◆真の仰天のポイント
長谷川
当該投稿の仰天すべき事は「登土塁」でありましょう。
虎御前山城伝織田信長陣より東におり降る竪堀や登り
土塁の存在が第一の驚くべきポイントです。竪に土塁
がおり降る状態は中世城郭ではよく観察される事です。
長谷川
彦根城の登り塀や立堀の遠いルーツも中世山城に起源が
あると言えます。中世城郭の登り塀には石積を伴うもの
も現存致します。いずれまた皆様と是非見学しましょう。
▼立堀と登り塀の遺構「彦根城」
◆御注意の事
今回の投稿の遺跡には全く林道もハイキング道も存在
しません。場所は急峻にして日本カモシカも生息する
密林の中に存在します。一般ハイカーには御奨め出来
ない特殊な密林の山尾です、宜しく御了承下さいませ。
◆仰天!虎御前山城で日本カモシカに遭遇
令和2年12月5日当該城址で日本カモシカを見て仰天
した。何かしら?ぬいぐるみの様で微笑ましい可愛
い容姿だが角を見ると鋭く私の前面2mにまで迫り、
少々恐くなった。何度か日本カモシカに山中で遭遇
しているが大概の日本カモシカの性質は大人しいが
今回の日本カモシカは自ら接近して来て野生動物の
角が案外、鋭く今回は身の危険を感じた。私個人は
磯野山城、小谷城、今回の虎御前山城でも日本カモ
シカに遭遇したが、年々日本の動物生態系が激変し
ている事を感じる昨今だ。いやはや虎御前に鹿出没!
▼日本カモシカを「売虎C」うるとらCと命名した。
▲この日本カモシカは写真C地点で遭遇激写した!
城郭遺跡愛好家様
私達にとり日本カモシカよりも織田信長の陣城
虎御前山城の東山麓に巨大な登り土塁や立て堀
が存在する事の方が衝撃なんですけど!!!
長谷川
そうでしたか?今回の遺跡は全く観光ピクニック
道ハイキング道が存在しません、これは観光志向
と城郭遺跡見学志向の社会的断面を強く感じます。
◆午前中のNPO法人虎御前山城見学会終了横田さんに
暖かい手ずくりの汁を御馳走になり体力が温存された。
◆午前と午後は主催者と趣旨が異なる。
午後はNPOの会員様と解れて我々「米原城歩会」で
午後の虎御前山城見学をする事に急遽決定した会員
は余呉城郭研究会と重なりI氏、H氏、M氏、長谷川
主に虎御前山城織田信長陣所の東部を守る城塞群を
今回は見学する事にした。上地図ではG区古く大洞
や東中野なる集落伝説地が伝わる場所でもある。
虎御前山城は南北に長く
伝柴田勝家
伝木下秀吉
伝織田信長⇔★東側面からの浅井朝倉の攻撃
伝堀秀政
伝丹羽長秀
伝蜂谷頼隆
伝多賀貞隆
等の布陣が伝承されている。
各陣営は、まるで巡洋艦の艦隊の如く直列してる。
伝織田信長を東側面からの浅井朝倉が攻撃がした
場合信長は窮地に陥る場合もある。斯様な事態に
備へ浅井朝倉の側面攻撃に備えて佐久間信盛が東
信長陣の東前面に布陣した可能性も、考えられる。
長谷川
先ず我々は信長陣から写真Aの郭におり降った。
ここはもう既存のハイキングコースから離れて
おり城址見学者のみが冬期に踏み込む城郭遺跡
のエルドラド「黄金郷」とも言える特殊世界だ。
▼写真Aの郭 低土塁写真、
土塁の外には犬走も写真に写る。写真①地点
更に我々は東へと東へと下山を続けた。
▼写真ポイント①地点の低土塁と塁下の犬走
写真①ポイント
▼③付近は立堀累々としてクランクした様は異様。
3人が立土塁の上に立てるほど立土塁は巨大だ。
▼図面AB付近の巨大な立土塁の様子
◆土塁と横堀がG区の谷間「大洞」を取り囲んでいる。
▼土塁は一旦、小字名称「大洞」G区に下降しCから再び山頂に向かう。
累々と山頂にむかう立ての土塁は真に見事かつ圧巻でもある。
▼足元には陣屋の建物基壇が残っている。写真D
▼その場所はイラストのDの基壇に相当する。
▼写真はBの信長陣の切岸を背にして写している。
令和2年12月5日、I氏H氏M氏長谷川はなんと!
虎御前山城山頂へ4度登頂した事になる何とまあ?
熱心な事だろうか?
◆今回の虎御前山城東麓方面フィールドワークの成果
①虎御前山城が南北だけではなく東西に広域に広がる
巨大城郭遺跡である事を認識する事を「城歩会」では
出来た。いやはや虎御前山城の東斜面を登り降りする
立て土塁たて堀の規模壮大な事に耳目を驚かすばかり
である。
有名な記録家太田牛一は虎御前山城を次の様な名言を
用いて『信長公記』で描写している。
「おびただしき御要害、申すも愚かに候。」
つまり虎御前山城の解説は言語に絶して説明できない
ほど多数ノ要害と歴史記録人太田牛一が記録している。
以下『信長公記』より
虎後前山 御砦 御普請ほどなく出来訖んぬ。御巧を以て、
「 当山の景気、興ある仕立、おびただしき御要害 見聞
「 当山の景気、興ある仕立、おびただしき御要害 見聞
に及ばざる 」の由にて、各々、耳目を驚かされ候。
御座敷より北を御覧ぜられ侯へば、 浅井浅井長政 ・
御座敷より北を御覧ぜられ侯へば、 浅井浅井長政 ・
朝倉朝倉義景 、高山 大嶽へ取り上り入城し、難堪の峠
に及ぶ。西は海上漫々として、向いは比叡山八王寺。
昔は尊き霊地たりといえども、一年、山門の衆徒等
逆心を企て、自業得果の道理を以て、山上山下灰燼
となさんと、これに御憤を散ぜられ、御存分に仰せ
付けられたる所なり。 また、南は志賀・唐崎・石山寺、
かの本尊と申すは、大国震旦までも隠れなき霊験殊勝の
観世音。往昔、紫式部も所願を叶え、古今翫所の源氏の
巻を注しおかれたる所なり。
東は高山伊吹山、麓は荒れて残りし不破の関、いずれも
東は高山伊吹山、麓は荒れて残りし不破の関、いずれも
眼前に及ぶところの景気、また、丈夫なる御普請、申し
尽しがたき次第なり。虎後前山より横山までの間、3里
(12km)なり。ほど遠く候間、その繋ぎとして八相山・
宮部郷 両所に御要害仰せ付けらる。宮部村には、 宮部
善祥坊 ( 宮部継潤 )宮部継潤 入れ置かせられ、八相山には
御番手の人数仰せ付けらる。 虎後前山より宮部 (滋賀県
東浅井郡) まで、路次の一段悪しく候。武者の出入りのため、
道の広さ 3間間中(6.4m)に高々とつかせられ、そのへり、
敵の方に高さ 1丈(3m)に 50町(5.5km)の間、築地をつかせ、
水を関に入れ、往還たやすき様に仰せ付けらるる事も、
おびただしき御要害、申すも愚かに候。