福田総理の突然の辞任については、ありとあらゆる人々が批判・非難しているという状況で、誰ひとり好意的なコメントを言う人がいない。そう言うわけで当ブログではあえて今回の辞任について評価しようと思う。と、まあそうは言ってもぼく自身夜のテレビを見ていて突然臨時ニュースに切り替わったときはびっくりして唖然としてしまったわけだが。
しかし、去年のアベちゃんの時とは印象が相当に違う。アベちゃんの場合は、勇ましい言葉を並べて小泉風の強大な権力者を気取ったものの世論から総スカンを食らい、すぐに泣きべそになって病院引きこもりになってしまったバカの上に弱っちいお坊ちゃまだったから、見ているこっちの方が情けなくなったものだ。
それに比べて、福田さんの方は計算尽くで自民党の生き残りをかけて打った捨て身戦法なわけで、国民の立場に立つことのない党利優先の、そういう意味では総理大臣としては無責任なやり方ではあるが、自民党総裁としては自己犠牲的な引き方である。もっともこれで新総裁=新総理→即解散・総選挙という自民党イメージアップ・ご祝儀相場ねらいの戦術がうまくいくかどうかは、また別の問題だが。
それにしてもなぜ福田政権が行き詰まったのかという分析の中で、民主党との大連立が成功しなかったからという論がよく聞かれる。ようするに福田さんと自民党の大半は二大政党制に危機感があり、民主党と一体となって超巨大政党化して生き残りたいと思っていたわけだ。民主小沢氏もその辺はプラグマチックに前向きだったのだが、結局は「改革」(幻想)世論につぶされてしまった。この結果、福田政権は出発の時点から戦略を失い迷走し続けるしかなかったのだ。
ここからわかることは、福田さんは独裁的な政治はしたくなかったと言うことだ。協調的・折衷的・調整的なリーダーを目指したと言うことになるだろう。それはまた従来の日本の政治・社会のやり方を踏襲すると言うことである。
だから今回の辞任があった。うまく調整が出来なくなったから役割を別の人に譲る。つまり総理大臣は独裁者ではなく全体の代表として利益を実現する職務であり、他の誰かと交換が可能な機能に過ぎないという考え方である(もちろん、ここの「全体」というのがどの「全体」を意味するのかが大問題なのだが)。つまりアベちゃんのわがまま辞任とは180度方向が違うのである。
こういう考え方は、それ自体は健全な考え方ではないのだろうか。こうしていろいろな意見がぶつかり合い、結論を出すのに時間をかける。場合によっては永遠に結論のでない論議を続けていく。何度も何度もデッドロックに乗っかるが、誰か超人的なヒーローがバサッと解決するのではなく泥臭いやり方でもお互いの調整点を少しずつ見いだしていく。リーダーはヒーローではなく調停官としてそれぞれの利害を調整する役割に過ぎない。しかし、それが真に民主主義的な手法なのではないか。
少なくとも、ぼくやあなたが過去に何かの組織の長になったとき、そんな風にやっていくのが理想だと思ったのではなかったか?
だから、ぼくは今回の福田さんの辞任を良い方向性として評価する。
蛇足で言えば、日本の内閣制では二大政党制は成立しないと言うことが「ねじれ国会」の状況の中で見えてきた。日本の政治機構は多党制と中+大選挙区を前提している。二大政党制でも政治課題を停滞させない方法は、議会と切り離された直接選挙で選ばれる大統領が巨大な行政権力を持って議会と対立しながら政治を行うようにするしかない。しかし、それが日本の風土に合っているかと言えばおそらくNoであろう。
なんだか知らないがこのところ皆んな結論を急ぎすぎる。あまりにまわりの環境に影響されすぎるからなんだろう。もう狂乱の20世紀は終わったのだ。これまで10年でやっていたことを100年かけるつもりでちょうど良い。のんびり行こうよ。