原因がある。これまで人間がほとんど立ち入らない場所に人々が入り込み、その環境の中に封じ込められていた強力な病原体と接触するようになったことが、対策のない新たな感染症のパンデミック発生の原因である。
 こうした問題は、ようするに人間が限界を越えて強欲を爆発させ、経済発展至上主義、拝金主義、歪んだ合理主義と競争社会に陥ったために引き起こされたのである。環境問題はもうはるか昔から指摘されていたのに、人類社会はそれを全く止めることが出来ずにきて、それはこの事態になってもなお止む気配がない。
 そして原理主義者がわき出てきて、しかも圧倒的な勢いで勢力を広げる原因もまた、近代社会が強欲によって過激な競争社会、格差社会を作り出してきた結果なのである。人々が、とりわけより多く取る人々が、格差縮小・平等主義の世界を作ろうとしてきたら、原理主義者が主導権を握れたはずがない。

 つまりこれらの問題はどれも近代主義=資本主義が極限まで肥大化し腐敗してしまったことを表現しているのである。
 確かにある時には近代は画期的な人類の発展段階を示していた。しかしそれは(人類史である以上当然なのだが)最初から矛盾を内包していたのであり、誕生、発展、成熟、爛熟=腐敗、終焉という過程をとらざるを得ない。おそらくリベラリストの多くはいまだに資本主義社会は発展段階、もしくは成熟期に入りつつあると考えているだろうが、この時代が生み出した物事がこのように地球人類の存亡にまで関わる事態になってきたことを考えると、やはりこれは腐敗から終焉に向かう過程に入ったと言わざるを得ない。

 いったいいつになったら人々は永遠の夢を見続ける「現実主義」を脱し、真の現実を見すえる「理想主義」に目覚めるのだろう。

Nさんへの手紙(7)~「イスラム国」について

2014年08月19日 18時18分40秒 | Weblog
Nさん

 「イスラム国」の件ですね。なかなか難しい問題ですが、ぼくは「イスラム」国の出現は現代史の必然だと思います。
 この問題のそもそもの始発点は、イギリスによる第一次世界大戦時の「三枚舌外交」からパレスチナの植民地化、1948年のイスラエル建国=パレスチナ人追放といった歴史にさかのぼります。このパレスチナ問題を国際社会が解決しないまま放置し続けた結果、世界中のイスラム教徒に広く欧米キリスト教社会に対する非和解的不信感が根付いてしまったのです。

 しかしそれも1990年ころまでは、まだ宗教問題と言うよりは政治問題として基本的には正しい認識が多勢を占めており、イスラム側の闘争の対象はイスラエルとかアメリカという国家や軍隊、もしくは帝国主義などの侵略勢力として捉えられていました。そしてその政治・軍事闘争を直接・間接に支えたのが国際共産主義運動だったわけです。別の言い方をすればパレスチナ問題を基点とするイスラム教勢力の闘争は、東西冷戦の枠組みの中に組み込まれていたと言えるでしょう。

 ところが冷戦の終結とそれに伴って起こったマルクス主義の没落が事態を変質させました。「社会主義国」は次々崩壊しアメリカひとり勝ちの世界になりました。しかしだからと言って世界に広がる矛盾が無くなったわけではなく、むしろアメリカによるグローバリズムという名の世界支配は強化され、選別と格差はより激化しました。現在では、比較的平和だったヨーロッパ諸国でさえ移民排除という形でイスラム教徒への差別排外主義が広がり、対立は深刻化しています。
 それなのに虐げられる人々はマルクス主義という抵抗の思想まで奪われてしまい、その空隙に浸透してきたのがイスラム原理主義だったのです。つまりマルクス主義が消えたところにイスラム原理主義が置き換わっていったのです。

 もちろんマルクス主義運動には多くの問題点、不十分性がありました。しかしそれでもそれは近代西欧思想の系譜にあり、そこには一応は合理主義や人権思想がありました。あまりにも近代から外れることは出来なかったのです。冷戦時代には現在の中国や北朝鮮、もしくはポルポト派のようなむちゃくちゃな勢力はまだ少数派だったのです。
 けれども残念ながらイスラム原理主義は近代西欧思想ではありません。そもそも反近代、反欧米思想で、合理主義や人権主義は重視されていません(とは言っても実は単純な前近代思想とも言えません。ぼくは劣化した現代思想だと考えていますが)。そうなってくると対立の渦中における対話が成立しにくくなります。問題の解決がより難しくなってしまったのです。

 そんな経緯の中で、アメリカやその陣営が選択したのが軍事力によるイスラム勢力の制圧戦略でした。アフガニスタン侵攻や第二次イラク戦争が象徴的ですが、アメリカ軍の質的量的な圧倒的優位を背景に一気に武装勢力を一掃してしまったのです。しかしその結果なにがおこったか? 闘争をまとめる「頭」が無くなり、闘争が個化し細かく分散してしまったのです。いわばイスラム原理主義の闘争は、象の体にたかるアリ、人間の体の中に広がる悪性ウィルスのようなものになってしまいました。もはやそれぞれの勢力の間に統一性は失われ、ひとつを叩いても(もしくは幸いにして対話が可能になったとしても)他は全く関係なく闘争を継続してしまいます。闘争の現場ももはや限定されなくなってしまいました。世界中のあらゆる場所がテロのターゲットになってしまいました。

 こうなってしまうと、もはや交渉する相手さえありません。アメリカとその陣営は事態を最悪のところまで悪化させてしまったのです。ぼくは「イスラム国」というのがその極限の姿なのではないかと思います。一応マスコミはテロリスト集団と規定していますが、ぼくはむしろ前述したアリというかウィルスというか、そうした存在が集結した「場」でしかないと考えるべきだと思います。もはや従来の国家とか武装勢力と言った集団とか団塊とは違う質のものを感じます。「イスラム国」というとらえどころのない自称がそれを如実に表しているのではないでしょうか。
 国家とか軍隊とかとは違う、ただの「場」でしかないとしたら、これと戦うとしても、これまで蓄積された軍事思想、戦略、戦術では対応しきれないような気がします。ここまで来てしまった以上、もはや考え方を全く変えて一からイスラムとの共存の方策を探っていくしかないというのが、ぼくの意見です。

 確かにNさんもご指摘になっているように「イスラム国」は同じスンニ派の別の勢力とも非和解的で、アルカイダからも破門されたようです。おっしゃるように「イスラム国」との融和・共存は、現状では不可能だと言うしかないのでしょう。けれども不可能だと言い続けていたら永久に可能性は出てきません。そこに何らかの突破口を見いださないと、この状況はどこまでも悪化し続けるしかありません。
 それでは「誰がどうやって」やるのかというご質問ですが、その突破口を見いだすのは経緯から言って、本来まずはアメリカの責任です。
 具体的には様々な方法があると思います。非武装の交渉者を現地に多数派遣して相手側の周辺から相手の文化と尊厳を損なわない形で対話の糸口を探るべきです。その際アメリカの中東における利権を基本的にすべて放棄する覚悟が必要です。またイスラエルへの支援を止めてパレスチナの封鎖を解き、新パレスチナ国家建設を積極的に進めることです。
 そんなことは、ぼくが言うまでもなく誰でもわかっていることです。ただアメリカが何が何でも自分の権益を守り抜きたいからやらないだけのことです。

 日本にもやれることはたくさんあります。まずは集団的自衛権行使容認の閣議決定を取り消し、中東において完全中立の立場表明をすることです。経済支援や医療、文化支援を大規模にやるべきです。現状なら、まだ日本は中東に受け入れられている部分が大きいのです。当然ですが今回の事件のような民間軍事会社など許さず取り締まらねばなりません。これらのことは政府が決断さえすれば別に難しいことではありません。

 しかしおそらく権力者はやれることをやらないでしょう。自分の目の前の利益だけしか考えていないからです。でもそんなことを言いはじめたら「誰がどうやって」という質問自体がまったく無意味です。やる気のある人が誰もいないのであれば「誰がどうやって」という設問にどんな回答したところで虚しいだけです。
 そうだとしたら「誰がどうやって」という答えは結局たったひとつしかありません。「やることのできる自分が、できる限りのことをやる」というだけなのです。つまりNさんご自身が出来る限りのことをやるしかないのです。
 そしてそれは具体的に何かと言えば、現在の安倍政権の方針を変えさせる、日本の政治の方向を変えさせるために出来るだけの努力をすると言うことにしかならないでしょう。
 そんなことか、遠回りで先が見えないとお思いになるかもしれません。しかし現在の状況は始めに書いたように100年かけて作り出されたものなのです。そんな事態を簡単に修正できるような特効薬はどこにもありません。
 おそらくこう申し上げても自分一人の力がどれほどの力を持つのかと思われるでしょう。しかし「バタフライ効果」(ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起こる)ということが言われています。何がどんな効力を発揮するのかなど誰にもわからないのです。

 繰り返しますが、アメリカにやる気がないなら日本がやるしかありません。日本政府もやる気がないなら民間のボランティアがやるのです。そしてまずは自分自身がやれることをやることから始めるしかないのです。やれるかどうかではなく、出来なかったら世界はどんどん壊れていくということなのです。

集団的自衛権の先行事件

2014年08月18日 09時35分47秒 | Weblog
 シリアで日本人男性が「イスラム国」によって拘束されたというニュースが報道されている。しかしそのこと自体より、この男性が日本初の民間軍事会社の社長であるという事の方が衝撃だ。ぼくも日本にこのような会社が存在しているとは知らなかった。
 これはまさに集団的自衛権のテストケースである。国家に規制されない民間企業が先行的に事実上の海外派兵を行っていたのだ。そしてその結果がこれである。
 これで思い出すのは2004年のイラク日本人人質事件である。あの右翼連中が大はしゃぎした「自己責任論」の事件だ。先日の朝日新聞に当事者の一人である高遠菜穂子氏へのロングインタビュー記事が掲載されていた(2014/8/9別刷「be」)。同氏によれば2004年2月に当時の小泉総理大臣が自衛隊をイラクに派兵し、それを受けて現地では反日本人感情が生まれていたらしい。彼女を拘束した武装勢力は「日本人はよくない」「殺せ」「スパイだ」などと叫び、「ノー コイズミ」と合唱して被拘束者にも同調するよう強要したという。
 現在の安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定を受けて、在外活動を行っている多くのボランティア団体が危機感を強めている。もし本当に自衛隊が集団的自衛権の名の下に海外派兵されたら、もう現地活動は出来なくなるだろうと言われている。
 今回の事件がどのように推移するのかはわからない。しかし集団的自衛権に賛成の人も反対の人も、この事態について注目し、よく考える必要があると思う。

理解できない

2014年08月16日 20時56分45秒 | Weblog
 ときどき自分がこの世界の中で全く違う存在なのではないかのかと恐ろしくなることがある。ぼくにとって常識以前のあまりにも当たり前のことが、実は世の中ではまったく当然のことではないということを知るときである。
 今日の新聞は昨日の終戦記念日の特集記事が多かったのだが、その中で何カ所も、若者が「反戦の押しつけ」に反発しているという内容の文章が見受けられた。どうしても理解が出来ない。いったい「反戦の押しつけ」などということがあるのだろうか?
 庶民はずっと権力者から戦争と闘争を押しつけられてきたのであり、そもそもいくら望んでも戦争のない世界など手にしたことがない。そういう世の中でいったい誰が誰に反戦を強要できるというのか?
 百歩譲って反戦の押しつけがあったとして、しかしそれは反発されるようなことなのだろうか。たとえば「人を殺してはいけない」と誰かが主張したとき、それが「殺人否定を押しつけられた」と言われるだろうか。「人のものを盗んではいけない」と言ったら「犯罪禁止を押しつけられた」と言うことになるのだろうか?
 「反戦の押しつけ」という言葉はぼくには全く理解できない。もし説明できる人がいたなら教えて欲しい。

偽善と正義

2014年08月15日 10時58分52秒 | Weblog
 8月15日が来た。

 ぼくにとっては非戦・反戦の記念日なのだけれど、残念ながらだんだん戦争肯定のキャンペーンの日になりつつあるようだ。しかしこれはどう考えてもおかしな話だ。戦勝記念日ではないのだ。敗戦の日なのだから、もしナショナリストであったとしても日本を敗戦に追い込んだ相手を批判、非難、否定するべきだろう。ところが実態は原爆を投下し、都市への無差別空襲を敢行し、日本兵と在外日本人を玉砕に追い込んだアメリカ合衆国を批判するどころか、べったりくっついて一番の子分として認めてもらおうと必死の様相だ。まさに日本の右翼・ナショナリストの大半はポチであり、文字通りの「売国奴」である。

 何かの戦争に関わる記念日が近づくと、非戦派、反戦派、平和主義に対する攻撃とかネガティブキャンペーンが行われる。今回は朝日新聞の従軍慰安婦強制連行の報道がでっち上げの虚偽報道だというキャンペーンが張られ、右翼政治家たちが国会で問題にしようとはしゃいでいる。
 正直言ってこの問題について、ぼくはまだちゃんと調べていないし検討することが出来ないのだが、ただ一般論としてやられた側が少なくとも事実上の強制があったと訴える以上、やった側が何十年も経って生きた証人がいなくなってきた段階でそれを否定するというのは、やはり道義にもとると言いたい。犯罪者は犯罪を犯したとは言わないのだから。

 今の親はどうなのか知らないが、昔の親は子供が喧嘩をすると叱った。勝とうが負けようが、喧嘩をすること自体をとがめた。先に手を出したり、自分より弱い子をいじめたら怒られた。そのことを隠したらもっと怒られるというのが常識だった。
 まさに日本の右翼・ナショナリストがやっていることは、弱い者イジメをしたクソガキが、自分はやってない、自分は悪くないと開き直っているようなものだ。そして親たる国家はそれを叱らないどころか、むしろ積極的にそれを推奨している。まわりの親(国)たちはその姿をあきれかえって見ているのだ。全くろくでなしの親子である。
 どんな宗教、どんな道徳でも、他人を責める前に自分のやったことを謙虚に反省することを求めている。むしろ相手を許す心を説いている。ところがそれが出来ないで自己中心的に自分の都合の良いように古い教えを解釈して傍若無人に振る舞うのが、いわゆる原理主義者である。その意味では日本の右翼・ナショナリストはまさに原理主義者だと言ってよい。忍耐と謙虚さと自己犠牲を誇った「日本精神」はどこへ行ったのか?

 確かに朝日新聞は「誤報」をしたかもしれない。良いことではないけれど、間違いがゼロになることもないだろう。重要なのは根底に持つ精神であり思想である。過去の歴史をどう評価するのかという根本的な視点に基づいてマスコミ報道は行われるのであり、つまり今回の「朝日バッシング」はそうした視点を巡っての騒動だと考えられる。まあもっとも、そうだからと言って朝日新聞が必ずしも反戦・平和主義であるとか、反侵略であるとは思えないところもあるのだが。

 人間は誰しも不十分な存在である。本音と建て前、裏と表もあるだろう。しかし自分が完全でなければ他者を批判できないというものではない。そうであったら、それこそ誰も何の批判も出来なくなる。偽善と言われようが、やはり正しいことは正しいと言うべきなのだ。強盗殺人犯が道徳を語ったら、それはほとんどの人の心に届かないかもしれないが、しかしそれでもその内容が正しければ納得せざるを得ないだろう。自分のことを棚に上げるというのは卑怯なことだ。しかしそれが自分の利益のためのことでないのなら、正義を語ることに意味はある。

 新約聖書の福音書の中に「罪なき者まづ石を擲(なげう)て」という言葉がある。これは罪のない者だけが正義を語れるという意味ではない。なぜなら聖書の世界観では人間はみなあらかじめ罪人なのだから。つまり正義をなそうとするならば、まず自らを省みるべきだと言っているのである。人を批判するのなら自分のことも反省せよという意味だとぼくは解釈する(もちろん「罪と罰」のバランスというテーマもあると思うが)。
 同じ問題を同じように批判するにしても、自分の中で恥を感じるかどうかは大きな違いである。自分の中に恥を感じるのなら、他者を批判する言葉は同時に自分に対する批判となってこだまするはずだ。批判は快楽ではなく苦痛であるはずだ。それこそが本当に意味のある批判なのだと思う。

 正義を語ることを偽善と言って回避するより、他者を批判する苦痛(それは自分自身を刺す苦痛)をかみしめながら、なお正義を語るべきだと思う。

安倍氏の「コピペ」は意図的である

2014年08月12日 10時48分00秒 | Weblog
 安倍首相の広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式と、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典でのあいさつが、「コピペ」だと言って批判されている。とりわけ冒頭部分は昨年のあいさつと数字を入れ替えただけで全く同じもののようだ。
 問題はおそらくこれが安倍氏の意図的な「演出」であることだろう。確かに多くの人が指摘するように、この文案は官僚の作文と思われる。まず第一に、安倍氏は原爆慰霊に際して特に自分の言葉で語る情熱を持っていないという点である。あの集団的自衛権の行使容認の閣議決定に際しては、ボードのイラストを何度も描き直させるくらいに事細かく注意を払い、自分の言葉で説明をしたのに対して、これはあまりにも形式的だ。
 もうひとつは、この「コピペ」問題が広島式典の報道においてマスコミに指摘されたにも関わらず、長崎の式典でもそれをあえて直させることもなく、同様の「コピペ」を読み上げたことである。当然、総理大臣がこの問題を国民の声として聞いているなら、官僚に対して言葉を直すように指示することは簡単にできたはずだ。官僚側もそう言う指示を受ければ、ただの言い回しに過ぎないのだからすぐに修正することが出来ただろう。
 しかしあえて安倍首相はそれを訂正することなく読み上げた。これはつまり意図的であり、このことの中に安倍氏のメッセージが込められていると考えざるを得ない。つまり安倍氏はあえて今回のあいさつを形式的・形骸的に行うことをもって、広島や長崎の人々の抗議は受けつけない、原爆の問題は言葉上は否定的に語るが、実際の自分の心の中ではたいしたことではない、むしろ核兵器の力をもっと使うべきだと思っている、ということを暗に示したのである。まさに日本の戦争責任、従軍慰安婦問題などと全く同じ構造だ。口先では謝罪や遺憾の意を表しながら、実際には全く反対のことを考え行動する。二枚舌というのもおぞましいような、恐ろしい権力者の偽善的ポーズである。何度も書くけれど、ぼくはこういうのを見るとティム・バートン監督の「マーズ・アタック」の侵略宇宙人を思い出してしまう。拡声器で平和を訴えながら地球人を虐殺していくあの場面だ。

 しかし長崎の市長ははっきり集団的自衛権行使容認に対して疑義を示したし、被爆者代表(城台美弥子氏)は次のような激烈な言葉を語った。

「いま進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。日本が戦争が出来る国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。
「武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているじゃありませんか。日本の未来を担う若者や子どもたちをおびやかさないでください。平和の保証をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、無かったことにしないでください。
「福島には原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、余所へ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、おこなっていいのでしょうか? 使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討してください」

 あまりにもまっとうな意見である。小難しい理屈をこねなくてもこの方の言っていることは整然と首尾一貫して論理がすっきり通っている。式典後の被爆者との懇談会でも被爆者から首相の意図をただす質問がいくつも出されたようだが、結局、安倍氏は国会論戦と同じようにそれに直接答えることなく、話をはぐらかしたらしい。
 政治家は言葉だと言われる。民主主義は言論による闘いだと言われる。しかしそれは政治家が自分の信念を率直に語り、真正面から論争することを言っているのであって、自分に都合の悪いことには答えず、相手の疑義を晴らすことなく、一方的に自分の作り上げた論理で強行突破していくのでは、どこにも民主主義は存在し得ない。それはただの多数決主義であり、数の暴力でしかない。
 言葉遣いは丁寧でも(世界中の独裁者の多くは丁寧に穏やかに語るものだ)、平等の立場で相手の意見を真摯に聞く態度がないなら、それは暴虐でしかない。

『世界征服~謀略のズヴィズダー~』を(完全ネタバレで)語る

2014年08月10日 13時15分49秒 | Weblog
 「謀略のズヴィズダー」は警告であり、希望の提示であり、革命論である!

 『世界征服~謀略のズヴィズダー~』は、2014年1月から3月にかけて放送されたテレビアニメである(監督・岡村天斎/シリーズ構成・星空めてお/キャラクターデザイン・黒星紅白 他)。
 内容は一口で言えば、変身ヒーロー・アクションコメディだ。もう少し言うと、仮面ライダーとか戦隊ヒーローものに出てくるような悪の秘密結社の怪人の側から描くドタバタコメディで、そこに学園ラブコメや魔法少女、怪獣、SF、ミリタリー、バイオレンス・アクション、ポリティック・ミステリーなどの要素がちりばめられている。連続ドラマだが各話毎にテイストが相当違い、まるで万華鏡をまわしながら覗いているような感じを受ける作品だ。
 基本的に明るく軽いコメディだが構成はかなり複雑で、最初はミクロな一点から始まって徐々に視野が拡大し、最終盤まで観てはじめてこの世界がどうなっているのかがわかる仕組みになっている。だからこの作品のテーマを語ろうとするとどうしても、いわゆるネタバレにせざるを得ない。
 もしこのアニメを楽しみたいのであれば、この記事はお読みにならない方がよいかもしれない。

 物語の舞台は架空の都市である「西ウド川市」だが、現実の東京都下の地理とかなり正確に重なり、立川市、東村山市、東大和市の市域になっている。おそらくロケハンもその付近で行われたのであろう。
 主人公の少年(地紋明日汰=戦闘員ドヴァー)は中学二年だが、父親とケンカをして家出状態になってしまう。少年がいる場所は一見普通の駅前に見えるのだがどうやら戒厳令が敷かれているらしい。家に帰りそびれた少年は、ひとけ無く戦車だけが爆走する夜の町中で、小学校低学年に見える謎の幼女(星宮ケイト=ヴィニエイラ)と出会う。幼女は自分を世界征服を目指す悪の秘密結社の総帥であると名乗り、少年に自分の配下に入るよう迫る…というのが導入部である。
 秘密結社の名前はズヴィズダー。不思議なテクノロジーを操って世界征服を目指す怪人集団だが、変身する前の普段の姿は女子高生、ヤクザ、ウクライナ人少女、ロボットなどで、合宿(?)しながら普通(?)の生活を送っている。一方の「正義の味方」は元をたどれば飛鳥時代から続く少女だけで構成される陰陽師集団・ホワイトライト(+一般のホワイトライト軍)である。ホワイトライトの隊長(ホワイトロビン=駒鳥蓮華)は実は少年と同級生の女の子で、お互いに正体を知らないまま私生活ではなんとなくひかれ合っているという、まあお約束のマンガ的設定もある。

 徐々に明らかになるのだが、このアニメの世界では日本全体が内乱状態にあり、東京勢力対非東京勢力の覇権闘争が続き、東京は東京都軍を各地に派遣、いよいよ九州など一部を除いて日本全国を東京が制圧したというところに来ている。作中にはホワイトライト、自衛隊、都軍などいくつかの暴力装置が登場するが、どうやら日本政府と東京都の二重権力構造になっているらしい。
 この内乱を引き起こしたのは東京都知事(地紋京志郎)で、実は主人公の少年の父親であることが後にわかる。都知事は強権的な独裁者であり、ニヒリストであり、家庭を顧みない「強い人」だ。少年はそうした父に反発して家出したのである。
 作品の舞台である西ウド川市は、そんな中、唯一の中立都市を宣言し戦乱に巻き込まれることを回避してきた。だから西ウド川市を一歩出ると、そこは戦乱で破壊された廃墟が延々と続いている。作品の最終盤で都知事はついに西ウド川市を強制的に併合・解体しようとする。その式典が最終決戦の舞台となる。

 この作品が放送された時点では、現実の東京都知事は舛添要一氏であったが、それ以前は極右タカ派の石原慎太郎氏が長く君臨し、それを受け継いだ猪瀬直樹氏が独裁者と呼ばれた。この作品の中には明らかにこうした都知事のイメージが反映している。石原氏は東京都知事であるにもかかわらず国政問題としての領土・領海問題に積極的に関与し、東京から遠く離れた尖閣諸島を都有地化しようとした。また都条例の強化などを通じて「不健全」なメディアや場所を徹底的に叩いた。
 また作品の舞台である東京三多摩地域は伝統的に住民運動や市民運動、さらには左翼運動の拠点であった。実はぼく自身も左翼党派の活動家だったときに赴任したのが三多摩地区で、実際にこうした場所で活動していた。立川は立川基地反対闘争が数十年にわたって地道に続けられてきた場所であり、今から3~40年前には、中央線沿線の各駅ごとに新左翼各派や市民運動などの拠点が存在した。

 そうした脈略で見ると、ズヴィズダーの「征服」というものが、革命の比喩であると読むことも出来る。そもそも「ズヴィズダー」という単語はロシア語の「星」を意味するそうだし、ホワイトライト側のコードネームが「ホワイトロビン」などの英語であるのに対し、ズヴィズダー側の通り名はロシア語のようである。こうしたところは東西冷戦の米露対立のパロディというニュアンスがあるのかもしれない。
 ズヴィズダー総帥である幼女=ケイトは、設定上は「古代ウド川文明」に興った王国の王女で、世界征服の使命を受けたのだが、それ以降、成長することも死ぬことも出来なくなったということになっている。ちなみにズヴィズダーが用いる超科学的機器・武器などは、この古代ウド川文明の秘密の遺産である。
 世界征服を志したとたんに成長が止まり不死になるといういうのも、ひとつの暗喩として読むことが出来る。ひとつはそれは汚れた大人の論理ではなく、青少年時代に人が持つ純粋な理想であることを意味し、そしてまたそれは人類に文明が発生して以来の永遠のテーマであることを意味しているのではないだろうか。「世界征服」は人類間の争いを消滅させ、共存できる世界の定立を言っていると、ぼくは解釈した。
 そもそもズヴィズダーの「征服」は武力によらない。ウィキペディアの記載を引用するならそれは「「征服実行」による「ヴィニエイラ式変異打倒説得術」(中略)ただし、「説得」に応じる「心」を持つ者でないと無効化される」ものである。

 第一話でそのケイトが初めて本格的な征服を開始した場面、敵方である自衛隊の戦車隊長との会話を引用してみる。

隊長「おい、何をする気だ。貴様一人で何が出来る?」
ケイト「確かにそうだ。わたし一人では何も出来ない。…お前たちが必要なのだ。征服される世界のために! お前たちはその力で何を守る気だ。家族か? 国家か? 未来か? 戦車で守れるのはくだらん軍需産業だけだ。秩序で守れるのは妥協だけだ。平和なんぞで守れるのは昨日だけだ! この世界を守れるのはただひとつ! 征服だ! 征服しかない! 世界は征服されたがっている。わたしにはその声が聞こえる… 征服の、征服による、征服のための、征服っ!」
隊長「そ、そんなの… リンカーンのパクリじゃねえかあー!」

 どうだろう? 「征服」を「革命」に置き換えるとしっくりこないだろうか。もっとも最後のリンカーンのくだりは、この後のシーンにつながって、また別の比喩(暴力に負けてしまったら理想は実現できない)にかかってくるようにも思えるが。
 「征服」について、もうひとつ、最終回で都知事と直接対決するケイトの会話も引用してみよう。

都知事「じゃあ何か、おメェはいちいち倒す相手の前にそのツラさげに行くってのか? それがお前の征服だってのか!」
ケイト「そうだ!」
都知事「うっ? …ふっわっはっはっは、あっはっはっは!」
ケイト「何がおかしい! 行くのだ。わたしはこの足で、世界中の全ての者に会いに行く。この世界に共に生きるローニャクニャンニョ(老若男女)に会いに行くっ。その者たちをことごとく征服するために! その程度やり遂げずして何が世界征服か!」
都知事「夢みてぇな事を… それじゃまるでてめぇが征服される方じゃねえかぁ! 世界中と顔なじみになって、それからどうすんだぁ! えぇっ!」
(中略)
ケイト「地紋京志郎、ケンボージュチュチュー(権謀術数)にチュカ(疲)れ、理想を過去に置いてきたと言うのなら、思い出させてやろう、この拳でなあ!」
都知事「理想なんてくだらねぇって言ってんだろぉっ!」
ケイト「求める限りあるのだ。それが征服の力なのだ! 理想を失ったそんな軽い気持ちで、誰の心も動かせるものかあーっ!」

 胸のすくクライマックスのタンカである。ここに見られるように、ズヴィズダーにおける「征服」は、相手の懐に飛び込み自らが征服されることによって、はじめて成し遂げられることなのである。それは逆説的に都知事のやり方=暴力によって強制的に人々を従わせるのとは真逆であることを示している。また別の言い方をすればこれは理想主義対現実主義の対決でもある。

 『世界征服~謀略のズヴィズダー~』は、こうした読み方をしたとき、現在の日本に広がりつつある国家主義的、強権的・暴力的な支配に対する警告であると同時に、しかしそうした動きを跳ね返す希望が存在することを教えてくれる。それは現実主義を掲げた強権ではなく、心によってつながろうとする理想主義をもって対抗することであり、それはまさに革命であり、しかもそれは自分が征服するのではなく相手に征服されることによって実現されるようなものであるべきだということなのである。

 ズヴィズダー総帥・ケイトはボスキャラ=都知事をも殲滅するわけではない。都知事から理想主義を奪い背後で操る「やつら」が存在することを知っているからである。都知事は都知事でズヴィズダーを「やつら」の手先であると攻撃する。「やつら」が何であるのかは作中で語られることはない。今後の新作などで何かしらの展開があるのかもしれないが、ぼくなりに解釈するなら、それは人間の欲望の集合なのかもしれない。
 何度かこのブログで指摘したと思うが、近代は人間の欲望を全面的に解放した時代である。近代が特殊な時代であるのは、誰か特定のひとりの欲望ではなく、解放された欲望がそれ自体自己運動をすることによって社会が動かされていくからである。皮肉なことだが、それをアダム・スミスなどは「神の見えざる手」であると表現した。近代の初期においては中世の暗黒から人類を救ってくれる正義の神の力であったものが、やがて成熟してくると邪神(もしくは悪魔)に変わり、人々を苦しめるようになったのである。
 ぼくはこの作品で触れられている「やつら」を、まさにこの邪神=人間の制御されない欲望の集合=強欲思想であると考える。この邪神との闘いは困難であり、またその対抗手段は理想主義しかないのだけれど、それを永遠の子供の魂でもって掲げ続ければ、いつか人類は世界を本当の意味で征服=被征服できるかもしれない。

 もうひとつ、近代は疎外の時代でもある。古代からあった人間社会の紐帯は「カネ」「経済」の概念に全て置き換わり、人間と人間との生の関係性が失われてきた。近代の邪神と戦うためには、必然的にこうした疎外と闘い新しい人間同士の紐帯を築かなければならない。
 この点に関して、最終話の最後に加えられているエピローグから、ケイトと明日汰との会話を引用して終わろう。

明日汰「ケイト、お前さぁ『世界中の人の前へ押しかける』なんて言ってくれましたが、呼ばれもしないのに相手の心にズカズカ踏み込んでいく必要なんてあるのか? それって悪いことなんじゃ…」
ケイト「悪いとも! 迷惑千万きわまりなかろう! だがそんなもんは知らん」
明日汰「なっ、あ!?」
ケイト「お手軽な楽園が欲しければ勝手に閉じこもっているがいい。それでも未来は否応なくやってくるのだ。わたしの未来はきっとお前の中にもあるぞ、ドヴァー」
明日汰「無いね。ふん」

鎮魂の月に「死」を考える

2014年08月05日 21時27分22秒 | Weblog
 八月は鎮魂の月である。敗戦の月であり、またあの日航ジャンボ機墜落事件も八月だった。もちろんそれ以前にお盆の月であり、墓参りをされる方も多いだろう。
 先日テレビを見ていたら、ニュースショーの中で夫と同じ墓に入りたくない妻が3割いるという話題をやっていた。そういう人向けに女性だけの共同墓地が作られているのだそうだ。ちなみに男性だけの共同墓地は需要が無いらしい。
 ぼくは結婚していないので夫婦のことはわからないが、35年前に入った大学が偶然ながら仏教系の大学で、そこの教授の中にお墓について研究している先生がいた。もうすでにその当時から墓地の用地取得は将来的に難しくなるので何らかの対策が必要だ、共同墓地もそのひとつの解決策だというようなことを主張されていた。

 ぼくの父は末っ子でしかも生まれ故郷からはるか遠く離れてしまっており、ぼくの家の墓というのは無い。弟はすでに結婚して違う姓を名乗っているし、ぼく自身にも妻子が無い。これから墓を建てるという気はぼくにはさらさら無い。以前に書いたように(「果たせなかった花見」2014/4/4日)うちでは葬式もしないつもりである。
 いろいろ思うところもあるのだが、母は自分が死んでも誰にも知らせるなと言っている。現実にはそうもいかないだろうが、たぶんそもそも知らせなくてはならない相手がもうだいぶ亡くなっていたり、音信が途絶えていたりしているので、出そうと思ってもそうは出せない。

 ぼくも可能なら自分の死を誰にも知らせたくない。子供の頃から人間嫌いだったのだが、生きていく中ではそうも言っていられないので、それなりにうまく人付き合いをしていると思うが、歳をとるに従ってどんどんそういう人付き合いが面倒になってきた。
 もちろん人間がいかに一人で死にたいと思っても、そうはいかない。いずれにしても死んでしまっては何も出来ないのだから、誰かに後始末をしてもらうしかない。死ぬということははた迷惑な事なのである。しかし考えてみれば生きていたって、と言うよりむしろ生きている間の方がずっと他人に迷惑をかけているような気がする。結局、人間は関係性の中で存在する以上、本質的に迷惑をかけ合うものなのだ。
 人間の文化は基本的にそれを了解した上で構築されている。それがある面では社会的協働の基礎になっているとも言える。迷惑も受けるが、しかし協働・分業として繋がり合わないと自分自身が生きていけない。それは一対一対応の貸し借りのようなことではない。社会システム全体で迷惑と利益がバランスを取っているのである。考古学的研究によれば、老人の扶養や障がい者の介護は相当古い人類にも存在している。それを含めて社会であり、そうした社会を基盤として人間は共存してきたのだ。
 だがやがて社会の規模が大きくなり、社会的格差が大きくなると(つまり生産者が権力者により多く奪われるようになると)「うば捨て」のような、迷惑の切り捨てが起こるようになるのかもしれない。そして「個人」を基盤とする近代が始まると、迷惑と利益は数値化され一対一対応の等価交換にされていった。それが現代に入っていよいよ利益至上主義が蔓延し、「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉の意味が、倫理の問題ではなく経済の問題に置き換えられてしまった。

 話がそれてしまったが、そもそも人間の死とは何なのだろう。
 人は自分の死を認識することは出来ない。それ以前に人は自我という存在を介してのみ世界を認識できる。目で見て耳で聞いて体で触れて、それを脳で認識して、はじめて我々は世界の存在を知る。その意味では宇宙とは自分自身である。死とは自我の消失であり、それは極端に言えば宇宙の消滅であるとも言える。
 別の言い方をすれば、人は死なない。少なくとも自分の死は認識できない以上、認識できない事象は存在しないと言うしかない。死は常に他者のものなのである。人を葬り墓を建て儀式を行い続けるのは、本当は死者のためではなく生者のためである。

 さらに死をもっと別の視点から考えることも出来る。死とは文化なのである。現代社会では医療分野で移植医療が長く花形であった。ぼくはその分、再生医療分野の進展が遅れたと思っているが、それはともかく、移植医療を巡っては現在でも脳死が人の死かどうかが議論される。脳死という概念は移植医療のためだけに作られた一番新しい死の概念である。
 その直前までの死の概念は心臓死であった。これも実は近代合理主義・科学主義の中で人の死をどこかの極点において確定しなくてはならないという理由から作られた死の概念であった。医者(もしくは科学者、もしくは権力)が共通の基準で人の死の瞬間の時間を決定しなくてはならなかったからだ。
 しかし近代合理主義以前の死はもっと緩やかだった。たとえば日本仏教では死は、人が息をしなくなり冷たくなった日を命日としそれから49日間の間、魂がこの世とあの世の間を行き来する、もしくは地上でさまよっているとされる。御霊前とか御仏前とか香典袋に書く表書きが違う理由である。つまり人は息をしなくなってもなお完全に死んではおらず、何日もかかってゆっくり死んでいくのである。
 古代エジプトで支配階級の人をミイラにするのは、人の魂は死なずいつかこの世の肉体に戻ってくると考えるからである。この場合は死は本当の死ではなく仮象でしかない。そういう意味で死とは生理学的事象ではなく文化的事象であると言うことが出来る。

 死について人間は様々な感慨を持つ。どれが正しいと言うことはないと思う。それぞれの人にそれぞれの死があってよい。
 孤独死を恐れる人がいる。ぼくはそれを否定するつもりはないが、ぼく自身は何とも思わない。なぜなら前述したように「ぼくは」死なないからである。おそらくぼくにとって死は日常の延長でしかない。もちろん死とは虚無であり、虚無ということを考え出すと恐ろしい言うか、何か底のない地割れの中をのぞき込むような言いようのない不安を感じる。何しろ我々は「有」の世界に生きるのであり、「無」というものを認識できないのだから。また生物的本能として死に対する忌避感、防衛本能も働く。痛いとか苦しいというのも(死ぬほどと形容されるような)ちょっと遠慮したい気もする。しかしそれはそれであって、たとえば寝ている間に気づかないまま突然死するのなら、別に孤独死であろうがなんであろうがかまわないのだ。

 もちろんこれは、ぼくの個人的な死生観であって、他人に押しつける気もないし、他の人達の死生観を否定するつもりもない。むしろ積極的に尊重したいと思う。
 ただ死生観というのはその人毎に大きく違うだろうということを言いたいだけだ。それはまさにその人の文化であって、肝心なのはその人の死生観をちゃんと理解し、それを尊重して侵害したり毀損しないことなのだと思う。それを理解した上でその人に関わり寄り添うこと、それは実はとても難しいことで、ぼく自身いつも悩むのだけれど、悩むこと自体がまた他者や社会と自分の関わりを広げ、深めることになるのだと思いたい。

ぼかされた報道 ガザ虐殺

2014年08月03日 09時06分27秒 | Weblog
 イスラエルによるガザ地区への地上戦はさらに拡大する様相を見せている。すでにパレスチナ側に1650人以上の死者が出ており、イスラエル側は兵士63人、民間人3人が死んでいる。パレスチナの死者の3割くらいは子供と見られる。また避難民は46万人とも言われる。避難と言っても安全な場所など無いのだが。
 アメリカは依然としてイスラエルの「自衛権」を全面的に支持しており、事実としてイスラエル軍が使用している武器はアメリカが支援したものである。
 このかん停戦の合意が何度かなされたが、いずれも不調もしくは短時間で終わってしまった。問題はその原因である。
 新聞はアメリカ=イスラエル側の発表をそのまま伝えるだけで、まるでハマスが停戦を破ったような書き方をしている。国連の潘基文事務総長もハマスを非難した。しかし事実は全く逆である。事実は確かに報道はされているのだが、その意味が書かれていないから、人々に正しく伝わらない。記事の書き方のマジックである。
 直接的な問題はイスラエル側が一度たりとも停戦していないということにある。「停戦には地下トンネルの破壊活動は含まない」というところだ。そもそもイスラエル軍が地上戦に乗り出したのは「トンネル破壊」が名目だった。つまりトンネル破壊活動を停戦の範囲から除くと言うことはイスラエルは軍事行動を止めないということを意味している。
 もちろん封鎖解除や武装解除問題は協議をしなくては解決しない問題だろうが、まずイスラエル側が完全停戦することで協議を行う条件を作らなければならない。それはイスラエルもアメリカもわかっているのに、あえてそれは無視している。つまり現在言われている「停戦」というのはガザ側の一方的な無条件降伏を意味しているのである。
 イスラエルは確かに60人以上の人的被害を出している。しかしそのほとんどは地上戦に動員された兵士である。つまりトンネル破壊工作の最中に殺された者が多いのだと思われる。イスラエルが今停戦したところで、まずほとんどの一般市民に危険が及ぶはずがない。だいたいが以前にも指摘したことだが、この事態の発端はガザではなくヨルダン川西岸地区においてイスラエル人の少年が誘拐され殺されたと言うことだっだ。ガザへのトンネルとは何の関係もない。
 こうしたことをはっきりわかるように報道するのがマスコミの仕事ではないのか。一見中立公平のふりをして事実をぼやかしてしまうのは卑怯と言うしかない。国際問題がこの有様では国内の政治問題など本当に何も伝えられないのではないのか。巨大利権、巨大権力のために存在しているマスコミに何を言っても仕方ないかもしれないが。

「ゴジラ」を観た

2014年08月01日 17時34分27秒 | Weblog
 ゴジラは確かにゴジラだった。でもガメラだった。
 怪獣は迫力があったけど、でもカメムシだった。

 アメリカ版新作映画「GODZILLA」を観にいってきた。なるべくネタバレにならないように感想を書こう。わからない人はわからないだろうし、勘のいい人にはわかりすぎるかもしれないから御注意を。

 怪獣はすごい。これだけで劇場で観る価値はある。ぼくはずっと昔、IMAXの3Dを見て目がひどく痛くなったことがあって今回も2D吹き替え版で観た。吹き替え版にするのは、字幕を追っているとせっかくの特撮場面を細かく観られないからだ。それでもゴジラ史上最も迫力あるゴジラだと思った。
 最近はほとんど映画に行かないのでシネコンというのに慣れない。昔の映画館はほとんど自由席で入れ替えが無かった。それで朝一番から弁当を持って劇場へ行き、最初は中程の席で、二回目は最前列で、三回目は最後方で、などと一日中同じ映画を見続けることが出来た。ぼくが若い頃はそもそも家庭用ビデオソフト自体が無かったから、映画を後に思い出そうとしたら映画館で自分の目に焼き付けなければならなかった。
 今のシネコンは全席指定の入れ替え制で、しかも一つの映写会場が比較的小さい。そう言う意味では昔の映画館にあったようなライブ感が少しとぼしい感じがする。「ロッキー・ホラー・ショー」に新聞紙とライターを持ち込むなんてことは今は許されないだろうけれど。
 それはともかく、シネコンではチケットを買うときに席を指定しなければならないが、どんな会場かわからないで席を指定するのは結構難しい。今日はたまたま最前列の真ん中が空いていたので、ついそこを買ってしまった。結局、スクリーンを下から見上げる感じで画面は縦方向に短く歪んでしまったが、大きさは十分でとても迫力があった。これは映画館でしか味わえないだろう。どうせまたいつかDVDかBRでゆっくり観るだろうし。

 怪獣映画にシナリオの完成度を求めるのは間違いかもしれない。しかし残念ながら今回のゴジラは、多分ぼくが観たゴジラ映画の中で最も中身がない。スカスカだ。これなら子供の味方のガメラが活躍する話の方がずっと面白い。
 どう見たとしても「ゴジラ」第一作と比べたら月とすっぽんである。そもそも核兵器や原子力に対する認識が全く無いと言ってよい。映画の冒頭から核爆発のシーンが何度もあり、日本の原発事故を思わせる場面も描かれているが、結局のところ核の恐怖も苦しみも悲しみもその痛みを何もわかっていない。むしろリアリティのない日本の原発や核爆発の状況の描き方、またそれを合理化するようなシナリオは、問題意識を核や原子力からあえて遠ざけようとしているかのようだ。

 それでは今回の映画のテーマが何かと言えば、それは「ファミリー」である。ファミリーと言っても夫婦と子供という核家族のつながりである。核ではなく核家族というのはある意味でこの映画の意味を象徴しているのかもしれない。この映画には多くの家族が登場する。中には人間ならざる夫婦・親子の物語もある。こうした家族はいずれも引き裂かれ、大切なパートナーや子供を失い、怒り、悲しみ、また奇跡的に再会することもあるのだが、しかしそれは結局、親子・夫婦は求め合い愛し合うものだというステロタイプのキリスト教的道徳観の域を越えない。だからどうしたと言う以外、言いようがない。

 これが現在の商業映画の限界だと言えるかもしれないし、その範囲内ではよく出来た映画だとも言える。ようするに怪獣映画が好きな人にはお勧めの映画だということであり、アメリカ的限界を感じたい人にも参考になる映画なのである。なお、金子監督版の平成ガメラ・シリーズがとにかく好きと言う人なら、テイストが似ていると思うからお薦めする。あとカメムシ・マニアの方(そんな人がいるのなら)にもちょっとね。それと個人的にはもう少しゴジラに愛嬌があっても良かったかな、とか。