ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

人形町の「玄冶店史跡碑」を見に行く

2024年01月31日 | 街歩き

人形町でランチを食べて、壽堂で黄金芋を買い、そのあと、行ってみようと思っていた「玄冶店史跡碑」を見に行ってみた。場所は人形町の交差点の直ぐ近くにある。

なぜ、この史跡碑を見たいかというと、先日観劇した新春浅草歌舞伎の演目に、「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」があり、主人公のお冨が玄冶店(げんやだな)の質屋の大番頭に囲われていたため、玄冶店という地域に興味を持ったためである。

玄冶店は、江戸時代の新和泉町、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目のあたりであり、人形町3丁目交差点付近には「玄冶店」の史蹟碑が建てられその歴史が書かれている。

玄冶店の地名は、徳川家の御典医であった岡本玄冶(1587~1645年)に由来し、玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ折りに見事にこれを全快させその名を高めたといわれた人物。玄冶は幕府から拝領した土地に借家を建て、庶民に貸したことから一帯が「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれるようになった。

(注)江戸時代には店舗のことは「見世(みせ)」と書いたり「店(たな)」と書いたりしていた。「店(たな)」と読む言葉には商家の勤め人のことを「お店者」、借家を借りるのを「店借り」、借りてる住人を「店子」などがある(Yahoo!のQ&Aより引用)。

人形町の地下鉄の駅を出ると石碑は直ぐに見つけられた。そしてその史跡的な意味が書かれた説明板に上に書いたようなことが書かれていた。あたりを見ると、この石碑に注目する人は皆無で、言われなければ気付かない存在となっているが、これは仕方ないだろう。

玄冶店の地名はなくなったが、玄冶店濱田家という料亭が直ぐ近くにある。店のホームページを見ると「濱田家は大正元年、歌舞伎の舞台としても知られる玄冶店の跡地にて創業致しました。以来百余年、料亭としての伝統を時代の風を採り入れながら今も大切に守り続けております。」と出ている。由緒ある料亭のようだ。昼食は2万円から3万円、夕食は3万円から5万円くらいの値段で、一般庶民が利用する店ではなさそうだが、「一見さんお断り」ではないようなので、お金に余裕のある方は利用できるのでしょう。


(玄冶店あたりの景色、右が濱田屋)

見聞を広めることができました。


人形町「やきとりお㐂樂」で親子丼、そのあと壽堂で黄金芋

2024年01月30日 | グルメ

今日は午後3時過ぎから眼医者の定期健診、せっかく都心に出るので少し早めに出て、先ずは人形町で昼食をとることにした。

どこが良いかいくつか目星をつけて12時半くらいに行ってみたが、まだ行列が残っているので、直ぐに入れた「やきとりお㐂樂」にしてみた。この店は甘酒横丁入口の交差点から逆方向に歩いてすぐ。人形町の他に半蔵門、神田小川町、コレド室町にも店があるようだ。

店に入ると奥行きの長い間取りで手前にカウンター席が、奥にテーブル席があるようだ。一人なのでカウンター席に腰かけ、メニューを見る。内装がきれいなので比較的新しい店かもしれない。

やきとり屋さんだが、昼間は焼き鳥丼以外に親子丼を売り物にしている店のようだ。焼き鳥丼も食べたかったが、親子丼に力を入れているみたいなので、そちらをたのむことにした。親子丼は京紅地鶏の親子丼極1,600円と上1,300円の2種類がある。今日は奮発して極の方を選んだ。極にはレバーや丸ハツ、合鴨入りのつくねも入っているのが特徴。

出てきた親子丼を見ると丼が思っていた以上に大きい、フタを明けるととろりとした卵とじに更に生卵が一つ乗っかっている。早速食べると大変おいしかった。ただ、レバーについては親子丼には合わないなと感じた。量的には十分で満足した。

人形町には親子丼で有名な「玉ひで」があるが、まだ行ったことがない。いつも長い行列ができているからだ。その玉ひでは建替え中だ。その超有名な玉ひでのお膝元で、親子丼で勝負に挑むとはたいしたものだ。玉ひでからすれば「おまえ俺に喧嘩売ってるのか」という所だろうか、あるいは「お手並み拝見」という所か。

おいしく頂きました、ご馳走様でした。

さて、人形町に来たら必ず京菓子壽堂で黄金芋(こがねいも)を買って帰ることにしている。今日もランチのあと、壽堂に寄ってバラで6つ買って帰った。相変わらずおいしい、お茶と一緒に食べる黄金芋のおいしさ、最高の贅沢だ。人形町には人形焼があり有名だが、どうも私は人形焼が苦手だ。最近は食べた記憶がないが年とともに好みも変るのでいつまでも毛嫌いしないで食べてみようかと思う。



山本武利「検閲官、発見されたGHQ名簿」を読む(その2)

2024年01月29日 | 読書

(承前)

占領期のRAA(特殊慰安施設協会)の広告

ここは検閲に直接関係ないが、検閲官の募集広告の話に関連して、こんなものまで募集していたと言う脈絡で出てくる話だ。

  • 占領期の経済的な困窮の中で新聞社を潤わせたのはアメリカンクラブによる検閲官募集の新聞広告であった。終戦直後の新聞の最大の広告主であった。アメリカンクラブはCCDその他の機関への就職斡旋機関であった。
  • ところが占領期の一時期、この広告欄を席巻したのがRAAだ。RAAは占領軍兵士にセックスや娯楽を提供する業者だ。敗戦から2週間もたたない8月から9月にかけて東京の有力紙にRAAの広告が出た。広告には50名募集、高給優遇、要語学力とあり、特殊慰安協会とあり怪しげだ。
  • この怪しげな内容を説明する記事が8月30日の「朝日新聞」に出た。見出しは「進駐軍の慰安施設」だ。それによれば進駐軍はバー、カフェ、キャバレー、慰安所を設置するとある。この記事で一般読者も「慰安」の何かが理解できた。9月5日の「読売新聞」には「慰安娯楽施設どしどし許可」の見出しで、キャバレー等の営業許可申請が殺到していることを報じている。
  • その後、より露骨な表現を使ったRAAキャバレー部の広告が「東京新聞」や「日本産業経済」に出る。広告では男女に「国策的事業」への「挺身」を求めている。更に「ダンサーを求む」では「経験の有無を問わず国策的事業に挺身せんとする大和撫子の奮起を望む」とある。
  • 8月18日には内務省警保局長から「進駐軍特殊慰安施設について」という秘密無電が各庁、府県長官に発せられた。東京料理飲食業組合や、売春斡旋業者らが作った特殊慰安施設協会が警視庁に営業許可をおそるおそる求めたところ、「婦女子の安全をはかるため防波堤となるものが必要」と逆に営業を懇請されたという。つまり官民挙げて米軍からの日本の中流階級以上の婦女子を守るための「大和撫子」の慰安所が設立されたのである。
  • ところが9月以降、こうした広告はぷっつりと出なくなった。パンパンという文字が浸透しだしたがそれが占領軍の検閲項目に引っかかり、また、こうした広告への批判が高まった、10月末には警視庁から広告掲載自粛せよとの打って変わった通達が出た。
  • 慰安施設が米兵の性欲の捌け口の場になったのは間違いない、ビジネスとしても短期間で大成功を収めた。東京、横浜、大阪など、全国に業者が施設を乱立させた。ところが性病が米兵に蔓延し、半年も経たないうちにGHQから厳しく批判され、営業閉鎖命令が出た。
  • RAAの広告は短期間で消えたといえ、別の形で継続した。アメリカン・クラブでも怪しげな広告が絶えなかった。

(コメント)

慰安婦強制連行報道(実は誤報)で日本軍を批判した新聞が敗戦直後に日本人慰安婦募集の広告を出していたとは・・・・いやはや。アメリカのダブルスタンダードも許せないが日本メディアの自分のことを棚に上げたダブルスタンダードぶりも許せない。

木下順二氏について

  • CCDの名簿が公開されており、その中に検閲官であった日本人として「キノシタ・ジュンジ」の名前がある。英語資料なので日本語でどう書くのかはわからないが、著者はいろいろ調査し、根拠を示した上で、このキノシタ・ジュンジは、「夕鶴」で有名な劇作家で進歩的評論家の木下順二(2006年、92才没)であるとしている。
  • 著者は、木下は進歩的文化人の代表格と言える人物で、その言論は日本の保守陣営や軍指導者への戦争責任追及には厳しいが、直接的なアメリカ批判が全く出てこないと指摘している。木下はCCD勤務を隠蔽したと思ってこの世を去った。
  • もちろん、彼の検閲官としての行為は違法ではないが、それを恥じていたのではないか。戦後、日本権力批判をするとなれば、その権力と組んだアメリカへの批判につながるのが当然だが、アメリカ側から占領期の彼の行為を暴露されるのを恐れて沈黙したのではないかと推測している。
  • 木下順二氏については昨年TVで観た演劇「リチャード3世」の感想を書いた投稿でも偶然取り上げていたので興味がある方は参照されたい(こちら)。

(コメント)

進歩的文化人としては不都合な事実であったのだろう。私はこれを非難しない、自分だったら同じことをしていたかもしれない。人は誰でも知られたくない過去はあるものだ。ただ、言論活動をしている人は過去が暴かれることは仕方ないであろう。

(続く)


山本武利「検閲官、発見されたGHQ名簿」を読む(その1)

2024年01月28日 | 読書

山本武利著「検閲官、発見されたGHQ名簿」(新潮新書)を読んだ。日本の敗戦後、占領軍による言論検閲があったのは広く知られており、江藤淳の「閉ざされた言語空間」は有名だが、今まで読んではいなかった。今回、新書で検閲のことを書いた本書が出たので、江藤の本よりは手早く読めるだろうと思い読んでみた。

本書で書かれているのは、秘密検閲機関であった民間検閲局CCDの活動体制、日本人検閲官の検閲に対する対応、日本人の利用のされ方、CCD閉鎖時の問題などであり、検閲対象や検閲方針などについては触れることはあるが、そこを詳述するのが目的ではなく、どのような体制や人員で検閲作業が行われたのか、日本人検閲官はどういう人たちで、どういう作業をどういう思いでやっていたのか、などに焦点を当てて書かれている。

先ずは、検閲の組織体制について簡単に記しておく。

GHQ(マッカーサー) 
総本部(チャールズ・ウィロビー)
G-2参謀第2部
 CIS:民間諜報部(民事を扱う)
  CCD民間検閲局
   通信部門(郵便・電信・電話)
   PPB部門(新聞・出版・映画・演劇・放送等)
 CIC:対敵諜報部(軍事・刑事を扱う)

検閲の目的は①言論思想統制、②占領政策や進駐軍の動静に関する日本人の世論の調査、にあったと言えよう、閉鎖は1949年10月31日であった、敗戦後約4年にわたって検閲が行われたことになる。

本書を読んで初めて知ったこと、驚いたことなどを記し、併せて自分のコメントを書いてみたい。

全般

  • 多くの日本人の検閲官を採用せざるを得なかったが、その給与は賠償金代わり日本政府に負担させていた
  • このような検閲は許されるものではない、日本国憲法21条には「検閲はこれをしてはならない、通信の秘密はこれを侵してはならない」と書かれている。が、日本政府はこの検閲に全面協力した。
  • こうした検閲を当時の国民はどう受け止めていたか、少なくとも国内メディアがこれに異議を申し立てた形跡は見られない。1945年10月11日の朝日新聞は「連合軍最高司令官ら検閲への協力の指令がきた」とだけ報じた。
  • アメリカは西ドイツの占領地でも同様な検閲をやっていた、アメリカのドイツ・オーストリア占領軍はメディア検閲こそ行わなかったが通信検閲は行っていた、アメリカは占領国のみならず戦中に本国でも通信検閲を大規模に実施していた

(コメント)

日本に憲法を押し付けておきながら、その憲法に反する行為をやっていたアメリカのダブル・スタンダードぶりが許せない。新聞も検閲に対する批判や抵抗はしなかった。権力のチェックが仕事だなどと偉そうに言う資格はないだろう。

(続く)


半蔵門のTiMiでパンとケーキを買う

2024年01月27日 | グルメ

半蔵門の歯医者に行った帰りに、せっかく来たのでちょっとショッピングでもして帰ろうと思い、事前に調べておいた洋菓子店のTiMi(ティミ)に行ってみた、初訪問。アド街でも紹介されたことがある店だ。

半蔵門の駅から歩いて5分くらいか、うっかりしていると通り過ぎてしまいそうなこじんまりした店だ。住所は千代田区一番町となっている。

店のホームページによれば、TiMiはアイルランド語で「時」を意味する言葉で、心がほっとする時間にTiMiのお菓子がそばにあってほしいという想いから名付けた、とある。生菓子のケーキを焼き菓子にした看板商品「ベイク」や、自家製のパンなど、体にやさしい食材で作られた自家製のお菓子はどれもほっとする美味しさ、と紹介している。

看板商品ベイクはティラミスやモンブランをはじめ様々な生菓子のケーキが美味しさそのままに焼き菓子になったもの。常温保存ができるのも大きな特徴だ。

今日はベイク商品から一番人気であるベイクドモンブランを一つ、パンはセーグルとソフトミルクを一つずつ購入した、合計1,020円。


(上がベイクドモンブラン、下の左がセーグル、右がソフトミルク

帰宅して夕食のデザートでベイクドモンブランを食べた。写真を撮るのを忘れたが、ケーキの中には栗の渋皮煮がごろっと一つ入っていて、そこに洋酒が香るマロンクリームがあわさり、まろやかな栗のおいしさを存分に味わえた。買ったパンについても翌日の朝食で食べたらおいしかった。

この店には地下にイートインスペースがありランチメニューもある、今度はそこでベイクドケーキかランチを食べてみたい。


ジャズ喫茶「いーぐる」に行く

2024年01月26日 | カフェ・喫茶店

四谷のジャズ喫茶「いーぐる」に行ってきた。その日は半蔵門の歯医者に予約があり、その前に立ち寄ってみた。四谷から半蔵門までは歩いて25分くらいしかない。

ジャズ喫茶と言えば「地下」のイメージと先日のブログに書いたが、ここはまさに地下にある。螺旋状の階段を降りていくと入口があり、中に入ると結構広い。帰りがけに良く見たら入口付近にオーナーの書いたジャズの入門書がいっぱい置いてある。

満席ではなかったので「お好きな席にどうぞ」と言われ、今日は昨年来たときと違った席に座った。入口を入って直ぐ左側がキッチン、その先にオーディオルーム、右側は座席、オーディオルームの奥は全部が座席スペースだが、左側と右側に別れている。奥の壁には大きなスピーカーが埋め込まれている。今日は奥の座席の一番入口近くのあたりに陣取った。奥の室内が全部見渡せて広々した開放感がある良い座席。

コーヒー750円を注文し、座席に腰かけて流れているジャズをゆっくり聴く、音は大きめ、「会話には注意」という注意書がもある。来ている人は私と同じ中高年男性の一人客が多かったが若い人もいた。

流れているジャズナンバーはオーディオルームの前にレコードやCDが置かれているのでそれを見ればわかる。みんな本を読みながら、あるいはスマホを見ながら、あるいはじっと目を閉じて聞いている。1時過ぎに到着したのでランチメニューの食事をしている人もいた。

ここの内装は非常にセンスが良いと思う。全体的に木製あるいは木目調のテーブルや仕切りなどが使われており、座席の色も深い緑とシックな感じ。非常に清潔感もある。店主や店員のこの店にかける愛着が感じられる。今日は4人がけの座席に一人で座ったがテーブルも充分広いので全体的にスペースに余裕がある。

後に歯医者の予約が控えていたので1時間とちょっとくらいで店を後にした。

ご馳走様でした。また来ます。


映画「燃えよドラゴン」を再び観る

2024年01月25日 | 映画

テレビで放送されていたブルース・リー主演の映画「燃えよドラゴン」を観た。1973年、香港・米合作、ロバート・クローズ監督、原題Enter the Dragon。上映中の新作映画に何か面白そうなものがないかチェックしているが、これは観たいと思う映画がないのでテレビで放送していた昔のヒット作品をつい見てしまうことが多い。しかし、それはそれで良いと思っている。

この映画はもう50年も前の映画になるが自分が青年の頃、爆発的にヒットした映画だ。ブルース・リーの格闘シーンは今でも脳裏に鮮明に焼き付いているが、その後見直すこともなかったのでストーリーなどはすっかり忘れていた。良い機会だから見直そうと思った。

リーは国際情報局のブレイスウェイトにかつて同じく少林寺で武術を学びながらも悪の道に手を染め破門となったハン(シー・キエン)が所有する島で3年に1度開催する武術トーナメントの参加を依頼される。トーナメントの参加は表向きで、犯罪行為の疑いがあるハンの島の内偵をして欲しいという依頼。リーは消極的であったが、帰郷した際に家人から、数年前に妹スー・リン(アンジェラ・マオ)がハンの屈強な手下により追い詰められた末に自害を遂げたことを聞き、ハンへの復讐をするため島に乗り込むことにしたが・・・

ストーリーはけっこう面白く、島の武術トーナメントの模様も面白いし、リーが島の内部の麻薬工場の内偵するところもハラハラするし、リーを含め3人の島に乗り込んできた武道家の部屋に美女たちが訪れ、どれでも好きな女を選んで下さい、と言うところなどもかの国ではありそうな話で笑えた。最後にリーとハンの格闘シーンとなるが、これもなかなか面白かった、ハンが義手を金属の爪に替え、これを振り回してリーを責めるところなど見ていてハラハラする。良くできた映画だと思った。50年経っても充分通用する映画だ。ただ、リー自身の色恋沙汰がないのがちょっと物足りないと思った。

ブルース・リーは1940年生まれ、この映画が上演される前に既に「ドラゴン危機一発」(1971年)、「ドラゴン怒りの鉄拳」(1972年)などがヒットし香港の大映画スターになっていた。この「燃えよドラゴン」はリーのハリウッド初進出映画だったが、1973年7月20日に、「死亡遊戯」で共演予定の女優ベティ・ティン・ペイの香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤を飲んでベッドに横になったまま昏睡状態になり病院へ搬送されたが死亡した、32歳であった。随分と不可解な死であった。

リーの格闘シーンは見ていて惚れ惚れする素晴らしさだ、鍛え上げた肉体、軽い身のこなしから鋭いパンチや蹴りが炸裂する。弟子に指導するときに「大事なのは気持の集中、気合いだ、本気になってかかってこい」と言い、本気になってかかってきた弟子に、「どんな気分だった」と聞くと、弟子はどう答えたら良いか考えている。すかさずリーは「考えるな、感じとれ」と言ったが、この台詞がけっこう流行ったようだ。

リーは映画俳優である前に少林寺の武道家、武術家でもあった。そうでなければ映画であのような武闘シーンは撮れないだろう。ただ、実際の武闘シーンはどうやって撮影していたのだろうか、まさか本気出してやっているわけでもないだろうが、それを本気らしく見せるのが俳優と監督らの腕なのであろう。

楽しめました。


2024年名曲喫茶「バロック」初訪問

2024年01月24日 | カフェ・喫茶店

本年初めて吉祥寺のバロックを訪問した。午後3時過ぎ、店に入ると先客が数名、全員男性だ。若い人もいる。空いている席に腰かけ、コーヒー800円を注文。

皆さんじっと黙ってかかっている曲を聴いている。音は少し大きめ。窓から外光が入り室内は明るい。私は地下にある喫茶店より地上の外光が入る店が好きだ。自宅で寛ぐような雰囲気になるからだ。そしてクラシック音楽は地下より地上の方がイメージに合う。逆にジャズ喫茶は地下の方が何となくジャズのイメージに合う。

今日は時間がなく、1時間しか滞在できなかったが、かかっていた曲は次の2曲

  • ブラームスのバイオリンとチェロのための二重奏曲
  • サンサーンスのピアノ協奏曲(ロバート・カサドシュ、バースタイン、NYフィル)

ブラームスの二重奏曲は誰の演奏かホワイトボードの字が細かくて見えなかったが、両方とも良い曲だと思った。

私が入店した後、2、3人の来客があった。それなりに流行っているようで何よりだ。こういう店はいつまでも存続してもらいたい。私も中央線沿線に来ることも多いので、なるべく訪問したいと思っている。中央線の沿線には本当に良い名曲喫茶が多い。荻窪の「ミニヨン」、国分寺の「でんえん」、高円寺の「ネルケン」、そして吉祥寺の「バロック」。足繁く通わなくてはなるまい。そして、ジャズ喫茶としては四谷の「いーぐる」も素晴らしいし、吉祥寺にも「サムタイム」や「SCRATCH」がある。本当にこっち方面にくるときは忙しい。

ご馳走様でした。次回はもっと時間の余裕があるときに来ます。

さて、今日は帰りに近くのKINOKUNIYA Bakeryに寄って明日の朝食用のパンを買った。買ったのはプレーン・スコーン、ウォールナッツ・スコーン、ロシアンピロシキの3つ、合計701円。昨年からかKINOKUNIYAはスコーンの形を丸形から三角形にしたが、これは如何なものか。

翌朝、食べてみると、スコーンがしっとりとしている。スコーンはパサパサしているものだと思っていたが、KINOKUNIYAのものは違った。今まで気付かなかったが、これはこれで良いと思った。


牛丼チェーン店でランチ

2024年01月23日 | グルメ

最近食べた牛丼チェーン店でのランチから2つ。

最初はなじみの松屋でのランチ、今日はカルビ焼肉定食チゲスープ付き950円をたのんでみた。

食べてみるとおいしい。カルビも旨いし、チゲも旨い。チゲが結構大きなお椀に入っていたのがうれしい。サラダがついているのもうれしい。ライスはダイエットのため小ライスにした。

カルビはやはり脂身が多いので、健康を考えると今度来るとすればハンバーグ系が良いかなと思った。しかし、この定食自体はおいしかった。

次は別の日に、すき家でランチ。ここでは迷わず肉味噌牛担々鍋単品790円を注文。メニューには激辛かピリ辛と書いてあったがあまり気にしないで注文した。

しばらく待つと鉄鍋に入った坦々鍋が出てきた。一番上に赤い辛子だろうかたっぷり乗っている。これを半分くらい汁に溶かして食べ始める。確かに辛い、激辛だ。水を飲みながら食べる。

量的にはライスが付いた定食にしないと足りない感じだが、ダイエット中につき、今日はこれで我慢した。鍋にはうどんが入っているがそれほど量はない。辛いので苦手な人は上にかかっていた辛子を取り除いて食べても良いでしょうし、ご飯があればご飯と一緒に食べると少しは辛さも忘れるでしょう。

どちらもおいしかったが、最近牛丼チェーン店にばかり行っているので、さすがに飽きてきた。次の外食は普通の店で食べよう。

ご馳走様でした。


読響「第263回日曜マチネシリーズ」を聴きに行く

2024年01月22日 | クラシック音楽

東京芸術劇場で開催された第263回日曜マチネーシリーズを聴きに行ってきた。今日は2階のA席、6,000円。14時開演、16時前終演。ヴァイグレ指揮の読響の演奏を聴くのは初めてだ。客席は1階はほぼ満員、2階・3階は8割方の埋まり具合か。来ている人の平均年令は高めに思えた。

出演

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ(独、61)
クラリネット=ダニエル・オッテンザマー(墺、37、ウィーンフィルのクラリネット奏者)

演目

ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序(8分)
ウェーバー:クラリネット協奏曲第2番 変ホ長調 作品74(19分)
(アンコール:ダニエル・オッテンザマーによる即興演奏)
ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」(39分)

ウェーバー(英、1826年6月、39才没)のクラリネット協奏曲第2番を聴くのは初めてだ。事前にYouTubeで予習してみると結構親しみやすいメロディーだ。ループ再生にして午前中に読書をしながらBGMで何回も聞いていると、良い曲だなと思った。俄然、芸術劇場で聞くのが楽しみになってきた。

当日もらった読響のノーツを読むとウェーバーはクラリネット奏者のベールマンのために小協奏曲を作曲し、ミュンヘンで初演された際、バイエルン王が感嘆し、直ちにウェーバーに2曲の協奏曲を作曲するように求め、できたのがクラリネット協奏曲の1番と2番(いずれも1811年)であると書いてある。ただ、これ以降ウェーバーはオペラの方に興味を移していき、「魔弾の射手」は1821年初演である。

この曲を何回か聞くうちに何となくこの曲は何も知らされなければモーツアルト(1791年没)の曲ではないかと思えてきた。曲全体のムードもそうだし、部分的にもフィガロの結婚のようなメロディーもあり、ウェーバーはもしかしたらモーツアルトを意識して作曲したのではないかと思えてきたがどうであろうか。

クラリネットのダニエル・オッテンザマーはさすがウィーンフィルのメンバー、素晴らしい演奏だった。そして、アンコールで即興演奏をしてくれた。静かな曲でまるで尺八を吹いているように感じた。ところがその静かな演奏中、2階の私の席の直ぐ側で携帯の通知音であろうか2回も鳴らした不届き者がいたのにはがっかりした。

本日のメインは何と言ってもベートーベンの「田園」である。「田園」は私がクラシック音楽を聴き始めた40才頃からずっと聴き続けている曲であり、いろんな思いがある。以前、「田園」について思うところを当ブログで書いた(こちらを参照)が今日は少し別の観点から「田園」について述べたい。

ベートーベンの「田園」で思い出されるのはウィーン郊外のハイリゲンシュタットだ。田園交響曲の田園とはハイリゲンシュタットのことだ。ベートーベンはこのちいさな町をよほど気に入ったらしく11回も滞在した。そして、この町で「田園」の楽想をふくらませ作曲した。

問題は「ハイリゲンシュタットの遺書」のことだ。これはベートーベンが難聴を苦にしてハイリゲンシュタットで遺書を書き(1802年10月)、死のうと思ったが、死ななかった。その理由はわからないが作家の宮城谷昌光氏は「死にたいと思ったが、死のうとはしなかった、そして第5交響曲と第6交響曲を書いた、このあたりの微妙な心理の襞が重要だ」と書いている(「クラシック千夜一曲」)

このハイリゲンシュタットの遺書を書いた家が今ではベートーベン記念館となっている。ウィーン旅行に行ったとき是非ハイリゲンシュタットに行きたいと思い、シェーンブルン宮殿に行く時間を惜しんでハイリゲンシュタットのベートーベン記念館を訪問した。ただ、ベートーベンが歩きながら「田園」の構想を練ったことで知られる「ベートーベンの散歩道」が近くにあったが、嫁さんが朝から歩き回ってもう疲れたと言うので行くのは諦めたのが残念だった。


(ベートーベン記念館訪問時の写真から)

今日のヴァイグレ指揮の読響の演奏だが、「田園」については自分の評価基準が確立されており、すなわちベーム指揮の「田園」かトスカニーニ指揮の「田園」を理想とする、それと照らしてどうか、という判断をするのを常とするが、今日の演奏は合格点だと思った。私が注目するのは第5楽章だが、今日の演奏は素晴らしく、身も心も演奏に捧げることができた。ヴァイグレはなかなか良い指揮者だと思った。

終演後、出口のところで指揮を終ったばかりのヴァイグレが能登半島地震の義援金寄付の箱を持って立っていたのには驚いた。私は既に石川県指定の口座に直接振込済みであるので通り過ぎたが、ヴァイグレさんも偉いものだ。