ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

演劇「深い森のほとりで」を観に行った

2024年05月17日 | 演劇

青年劇場 第132回公演「深い森のほとりで」を観に行ってきた。場所は新宿の紀伊国屋ホール、ここは初訪問、チケットは5,800円、14時開演、16時15分終演、客席は満員、シニア層が大部分であった。途中休憩が1回、15分あり。

福山啓子=作・演出
舞台監督=松橋秀幸

出演

原 陽子(大学初の理系女性教授):湯本弘美
原 麻子(陽子の妹):菅原修子
原 理沙(麻子の娘):八代名菜子
本田隆一郎(陽子の指導教授):広戸聡
福本則夫(陽子の助手、ポスドク):佐藤良唯(初舞台)
山口美恵子(大学の事務):大嶋恵子
浅田真理子(大学4年、陽子の生徒):五嶋佑菜
田部信彦(大学教授、陽子の同僚):中川為久朗
加賀 剛(製薬会社セールス):奥原義之

大まかなストーリーは、目先の利益でなく、人類のいまと未来のために未知のウイルスと格闘する科学者たちの物語、コストカットで研究員の首が切られ、稼げる研究をと追い立てられ、この国の科学者は、いま世界が直面する課題に向き合うことができるのだろか、大学の小さな研究室の一人の女性科学者が、周りを巻き込み、未知のウイルス研究に挑むが・・・

もう少し細かく書くと(ネタバレ注意)、舞台はある大学の農学部獣医学科の研究室

  • 大学初の女性教授、陽子の科研費が不採択、助手の福本が製薬会社営業に転職
  • 同僚の田部教授からダメ生徒の浅田真理子を押し付けられる
  • だが、浅田は陽子のウイルス研究の熱意に共感
  • 福本が舞い戻り、浅田と一緒に陽子を支えることに
  • 陽子の妹とその娘の理沙が来て、理沙がバングラデシュにボランティアに行くと言う
  • バングラデシュで致死性の高いウイルスが発生し理沙が陽子にワクチン開発を訴える
  • 陽子の新ワクチン開発は採算が合わないため製薬会社から資金提供拒まれる
  • 陽子たちは研究費を国際機関に申請して承認されるが厳しい条件付のため行き詰まる
  • 新型コロナ発生
  • 陽子の研究は挫折したが、国際機関から評価され、仲間もでき、将来に希望が

作・演出の福山啓子は、この劇団の座付作家、「博士の愛した数式」「あの夏の絵」などの作品を手掛けた人で、「むかし、私たちは山や、川や、森や、獣を恐れ敬う気持ちを持っていました。人工物に囲まれて暮らす私たちは、そうした気持ちを失ってしまったようです。今、様々な自然災害やパンデミックに出会うことで、私たちはもう一度人と自然のかかわりを見つめなおす最後のチャンスをもらっているような気がします。科学の分野においても、自然を切り刻んで消費するのではなく、共存していくこと、人間と人間、人間と自然を一つながりのものとして考えることが始まっています。私たちの未来を守るために、日夜様々な困難を乗り越えながら奮闘している科学者に、この芝居を通じてエールを贈りたいと思います。」と述べている(青年劇場ホームページより)。

ストーリーとしてはわかりやすく、見ていて理解が容易だった、劇中、福山の主張は、

  • 大学内での女性差別があるが、以前よりは少しだけましに
  • 大学では成果が出ない基礎研究に予算がつかないし、学んだ生徒も就職できない
  • コロナワクチン購入費用の一部でも基礎研究に充てていれば事態は変わる
  • 人間は自然を軽視してきたので、その報いとしてウイルスが蔓延するようになった
  • 日本でダメなら世界へ羽ばたけ

というようなことかと感じた。

確かに国の予算はすぐに成果の出ないものにはつきにくい、というのはよく聞く話だ。これには企業側の要請もあるだろう、研究者や卒業生に即連力になるような研究や勉強を求めるということだ。こういう発想こそ日本が凋落している原因ではないか。

基礎研究の軽視は国と企業側の浅はかな考えが行政や大学の研究にも影響を与えている問題だが、大学側の問題もある。それは軍事研究の忌避だ、これも日本凋落の原因でしょう。およそ軍事の研究ほどすそ野の広い研究はなく、軍事だけの研究などは有り得ないのは誰でもわかることなのにイデオロギーで固まった大学教授にはわからないらしい。

ところで、基礎研究の軽視だが、文系でも同様な問題がある。それはリベラルアーツの軽視だ、時間がある若いときに古今東西の文学などを読み、すぐに役にも立たない芸術や文芸にどっぷりと浸かることにより、人間としてどこで仕事をしようともゆるぎない基礎を築き、自国の文化歴史を誇りに思い、他国の同様なものも語ることができ、尊重することもできる、そんな人物が育つのではないだろうか。ビジネススクールで得た知識だけでは長期的には勝負できない。

今日の舞台だが、

  • それぞれの役者さんは熱演していたと思う、それぞれがその持ち味を活かしていた
  • 今日の配役は役柄からベテランが多くアサインされていた、主人公の陽子を演じた湯本弘美はベテランの味を存分に発揮していたし、本田教授役の広戸聡もいい味を出していた、事務役の山口美恵子もよかった、一方、若手の五嶋佑菜も現代っ子らしさを存分に出していたし、バングラデシュに熱を上げていた理沙役を演じていた八代菜名子は若い娘役をうまく演じていた、初舞台の佐藤良唯も福本役をうまくこなしていた、それ以外の人もみんなよかった、相当練習をしたのでしょう
  • 歌舞伎やオペラのような舞台転換はないが、話が一区切りつく都度、舞台が暗くなり、出演者が配置換えになることにより変化をもたらし、飽きない工夫がされていると思った
  • また、舞台の奥の中段の高さのところに歩く場所があり、そこに指導教授の本田先生が現れ、うんちくを語るなど、陽子が空想をする効果を出していて、うまい舞台設定だと思った

さて、福山が主張する自然との共存ということだが、こうした考えは昔からの日本人の感性にマッチしているように思われる、自然を神として敬い、共存する生活をしてきた日本人。西欧人のように自然を人間に危害を与える征服すべき対象ととらえず、自然や四季を大事にし、争いを好まず、神社も寺もチャペルも棲み分け、華道、茶道、書道、木造住宅など自然と共存してきたのが日本民族だ

この日本民族の生きかたこそ、世界各地で対立や醜い争いが蔓延しているいまこそ、世界が見習うべきライフスタイルといえるでしょう・・・と言いたいところだが、最近は日本人自身もその良きライフスタイルを見失っているかもしれない、日本人はもっと自分たちの来し方に自信を持っていいと思う、そこがしっかりしていれば、西欧のいろんなやり方も批判的に見れるのではないか

今日はいい演劇を見せてもらいました

さて、今日の演劇の前に、ランチを取ろうと紀伊国屋の前の新宿中村屋に行ったら、休みだった、メンテナンスのためとのこと。仕方ないので、その中村屋のビルの上の階にあったタイ料理の「新宿ランブータン」に入った。普通の料理とバイキングとどちらにするか入口で選べとのこと、シニアは普通の料理でいいので、そちらに入るが、バイキングのほうが混んでいる。

料理はランチメニューから「生麺パッタイ」1,000円を注文した。焼きそばみたいなもの。もっちりした麺で、辛くはなく、においもきつくなく、おいしかった。

 


演劇「マクベスの妻と呼ばれた女」を観た

2024年03月26日 | 演劇

青年劇場の演劇「マクベスの妻と呼ばれた女」を観てきた。場所は新宿御苑前にある青年劇場スタジオ結(ゆい)、自由席で5,000円。篠原久美子作、五戸真理枝(文学座)演出、開演14時、終演16時。スタジオ結はそんなに大きくなく、ざっと数えて150席くらいしかない小劇場だが、その分、観客と舞台の距離感が近く、迫力ある演技が身近で観られてよかった。

この公演は青年劇場創立60周年、築地小劇場会場100周年記念公演の第1弾で、青年劇場はこれまで原作の篠原久美子氏の4作品を上演していているという。

この演目は全公演完売という人気だそうだ、今日も満員で、年配者が目立ったのはこの劇場が歴史のある劇団で、古くからの固定客が多いからなのか。

「マクベスの妻と呼ばれた女」はマクベスではなく、その妻や女中達に焦点を当て、女性への差別や偏見に対する怒りや、いまだに紛争の絶えない世界に対する憤りを訴えるものである。演劇界でも女性が活躍する時代になったとは言え、まだまだその場は限られている、そこで演出に文学座の五戸真理枝を初めて起用して、出演者をはじめスタッフもほとんどが女性という演劇を考えたとある。

出演

松永亜規子(マクベス夫人)、武田史江(デスデモナ)、竹森琴美(オフェーリア)、福原美佳(女中頭)、江原朱美(ケイト)、蒔田祐子(クイックリー)、八代名菜子(ボーシャ)、秋山亜紀子(ロザライン)、広田明花里(シーリア)、島野仲代(ジュリエット、ロミオ声)

場所はマクベスの城、マクベス夫人と女中たちは、フォレスの戦いで英雄となったマクベスからの手紙に浮き立つ、そこに突然国王が今夜城にやってくるという連絡が入る。城で働く女中たちは、国王一行をもてなすためにてんやわんや、一行が到着し、無事に一夜を明けるもつかの間、殺された国王が発見される、そして、女中たちが国王殺しの犯人捜しが始まるが・・・

  • 女中たちにはそれぞれシェイクスピアの他の演目に出てくる女性の名前が与えられているし、話の中で、その他の演目の中での話しも出てくるところが面白い演出だ
  • 国王が殺されたあと、誰が犯人かを女中たちが詮索し始めてから俄然、進行が面白くなる、女中頭のヘカティが中心になり、ひとりひとり女中たちが気になっていることをしゃべり出す、それを女中頭がうまくまとめていき、話を進めていく、うまい脚本だと思った
  • 観ていて、戦争への憤りよりも女性の役割、生き方、というものに対する問題提起の方にこの演劇の大きな主張があるように思えた、そしてその大きなポイントについて実にうまく話を進めて観る人を飽きさせない工夫があったと思う
  • その女性の生き方についての葛藤が頂点に達するのが最後にマクベス夫人が自死しようとする場面である、シェイクスピアの原作ではマクベス夫人はその犯した罪の大きさにおののき、迫り来る恐怖に精神の錯乱をきたして狂死するが、この物語ではそこを大胆にアレンジして、自分は殺された夫である国王を尊敬し、国王亡き後、もはや自分の生きる意味がないので辱めを受ける前に自死を決意する、が、そこに女中頭のヘカティが表れ、あなたが女としてやりたいことは何か、古いしきたりに従って考えるのではなくひとりの女性として好きな生き方をすべきではないか、などと叫ぶ。これに夫人も戸惑う、このやりとりが迫力あり見応えがあった
  • ではヘカティが主張する、良い娘、良い奥さん、良い王妃ではない生き方とは何か、それは観る人が考えて、ということだろうが、演出の五戸真理枝はその点について「さて、では自分は何を目指して生きていきましょうか。生きてるだけで良いんだよ、誰しもその命をそう寿ぐことができるような社会があればいいのにな、と私はいつも思います」と当日配布されたプログラムで述べていたる。
  • この五戸の考えを私はなかなか理解できないが否定はしない。常々ものごとは一つの考え方しかないわけではないと思っているので、今までの私たちの親や、先祖が持っていた価値観、それは著しい男女格差がある社会環境にもめげず、いい娘、いい奥さんであろうとする健気で高潔な精神性が国や家庭を支えていた、そういう価値観を否定する必要はなく、それが良いと言う女性がいても全く問題ないと思うし、それこそ生き方や考え方の多様性であろう、それを古い考えだといって否定し、批判する人は全体主義信奉者であろう。
  • 出演した女優たちは皆素晴らしい演技だった、それぞれが持ち味を活かして演じていたと思う、今日初舞台のシーリア役の広田明花里(あかり)も初々しい演技で素晴らしかった。

楽しめました。


演劇「諜報員」を観た

2024年03月20日 | 演劇

東京芸術芸劇場シアターイーストでパラドックス定数(劇団名)の演劇「諜報員」を観てきた。自由席、4,000円。2時開演、4時終演。ほぼ満席の盛況だった、若い人が結構来ていた。

作・演出
野木萌葱

出演
植村宏司、西原誠吾、井内勇希、神農直隆、横道毅、小野ゆた

この演劇は、パンフレットに次の通り説明が書かれている。

「リヒャルト・ゾルゲ。父はドイツ人。母はロシア人。ドイツのジャーナリストとして日本へ入国。その正体は、ソビエト連邦の諜報員。任務は日本の国内施策、外交政策を探ること。独自の情報網。信頼すべき協力者。彼らと共に数年に渡り活動。しかし遂に、特別高等警察に逮捕される。

彼が諜報員だったなんて。知らなかった。信じていたのに。裏切られた。協力者たちは、口々にこう叫んだ。彼らは皆、決まってそう言う。騙されてはいけない。保身の為に叫ばれる言葉など、すべて嘘だ。協力者たちを、探れ。二つの祖国を持つ外国人諜報員。その周りで、彼らは何を見ていたのか。日本はどれだけ、丸裸にされたのか。」

この説明書き読んでこの演劇は昭和の戦争の時に起った「ゾルゲ事件」を題材にしたものだな、というのはわかる、しかし、ゾルゲ事件のことについてそんなに詳しいことは知らないので、事前に予習でウィキなどのネット情報で簡単に調べて演劇に臨んだ。

演劇が開始されると、舞台は警察内の鉄格子で仕切られた犯人拘留のための部屋という設定、その拘留場所の周りは廊下や会議室のような設定。その拘置所の中に4人が拘留されており、話を始めるところから舞台が開始されるが・・・

私はこの劇を観ていて最初の30分くらいで眠くなった、少しうとうとしてしまった。これではいけないと思い、そこからは最後までしっかり観た。どうして眠くなったのかというと、観ていてストーリーがわからないのだ、セリフが声が小さくてよく聞こえないこともある。最後まで観たが結局、どういう内容なのかイマイチよくわからかった、というのが素直な感想である。

どうしてそうなるのか、私の不勉強もあるが、私は劇団側にも問題があるのではと感じた。それは、芸術劇場の公演案内を見ても演劇の内容は上に記載した通りのことしか書いてない、当日もらったパンフレットにもストーリーについて書いてないし、キャストも俳優の名前だけで、どの俳優が劇中の誰の役を演じるのかも書いてない。そもそもあらすじがわからない、登場人物も誰だけわからない、そこからスタートしているからストーリーが理解できず、集中力が途切れるのだ。これではあまりに不親切ではないだろうか。

ストーリーについて最後のどんでん返しのようなところまで事前に明らかにする必要はないが、大体のところはホームページ等で明らかにすべきだと思う。そうしても演劇の魅力はちっとも変わらないと思う。シェイクスピアの演劇でも歌舞伎でもあらすじはみんな知っているけど楽しめている。

私が今日観劇して何となく理解したストーリーは大体次の通りだが、間違っているかもしれないし、完ぺきではない

  • ゾルゲは特高警察に既に逮捕されているが罪を認めてない
  • 警察に拘留された4人はゾルゲの協力者であるが、実はそのうちの一人は警察の人間が協力者に成りすましているもの、協力者どうしはお互い知らないので警察が紛れ込んでもわからない
  • 警察から紛れ込んだ人間は何とかして他の3人の協力者からいろいろゾルゲ事件の概要を聞き出そうとする、3人のうち一人は尾崎秀実である
  • 3人の協力者の1人は自分がやったことをノートに書くまでになる
  • 最後、結局ゾルゲが自白して罪を認める
  • 3人は自分たちのしてきたことを顧みて、自分たちの存在価値は何か自問することになる、そしてそれはソ連のためというより、さらに背後に大きな力が働いていた、と悟る

私が理解したのはこんな程度で、冒頭に述べた通りはっきり言ってよくわからない、というものだ。今日観劇に来ていた人で理解できた人がどれだけいただろうか?

前にもこのブログで述べたが、演劇をどうしてこんなに難しくする必要があるのだろうか。どうも演劇界は理屈っぽいような気がしている。別にそんなに難しくもないことをわざと難しく演じて、意識高いところを見せる、そんな印象がある。シェイクスピアもイプセンもゴーゴリもストーリーはそんなに難しくない。だけど観る者に何か考えさせる暗喩や皮肉があり、センスの良さがあると思う。小難しいだけの演劇は作る方も観る方も自分たちの意識高いところに自己満足しているだけと思えるがどうか。

 


演劇「マクベス」を観る

2024年03月03日 | 演劇

東京芸術劇場シアターイーストで演劇「マクベス」を観てきた。原作:W.シェイクスピア、翻訳:松岡和子、上演台本・演出:ノゾエ征爾(劇団はえぎわ主宰)。東京芸術劇場で2月25日まで上演後、彩の国さいたま芸術劇場のリニューアルオープン公演として上演する予定。

今日は、14時開演、15時40分終演、4,500円。シアターイーストは300人前後の収容能力があるが、今日は8割がた埋まっていた、客層は幅広い年代の人に見えた。演劇の特徴で、若者も女性も目立った。値段的にも来やすいのだろう。シェイクスピアに興味がある若者が増えるのは喜ばしいことだ。私は若いころは見向きもしなかった。

芸術劇場のホームページによれば、「彩の国さいたま芸術劇場では、2022年春、ノゾエを招いてシェイクスピアの『マクベス』を題材としたワークショップを実施。ワークショップでは「演劇を見慣れていない若者に演劇の魅力を知ってもらう」という目標を掲げ、ノゾエは親しみやすく、飽きさせない構成と演出で約100分の『マクベス』をつくりあげた。これをきっかけに、はえぎわと彩の国さいたま芸術劇場の共同制作による『マクベス』を東京と埼玉で上演することが決定。」とある。

出演者

内田健司:マクベス
川上友里:マクベス夫人
山本圭祐:バンクウォー、フリーアンス他
村木 仁:ダンカン、暗殺者、医者他
町田水城:マクダフ、将校、貴族他
広田亮平:マルカム、暗殺者他
上村 聡:ロス他
茂手木桜子:魔女、門番、マクダフ夫人他
菊池明明:魔女、マクダフ息子他
踊り子あり:魔女、侍女他

ノゾエ征爾氏のインタビュー記事を読むと、マクベスは悲劇だが悲劇の中にもユーモアや人間味を見つけていく、若者に演劇の面白さを感じてもらうため自分が初めて戯曲を読んで面白いと感じた部分を大事にした、台本についても初心者の気持ちを大事にして「ここは飽きる」という部分についてジャッジして、(そこはカットして)、人間の温かさや息遣いが感じられるようにした、と話している。

ノゾエ氏はマクベスに人間味を見つけていくと話しているが、私はマクベスはもともとかなり人間臭い男だと思っている、魔女のささやきを妻に話し、妻のそのそそのかしに乗って悪い夢を見て、国王を殺害してしまう、そのあとで事の重大性と魔女のささやきにがまた気になり、臆病になっていく。軍事は優秀だが人間としてはごく普通の弱みを持っている男だ。

本作の特徴の一つは100分1幕ということだろう。本来、戯曲通りに演じるともっと時間がかかるのを一気に100分で小気味よく上演するというやり方だ。これはよかったと思った。オペラでも歌舞伎でも無意味に長い部分があるので、そういうところは思い切ってカットしても問題ないと思う。

さて、今日の舞台だが、場面転換はなく、舞台に50個くらい並べてある木製の椅子の配置換えを何回もすることで場面転換的効果を出しているのが面白いと思った。音楽についても現代の音楽をところどころ使ったり、魔女が携帯電話みたいなものをもってそのスイッチを押すと音楽が流れたりしていたように見えたが、いい試みだと思った。

出演者はそれぞれ全力で演じていたと思う、その姿勢が演技に出ていた。私が特に注目したのはマルカム(ダンカンの息子で王位承継者)の広田亮平だ。彼は芸術劇場も初めてだし、彩の国さいため芸術劇場も初めて、シェイクスピアも初めての27歳の若手俳優だ。

彼が活躍するのは最後のほう、イングランドに避難しているところ、マクベスの部下だった貴族のマグダフが来て祖国奪回の再起を促すと、自分は精力絶倫だけでなく物欲が衰えず、王として持つべきもろもろの美徳がないと言い、真実、節制、信念、寛大、忍耐、慈悲、敬虔、我慢、勇気、不屈の精神、これらの美徳を書いたカードを一枚ずつ捨て、これらは一切持ち合わせてないと言う。落胆したマグダフは、あなたに国を治める資格はないと言い、嘆く。それを見てマルカムは、さっき述べた自分の悪口は全部取り消すと言う。実はマグダフの誠実を試すために嘘を言ったのだ。いい役ではないか、いい場面ではないか、実に若々しさを出して賢い王子役を演じていたと思った。

さて、最初から最後まで舞台の両側の机の上には何やらいろんなガラクタが置いてあったが、これが何を意味するのか最後まで分からなかった。

楽しめました。


テレビで演劇「尺には尺を」を観る

2024年02月16日 | 演劇

TVで放送されていた、シェイクスピア・作、鵜山仁・演出「尺には尺を」を観た。2023年11月新国立劇場中劇場での収録。初めて見る演目だ、原作(Measure for Measure)も読んだことがない。

この作品は、新国立劇場の2023/2024シーズンで上演された"ダークコメディ"で、「終りよければすべてよし」と合わせて、二作が交互上演された。

この交互上演について新国立劇場の解説では、

「本作と『終わりよければすべてよし』の二作品は、登場人物に屈折したキャラクターが多く、"ダークコメディ"と呼ばれています。 しかし、単に暗いだけではなく、人間の内面、時に自我と欲望をむき出しにした登場人物たちは、魅力的で深い人物造形に満ち、物語も終幕に至るまで、息をもつかせず展開するなど、隠れた傑作と言っても過言ではありません。この二作は時をおかず執筆されたと推測され、ストーリー的にも同じテーマを持つ、表裏一体のような戯曲であり、交互上演にこそ意味があると考えます。」と説明している。

さらに「シェイクスピア作品の中では、数少ない、女性が物語の主軸となる作品でもあり、両作品とも登場人物たちは降りかかる困難に果敢に立ち向かい、世の理不尽を白日の下にさらします」と解説している。

【作】ウィリアム・シェイクスピア
【翻訳】小田島雄志
【演出】鵜山 仁(71)
【出演】
岡本健一(アンジェロ)
木下浩之(ヴィンセンシオ)
ソニン(イザベラ)
浦井健治(クローディオ)
宮津侑生(ルーシオ)
中嶋朋子(マリアナ)
立川三貴(典獄)、吉村 直(バーナーダイン・紳士1)、那須佐代子(オーヴァンダン)、勝部演之(判事)、小長谷勝彦(ポンピー)、下総源太朗(エスカラス)、藤木久美子(フランシスカ)、川辺邦弘(エルボー・紳士2)、亀田佳明(フロス・アブホーソン)、永田江里(ジュリエット)、内藤裕志(ピーター)、須藤瑞己(召使い、役人、従者)、福士永大(使者、役人、従者)

ウィーンの公爵ヴィンセンシオ(木下浩之)はウィーンを離れることにしその代理を真面目なアンジェロ(岡本健一)に任せる。公爵の統治下、ウィーンは法に緩かったが、アンジェロは厳しく取り締まることにする。若い貴族クローディオ(浦井健治)は婚前交渉で恋人のジュリエット(中嶋朋子)を妊娠させたため死刑を宣告される。クローディオの友人ルーシオ(宮津侑生)は修道院にいるクローディオの妹イザベラ(ソニン)を訪ね、アンジェロに死刑の取り消しを懇願させるが、アンジェロはイザベラに自分と寝るならばクローディオを助けてもよいと持ちかける。イザベラは拒否する。

公爵は実はウィーンを出発しておらず、修道士に変装してアンジェロの動向を監視していた。イザベラから話を聞いて、公爵はアンジェロに罠(ベッド・トリック)をしかける。アンジェロのかつての婚約者マリアナにイザベラの身替りを演じさせるもの。計画はうまく行ったが、アンジェロはイザベラとの約束を破り、クローディオを処刑しようとしたため、公爵は病死した囚人の首をアンジェロに届けさせるが・・・・

シェイクスピアの戯曲は好きだ。「マクベス」や「リア王」、「リチャード3世」などは繰り返し読んでいる。彼の戯曲はオペラになっている作品も多いが、私は戯曲をオペラ化したもので良い作品は無いように思う。戯曲はあくまでも演劇として演じられて初めて意味のあるものと言えよう。たしか福田恆存が言っていたと思うが、戯曲は言葉がすべてであるが、オペラは歌や音楽が中心で演劇とは異なる。

戯曲はすらすらと読めて時間を取らないので、読みやすい。しかし、行間に含むいろんな意味合いが深く、一度読んだくらいでは作者(シェイクスピア)の言わんとするところはわからない。何度か読み返したり演劇でみたりして理解を進めていくしかないだろう。映画でも本でも、演劇でも、良い作品は繰り返し観たり、読んだりすべきだと思っている、同じクラシック音楽を何回も聞くように。

観た感想を少し述べてよう

  • 初めて観た作品だが結構面白かった、ストーリーが面白い。
  • 登場人物では、アンジェロの岡本健一、侯爵の木下浩之、イザベラのソニン、ルーシオの宮津侑生の出番が多く、それぞれ良い演技をしていた。
  • 尺には尺をというタイトルの意味するものは何か。これはアンジェロがクローディオを婚前の姦通の罪で死刑にしたが、自分も助命に来たクローディオの妹のイザベラに処女と引き換えに兄を減刑にすると言って姦通した罪を犯したので、クローディオと同じ死刑を侯爵から言い渡されることによる、ということか。
  • この物語の主役はアンジェロとイザベラであるように新国立劇場では扱っているが、私は公爵ではないかと思う。自分の治世においてウィーンの風紀が乱れ、それを直すために大きな方針転換を決意するが自分がやると人気が無くなるので真面目な部下のアンジェロにやらせる。自分は神父に扮して遠山の金さんよろしくアンジェロの政治を監視し、アンジェロがやり過ぎたとみるや、すべてをわかっている者として正体を明かし、温情ある遠山裁きをしてみせる。そして、最後はイザベラに妻になってくれと勝手な要求をして宮殿に連れて行く。公爵役の木下浩之は実にうまく演じていたと思う。もちろん、イザベラ役のソニンも良い演技をしていた。
  • 最後に公爵の求愛を聞いたイザベラの無言の表情が面白い。イザベラを演じたソニンは「何言ってんのこの人は」、「男は結局やることが同じじゃないか、信じられない」というような表情をしていたように見えたがどうだろうか。解釈はいろいろあるようだが、ウィキでは、何も言葉を発しなかったというのは無言の承諾であるが異説もある、と書いてある。
  • この物語のセリフにもシェイクスピア得意の皮肉や教訓めいたものが多くある。原書(翻訳)を持っていないので全部は覚えていないが、一つだけイザベラの言ったことを紹介しよう。「この世のもっとも凶悪な悪党が、アンジェロのようにおとなしい真面目な、公正な、欠点の無い人間に見えることも有り得ます」。確かにその通りだ。卑劣な犯罪をした人が日頃はおとなしい善良な市民のように見られていたことは良くあることだ。

大変楽しめました。


演劇「センの夢見る」を観る

2024年02月09日 | 演劇

東京芸術劇場シアターイーストで演劇『センの夢見る』を観た。「ほろびて」というカンパニーが上演。13時開演、15時過ぎ終演。4,500円。席は自由席だが、チケットを買ったときにそのチケットに整理番号が付されており、その番号順に入場が案内された。

シアターイーストは初めて。座席数は300くらいか、9割くらい埋まっていたように見えた。若い人が多かった。これは演劇公演の特徴だ。会場には「今日の公演は収録のため客席内にカメラがある」、「本公演終了後にトークサロンがある」と書いた紙が貼りだしてあった。

「ほろびて」だが、これは2010年に始動した細川洋平の演劇作品を上演するカンパニー。細川は1978年生まれ。早稲田大学演劇俱楽部を経て「ほろびて」を立ち上げ、2010年より始動させた。「ほろびて」は、一度なくなったものの中から、また立ち上げていく行為が創作の源流にあると捉え、その事後の事柄を想像し続けるために名付けたカンパニー名。2021年5月、『あるこくはく』で第11回せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ、劇作家賞(細川)、俳優賞(吉増裕士・客演)の三冠を受賞。

今日の演目は、『センの夢見る』

作・演出
細川洋平

出演
浅井浩介、安藤真理、大石継太、生越千晴、佐藤真弓、藤代太一、油井文寧

物語の舞台は1945年のオーストリア・レヒニッツと2024年の日本

  • 1945年、オーストリアとハンガリーの国境付近の村レヒニッツに暮らす三姉妹のルイズ、アンナ、アビゲイル。彼女たちにとっての娯楽は、空想の旅に出ることだった。2月初旬、そんな三人に、近くのお城で開催されるという舞踏会への招待状が届く。夢のような招待にはしゃぐアンナとアビゲイルに対し、乗り気になれないルイズ。そこに隣人のヴィクターが訪ねてくる。
  • 2024年の日本、泉縫(いずみ・ぬい)と妹の伊緒(いお)の暮らす家。そこに、縫の生活を密着取材しているという自称YouTuberのサルタがやってくる。レンズを向けられ、縫もまんざらではない様子を見せる。サルタは、なぜ兄妹をカメラに収めるのだろうか

この2つの時代はそれぞれ別々にそれぞれの時代のリビングルームでスタートするが、劇の途中で2つリビングルームがつながってしまう。交わった互いの生活は、果たしてどのように変化していくのか・・・

作・演出の細川は、「夢や、夢見る人々を描こうと思います。夢には時間軸が存在します。達成される前と達成された/されなかった後。むろんそれを見ているのは外側の人間です。つまり、夢見る人々を、外側から見るという行為が今、とても興味深いと感じています。それはきっと、夢を見ていたのに、現実を見ざるをえなくなった人を見ることにもなるのではないでしょうか。つまり演劇で繰り返し行われてきたことを、演劇を通して、描こうと思います。とても小さくてシンプルな演劇になるんだと思います。」と述べている。

以上に書いたことは事前に芸術劇場や「ほろびて」のホームページに書かれているもので、事前に読んで鑑賞に望んだ。ところが、実際にこの劇を鑑賞してみると、細川の言いたいことがなんなのかよくわからなかった。途中でオーストリアが舞台の3人娘が招待されたパーディーは運営がナチの将校が行っていること、そこで何か異常なことが行われていることなどがセリフの中に出てきて、何か深刻な問題が起っていることは感じられたが、よくわからなかった。

また、1945年のオーストリアと2024年の日本のリビングルームが一つになると言うのもよく理解できなかったし、2024年という時代を持ち出した意味もよくわからなかった。

終演後にトークサロンがあるので参加してみた。舞台には作・演出の細川のほか、当日出演した俳優4名が上がり、細川から今日の演目の説明がなされた。そこで初めて1945年のレヒニッツと言う町の意味が理解できた。すなわち、この町は人口3,000人の小さな町で、1945年3月25日、ナチスの親衛隊や秘密警察の指導者、現地の対独協力者がレヒニッツ城でパーティーを行い、そこでパーティーの客は「娯楽」として約200人のユダヤ人の強制労働者を銃殺する事件が起った。

この虐殺されたユダヤ人の死体が葬られた墓の場所は今でも不明なまま、レヒニッツの住民も沈黙したまま。戦後、現在に至るまで、一部の証言者によってこの夜のことが語られることはあるが、詳細までは決して明らかにならない。

この未解決の問題が細川の問題意識にあり、城の近くで暮らす3姉妹がパーティーを夢見るが、現実を見て恐怖を感じ、2024年の日本に生きる2人の登場人物にその不条理を考えさせる、そんな狙いだったのかなと思った。しかし、これを終演後に説明されても初めて見る人にはつらいと思った。また、リビングルームが一緒になること、タイトルにある「セン」が何を意味するのか、2024年の日本のリビングルームに現れるYouTuberが何を意味しているのか、などまだわからないことだらけだ。

トークセッションを聞くと、俳優達も細川から台本だけ渡されて詳しい説明は受けてないようなことを言っていたので、これはどういうものかな、と感じた。

演劇をこんな小難しく考えて作る必要があるのだろうか、それがトークサロンまで聞いた後での本日の感想である。テーマが深刻だからこうなるのか、私にはわからない。普通の人は2、3回観ないと理解できない演目ではないだろうか。

演劇は今後も折に触れて見ていきたいし、この「ほろびて」の作品も見ていきたい。


新国立劇場の演劇「東京ローズ」を観に行く

2023年12月26日 | 演劇

新国立劇場の小劇場でミュージカル「東京ローズ」を観てきた。今日は1階席の前から4番目の列、しかも前は通路になっているため広くなっているので楽だった。7,315円の高齢者割引。席は満席に近いのではないかと思った。若い女性が多いのが演劇やミュージカルの特徴だ。これは良いことだと思う。

【台本・作詞】メリヒー・ユーン/カーラ・ボルドウィン
【作曲】ウィリアム・パトリック・ハリソン
【翻訳】小川絵梨子
【訳詞】土器屋利行
【音楽監督】深沢桂子/村井一帆
【演出】藤田俊太郎
【振付】新海絵理子
【舞台監督】棚瀬 巧

キャスト

飯野めぐみ
シルビア・グラブ
鈴木瑛美子
原田真絢
森 加織
山本咲希

全ての出演者をオーディションで決定するフルオーディションで選ばれた6人の出演者である。このオーディションには936名が応募し、審査を経て決定そうだ。大変意欲的な企画だと思ったし、こんなに多くの若者が演劇の世界を希望しているというのも心強いし、うれしい。

今日の公演で面白いなと思ったのは、主人公のアイバ・トグリを誰か一人がずっと演じるのではなく、途中で何回か別の出演者と交替することだ。今日は誰と誰が務めたのかはわからないが、この狙いは面白いので、その狙いを聞きたいところだ。チラシを見ると6人全員がアイバを演じることができるようである。チラシを見ると、例えば飯野めぐみさんには8つの役が書かれているので、全ての役が途中で、あるいは日替わりで交替して演じているのかもしれない。複雑すぎてよくわからない。役者にとっては台詞を覚えたり、役柄になりきるのが結構難しいと思うがどうだろうか。

物語

この物語は2019年にイギリスのBURNT LEMON THEATREが製作したもの。BURNT LEMON THEATREは2017年に活動を開始した英国の女性を中心メンバーとした演劇集団。TOKYO ROSEの作者カーラ・ボルドウィン、英国版の演出を手掛けたハンナ・ベンソンをはじめ、メンバーの多くが演出と俳優、振付と俳優、作曲と俳優など公演においては色々な役割を兼任しながら作品創作を行っている、と説明されている。

アイバ・トグリ(戸栗郁子)は1916年にアメリカで生まれた日系二世。日本語の教育を受けることなくアメリカで青春を過ごした。叔母の見舞いのために25歳で来日し、すぐに帰国するはずが第二次世界大戦勃発によりアメリカへの帰国が不可能となってしまう。そこでアイバは、母語の英語を生かし、タイピストと短波放送傍受の仕事に就く。やがてラジオ・トウキョウ放送「ゼロ・アワー」のアナウンサーとなったが、その女性たちをアメリカ兵たちは「東京ローズ」と呼んだ。終戦後、アイバが行っていたことは、日本軍の連合国側向けプロパガンダ放送であったとされ、本国アメリカに強制送還され、国家反逆罪で起訴されてしまう。彼女は本当に罪人だったのか?

こういう説明になっているが、これは実話だそうだ、全く知らなかった。アイバ・トグリ(戸栗郁子)も実名である。

この物語は、戦争が国民の人生に与える大きな影響、日本の戦時プロパガンダ放送への協力、人種差別、2つの祖国を持つ人の悩み、女性の名誉回復ための長い闘い、などが論点となって展開されているように思う。そして最後は真実が勝つ、というのがアメリカらしい。

音楽

今回驚いたのは、舞台設定と音楽だ。舞台は大変雰囲気のあるユニークなセッティングとなっており、かなり考えたな、と言う印象を持った。そして、舞台後方は2階建てになっており、その2階部分には4人の演奏家(座席から見えたのは、うろ覚えだがピアノ・チェロ・バイオリンなど)が楽器と共に配置されており、劇の進行に合わせて生演奏をするのだ。それも場面に合わせてジャズだったりクラシックだったり変えていたようだ。よく考えている。これは素晴らしいと思った。通常の演劇ではこんな経験はしたことないが、本作はミュージカルだから有り得た設定なのかもしれない。

台本・作詞

台本は二人の外国人女性により作られたものだ。彼女たちと音楽の作曲家のウイリアム・パトリック・ハンソンに対するインタビューの動画がHPで見られるようになっているのは良いことだと思うし、鑑賞の参考になる。二人のいずれも若くて明るい雰囲気なのは好感が持てる。ウイリアムも音楽についてよく考えていることがわかる。

日本では戦争関係の演劇やドラマになると必ず日本軍や警察だけを悪者にするが、本作では、アメリカが日本に対して原爆を使って日本人にも多くの犠牲者が出たことを述べる場面がある。また、トグリの両親がカリフォルニアの日本人の強制収容所に入れられ、母はそれに耐えられずに亡くなったことも出てくる。戦争の勝者も非人道的な犯罪を犯していたのだ。それらについても触れるのは非常にバランスが取れた考えであり、今の日本に欠けている視点であると思うので、その意味でも良い台本だと思った。

その他

日本の演劇界では、役者が常に大声で怒鳴るように話す傾向があり、如何なものかと感じていた。これは劇場が役者の細かい声まで聞き取るには広すぎるからだと想像するが、今回は役者がマイクを使っていた(多分拡声用だと思うが)。そのためかが、話し方に無理がなく、日常会話のように舞台でも話していた。これはこれで良いやり方ではないだろうか。肉声にこだわる必要はないと思う。

この物語では、東京ローズという日本の連合国側向けプロパガンダ放送の女性アナウンサーたちが主役だが、日本がそんなことをしていたのか、というのが私には驚きであった。アメリカこそ、こういうことをもっとも得意としている国家だと思っていたからだ。

非常に良い演劇(ミュージカル)であったと思う。また、今回出演した6名の出演者の今後の活躍を期待したい。

 

 


演劇「桜の園」を観る

2023年12月04日 | 演劇

テレビで放送していた演劇、アントン・チェーホフ原作、「桜の園」を観た。原作は読んだことがあったが、演劇で観るのは初めて。2023年8月にPARCO劇場で上演されたもの。太宰治の「斜陽」はこの原作に影響された作品と言われている。

英語版:サイモン・スティーヴンス
翻訳:広田敦郎
演出:ショーン・ホームズ
出演:
原田美枝子(ラネーフスカヤ、女主人)
八嶋智人(ロパービン、実業家)
成河(トロフィーモフ、学生)
安藤玉恵(ワーリャ、養女)
川島海荷(アーニャ、娘)
前原滉(エピホードフ、管理人)
川上友里(シャルロッタ、家庭教師)
竪山隼太(ヤーシャ、若い召使い)
天野はな(ドゥニャーシャ、メイド)
市川しんぺー(ピシーチク、地主)
松尾貴史(ガーエフ、兄)
村井國夫(フィールズ、老僕)
 
桜の園は、20世紀のの初頭、時代の変わり目に、農奴解放令によって没落していく貴族の領地「桜の園」が舞台。兄のガーエフに領地経営をまかせて自分は5年間フランス暮らしをしてたラネーフスカヤ夫人が戻ってきた。返済しきれない額に達した借金ができていたが、昔の生活が忘れられずに散在を続ける夫人に元農奴の息子で実業家として成功しているロパービンが、桜の木を切り倒し、別荘賃貸経営に転じるよう提案するが、桜の園を誇りとする夫人たちに無視される。結局、領地は競売にかけられ、夫人は桜の園を失う、そして落札したのはロパービンだった。
農奴解放という大きな時代の変革時に、そのの変化に適応して自分を変えられる人とそれができない人がいた。桜の園では、変化に対応できない人としてラネーフスカヤ夫人と兄のガーエフ、そして老僕のフィールズが、新しい時代に生きる人々としてロパーヒン、アーニャ、トロフィーモフ、ヤーシャ、ドゥニャーシャらが描かれている。
 
このような「桜の園」が問いかけている問題は、いつの時代でも当てはまるものだろう。時代の大きな変化についていけずに従来のやり方をかたくなに変えようとしない人と、時代の変化を感じ、いち早く自分を変えられる人の違い。ただ、現実問題として、今現在に当てはめれば、何が時代の大きな変化なのか、それを見極めるのは結構難しいと言えるかもしれない。
貴族の没落ならまだ良いが、国家の没落につながりかねない時代の変化への対応の遅れがあるのではないか、というのが一番心配なところだ。日本の安全保障環境の悪化は間違いなく時代の大きな変化だろう。
演出家のショーン・ホームズはTVのインタビューで「桜の園はさまざまな利害が対立する戦場であるということです、劇中に個人的、政治的、哲学的なたくさんの戦いがあり、時には穏やかに見えたり、ちょっと風変わりに見えたりはするが、その対立の意味するところは非常に重要で、それで人生の苦しみを表現している」と述べている。これは「桜の園」の一つの見方であろう。
 
舞台の美術、照明などでは、全4幕のすべてにおいて照明は暗く、没落貴族の運命を示しているような感じがした。
この演劇の出演者では、ロパービン役の八嶋智人(53)の演技が光っていたと思う。NHKの「チョイス@病気になった時」をたまに見ていて知った俳優であるが、演劇にも結構出演していたのは知らなかった。桜の園の競売の落札人がロパービンであったことが明らかになってから、彼の演技が俄然、物語の中心になってきて、彼の演技がみごとだった。
ラネーフスカヤ夫人役の原田美枝子(64)は最近の朝ドラの「ちむどんどん」に、管理人エピホードフ役の前原滉(31)と、ワーリャ役の安藤玉恵(47)はともに最近の「らんまん」に出演していたので、その限りで最近の演技は見ていたが、この演劇でも持ち味を活かした役作りをしていた。
演劇の場合、終演後のカーテンコール時に、通常、出演者はなぜか笑顔を見せずに真面目くさった顔をして挨拶する場合が多いが、今日の公演では原田美枝子はニコニコ笑顔で観客に挨拶していたのが印象的だった。これで良いと思う。
 
1回の鑑賞ではすべて理解することはできないので、折に触れて原作を読み直し、演劇も見直したい。

演劇「笑いの大学」を再度観る

2023年08月29日 | 演劇

以前、テレビで放映していた演劇「笑いの大学」(1996年)を観て大変面白いと思った。最近、PARCO劇場で当時と別の俳優で再演されたが、チケットがすぐに売り切れとなり買えなかった。そこで、録画が残っていた96年版のこの演劇を再度観ることにした。

三谷幸喜の傑作二人芝居「笑いの大学」

演 出: 山田和也 
出 演: 西村雅彦(向坂睦男:警視庁保安課検閲係)、近藤芳正(椿 一:劇団「笑いの大学」座付作者) 

この演劇は第4回読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞している。

舞台は昭和15年秋、すでに戦争が始まって世の中が暗くなっていってた時代、劇団「笑いの大学」では新しい演目の上演準備を進めていた。この新作の台本を作ったのは劇団の座付作者の椿(近藤芳正)だが、上演前に警視庁に台本原稿を見せて上演許可を得なければならない。警視庁保安課取調室に呼ばれた椿は検閲係の向坂(西村雅彦)から検閲結果を聞くが、その場面から舞台が始まる。舞台はこの二人しか出演しない。

この検閲係とのやりとりが全部で7日間かかる大変な作業になる。その1日ごとに舞台転換がなされる。そして、この暗い時代に少しでも明るい演劇を上演して世の中のムードを明るくしようと思う劇団と、戦時中に「笑い」をとるなどとんでもない、と考える検閲係とのやりとりが延々と続く。ここを直せ、あそこを直せと注文が出て、徹夜で書き直して翌日持って行くと、次にまた、ここを直せと言ってくる。

そんなやりとりがずっと続くのだが、全然飽きない。例えば、当初の原稿はシェークスピアのロメオとジュリエットをもじった喜劇となっていたが、このご時世に西洋ものはダメだとケチを付け、金色夜叉のもじりに書き変える、そうすると今度はキスをするシーンはダメだから直せと言う。これが次から次へと続くのだが内容が面白いので笑える、そして、最後には・・・

今回、見直してみて驚いた、座付台本作者役の椿を演じているのは近藤芳正(1961生まれ)ではないか。初めて見たときは全然知らない役者だったが、今回観て驚いた、あの映画「紙の月」、TVの「おやじ京都呑み」に出ているあの近藤芳正だ。この頃はまだ若いが、今のイメージと変っていない。この演目では近藤の熱演が光った。公演初日が段々と近づく中で、役者の稽古も必要だし、大幅な台本修正は受け入れたくないという切迫感、しかし下手すると公演中止となるリスク、何とかOKを出してもらうべく必死にもがいている様を面白おかしく演じていた。西村雅彦も検閲係のいやらしさと意外な一面を持つ人物像を実にうまく演じていた。

たった二人だけしか出演しない芝居なのに、ここまで観てる者を引き込むのは三谷幸喜の脚本が良いからだろうし、演出、出演者、その他すべての関係者が100%の力を出し切っているからであろう。私が今まで観た演劇の中では一番面白かった。人気があるので、また、再放送してほしい。


演劇「ティーファクトリー『4』」を観る

2023年08月15日 | 演劇
テレビで放送されていた演劇、ティーファクトリー『4』(2021年8月あうるすぽっと)を録画して観た。少し前に行われた公演の再放送だ。
 
■作・演出:川村毅 
■音楽:杉浦英治
■出演:今井朋彦 加藤虎ノ介 川口覚 池岡亮介 小林隆
 
ティーファクトリーは劇作家、演出家、俳優の川村毅(64)が2002年に作った自作戯曲上演プロデュースカンパニー。川村毅はその世界では有名な存在で、26才の時、彼が手がけた演劇で岸田國士戯曲賞を受賞するなど数々の実績があるが演劇初心者の私は知らなかった。

今回の演目の『4』は、2010年度世田谷パブリックシアター学芸企画<劇作家の作業場>「モノローグの可能性を探る」というワークショップからスタートし、改稿とリーディングを重ね、2012年白井晃氏演出により初演された。その演出は舞台と観客の垣根を取り除き、観客を当事者として巻き込んだ斬新な演出で話題となった。その後、ニューヨークでの英訳版、コペンハーゲンでのデンマーク語訳リーディング上演、韓国では現地カンパニーによる韓国語版上演がソウル演劇祭他にて上演された。

今回放映された作品「4」は、上記の白井演出版ではなく、川村毅劇作40周年記念事業として劇作家川村自らが初めて演出した新演出だ。だが、2020年5月、上演直前にコロナの緊急事態宣言に伴う劇場休館により上演が延期となり、2021年8月にようやく、あうるすぽっと(劇場の名前)で上演になったものを録画したものだ。

この「4」と言う題名は、登場人物の4名(FOUR)に引っかけてある、実際は4+1だが。

F:裁判員
O:法務大臣
U:刑務官
R:確定死刑囚

劇では、4人の俳優が舞台に出てきてくじ引きをする。そして自分の役割が決まる。そして順番に独白(モノローグ)をする。内容は1人の確定死刑囚Rの死刑執行のことについてだ。裁判員はどうして死刑判決にしたのか、法務大臣は死刑執行認可の書面にハンコを押すのか押さないのか、刑務官はこの死刑囚の執行の前に行った別の死刑囚の死刑執行の失敗のことや、自分の役割について、そして死刑囚は自分に死刑執行をしてほしいのかどうかなど。面白いのは一通り独白が終わると、今度はまたくじ引きをしてFOURの役割の変更をして続きをやると言うもの。

扱っているテーマが重いので、観ていて結局何を言いたいのか、どういう問題提起なのかわかりにくかった。1回観たくらいではわからないのは当然かもしれないが。そして、死刑執行後、最後に+1の男が出てくる。これが死刑囚の父親なのだ。そして父親が独白する。自分も息子を死刑で殺された犠牲者である、と言うようなことを言い、死刑制度のむなしさ、やるせなさ、というようなことを言っているのか。それだけ難しいテーマと言うことだろう。

出演の俳優陣はそれぞれ熱演していた、そして、こんなに長い独白のセリフを暗記するのも大変だろうな、と思った。また、舞台演出であるが、椅子とテーブル、机、死刑囚の座る畳、絞首刑のセットなど非常にシンプルであった。舞台設定より「語り」を重視した演出などであろう。その分、変化に乏しく退屈な印象もした。難しいところだ。

しかし、演劇公演を観ていつも感じるのだが、演劇終了後、カーテンコールで出演者がそろってステージに出てきて「お礼」の挨拶をする時に、なぜ、そろいもそろってしかめっ面をするのだろうか。ほとんどの演劇公演がそうだ。笑顔で手でも振ってもらいたいのだが。