調査費の不正請求が問題にされている兵庫県議の野々村氏。いまだにテレビショーでは例の号泣会見の映像が繰り返し流されている。うちの89歳の母はあれが映ると「この人きもち悪いねー」と言って目を背ける。こんなのを毎日やるのなら少しぐらいは新宿焼身抗議を掘り下げてもよいのではないか。もっともどうやら野々村氏は女子高生に大人気で、号泣会見を真似したプリクラを撮るのが流行っているらしい。政治がJKの身近感じられるようになったことを喜んで良いのか悪いのか。
いまテレビでは国会議員に続いて地方議員も多すぎるというような意見まで出ている。現状でも町村議会には立候補者がいなくて議会の存続さえ危ぶまれているときに、「地方の時代」とか耳当たりの良いスローガンがあまりに空しい。
ただでさえちゃんとした議員が少ないのに、定員が減ったらまともな議員がもっと減るではないか。地方議員間や国会議員との歳費の格差を小さくして、むしろ議員の数自体は全体的に増やした方が良いと思うのだが、どうだろうか。
少し前の記事にも書いたがすでに近代は腐敗している。議会・議員の腐敗はまさにその最もストレートな表出であろう。
近代というものをどう規定するのか、どのように分析するのか、様々な視点があると思うが、ここでは近代を象徴するものとしてフランス革命の有名なスローガンを考えてみよう。「自由、平等、友愛」というやつだ。世界の近代化とは、言ってみればこのスローガンが世界に広がっていくことであったと言える。
昔はこの友愛という言葉は「博愛」と訳されていた。しかしこの言葉には階級差別的ニュアンスがあるとして現在ではあまり使われない。だが博愛と訳した人のセンスは正しい。「自由、平等、友愛(博愛)」というスローガンの底辺には階級対立の現実とそれを乗り越えようとする意思が埋め込まれている。博愛は上位の者が下位の者に対して広く与える愛というニュアンスがある。そこが差別的と言われるのだろうが、しかし実際の話、力を持っている者が力を持っていない者に譲歩する、もしくは何かを割譲する以外の方向性はあり得ない。何かを与えることはすでに持っている者にしかできず、持たざる者が持つ者に何かを与える状況があったとしたらそれは一方的な収奪でしかない。こうした構造の中で博愛という言葉を持ってきたのはしごく妥当なことなのである。
実はこの最後の友愛(博愛)という言葉は若干不確定である。フランス革命の初期には「自由、平等、財産」と言われていたとも言う。しかしやはりこのスローガンを現代の視点から分析するなら、友愛(博愛)は必然的なな要素であると言えよう。
一般的にこのスローガンで一番重要な要素は「自由」だとされる。まさに自由主義の自由である。しかし自由であるためには何が必要か。誰かに支配され何かを強制されないことだろう。それはつまり平等だ。つまり自由であるためには平等が必要なのである。
では平等は何によって保証されるのか。出自や置かれている立場によって左右されないことによってである。それはつまり財産や社会的影響力によって差別されないこと、つまり階級による差別をされないということである。それがつまり博愛なのである。
こうして分析するならこのスローガンの三要素で最も根源的に必要なのは友愛=博愛=階級的差別の否定であることがわかる。別の言い方をすれば、博愛や平等のない自由はあり得ないし、もしそこに自由という言葉が存在してもそれは本質的に欺瞞を含んでいる。平等なき自由は反民主主義的なのである。
もっとも確かに博愛という言葉は恣意的、主観的であり、あいまいな感じを否めない。ここでは話をわかりやすく進めるために、もっと明確な概念である平等の方に焦点を当てよう。友愛の結果としての平等、自由の必要条件としての平等ということである。
さてもう一度繰り返すと、「平等」を基礎にした「自由」という概念が近代の思想的基盤である。だがしかし、実際の近代はそう理想的な方向に進んだわけではない。現実の近代は皮肉なことに、平等どころか特定の誰かが自分の権益を拡大する、すなわち格差を拡大するというモメントによって発展した。経済格差の正当化と際限なく富を集中することが社会的に容認されるという前提が、人類史上まれにみる経済発展を可能とした。
だから実を言えば、近代はそもそも初めから理念と実態が乖離していたと言えるのである。近代の思想家たちはこうしたいわば本音と建て前の狭間でその矛盾をどのように埋めるのかに腐心してきたと言えるだろう。
それでも少なくとも日本においては、1945年の敗戦からバブル崩壊期までは平等は完全なる正義であり、それを阻む者は封建主義者として非難された。もっともそれにあらがう天皇主義者など一部の勢力は直接的な暴力でもって平等礼賛の言論を封じて込めていたのだが。
しかし冷戦の終結と新自由主義の導入によって雲行きが怪しくなってきた。人々は堂々と平等を「悪平等」「逆差別」などと非難し、「成果主義」を掲げて格差拡大を容認するようになった。まさに平等なき自由が賞賛される時代が始まったのだ。
本来近代が自ら成長していき、より純粋に近代化を深化させていくのであれば、より自由に、より平等に、より友愛が広がっていくはずである。今でも理念的にはそれが進歩であると考えられている。日本もある段階までは確かにそうだった。なぜそれが変わってしまったのか。
「進歩」が自分の利益に反するようになったからである。ある時までは「進歩」は自分の利益を拡大した。しかしそうではなくなってしまったのだ。ありていに言えば「持たざる者」から「持てる者」になったのである。
平等とは高い者は低く、低い者は高くなる運動である。持たざる者は何かを得、持てる者は何かを失う。敗戦直後に日本人が全てを失ったとき、日本人総体は持たざる者であった。そのとき日本人にとっては他国の水準に追いつくことは自分の利得であり、それを思想的に位置づけてくれる平等思想は当然無批判に受け入れ得るものであった。しかし経済発展が実現し、世界最高水準の富を持つ国になってしまった今、日本人は持てる者となり、平等思想は自分から何かを奪う者を擁護する思想になってしまったのである。
だから今でも自分にとって有利になる場合には平等思想は錦の御旗として高く掲げられる。批判を恐れずに言えば、それが一票の格差問題であり、議場でのセクハラ野次問題である。
一票の格差問題は人口の多い都市生活者にとって有利であり、野次問題であれば日本人の半数以上を占める女性にとって有利な問題だ。つまりこれらの問題は平等であることが多数派にとって有利になるケースであると言える。
もちろんぼくは平等であるべきだと主張しているのであって、こうしたケースでも当然平等を支持する。しかしもし平等を求めるのなら、全ての問題について平等を求めるべきだと言いたいのだ。自分にとって都合の良いときだけ平等を主張したらそれはむしろ平等思想とは全く逆の立場になってしまう。
一票の格差を問題にするなら地域間格差についても考えるべきだし、セクハラを問題にするならヘイト・スピーチやレイシズム、日の丸・君が代を強制するようなポリティックス・ハラスメントも問題にして欲しい。女性がセクハラ野次を不快に思うのなら、同じように何らかの問題において不快に悲しく苦しく思う人がいることに思いを馳せてもらいたい。それが平等ということなのである。
話を戻そう。近代が腐ってしまったということを持てる者の側から見た場合、それは何かを守ろうとして、自分が原則に殉じる矜持を捨ててしまったということである。
豊かになった人々は、持てる者となり、民主主義の根本的な理念を捨ててしまった。つまりこれこそが「保守化」「右傾化」の原因である。
もちろん近代は持たざる者の側からも腐食しつつある。持たざる人々もまた保守化、右傾化の度合いを強めている。それは持てる者の論理と対決する持たざる者の論理を、持てる者の論理の反対の極に求めるのではなく、同じ論理か、もしくは鏡像として構築してしまったからだ。ただこの問題を展開するとさらに冗長になってしまう。また別の機会にしたい。
人々は守るべきものを得てしまった。それを必死に守ろうとすることを正当化する言葉が「現実主義」「リアリズム」である。理念的、観念的なものより実践的なものの方が正しいという思想もまた近代に埋め込まれた思想である。それはつまり近代というものの中にあらかじめ理念を放棄する、もしくは軽視する思想が存在していたということでもある。それは近代の本質的矛盾であり、やがて腐敗することは必然でもあったのである。
さていずれにせよ、人間は基本的に保守的だ。それが生物の基本的形質である以上しかたがない。得たものは守りたい。しかしそれを守ろうとしてあがいていった結果が集団的自衛権の行使であったとしたら、それで本当に守るべきものが守れるだろうか。確かにとりあえず財産は守れるかもしれない。しかしそれと引き替えに誰かの命を差し出さなくてはならないかもしれない。自分自身がテロの犠牲者になるかもしれない。日本は強欲の側にいると思われるようになり、名誉を失うかもしれない。安全と名誉を失ってもなお富を維持できればよいのだろうか。おカネは命より大切か? その富も金融資本主義のシステムの中ではある日幻想のように一瞬で消え去ってしまうかもしれない。
何かを守るにしても、いったい何を守るべきなのか。本当に大切なのは何なのか、まずはそこから自分自身を見直すことが必要なのではないだろうか。
腐ってしまった近代を守ることはもうできない。近代の理念を守りたいなら近代を脱するしかなくなってしまった。それが歴史の必然というものである。
いまテレビでは国会議員に続いて地方議員も多すぎるというような意見まで出ている。現状でも町村議会には立候補者がいなくて議会の存続さえ危ぶまれているときに、「地方の時代」とか耳当たりの良いスローガンがあまりに空しい。
ただでさえちゃんとした議員が少ないのに、定員が減ったらまともな議員がもっと減るではないか。地方議員間や国会議員との歳費の格差を小さくして、むしろ議員の数自体は全体的に増やした方が良いと思うのだが、どうだろうか。
少し前の記事にも書いたがすでに近代は腐敗している。議会・議員の腐敗はまさにその最もストレートな表出であろう。
近代というものをどう規定するのか、どのように分析するのか、様々な視点があると思うが、ここでは近代を象徴するものとしてフランス革命の有名なスローガンを考えてみよう。「自由、平等、友愛」というやつだ。世界の近代化とは、言ってみればこのスローガンが世界に広がっていくことであったと言える。
昔はこの友愛という言葉は「博愛」と訳されていた。しかしこの言葉には階級差別的ニュアンスがあるとして現在ではあまり使われない。だが博愛と訳した人のセンスは正しい。「自由、平等、友愛(博愛)」というスローガンの底辺には階級対立の現実とそれを乗り越えようとする意思が埋め込まれている。博愛は上位の者が下位の者に対して広く与える愛というニュアンスがある。そこが差別的と言われるのだろうが、しかし実際の話、力を持っている者が力を持っていない者に譲歩する、もしくは何かを割譲する以外の方向性はあり得ない。何かを与えることはすでに持っている者にしかできず、持たざる者が持つ者に何かを与える状況があったとしたらそれは一方的な収奪でしかない。こうした構造の中で博愛という言葉を持ってきたのはしごく妥当なことなのである。
実はこの最後の友愛(博愛)という言葉は若干不確定である。フランス革命の初期には「自由、平等、財産」と言われていたとも言う。しかしやはりこのスローガンを現代の視点から分析するなら、友愛(博愛)は必然的なな要素であると言えよう。
一般的にこのスローガンで一番重要な要素は「自由」だとされる。まさに自由主義の自由である。しかし自由であるためには何が必要か。誰かに支配され何かを強制されないことだろう。それはつまり平等だ。つまり自由であるためには平等が必要なのである。
では平等は何によって保証されるのか。出自や置かれている立場によって左右されないことによってである。それはつまり財産や社会的影響力によって差別されないこと、つまり階級による差別をされないということである。それがつまり博愛なのである。
こうして分析するならこのスローガンの三要素で最も根源的に必要なのは友愛=博愛=階級的差別の否定であることがわかる。別の言い方をすれば、博愛や平等のない自由はあり得ないし、もしそこに自由という言葉が存在してもそれは本質的に欺瞞を含んでいる。平等なき自由は反民主主義的なのである。
もっとも確かに博愛という言葉は恣意的、主観的であり、あいまいな感じを否めない。ここでは話をわかりやすく進めるために、もっと明確な概念である平等の方に焦点を当てよう。友愛の結果としての平等、自由の必要条件としての平等ということである。
さてもう一度繰り返すと、「平等」を基礎にした「自由」という概念が近代の思想的基盤である。だがしかし、実際の近代はそう理想的な方向に進んだわけではない。現実の近代は皮肉なことに、平等どころか特定の誰かが自分の権益を拡大する、すなわち格差を拡大するというモメントによって発展した。経済格差の正当化と際限なく富を集中することが社会的に容認されるという前提が、人類史上まれにみる経済発展を可能とした。
だから実を言えば、近代はそもそも初めから理念と実態が乖離していたと言えるのである。近代の思想家たちはこうしたいわば本音と建て前の狭間でその矛盾をどのように埋めるのかに腐心してきたと言えるだろう。
それでも少なくとも日本においては、1945年の敗戦からバブル崩壊期までは平等は完全なる正義であり、それを阻む者は封建主義者として非難された。もっともそれにあらがう天皇主義者など一部の勢力は直接的な暴力でもって平等礼賛の言論を封じて込めていたのだが。
しかし冷戦の終結と新自由主義の導入によって雲行きが怪しくなってきた。人々は堂々と平等を「悪平等」「逆差別」などと非難し、「成果主義」を掲げて格差拡大を容認するようになった。まさに平等なき自由が賞賛される時代が始まったのだ。
本来近代が自ら成長していき、より純粋に近代化を深化させていくのであれば、より自由に、より平等に、より友愛が広がっていくはずである。今でも理念的にはそれが進歩であると考えられている。日本もある段階までは確かにそうだった。なぜそれが変わってしまったのか。
「進歩」が自分の利益に反するようになったからである。ある時までは「進歩」は自分の利益を拡大した。しかしそうではなくなってしまったのだ。ありていに言えば「持たざる者」から「持てる者」になったのである。
平等とは高い者は低く、低い者は高くなる運動である。持たざる者は何かを得、持てる者は何かを失う。敗戦直後に日本人が全てを失ったとき、日本人総体は持たざる者であった。そのとき日本人にとっては他国の水準に追いつくことは自分の利得であり、それを思想的に位置づけてくれる平等思想は当然無批判に受け入れ得るものであった。しかし経済発展が実現し、世界最高水準の富を持つ国になってしまった今、日本人は持てる者となり、平等思想は自分から何かを奪う者を擁護する思想になってしまったのである。
だから今でも自分にとって有利になる場合には平等思想は錦の御旗として高く掲げられる。批判を恐れずに言えば、それが一票の格差問題であり、議場でのセクハラ野次問題である。
一票の格差問題は人口の多い都市生活者にとって有利であり、野次問題であれば日本人の半数以上を占める女性にとって有利な問題だ。つまりこれらの問題は平等であることが多数派にとって有利になるケースであると言える。
もちろんぼくは平等であるべきだと主張しているのであって、こうしたケースでも当然平等を支持する。しかしもし平等を求めるのなら、全ての問題について平等を求めるべきだと言いたいのだ。自分にとって都合の良いときだけ平等を主張したらそれはむしろ平等思想とは全く逆の立場になってしまう。
一票の格差を問題にするなら地域間格差についても考えるべきだし、セクハラを問題にするならヘイト・スピーチやレイシズム、日の丸・君が代を強制するようなポリティックス・ハラスメントも問題にして欲しい。女性がセクハラ野次を不快に思うのなら、同じように何らかの問題において不快に悲しく苦しく思う人がいることに思いを馳せてもらいたい。それが平等ということなのである。
話を戻そう。近代が腐ってしまったということを持てる者の側から見た場合、それは何かを守ろうとして、自分が原則に殉じる矜持を捨ててしまったということである。
豊かになった人々は、持てる者となり、民主主義の根本的な理念を捨ててしまった。つまりこれこそが「保守化」「右傾化」の原因である。
もちろん近代は持たざる者の側からも腐食しつつある。持たざる人々もまた保守化、右傾化の度合いを強めている。それは持てる者の論理と対決する持たざる者の論理を、持てる者の論理の反対の極に求めるのではなく、同じ論理か、もしくは鏡像として構築してしまったからだ。ただこの問題を展開するとさらに冗長になってしまう。また別の機会にしたい。
人々は守るべきものを得てしまった。それを必死に守ろうとすることを正当化する言葉が「現実主義」「リアリズム」である。理念的、観念的なものより実践的なものの方が正しいという思想もまた近代に埋め込まれた思想である。それはつまり近代というものの中にあらかじめ理念を放棄する、もしくは軽視する思想が存在していたということでもある。それは近代の本質的矛盾であり、やがて腐敗することは必然でもあったのである。
さていずれにせよ、人間は基本的に保守的だ。それが生物の基本的形質である以上しかたがない。得たものは守りたい。しかしそれを守ろうとしてあがいていった結果が集団的自衛権の行使であったとしたら、それで本当に守るべきものが守れるだろうか。確かにとりあえず財産は守れるかもしれない。しかしそれと引き替えに誰かの命を差し出さなくてはならないかもしれない。自分自身がテロの犠牲者になるかもしれない。日本は強欲の側にいると思われるようになり、名誉を失うかもしれない。安全と名誉を失ってもなお富を維持できればよいのだろうか。おカネは命より大切か? その富も金融資本主義のシステムの中ではある日幻想のように一瞬で消え去ってしまうかもしれない。
何かを守るにしても、いったい何を守るべきなのか。本当に大切なのは何なのか、まずはそこから自分自身を見直すことが必要なのではないだろうか。
腐ってしまった近代を守ることはもうできない。近代の理念を守りたいなら近代を脱するしかなくなってしまった。それが歴史の必然というものである。