BBの覚醒記録 

無知から覚醒に至る一つの記録です。「是々非々」がモットーで必要なら、
支持する政治家や弥栄を願う皇室への批判も厭わず。

ついに左翼学者が秋篠宮家にも 悠仁さまに自虐史観洗脳の懸念 《拡散・要保存》

2019-06-21 | 売国奴

半藤一利

●靖国神社におけるA級戦犯の合祀を強く批判。

●護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のが持論。

上皇、上皇后陛下のご進講担当で、筋金入りの自虐史観の持ち主。

・・・・・・以下、Friday記事より

 

昨年、当時の天皇陛下の侍従から、『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください』という依頼があった。

 

BB 天皇陛下の侍従から、というのは結局のところ上皇と上皇后陛下の推奨ではなかったでしょうか。

 

 ですが、私は最初断ったんです。だって相手は小学校6年生の坊やですよ。

 

BB 親王を「坊や」呼ばわり。随所に半藤氏の皇室への尊崇の念がないことが明らかになる言葉遣いあり。皇室軽視の男がなぜ、皇居や秋篠宮邸にのこのこと出向くのか。

 

そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」
 

秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。秋篠宮家の“家庭教師“になったのが「終戦記念日」だったのは、偶然ではないのだろう。平成から令和へと新時代を迎えた今、半藤氏がその日のことを本誌に明かした。
 

最初に秋篠宮父子にお会いしたときに言ったんです。私は東京下町生まれなものですから、“ひ“と“し“が上手く発音できません。だから悠仁っていう御名前はすごく言いづらい。『しさしと』になっちゃうんで、今日は殿下、と呼ばせていただきます、ってね。
持ち時間は2時間半だったんだけど、太平洋戦争についてさわりの部分で1時間話しました。

 

BB 「秋篠宮親子」という、この不遜な呼び方。

私が話したことのひとつは、私たちの国は、“内陸に乏しい“ということです。北の北海道から南の沖縄まで、長~い海岸線を持っていて、海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。
そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。
要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。

 

BB 日清、日露の戦争は無視?

さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。
う話したら、同席していた父の秋篠宮が、幼い殿下に『地政学』とはこう書くんだよ、と紙に書いて教えてあげていましたね」
 

休憩時間になり、紀子妃が淹(い)れてくれたお茶を飲みながら半藤氏が「質問がありますか?」と聞くと、

 

BB 紀子妃が「淹れてくれた」お茶。

 

悠仁さまは手を挙げて「アメリカはなぜ広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?」と質問した。
「質問を受けて、これはなかなか難しいぞ、と思いながらも丁寧に答えましたよ。細かいことは忘れてしまいましたが。

あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています

BB ルーズベルトによる戦争誘導は無視。原爆投下はアメリカの不必要な非道であったことも告げず。

悠仁さまへの説明を終えた時、今度は父の秋篠宮が「私からも、質問をいいでしょうか?」と切り出した。
彼は私の著書を読んでいて、統帥権(とうすいけん)について、もう少し詳しく教えてください、と言われたんです。

 

BB 秋篠宮殿下を「彼」呼ばわり。しかし上皇上皇后から差し向けられたこんな輩の「教育」により結局、秋篠宮殿下も上皇上皇后のGHQ由来の自虐史観のお勉強をなさっていたということで、これはしかし改めて驚くことでもありませんが。GHQが仕掛けていった、日本悪者論は根強く皇室に伝わっています。

統帥権は非常に難しい概念です。日本国憲法施行までの大日本帝国憲法は、明治22年に公布されています。ですが、『軍人勅諭』の原形ができるのは明治11年。憲法より11年も前なんです。そこには大日本帝国陸海軍は大元帥である天皇直属の軍隊である、とあり、大元帥(=天皇)の指揮権を統帥権と言ったのです。

つまり、軍隊は後から成立した憲法の埒(らち)外にあると、少なくとも一部の軍人どもは考えた。明治から戦前の時代は、一人の中に天皇陛下と大元帥陛下という二つの役割があり、これが日本という国を非常に難しくしていたんです。
 

統帥権にまつわるややこしい話、当時のさまざまな事例を理解してもらうため、結局、後半の1時間半は、私と父宮との会話になりました。
それでも殿下は、居眠りもせずじっと傍らで聞いていましたよ」

このように秋篠宮父子が近現代史の教師役として半藤氏を招いた背景には、半藤氏が戦争体験者として過酷な少年時代を過ごしたことも影響しているだろう。
 

半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれている。その翌年には満州事変が勃発、次第に日本は軍靴の音が高く鳴り始めていった。
昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。
「そんな父の影響もあって、旧制中学に進学しても、私は軍人の学校には一切行かないと決めていた。周囲はやれ陸軍幼年学校だ、少年航空兵だと熱に浮かされていたので、『オマエは非国民だ』とよく罵(ののし)られたものです」
 

半藤少年の思惑をよそに戦況は悪化の一途をたどる。そして14歳だった昭和20年3月10日。東京大空襲で下町は、すさまじい火炎に包まれた。
「焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。
防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。

そうやって死体を運び出していたら、2時間ぐらいで警防団の大人たちに『お前たち、もうやめろ。これは大人の仕事だ。帰れ』と追い払われた。帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。ただ、もっと死体処理を続けていたら、今でいうトラウマになったかもしれません。

だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、到底口にできませんでした。
話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を聞くようになったからです。
旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。それで言い返すようになった。
 

『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。
 

戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かなりの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。本人が言っているんだから間違いない、なんてことはないんですよ。誰だって自分を守りたい。それを忘れちゃいけません。
私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。

あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」
半藤氏は自戒をこめて、こう語る。
 

戦争をしてはならない、と繰り返す半藤氏は、同時に戦争へと引きずられないためにいかに外交が必要かを説く。
「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。
昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。
 

北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。
『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。
榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。榎本が行ったことこそが外交というものです」
 

太平洋戦争から74年。昭和から平成へと、曲がりなりにも日本は平和を保ってきた。令和の世はどうなるのだろう。
「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。
『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? (1)アメリカ (2)ドイツ (3)旧ソ連 (4)オーストラリア』
そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。しかもその一人が手を挙げてこう言った。
『で、どっちが勝ったんですか?』
こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」
FRIDAY』2019年6月28日号より

・・・・・ここまで

自分が少年時代に酷い大権をしたから戦争反対、というのは心情ではあってもロジックではありません。まして、個人的心情をひくずっての先の大戦に日本に一方的な非があったという説は感情に走った暴論です。

「国際連盟」脱退に到る経緯にも触れぬまま「やってはいけなかったこと」と単純に総括。公正な視点を欠いたまま、日本が100%悪かったという結論ありきの自虐史観は雅子皇后の父、小和田恒氏の系譜でもあります。

皇室で愛国保守系学者は絶対に呼ばれず、ご進講は決して行われませんね。偏っていると言わざるを得ません。左翼学者の皇室への出入りと共に「戦犯国日本は、被害国に対してひざまずいてへりくだった外交をせねばならぬ」とした小和田恒氏が雅子妃の実父であり、新天皇の岳父です。皇室を取り巻く環境は、予断を許しません。

仮に、秋篠宮殿下から悠仁親王殿下と皇統が無事つながったとしても「平和憲法護持」をその念頭に置く「リベラルな」天皇を平成から令和そして次の代にも国民は戴きそうで、そこを少しでも食い止めるには、ご進講担当者がなぜ左翼ばかりなのか、国民が強く抗議の声を上げつつ、あの戦争の真の姿を語り続けるしかないのでしょう。

「A級戦犯」という言葉に、敏感に反発する保守ブロガーたちが、上皇后陛下の「A級戦犯」発言には黙り、皇室内で犯罪者認識されて行く流れが全く堰き止められないままである現状に対しても、何も言いません。

大本の皇室の自虐史観をまず何とかせねば、国民の認識もいつまでも変わらないのではないでしょうか。

 

 

時間がある時に、少しずつ手を入れて行くかもしれません。取り急ぎアップしておきます。

 

上皇・上皇后陛下へのご進講担当学者が保阪正康 半藤一利であり、二人共絵に描いたような自虐史観左翼だということは過去記事に書きました。

保守論壇が声を上げ始めた皇室内の闇

いかにして左翼天皇は作られたか 《転載ご自由に》

2019-04-23 17:20:52 | 皇室問題
 

上皇の憲法違反を直視出来ず、「退位」を「譲位」と言えという思考停止保守

2019-05-13 10:31:20 | 皇室問題

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秋篠宮殿下の激務

2019-06-21 | 皇室問題

 今週号「女性自身」より抜粋

御代替わり以降、皇嗣殿下となられた秋篠宮さま紀子さまのハードスケジュールが続いている。これまでのご公務に加え、天皇皇后両陛下が皇太子ご夫妻時代に受け持たれていたご公務のかなりの数を引き継がれたためだ

 

特に秋篠宮さまは、地方へのお成りも多く、5月中旬以降はわずか1カ月で5回という過密ぶり。紀子さまを同伴されたものが5回、単独でのご出張は3回です。秋篠宮さまも50代半ば。宮内庁内では『このままのペースでお仕事を続けていくと、過労でお倒れになってしまうのではないか』という心配の声も上がっています」(皇室担当記者)
ちなみに秋篠宮さま単独ご出張の内訳は下記の通り。

・5月23~24日 宮城県『日本植物園協会 第54回大会』ご臨席など

・5月28~29日 愛知県『日本動物園水族館協会2019年度通常総会』ご臨席など

・5月13~14日 滋賀県『第44回全日本愛瓢会総会・展示会』ご臨席など
いずれの会も秋篠宮さまは総裁や名誉総裁を務められている。

 

東京農業大学客員教授として定期的に講義もされている秋篠宮さま。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190621-00010004-jisin-soci

 

・・・・・ここまで

「女性自身」の最新号から、秋篠宮殿下のスケジュールの過密ぶりを抜き出してみました。

全文を転載しなかったのは、「女性自身」が記事の前段で秋篠宮殿下の多忙ぶりを述べながら、後段でが不和の家庭にいたくない『帰宅恐怖症候群』などという毎度のsage結論に結局、導いているからです。

紀子さまを伴わない単独公務が多いことをその理由に挙げているのですが、単独公務は8回の公務のうち3回に過ぎないというのに。

愛子さま天皇擁立派は、また「お金欲しさで公務をやっている」と言い囃すのだろうし。

天皇皇后両陛下が皇太子、皇太子妃時代の公務をほとんどなさらなかったつけを秋篠宮殿下ご夫妻が予算の乏しい中、公務を黙々と担っていらしたことにも記事は触れず。


精神安定剤の薬名までリークしたかと思うと、今回の女性自身の記述は「酒浸り」的印象操作です。

 

Yahoo記事のコメント欄は見ていませんが、見なくても何が口汚く書かれているか解ります。今後ますます女性・女系天皇擁立論が盛んになり、それとワンセットでの秋篠宮家の貶めが行われます。


本日の会見で、眞子さまと小室圭ssiとの結婚について訊かれ「娘と話してないので解りません」という回答に食いついて更に報道はワースになって行くかと思われます。小室ssi側の問題が借金以上のものであることには、相変わらず触れられぬまま。また、紀子さまのお身内のことなど、雅子さまとお身内他のそれに比べれば微々たることも伏せられたままで。

 

秋篠宮殿下の正確な文言は、「私は娘から話を聞いておりませんので、どのように今なっているのか、考えているのかということは私は分かりません」

小室さんが「相応の対応」をしたかと尋ねられると、「恐らく何かをしているのではないかと思いますが、具体的なことについては存じません」

 

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「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!

2019-06-21 | 日韓問題

 

 

http://l-o-l.net/no/22000.html


(注 文中の年号その他は動画アップ時のそれです。転載文の色文字強調はブログ主の恣意によります)

「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【前編】

「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【後編】

やまと新聞公式チャンネル 2015/04/13 に公開
 
今回の動画は、「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説します。日韓併合当時のアサヒグラフなど一次資料からの写真をふんだんに使い、日韓併合時代、日米開戦後の苦しい状況の中でさえ朝鮮半島への国力を注ぎ続けた日本の真実を明らかにします。
 
今年は大東亜戦争終結70周年を迎えます。戦勝国気取りの中韓が、日本を貶める大規模な情報戦を仕掛けてくることは間違いないでしょう。やまと新聞と水間政憲は、こうした中韓の動きに対し、一次資料に基づいた客観的な事実を提示し徹底的に対抗します。

 

親から聞かされた「日本人は親切だった」
 

日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。

たとえば、「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」 といった類の風説です。学校でも習ったでしょう。あたかも事実であるかのように。 日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。  

 

韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。

  ところが、学校に入学すると、先生から、「日本人は韓国人にひどいことをした」と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。  

 

彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです。
 それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのものであることを知るようになります。そして、反日主義から抜け出したのです。  彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代――つまり日韓併合の時代(一九一〇~一九四五年)を実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。  そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓一五人の証言が書かれています。いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。  

 

彼らは貴重な証言を残してくれました。彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、ということが非常にはっきり見えてきます。   

 

私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。
日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。

 

 「私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことがありません。とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。  少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。……ソウルでもそうでした。……学校では、『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない』 と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。

 

……  私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここにいてください』と泣いて別れを惜しんでいました。……  戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。 喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、一般生活者の間ではほとんどなかったということを、私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」
 

 

このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、証言しています。今日、韓国の学校教育では、「日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」 「日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」 等と教えられています。このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、日本人は朝鮮人を虐待し、両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だったのです。
 

たとえば、生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、こう語っています。 「日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服装がなっていない』とか説教することなんかがたびたびありましたね。

 

……  朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。朝鮮の人々はよかったですし、私も居心地がよかったですから。……骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです
 

また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう語ります。 「近所の子どもたちともよく遊びました。私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛がうらやましくて、私がさわりたいと言うと、よく触らせてくれました。……何の区別もなくつき合っていました。……  仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。……朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。……横暴なふるまいなど一切ありませんでした。

 

 戦後になって日本に送還されるときも、家財道具を盗られるなんてこともなく、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、彼らはみな喜んで感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしいことって、あるでしょうか。世界に誇れることだと思います。……  創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。  戦後の韓国で言われてきた歴史には、あまりに嘘が多いと思います。……私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きてきましたが、日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたことは、双方の民族にとって誇るべきことだと思っています」
 

朝鮮人と日本人は仲良く生きていた
 

 

また同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。  

 

学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。……今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。  商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。一人は松尾先生で、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。……  

 

もう一人は横尾先生です。この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。いろいろな相談にものっていただいた大恩師です。  

 

卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことは全くありません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。  日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。

 

…  多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした」
 

 

また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。 「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいったことは、個人的には見たことも聞いたこともありません。……  日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいうことも、まったくありませんでした。神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」
 

 

また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、三〇〇〇人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。  「農場の日本人たちはとても勤勉でした。日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。……日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません
 

 

また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。  「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。……日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。……  創氏改名は昭和一五年からのことでした。ほとんどの人が変えていましたね。……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。……  日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人は全くしませんでした。日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつけていました」

続きは元記事でご覧ください。

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm

以下の画像は適宜拾い集めてみたもので、上記に直結しての関係性はありません。

 

 

日本に合邦を望む朝鮮からの電報の数々(これは水間氏発掘?)⇒「ひと目でわかる『日韓併合時代の真実』水間政憲著  PHP研究所 2013年2月13日発行」 P.7 「日本之朝鮮」より

日韓併合は、当時の大多数の朝鮮の人たちの熱望でした。
日本に何の落ち度もありません。

 

 

 

 

「言葉を奪われた」の大嘘。ハングル文字を普及させたのは、日本の総督府時代の学校教育です。実情は真逆。

 

 

韓国人からの告発本も複数あり。

 

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韓国で2001年に出版された『私の経験した解放と分断』(趙文紀・著 韓国精神文化研究院、図書出版先人)には、次のようなやり取りが収録されている。
〈(インタビュアー)この話からお願いします、1942年度でしたか? 徴用で行かれたんですよね?

──徴用ではないです。ほとんどの記録が徴用でしょっぴかれたかのように書かれているものが多いですけど、徴用ではなく、徴用という話がなぜ出たかというと、行くときには軍需工場に行ったんです。募集があって行ったんですよ。会社から(募集が)あって、この国の就業紹介所で。ソウルで募集がありました。応募したら合格しました。(倍率は)12対1だったか、ものすごく厳しかったよ。 

実は、私は資格という面で見たら、そこに応募する資格もなかったんですよ。年齢もそうだし、学歴もそうだし、上手く誤魔化して、その募集官という人の前で芝居をして何とか入れてもらったんですが、そこに行って、現地で行った翌年に戦争が激しくなって、軍需工場だから、そこの全従業員を、日本の人だろうが韓国人だろうが、そこはその時、韓国人が何千人もいました。
みんなが現員徴用(一般募集により配置され働いていた人の身分だけを徴用者に転換する制度)だといって、それで現地で働いている、その状態のまま徴用ということになってしまったんです。徴用でしょっぴかれたのではなく、従業員たちは、日本が定めた法によって、まあ、身分が一日にして徴用者に変わってしまったということです。記録上、それで徴用でしょっぴかれたみたいになっているんだよ〉  

人の証言によると、徴用が始まる前に学力や年齢などを偽ってまで労働者の募集に応募し、高い競争率を乗り越えて日本へ行き、仕事をしてきたのだという。
そして後に徴用令が施行されると既に日本で働いていた朝鮮人の身分も徴用に変わったため、自分も書類上の身分が徴用労働者に変わっただけだという。それが、現代の韓国では「連れていかれたこと」になってしまったと主張しているのだ。 

別の例を見てみよう。朝鮮人徴用労働者の「通訳」として日本に渡った朝鮮人の証言を見ると、自分は日本語ができたので通訳として行ったから苦労はしなかったし、戦争が終わったときには残念だという思いがあったという。
〈住友炭鉱は、まだ待遇がよかった。三菱の山(炭鉱)は、きついと噂されていた。
「住友炭鉱で日曜日になると、同胞が故郷に送る手紙の代筆をして忙しかったよ。だいたい、わしは日本に来てから苦労してない。言葉を知っとるけん。言葉を知らん人は、みんな苦労しとった」(中略

友炭鉱で働きだして五年経ったころ、日本が戦争に負けた。
「戦争が早く終わったんで、本当は悔しかった。住友が大事にしてくれたから」
五百人の朝鮮人坑夫のほとんどが故郷へと帰っていったが、彼は日本に残った。
──李基淳(1919年生)〉(『在日一世』李朋彦 リトルモア 2005年)
この証言者は、学校の教師の月給が45円だった時代、通訳として日本へ行けば70円貰えたために日本行きを決心したという。彼は日本で裕福な老年を送っている人だが、もし彼が韓国内にいたら、果たして「戦争が早く終わって本当に悔しかった」というような証言ができただろうか。 (以下略

★SAPIO 2013/12 巨費を注ぎ込んで未開の国・朝鮮を近代化 「日本統治の真実」を隠す歴史捏造の愚 https://drive.google.com/open?id=1lFh4xFlhtB7OSW8JUtoFV9oy2RDaurpy

★SAPIO 2013/10 「お金」も「学校」もなく街は糞尿だらけ 日本併合前の朝鮮は”原始の国”だった https://drive.google.com/open?id=1bGA_hodQn6zuIB0SoVznZAaY2z2uZ58n

★SAPIO 2009/4/8 「朝日新聞《朝鮮版》の研究」創氏改名はどのように報道されたか https://drive.google.com/open?id=1LsxCkbLWnGlrsOhAn4vvPPOpzwnKQx4z

▽写真 韓国では「強制動員された徴用工」のイメージが定着している

 

 

高給に誘われ応募し、正当な賃金が支払われていた朝鮮人工員を「強制の徴用工」と捏造したのは、出自すら定かでない吉田清治(性奴隷狩りのデマを書いたやつ)をも利用した朝鮮人,朴慶植です。

 

おまけ 1929年代の日本の文明度

 Early Sound Footage of Kyoto, Japan


日本は搾取したどころか、お花見その他の文化をも韓国にもたらしました。インフラの整備、病院、学校の建設、農業のノウハウ、植林等々。


日韓併合で、日本が韓国を文明開化させる前の韓国はこんなふう。

 

 

 

 

日本に仏教を伝えてやったと言いながら、荒れ果てた寺。

 

イザベラ・バード他が記した大小便垂れ流しの道路。

 

 

反日NHKが大河ドラマ「平清盛」に韓国の上記の絵柄をスライドさせて、日本の平安時代として描写。

 

 

 

 

 

 

朝鮮学校生徒たちの「差別するな」という主張は、案外韓国学校の存在もあってのことかもしれませんね。

 

 

日韓併合は朝鮮人が選んだ

2018-09-07 04:50:37 | 日韓問題

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