★多賀城郭講演白熱
令和6年4月13日の記録
◆一般者
いやいや今回の研修会と
現地見学会は内容が専門
的また本格派と言う事で
高い評判の世評だとか?
◆参加者
◆多賀町の参加者 女性
初めて長谷川先生の城郭
講演に参加をして衝撃を
受けました。まさか多賀
山中に異常な数の城郭が
存在した事など全く認識
していなかった訳で驚き!
◆東海系 女性
まったく驚きませんでした
城跡存在当然の事だと思う
室町期に土岐氏や斎藤氏が
近江に侵入した文献があり
史実であり鈴鹿山系の山越
大君ケ畑越え、五僧越など
も存在し東海から山越えで
近江に入るルートや山城が
存在した事は至極当然の事
東海の秀吉が多賀来栖に来
てた事などはむしろ自然!
東海勢力織田信長が近江に
進駐して安土城を築城した
事も至極当然の事信長存命
中鈴鹿山系八風越を尾張や
美濃から往来した文献など
多数あり鈴鹿山系こそ東海
の文化が近江にもたらされ
た戦国流通路だと言える事。
◆清洲様
東海織田信長は彦根の松原
で熱田大工の岡部又右エ門
に多賀から芹川を材木切り
だして大船を造船してる訳
で多賀こそが木材の源です
この鈴鹿山系に織豊東海系
の大名系説話が多数残され
いいる事は自然な事ですね。
◆彦根男性
湖北脇坂安治が彦根三津屋
の田付氏であった事を聞き
驚きの仰天の歴史講演です
また明智光秀に最初は脇坂
が属していた事にも驚いた!
◆長浜市 参加者 男性
でも多賀の山奥に城ある事
など信じられへん事ですわ。
◆米原市 参加者 女性
もうその現代的発想間違っ
る訳ですね。伊勢から海産
物が内陸近江に入荷してた
事は当然の普通な訳ですよ。
近江には海がないから塩は
伊勢や越前や若狭から入荷
していた事をば現代人とは
全く考えてはいない訳です
多賀の山奥と言う発想自体
が現代人の発想であり多賀
の鈴鹿山系こそ海産ロジッ
ステック海産物物流の主流
経路であり多賀は鈴鹿山系
山奥と認識した段階で既に
巨大な男鬼城や桃原城など
超巨大城郭遺跡を全く理解
していない無用の山岳僻地
の城郭と現代人は決めっ付け
ける発想が固定概念化され
てしまう心理側面があるわ!
仮にも多賀は近江守護所でも
あった訳で傑物の佐々木道誉
も甲良を拠点としていた歴史
◆長谷川
多賀桃原城を拠点とした京極
政経は文明5年(1473年に出雲
・隠岐・飛騨・近江守護職へと
正式補任されて任じられる事実
からすれば多賀山中の城郭自体
が小規模脆弱である事自体こそ
が室町戦国理論としては破綻を
している証左と言う事になる訳
桃原城、男鬼城が異様に大規模
である事は正統な訳なのです!