ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

歌舞伎「棒しばり、天守物語」を観る

2023年06月30日 | 歌舞伎

テレビ番組で平成中村座が姫路城の三の丸広場で行った歌舞伎公演を観た。今夜の演目は舞踏の「棒しばり」と姫路城の天守を舞台にした泉鏡花の作品「天守物語」だ。

棒しばり

次郎冠者  勘九郎(41)
次郎冠者  橋之助(29、芝翫長男)
曽根松兵衛 

次郎冠者と太郎冠者は無類の酒好き。ある日、主人の曽根松兵衛は、外出中に酒を盗み飲まれないよう一計を案じ、次郎冠者の両手を棒に、太郎冠者を後ろ手に縛りつけて外出します。飲めぬとわかるとますます酒が飲みたい二人は、協力して酒を酌み交わし始めます。そうして二人がほろ酔い気分で踊り出したところへ、松兵衛が帰ってきて・・・


この演目は六代目菊五郎と七代目坂東三津五郎のコンビで初演されたものだそうだ。勘九郎の演技はなかなかさまになっていた。表情にも余裕が感じられ、亡き勘三郎にそっくりになってきた。勘三郎が常に熱演するのを見て育ったのだろう、勘九郎も常に全力で演技しているのが伝わってくる。両手を棒に縛られたままで、左手に持った開いた扇子を右手に投げて持ち替えるところはよく失敗せずにできるもんだ。

楽しく鑑賞できた。

天守物語(演出:坂東玉三郎)

天守夫人富姫  七之助(初役)
姫川図書之助  虎之介(25、成駒屋)
朱の盤坊    橋之助
亀姫      鶴松
小田原修理   片岡亀蔵
舌長姥/近江之丞桃六 勘九郎
薄       

泉鏡花の同名の小説を歌舞伎にしたものだが、あまりに斬新で奇想天外であったため鏡花の存命中は上演がかなわず、初演は昭和26年のことだった。今回、物語の舞台と実際の平成中村座の舞台が同じ姫路城というのはよく考えたものだ。最高の舞台設定といえよう。

播磨国姫路にある白鷺城の天守閣は、人間たちが近づくことのない別世界。この世界の主、富姫。富姫を姉と慕う亀姫が訪れ、久しぶりの再会を喜び亀姫に土産として白鷺城の城主である武田播磨守自慢の白い鷹を与える。その夜、天守閣に播磨守に仕える姫川図書之助が鷹を探しに現れ、富姫は凛とした図書之助の応対に、命を奪うべきところを無事に帰すが、図書之助は天守を降りる途中で燈を消してしまい、火を求めて最上階へと戻る。図書之助に恋心を抱き始めていた富姫は、自分に会った証として、城主秘蔵の兜を渡す。再び天守を降りた図書之助は家宝の兜を盗んだ疑いをかけられ・・・

泉鏡花の小説はいくつか読んだが、大変面白い。幻想的な小説が多く、本作品もそうだ。この作品は長年、坂東玉三郎が富姫を演じてきたが、今回は初めて後進の七之助が演じ玉三郎はいろいろ指導したという。また、演出もやっている。良いことではないか。七之助も玉三郎から見込まれたのだからたいしたものだ。私はまだ玉三郎の富姫は観ていないので比較できないが、七之助は立派に富姫をこなしていたと思う。


北岡伸一「日本の近現代、政党から軍部へ」を再読する(その3)

2023年06月29日 | 読書

(承前)

さて、北岡教授の本を読んで、これはいかがなものか、という部分も記載してみよう

  • 南京事件について「相当大量の捕虜の処刑、民間人の殺傷、略奪、強姦あったのは、否定できないと思われる、その数は、ハッキリしたことは分かりようがないが、少なくとも板倉由明の16,000人、おそらく秦郁彦の4万人あたりではないか」と述べている。そして「4万人でも1万人以下でも大惨事であり、大不祥事である」と述べている(いずれもp293)。これはいただけない。学者が証拠も示さずに憶測でこのようなことを書くとは。藤原正彦教授が「私は大虐殺の証拠が1つでも出てくる日までは、大虐殺は悪質かつ卑劣な作り話であり、実際は通常の攻略と掃討作戦が行われたとだけ信ずることにしています」(「日本人の誇り」p120)と述べているが、これこそが学者がとるべき態度ではないか。
  • 一方、真珠湾攻撃について「ルーズベルトが日本の真珠湾攻撃を知っていて、やらせたという説がある。孤立主義の国民を説得することが難しかったので、日本という裏口を通って、ドイツに対する参戦を果たしたというバックドア・セオリーをアメリカでしばしば指摘される。しかし、長年の学者やマニアの探索にもかかわらず、大統領があの時期に真珠湾を日本が奇襲することを知っていたという証拠は出ていない」と述べている(p286)。こちらの方は正論で学者らしい態度である。南京についても同じ態度がどうして取れないのだろうか。
  • 教授は「アメリカが日本に最初の一発を打たせ、それによって国民を結束させ、世界大戦に参戦したというのは、大筋でその通りである、これを汚いという人もあるだろう、しかし、国際政治とはかなりの程度駆け引きであり、場合によってはだましあいである、アメリカが狡猾だと行っても始まらない、だまされる方が悪いのである」と述べている(p388)。その通りであるが、書いていることに首尾一貫性がないのではないか。
  • この本では、1929年の米株式市場大暴落に端を発する世界同時不況により欧米がブロック経済を構築して日本やドイツがその被害者である点を書いていない、持てる国と持たざる国との格差が生じ、資源が無く貿易立国の日本は窮地に追いやられた。この大事な点について何も言及がないのは当時の日本のおかれていた状況を適切に記述しているとは思えない。

まだまだ書きたいことはあるが、学者の論文でもないのでこの辺にしておこう。

この時代の歴史を書くのは本書のボリューム(420ページ)では難しいところだが、教授のこの本はよくまとまっており、バランスもよく、片寄った偏向した思想で書かれてないと思う。その点で素晴らしい書籍だと思う。北岡教授の考え、行動に対する批判があるのも承知しているが、本書は読むべき歴史書だと思った。


北岡伸一「日本の近現代、政党から軍部へ」を再読する(その2)

2023年06月29日 | 読書

(承前:この本の素晴らしところについて)

  • 教授は満州事変が起こったとき首相だった若槻礼次郎について関東軍が東京の意向を無視して朝鮮軍を出兵させたことについて幣原外相や井上蔵相が反対したにもかかわらず事後承諾を与えたことを書いている(p160)。若槻はまれに見る能吏であって、頭脳明晰という点は歴代首相の中でもトップクラスであると言われたが、その分、粘り強さや決断力に欠けていたと述べている(p48)。若槻はロンドン海軍軍縮会議の全権としてアメリカのスチムソン国務長官と交渉してアメリカからは日本にも良識的な政治家やいると評価されたが、常識が通じない軍部などを相手にしての交渉は全くダメだったことをよく書いてくれていると思う。最近では宮沢喜一が同じような政治家だろう。
  • 満州事変から国際連盟脱退にいたる過程を批判した清沢洌は「松岡全権に問う」で、小村は日本のために必要だと確信して、不人気な条約を結び、石を持って迎えられた、あなたは今、歓呼の声に迎えられる、どちらが日本のためになるだろうか、と勇気ある発信をしたが、当時の論壇は強硬論一色であって、他に同様な主張をするものはほとんどいなかった(p183)、と書いているのは評価できる。
  • 帝人事件が1934年に起こり、政界と財界の癒着、権力濫用した不正を時事新報が暴露した、背後には斉藤内閣の倒閣を目指す勢力があったが、1937年関係者は全員無罪となった、事件は全くの空中楼閣であることが裁判官によって明らかにされた(p190)。こういうことも書いていることは評価できる。このようなでっち上げや些細なことで政権や首相に悪印象を与えることは最近でもある。

  • 1932年、上海事件の際、肉弾三銃士が話題になったが、今日では造られた話とされていると書いている(p245)
  • 教授は広田弘毅に対して批判的である、例えば広田が進めた和協外交(p186)、陸軍の圧力に対してさしたる抵抗もしようとしなかったこと(p265)、盧溝橋事件で積極的に不拡大の方向で動かなかった(p288)などを挙げているが全く同感である。
  • 日中戦争について、華北から華中に飛び火したのは、中国側の決断でもあったと書いている(p289)、中国も戦争をやる気満々だったことは留意すべきである。
  • 1937年以降の戦時統制について、中村隆英を引用して、当時の学者やジャーナリスト、官僚や軍人の中に、自由経済を弊害の多いものと考え、統制経済、計画経済を謳歌する雰囲気があったと紹介している(p300)。
  • 教授は宇垣一成、𠮷田茂らに好意的である。𠮷田については、𠮷田と原敬はともに、果断のの政党指導者であった、強腕政治を批判された政治家であった、そして両者とも英米協調を首尾一貫して主張していたとしている(p391)。最近でも、民主主義のルールにのっとり国会で採決をとると強行採決と騒ぐ向きもある。

(次に続く)


北岡伸一「日本の近現代、政党から軍部へ」を再読する(その1)

2023年06月29日 | 読書

北岡伸一教授の「日本の近現代5、政党から軍部へ」を再読した。明治維新あたりから第2次大戦敗戦までの日本の歴史には興味がある。今まで時間を見つけては少しずつ関連する書籍を読んできた。この100年という期間、調べれば調べるほど、あまりにも多くのことが起こった非常に複雑な時代であった。

この本は1924年(大正13年)から1941年(昭和16年)までをカバーしている。この間もいろんなことが起こったが、ゆっくり再読してみた感想を述べてみよう。

先ずは、この本を読んでみて非常に参考になったな、また、よくキチンと書いてくれているな、と思うところを述べてみよう。

  • 教授は、「対華21箇条の要求(1915年)は、当時の文脈においては、格別野心的でも侵略的でもなく、それまでの既得権益を確実なものにしようとするものに過ぎなかったが、外交交渉の稚拙さもあって、日本の野心を代表する政策のようにみられてしまった」と書かれている(P40)。その通りだと思う。
  • 教授はいわゆる田中上奏文について「なお、この会議(東方会議)との関連において世に出回ったのが、「田中上奏文」である。これは、田中がその大陸征服計画を天皇に上奏したものだとして、中国が宣伝し、東京裁判でも問題にされたものであるが、今日では偽書ということになっている。」と書かれている(P71)。これもその通りだと思う。
  • 教授は結構いろんな場面で、当時の新聞の報道がどうだったのか、それが政治の判断にどう影響したのか、を述べている。新聞世論の強硬姿勢、軍部への賛同、国民や軍部を扇動するような報道か数々行われていたことを示している。例えば、
    田中内閣時の対中世論の沸騰(P85)、満州事変に対する吉野作造によるマスコミの強硬論への批判(p100)、ロンドン海軍軍縮会議に対する大新聞の偽善的報道(p116)、1931年の満州における中村大尉事件、万宝山事件に対する誇大報道、満蒙問題に関する世論の高揚を招く報道(p157)、1931年、関東軍が錦州で対空砲火を受け反撃した際、新聞は「我が軍、錦州を爆撃す」と報道し、世論を前のめりし、関東軍にうまく利用された(p162)、吉野作造は「自分が特に遺憾に思うことが2つある、まず、新聞が一斉に満州事変を賛美していること」と述べたことを紹介している(p166)、リットン報告書が事前に新聞記者に示されたとき、複雑な問題をよく整理して解決策を示したと感心していたのに、翌日の新聞は、日本の立場に対してまったく無理解な文書であるとの罵詈雑言が踊った(p180)、世論は三国同盟を賛美した、東京朝日新聞は「国際史上画期的な出来事として誠に欣快に堪えざるところである」と称えている(p349)・・・・
    など、数え上げたらきりが無い、こういった報道を新聞がしていた事実をしっかりと記載している教授の姿勢は評価できる。

(次に続く)


映画「パリの調香師」を観る

2023年06月28日 | 映画

自宅で映画「パリの調香師、しあわせの香を探して」(LES PARFUMS/PERFUMES、2019、仏、グレゴリー・マーニュ監督)を観た。

調香師のアンヌ(エマニュエル・ドゥヴォス)は世界中で活躍し、クリスチャン・ディオールの香水「ジャドール」をヒットさせた。だが、4年前に多忙と仕事のプレッシャーから突然嗅覚障害を発症し、それまでの地位を失う。今は嗅覚も戻り、地味な仕事だけをこなしながら静かに暮らすがギヨーム(グレゴリ・モンテル)を運転手として雇う。気難しいアンヌに戸惑いながらも、率直にものを言うギヨームは気に入られ、少しずつアンヌの閉じていた心も開かれていくが・・・

エマニュエル・ドゥヴォス(59、仏)は好きな女優だ。もう中年のおばさんなんだけど、気品があり、きれいだ(シニアの私から見ればの話だけど)。彼女が出た映画は何本か観てきたが、最近はあまりみる機会が無かった。今回久しぶりに観たけど、良い演技をしていた。人付き合いが下手で、自分の殻に閉じこもりがち、華々しい成功を収めたが挫折を経験し、再起を計るが焦りを感じている中年女性、そんな役柄をうまく演じていた。

アンヌの運転手役のギョームを演じたぐれゴリ・モンテル(46、仏)という俳優は知らなかったが、うだつの上がらないダメ男をうまく演じていた。

この調香師という職業については、ドイツのパトリック・ジェースキントが書いた「香水」という小説がある。この小説を映画化した「パヒューム」という映画もあった。これは18世紀のパリを舞台にした小説だ。やはりパリと香水という組み合わせは映画や小説にもなるいろんなドラマが生じる領域なのだろう。

さて、この映画が最後であるが、ベンツから下車したアンヌとギョームが降りて訪ねた先はシャネル。そして、子供たちを相手にギョームが香水の説明をする先生をしている場面で終わる。この場面の解釈は視聴者に任されているのだろう、シャネルと取引できるまでに名声が回復したのか、それともギョームだけがシャネルの主催する匂いの教室の先生に出世したのか、その両方か・・・・

まあ、勝手に解釈してくれ、ということだろう。ヨーロッパ映画らしい終わり方だ。


「サンヒルズ・カントリーWest Course」でゴルフ

2023年06月26日 | ゴルフ

栃木県宇都宮市のサンヒルズ・カントリーでゴルフをした。今回はWestCourseを選んだ。今回も午後からのスループレーにした。日の長い今ころは昼過ぎスタートのスループレーが快適だ。

今回は前の組が4人組で途中で追いついたが、毎ホール待たされるようなことはなく、後半のハーフは前にも後ろにもプレーする組がいなく、我々2人でコースを独占使用している状態だったので、非常に快適だった。午後スルーのよいところはこのような状況になることが多いからだ。12時過ぎからスタートして終了は4時前、平均するとハーフ2時間かかっていない。

今月に入ってEastとWestの2コース続けてラウンドした結果の印象だが、コースの雰囲気、整備は大変良い。グランドPGMを名乗るだけのことはあると思った。プレーの進行も悪く無い。年に何回かプレーしたいコースである、という印象は変らなかった。

一方、コースレイアウトについては、EastもWestも印象に残るホールがあまり多くない。豪快な打ち下ろしホールは出だしのホールだけだし、ドッグレッグホールもほとんどない。グリーンを狙うショットで、池越えやがけ越えのスリルのあるホールもない。上級者は少し物足りなく感じるのではないだろうか。その中では、一番変化に富んで、印象に残るのはWestのインコースだった。

いずれにしても、十分楽しめ、コースや運営も申し分ないので、これからも年に何回かプレーしたいコースである。


高田馬場「とん久」でとんかつを食べる

2023年06月26日 | グルメ

今日の昼食は高田馬場の駅前のビルの地下にある「とん久」に行ってみた。実は、その前にあるうなぎやに行ったのだが、予約なしだったら満員で入れなかったので、こちらを選んだ。

1時過ぎに行ったが、街の行列に4人、実は店内の椅子にさらに2人いたのに気づかなかったが。そこで行列に並ぶのは好きではないので、違う店にしようと思ったが、ピーク時間は過ぎているので、5分だけ待って見ようと思った。そしたらちょうど5分くらいにカウンター席が空いて、案内された。

この店はとんかつファンには結構有名で、以前、一回来たことがある。一時期とんかつにはまっていた時があった。その当時の店内の印象は覚えてないが、今回再訪問してみると、結構綺麗な印象であった。

メニューはカウンターのテーブルの上にランチメニューのみがおいてあったので、そこからBランチ(ヒレカツ)1,400円を選んだ。今日はロースの誘惑に負けずにヒレを選べたのはよかった。シジミの味噌汁か豚汁を選べるので今回は豚汁を選んだ。

10分か15分待って、運ばれてきた。キャベルとご飯はおかわりできるとのこと。ソースは2種類、キャベツのドレッシングも2種類あった。私はキャベツは何もかけずに食べる。先ずはキャベツを食べ、その後とんかつを食べた。とんかつの切り方が特徴があり、四角い感じに切ってあったのは面白い。ヒレ肉は柔らかく、豚汁もおいしかった。とんかつの量も十分である。

ピーク時間が過ぎているのにどんどん客が入ってくる。人気があるようだ。直ぐ向かいの蒙古タンメン中本もこちらに負けずの大行列であった。満足して食べ終わり、店を後にした。

ご馳走様でした。


北松戸の「本土寺」に紫陽花を観に行く

2023年06月25日 | 街歩き

北松戸駅の近くにある本土寺に行って紫陽花を見てきた。本土寺は春は桜、紫陽花や菖蒲、秋は紅葉で有名であり、過去に何回か行ったことがある。ただ、紫陽花は観に行った記憶が無いので今回が初めて。

車で行ってみると、本土寺に向かう参道にも車で入れて、平日だったこともあり、お寺の直ぐ近くの駐車場(無料)に停められたのはラッキーだった。本土寺境内は普段は無料だが、6月2日以降の菖蒲や紫陽花の時期だけ500円の入場料を取られる。これはこれらの花の維持管理費に充当されるため、とのことで当然であろう。そしてシニア割引もない、これで良いと思う。

境内に入ると正面に本堂があり、左側に五重の塔がある。紫陽花は境内に入って右に折れる道を進んで行くと直ぐに道の両脇にある。その道に沿って進んでいくと大きな池があり、その周りを紫陽花が取り囲んでいる。そして池の中には菖蒲がいっぱい植わっている。もう菖蒲は盛りを過ぎ、若干の花が残っているだけであったが、紫陽花は満開であり、綺麗であった。

本数は長谷寺や服部農園ほどの多さではないが、十分楽しめる量は咲いている。寺の説明では「花菖蒲が五千本、十種類以上の紫陽花が境内中に咲き渡り、その数は五万本以上に及びます。」とある。また、境内の本堂の右脇からも池につながる道が整備されており、紫陽花や竹林が観られる良い雰囲気である。

ゆっくりと池の周りを周回し、紫陽花を楽しんだ。観光客はそれほどではなく、落ち着いた雰囲気で楽しむことができた。

お疲れ様でした。

 


茂原市の「服部農園あじさい屋敷」に紫陽花を観に行く

2023年06月24日 | 街歩き

千葉県茂原市の服部農園あじさい屋敷に行ってきた。紫陽花が密集して咲いているところで有名らしいが知らなかった。2、3年前に鎌倉の長谷寺の紫陽花を観に行ったことがあったが大変きれいに咲いていて素晴らしかった。あれ以上のものは想像できなかったが、嫁さんが凄いから、というので行ってみることにした。

平日だったので農園隣接の駐車場に直ぐに入れたのはよかった。随分手前に臨時駐車場の看板があったので週末は混雑して大変だろうなと思った。駐車場に隣接した屋敷があり、そこの入口で入場券1人600円を買って中に入ると、屋敷の中では野菜や果物などの販売をしている。

そして、その屋敷を奥に進むとあっと驚く光景が目に入る。山裾を切り開いて紫陽花をびっしり植えた綺麗で雄大な景色が目に入ってくる。これには驚いた。山裾に紫陽花が咲き誇っているのが一望できる。説明によれば、「総面積27,000㎡の屋敷に18,000㎡、250品種・10,000株以上のあじさいが色彩豊かに咲き競います」とある。スケールが大きい。

その山沿いに歩く道があるが、結構傾斜が急である。元々今日は天気がよくない予報で昼ころから雨も降る予報だったが、雨が降ると上り坂や下り坂が滑って危険なので山には登れない。私たちが到着したときは雨が降っていなかったので山を登って下を見下ろせたのはラッキーだった。

紫陽花もバラと同様、いろんな色、形があり、種類が多いようだ。変った花びらをしている新種もあるようだ。ただ、匂いはしない。私は詳しくないが、花好きな人にはたまらないだろう。遠くから時間をかけて来る価値はあったと言える。園内はそんなに混んでいなかったが観光バスも3台くらい停まっていた。

ゆっくり見て、農園を後にした。お疲れ様でした。


上野の「旧東京音楽学校奏楽堂」を見学する

2023年06月23日 | 街歩き

マティス展を観た後、上野の公園をぶらぶら歩いていると、明治時代の古い洋館があるのを見つけ、何だろうなと見たら「旧東京音楽学校奏楽堂」と書いてあり、見学自由、となっていた。これは今まで気づかなかったと思い、時間も早いので見学してみようと思った。入館料は300円。

この奏楽堂は、入手したパンフレットによれば、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の校舎とし、明治23年(1890)に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を担ってきたものである、とのと。2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台だそうだ。

創建から80年近く経過した昭和40年代(1965~)に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、校舎を都外へ移設する構想が持ち上がったが、昭和58年(1983)に台東区が東京藝術大学から譲り受けることとなった。そして、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開を開始した。さらに、昭和63年(1988)には、日本最古の洋式音楽ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けた。

以来、奏楽堂は、「生きた文化財」として、建物の公開のほか、演奏会や音楽資料の展示を行ってきた。平成25年(2013)4月より保存活用工事のため休館し、平成30年(2018)11月にリニューアルオープンした、とのこと。館内1階には展示室がいくつかあり、昔のピアノ、パイプオルガンの一部、歴史年表、楽譜、演奏会プログラム、音楽評論の雑誌などが展示されており、勉強になる。

そして2階には音楽ホールがある。ここは今でも藝大の協力により開催されるコンサートが開催されているし、クラシック音楽公演をする者に貸し出しもしている現役の音楽ホールである。自由に見学できるのは有難い。

館内は撮影禁止と表示されている部屋、ないし資料を除いて写真OKであるのも有難い。ゆっくり展示室を見て、音楽ホールでは前から後ろまで歩いたり座席に座ったりして当時の雰囲気を味わったのは貴重な経験になった。私の他にも何名かの人たちが見学に訪れていた。クラシック音楽ファンならば一度は訪問する価値はあると思う。