小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

二十四の瞳

2008-12-18 06:27:22 | 考察文
二十四の瞳

名作、「二十四の瞳」は洗脳映画である。もちろん私は高嶺秀子の、「二十四の瞳」しか観ていない。私は右でも左でもない。しかし、心情的には日本の文化、伝統、日本民族は好きである。心情的には右より、というより愛国心では人後に落ちてないつもりである。しかし、「二十四の瞳」の瞳を観ると、どうしても、
「天皇陛下よ。こうなった人々の責任をとれ」
と言いたくなる。もちろん、陛下は開戦の前、御前会議で、明治天皇の歌を詠んだ。
「四方の海みな同胞と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」
(世界の国々を兄弟だと思うのならば、どうして争い事が起こるのだろう)
そして広島に原爆を落とされ、陸軍はそれでも本土決戦を主張し、内閣は降伏を主張した。その御前会議で陛下は、
「自分の身はどうなってもいい。日本民族を絶やしてはならない」
と言った。その発言があったからこそ、血気盛んな陸軍も納得させることが出来たのである。陛下の発言が無ければ、第三の原爆が落とされた可能性は高い。一億総玉砕してしまった可能性もあるだろう。言わば、陛下が戦争を終わらせて、今の日本があるとも言える。そう考えると天皇に戦争責任はとても、とえない。
しかし、「二十四の瞳」を観ると、猛烈に左になってしまう。
「天皇陛下よ。こうなった人々の責任をとれ」
と言いたくなる。何人の人間が、「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった事か。
だが、そもそも「二十四の瞳」は洗脳映画なのである。監督の木下恵介の思想も反戦だし、作者の、坪井栄の思想も反戦である。こうまで見事につくられると左に洗脳されそうになる。
戦時中は、これの逆を大本営がやったのである。天皇は神であり、日本は神国であり日本人の大和魂を刺激する、あらゆる映画、ラジオ、新聞、その他、ありとあらゆる事をした。はたして私がそれらを観ても、戦争を悪と言えただろうか。事後、物事を言うのは子供でも出来る。本当に自分か非戦論者で戦争が悪と言える資格があるのは国が総力をあげて国民を洗脳していた時に、反戦を主張していた者だけである。日本人は、本当にアメリカ人を鬼畜生と思っていたのだから。「君死にたもうことなかれ」を発表した与謝野晶子のような人間だけが本物なのである。
私は、ドラマとかで、戦時中に反戦を言っている人のシーンを見ると、しらじらしく見える。
今では日本人のかなりが、日の丸、君が代、まで否定するようになった。
「君が代」の歌の意味は、「天皇陛下万歳」である。
ある学校で、朝礼の時、君が代を歌わない生徒に体罰を加えて、世間がそれを非難したとかいう事があった。
私は、詳しい事は知らないが、教師は間違っていないと思う。
その生徒が「君が代」を思想的な意味で否定して歌わなかったといのならすごい。
しかし、どうもそうも思えない。それに、校則は校則である。学生は校則を守る義務がある。「君が代」を歌わせる事が思想の強制などとも全く思っていない。国歌は歴史の流れの中でつくられたものである。歴史をブチ壊す事に私は反対である。その学校の思想が右で、生徒に右の教育を押しつけようとしたのでも無かろう。戦時中に「君が代」を歌わなかったら特高警察につかまってアカとして拷問された。今の日本の国歌に、そういう思想的な押し付けは無い。
戦争がおわって平和ボケしてる人にかぎって、そういう人は時代に流される根無し草であることが多い。

そもそも戦争とは無条件に否定すべきものではないのである。
時と場合と事情によってはしなくてはならないものである。
どこかの無法の国が日本を侵略し、植民地にしようと戦争をしかけてきたら日本は憲法九条を守って、あまんじて侵略国の植民地になるべきなのか。

外交や防衛は全然、難しいものではない。
中学生の友達付き合いでの困った問題は国家の外交や防衛と全く同じである。

あなたは道を歩いてて見ず知らずの人に、いきなり殴られたら自分は暴力反対主義だからをと言って相手を許して我慢するのだろうか。よほどのお人よしだねー。

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