自民党の安倍新総裁のことをテレビ番組で揶揄したとして小倉智昭氏がネットで批判されているという。
リンク: 安倍元首相の「腹痛」を揶揄 「とくダネ!」に疑問相次ぐ - 速報:@niftyニュース.
ぼくはその番組を見ていないし、また確かに品のある発言とも思わないが(小倉氏に品を求める人もいないだろうが)、しかし安倍氏は揶揄されて当然だとも思う。
そもそも、お腹が痛くなって総理大臣を辞めたのは本人も認める事実であり、それを「子供じみている」と感じることも別に変なことではない。
これは難病患者を侮辱したり傷つけたりするということとは別の問題である。ある種の病気や障害によってある種の職種や職業につくことができないことは一般的に良くある。最近ではてんかんの人が自動車運転免許を取得できるかどうかという議論がよく聞かれた。それは差別ではない。
問題なのは総理大臣という職種につくためにどのような適格条項が存在するのかということだ。
もちろん潰瘍性大腸炎という難病を抱えているからといって、それで直ちに総理大臣として欠格だというわけではない。また政治家である以上、自分の健康状況を隠さねばならない場合もあるだろう。そんなことを言っているのでもない。
病気を隠そうが公表して自分にはサポートが必要だと主張しようが、そんなことだってどうでもよい。
重要なことは総理大臣という仕事をちゃんとやれるかどうかなのだ。
こんなことはすべて結果論でしかないが(しかしまた政治家は結果がすべてであるともよく言われることだ)、安倍氏氏は病気のために総理大臣を続けることができなかった。それはつまり自分の病気が総理大臣をやれるだけの病状なのかどうかの判断が彼にはできなかった(もしくは間違った)ということになる。
(と言うより、これは安倍夫人が実際にテレビのインタビューに答えていたことだけれど、安倍氏の病状悪化は政治情勢が緊迫して総理大臣批判が強まったことによって引き起こされたというのが事実らしい。そしてそれは一般の人々の受け止め方とも一致している)
このことをもって安倍氏が「子供じみていた」と批判することが無謀なことだろうか。
彼は肉体的にも精神的にも総理大臣という重責を担うだけの能力を持っておらず、しかもそのことを自覚することさえ出来ないで、日本国の最高権力者に自らなったのであり、そして当然ながら職責を全うできずに政権を放り投げたのである。子供じみているにも程があるではないか!
ましてや自分の国の最高権力者(で、かつてあった、そしてまたなろうとしている者)を揶揄することは、ぼくは当然の言論の自由の範囲であろうと思う。
これはキリスト教徒がマホメットを揶揄し侮辱するのとは全く意味が違う。自らが(間接的ではあるが)選んだ最高指導者を批判的に評価する権利は民主主義国家であれば当然守られるべきである。
「ネット世論」では安倍氏が総裁選直前に食べた3500円のカツカレーを取り上げるマスコミへの批判も大きいらしい。
確かに別に3000円だろうが1万円だろうが食べたいものを食べればよいし、大金持ちのボンボンが総理大臣になっていけないわけでもない。しかしまさに神は細部に宿るのであって、その政治家の資質的なものをちょっとした振る舞いから見透かせる場合もある。
我々が求める国家とは何か? それは北朝鮮のような国家なのか、中国のような国家なのか。おそらく大半の人はそうは思わないだろう。
我々は国家主義ではない。民主主義を求めているのだ。(正直言ってぼく個人は民主主義がベストアンサーだと思っているわけではないが)
それでは我々が思っている民主主義とは何か。それは観念でも経済でも軍事でもなく国民自身、ひとりひとりの人間が尊重される社会である。我々が求める国家は国家のために国民が存在するのではなく、国民のために存在する国家である。
それでは国民とはどのような存在か。それはただの庶民であり、ようするに金持ちなどではないのである。
そうであればそうした国の最高権力者は圧倒的多数を占めるただの庶民、その辺の貧乏人の生活実態を理解していなくては民主主義国家の運営など出来ないと言える。庶民的な生活をあえてする必要もないが、しかしそれを知っていて皮膚感覚で理解できないとしたら、そうした政治家は少なくとも民主主義国家の指導者としては不適格なのである。
だからぼくの願いはひとつだけだ。
安倍さんが総理大臣に返り咲くことなど絶対ありませんように。
リンク: 安倍元首相の「腹痛」を揶揄 「とくダネ!」に疑問相次ぐ - 速報:@niftyニュース.
ぼくはその番組を見ていないし、また確かに品のある発言とも思わないが(小倉氏に品を求める人もいないだろうが)、しかし安倍氏は揶揄されて当然だとも思う。
そもそも、お腹が痛くなって総理大臣を辞めたのは本人も認める事実であり、それを「子供じみている」と感じることも別に変なことではない。
これは難病患者を侮辱したり傷つけたりするということとは別の問題である。ある種の病気や障害によってある種の職種や職業につくことができないことは一般的に良くある。最近ではてんかんの人が自動車運転免許を取得できるかどうかという議論がよく聞かれた。それは差別ではない。
問題なのは総理大臣という職種につくためにどのような適格条項が存在するのかということだ。
もちろん潰瘍性大腸炎という難病を抱えているからといって、それで直ちに総理大臣として欠格だというわけではない。また政治家である以上、自分の健康状況を隠さねばならない場合もあるだろう。そんなことを言っているのでもない。
病気を隠そうが公表して自分にはサポートが必要だと主張しようが、そんなことだってどうでもよい。
重要なことは総理大臣という仕事をちゃんとやれるかどうかなのだ。
こんなことはすべて結果論でしかないが(しかしまた政治家は結果がすべてであるともよく言われることだ)、安倍氏氏は病気のために総理大臣を続けることができなかった。それはつまり自分の病気が総理大臣をやれるだけの病状なのかどうかの判断が彼にはできなかった(もしくは間違った)ということになる。
(と言うより、これは安倍夫人が実際にテレビのインタビューに答えていたことだけれど、安倍氏の病状悪化は政治情勢が緊迫して総理大臣批判が強まったことによって引き起こされたというのが事実らしい。そしてそれは一般の人々の受け止め方とも一致している)
このことをもって安倍氏が「子供じみていた」と批判することが無謀なことだろうか。
彼は肉体的にも精神的にも総理大臣という重責を担うだけの能力を持っておらず、しかもそのことを自覚することさえ出来ないで、日本国の最高権力者に自らなったのであり、そして当然ながら職責を全うできずに政権を放り投げたのである。子供じみているにも程があるではないか!
ましてや自分の国の最高権力者(で、かつてあった、そしてまたなろうとしている者)を揶揄することは、ぼくは当然の言論の自由の範囲であろうと思う。
これはキリスト教徒がマホメットを揶揄し侮辱するのとは全く意味が違う。自らが(間接的ではあるが)選んだ最高指導者を批判的に評価する権利は民主主義国家であれば当然守られるべきである。
「ネット世論」では安倍氏が総裁選直前に食べた3500円のカツカレーを取り上げるマスコミへの批判も大きいらしい。
確かに別に3000円だろうが1万円だろうが食べたいものを食べればよいし、大金持ちのボンボンが総理大臣になっていけないわけでもない。しかしまさに神は細部に宿るのであって、その政治家の資質的なものをちょっとした振る舞いから見透かせる場合もある。
我々が求める国家とは何か? それは北朝鮮のような国家なのか、中国のような国家なのか。おそらく大半の人はそうは思わないだろう。
我々は国家主義ではない。民主主義を求めているのだ。(正直言ってぼく個人は民主主義がベストアンサーだと思っているわけではないが)
それでは我々が思っている民主主義とは何か。それは観念でも経済でも軍事でもなく国民自身、ひとりひとりの人間が尊重される社会である。我々が求める国家は国家のために国民が存在するのではなく、国民のために存在する国家である。
それでは国民とはどのような存在か。それはただの庶民であり、ようするに金持ちなどではないのである。
そうであればそうした国の最高権力者は圧倒的多数を占めるただの庶民、その辺の貧乏人の生活実態を理解していなくては民主主義国家の運営など出来ないと言える。庶民的な生活をあえてする必要もないが、しかしそれを知っていて皮膚感覚で理解できないとしたら、そうした政治家は少なくとも民主主義国家の指導者としては不適格なのである。
だからぼくの願いはひとつだけだ。
安倍さんが総理大臣に返り咲くことなど絶対ありませんように。