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坂口安吾「堕落論」を読む

2024年05月08日 | 読書

坂口安吾(1906年〈明治39年〉~1955年〈昭和30年〉、48才没)の「堕落論」(青空文庫)をKindleで読んでみた。無料。名前は知っていたがどういう小説を書いているのかは知らなかった、今回読もうと思ったきっかけは忘れたが、興味を持った。

堕落論は終戦直後の1946年(昭和21年)4月に発表されたもので、わすか14ページのエッセー(評論)である。ウィキペディアによれば、「堕落論」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた、とある。

読んで安吾が主張していることやその感想を書いてみたい

  • 農村社会の不合理さ、理不尽さ、農村の耐乏生活、排他性、独特のずるさなど、農村は文化の担い手などにはなりようがない
  • そしてその耐乏、忍苦の精神が合理性を無視し、戦時中は兵器は発達せず、兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機会は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌されて、無残極まる大敗北となっている
    コメント
    排他性は農村だけでなく、あらゆる集団であったでしょう。合理的発想より精神論を振りかざすのは確かに日本人の欠点でしょう、合理的判断ができずに情緒的な感情で意思決定すれば、仮に再び戦争になったらまた負けるでしょう

  • 天皇の尊厳などは常に利用者の道具に過ぎず、真に実在したためしはない、昔から最も天皇を冒涜する者が、最も天皇を崇拝していた
  • 藤原氏や将軍家がなぜ天皇を必要としたか、それは自らを神と称して絶対の尊厳を人民に要求するのは不可能だからだ、この戦争(大東亜戦争)がそうではないか
  • 昨年の8月15日、閣下の命令だから忍びがたきを忍んで負けよう、それは嘘だ、我ら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか、天皇の命令など欺瞞だ
  • われわれ国民は天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している、そして人間の、人性の、正しい姿を失ったのである
    コメント
    天皇を権威として利用してきた歴史という指摘はその通りでしょう、その結果、人間としての正しい姿を失った、という点はちょっとピンとこないが、それは以下で

  • 人間の、また人性の正しい姿とはなんぞや。欲するところを素直に欲し、嫌な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ
  • 好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎとり、赤裸々な心になろう、そこから自我と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる
  • 日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ、日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ
  • 私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、死して日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない
    コメント
    安吾が主張する「堕落しろ」というのは現実を支配している封建的発想から自由になれということでしょう。一方、つい先日読んだ「日本文化防衛論」で、三島由紀夫は、人間性の無制限な解放は必ず政治体制の崩壊と秩序の破壊に帰することは自明である、と述べているが(p132)、安吾はそれでも良いから不合理な古い制度などは全部破壊してしまえと極論を言っているのだろう

  • 人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる、この生活は世界連邦論だの共産主義などというものがいかように逆立ちしても、どうもなしえるものでもない。
  • 我々の為し得ることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界は案外、その程度しか有り得ない。人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていない。
    コメント
    安吾の「堕落せよ」との主張は極論で過激に見えるが、実は常識的なものだと思った。ただ、人間の堕落の限界をあまり重く考えていないようだが、共産主義者などがそれを悪用して、三島の主張するような事態を引き起こす可能性は高いだろう

いろいろ研究すると面白い作家かもしれない、と感じた。