あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

左翼がいなくなった理由(1)

2012年12月31日 23時35分22秒 | Weblog
 文字通り暗い日曜日となった16日から二週間。人類は滅びることなく2013年を迎えようとしている。
 なぜこんなことになってしまったのか。小選挙区制の魔術だとか、実際の得票率がどうだとか、現実的には安倍自民党はそんなに極右的政策はしないよとか、いろいろ分析しようとする人たちも多いが、事実は戦後最も右翼的な政権が登場したということである。
 それがなぜ問題なのかといえば、どうこう言おうと日本の多くの有権者が絶対に入れてはいけない党に投票したということにある。すでに安倍政権は公約とは全く異なり、原発の新設にまで踏み込んでいる。

 こうなった責任は誰にあるのかと言えば、それは左翼が悪いと言うしかない。一般的に言えば右翼が伸びるときは左翼も同時に伸びる。そして緊張感が高まって社会が流動化する。しかし現在の日本では左翼が伸びるどころか、左翼の姿さえ見えない。「脱原発」運動からさえ左翼が排除されてしまっているのが現実である。
 左翼が悪いと言うより、むしろ左翼がいなくなってしまったと言うほうが正しいのかもしれない。4年前のいわゆる政権交代選挙で左派はこぞって民主党支持にまわった。なぜ明らかに第二自民党でしかない民主党の尻馬に乗っかってしまったのか。それはつまり彼らがすでに左翼ではなくなったことの象徴だったのだろう。

 なぜ左翼がいなくなったのか。自己消滅したからである。
 現象的にはソ連が崩壊し、マルクス・レーニン主義への信頼が失われたことが直接的な原因だろう。しかしそれでも多くの国ではマルクス主義の政治勢力が生き延びた。もちろん日本でも日本共産党はしっかり残っているが、各国では反スターリン主義もしくはトロツキー主義的ないわゆる新左翼勢力が未だに大衆運動を領導しているのである。
 矛盾したことを言うようだが、日本の左翼が自己消滅したのは自己否定という新左翼の基本的な思想性を貫き通すことが出来なかったからだ。

 今年ももうあとわずかになってしまった。続きは新年にしよう。

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終わりの始まり

2012年12月16日 21時55分22秒 | Weblog
 けっきょく自民党が日本を取り戻してしまったのだが。
 たぶん多くの人がこの結果をすでに3年前には予想していただろうから、別に不思議とは言わないが、日本の終わりが始まったという感じはする。ちなみに自民党が新政権を作ったら次に来るのは維新との連立と公明党はずしだろう。
 ぼくは現在の日本が没落しているとか、破滅したとかとは思わないが、今度ばかりは日本人が正気を失ったとしか思えない。民衆が正気を失ったらこれは本当のおしまいだ。
 平和憲法を廃棄して正規軍と徴兵制を復活せよと叫ぶ政治家と政党を21世紀の現在において選択するというのは、どう考えても常軌を逸している。
 そもそも前回は自民党一党支配を嫌って民主党を選んだ人たちが、民主党に絶望したからと言って、さらに質を低下させた自民党を選ぶというのがわからない。この理性では理解できない行動に人々が走ってしまうほど社会自体が劣化してしまっているのだと言うべきだろう。
 もちろんこれは戦前の日本人が歩んできたのと同じ道程だ。こうした「狂気」はいったん暴走したらなかなか止められない。一般的にはこうした暴走は「破滅」によって終わるしかない。
 だからぼくはこの選挙結果を「終わりの始まり」と感じる。こうなったら早く本当の終焉が来るのを待望するするしかない。そうしたら新しい始まりが始まるのだから。
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ほめられるのは嫌いだ

2012年12月08日 23時47分12秒 | Weblog
 今日「落」という字を書こうとしたが、どうしても思い出せなかった。
 18歳のとき一度だけ自分の名前を思い出さなかったことがあって、だから今に始まったことではないと言えばそれまでだが、最近は時々こういうことが起こる。ワープロやパソコンばかり使っているからという言い訳も思いつくが、やはり老化なのかとも思う。

 そんな折、テレビを見ていたら白澤卓二という先生が認知症は40代でも発症する、予防のためには他人からほめられると良いなどと解説していた。
 しかし、ぼくはほめられるのが大嫌いなのだ。

 なぜ嫌いかといえば、それはぼくをほめる人のほとんどが、お世辞か、それとも的外れだからである。自分で失敗したと思うことを「良い」と言われるのは嫌な気分だ。それ以上に心にも無くおべんちゃらでほめられるのは不愉快極まりない。
 ぼくはほめられるより理解されたい。ぼくの言っていることを理解した上で批判されるのなら、それは幸福だと思う。
 確かにぼくを気遣ってくれる人もいるし、ほめてくれる人もたまにはいる。しかしぼくを理解してくれる人は一人もいない。
 ぼくを気遣ってくれる人よりぼくを憎む人のほうが圧倒的に多いのだが、そういう人の中にはほんのわずかでもぼくの主張の一端を理解してくれていて、だからこそぼくを憎む人もいるかもしれない。そうであるなら、ぼくはぼくをほめてくれる人よりそうやって憎んでくれる人の方がずっと好きだ。

 もちろん、ぼくの言っていることは高望みである。
 なぜなら、人間は他の人間を理解することなど出来ないからだ。理解できたと思っているのはそういう気になっているだけのことなのだ。他者を本当に理解することなど不可能だ。
 ぼく自身も他人のことは全くわからない。だからしかたないことなのだとは思う。
 他者のことが理解できないからこそ、ぼくは分析する。もちろん分析したからと言って他者が理解できるわけではない。いくらキャンバスや絵の具の質を知ってもゴッホの絵を理解することはできない。
 むしろ他者を分析した結果、最後には自分自身の再発見に行き着く。すなわち批判は常に自己批判なのである。
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小党はなぜ乱立したのか

2012年12月03日 11時47分45秒 | Weblog
 総選挙直前になって小政党が乱立し、さらにそれが激しい勢いで離合集散運動を起こした。マスコミの主流的な意見はこうした動きに否定的だ。確かに大混乱としか言えないが、しかしもちろんこれには理由がある。皮肉なことだが小選挙区と二大政党制がこの小党乱立を生み出したのである。

 それはつまり、こうした政治システムが選ぶ側からも選ばれる側からも選択肢を奪ってきたからだ。

 小選挙区・二大政党制のシステムの下で有権者は自分の一票を「死に票」にしないために二大政党のどちらかに投票する選択をしがちだ。しかし実はこれは彼の本意ではない。それこそ「小異を捨てて大同につく」というか、消去法での選択というか、本来の自分の見解とは違うが、仕方がないのでその候補を選ぶのである。
 一方、候補者の側も選挙に出る以上当選することを目的にするからこちらもこちらで自分の本来の思想と違っても二大政党のどちらに属する道を選択する。
 もちろん政党政治と代議制民主主義を採用する以上、こうしたミスマッチは必ず起こる。しかし二大政党制においてその弊害は最も強くなるのである。

 選挙は瞬間的なイベントだから、それが終わると人々はまた本来の自分に戻ろうとする。
 有権者は自分が選んだ政党や候補であったとしても、そもそもがその政策や思想に満足して選んだわけではないから、すぐに不満が募る。議員の側も自分のやりたいことをやろうとすると党の方針と衝突することになる。
 その結果、本来は選挙以前に整理されていなければならなかった政策や思想をめぐって確執が起こり、場合によっては離合集散(かっこよく言えば政界再編)が生じたりする。

 ただ大政党は基本的に連合党であって様々な派閥が合流する。その結果その主張は最大公約数的なものになり、良くも悪くも平均化するしかない。しかもアメリカ型二大政党制の場合、保守政党の並立制でありその政策は限りなく似てしまう。
 いわゆる「風」が吹いていれば議員は自己主張せず、自分の意に沿おうが沿うまいが党の方針にいちゃもんをつけず党に所属してさえいればよい。
 しかし「逆風」が吹いたときは他者との差別化を図らねばならず、このときとばかり持論を展開することになるのである。その結果、党は分裂し小党が乱立する。

 そもそも二大政党制は日本人の政治意識には向いていない。合衆国のような若く野蛮な国家では難しいことを考えず二者択一で政治を選択する方がよいのかもしれないが、長く安定的な文化的・歴史的蓄積がある成熟した社会においてはこのような単純で荒っぽい政治制度はなじまないのである。
 そうしたことを前提にして、あらかじめ複数の選択肢を作っておく知恵が復活しない限り、こうしたばからしい混乱は終わらない。
 複数政党制では政治が停滞すると言われてきたが、それは二大政党制でも変わらないことが証明された。問題は政党の数とは別のところにあるのだ。
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