伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

全てが今だけ経験可の遊戯

2008-05-31 10:58:11 | Weblog

質問 :
自分の良心は間違っているのでは?と不安になります。
良かれと思ったことが、どうでもいいことに思われたり利用された形になったり。。。これも修行なのでしょうか?人を信じたり、思ったことを素直に表現する
のができなくなってしまいました。

「自分自身が良かれと判断して実行した結果が、他人に評価
されなかった。 逆に付け込まれて、自分が利用されて不満
です。 物事がうまく行かないのは、神が与える試練でしょ
うか? 他人を信じられず、何もしない事を選択してしまい
ます。」  ・・・・と、あえて大げさに書き直してみました。

自分が他人へした行為に、見返り期待が自分自身の心中に
有ると、このような感情を持つ事に成りがちです。
例えが悪いですが、御金を他人に貸す場合は、返して貰え無
い可能性も有る事を、覚悟出来る人だけが貸すべきだと、
世間では良く言います。
返して貰う事が必須前提ならば後でトラブルに成り、貸した
本人も苦しむ事に成ります。

他人への善行は、相手には迷惑な事も有るでしょう。
相手の立場を深く考慮せずに、自分の独善感での自己満足
も有るものです。 逆手に取られ、非難も有るでしょう。
しかし、私は自己満足の善行で良いと思います。
「他人」にした事が大事なのです。他人の為の行為を、評価
の是非は別にして、空間の磁気に刻み残す事が大事です。
ただし、相手からの良い反応も期待しない事が大事です。

例として、親子間を考えて見ましょう。
親が子供に相談せずに、高価な服を買って来たとします。
子供はその服を見て、こんな服は嫌いだ、絶対に着ない!
と見向きもしません。 無理に着せようとすると、喧嘩に成り
ます。 親にすれば似合うと思い、着た姿を一目見たかった。
後年、親が死んだ後、タンスを整理すると、昔に大喧嘩して
1度も着なかったその服が、大事に保管されていた。
既に人の親に成っていたその子供は、涙を流し親の愛を
思い出します。
ようは、他人からの評価には、時間差が有ります。
レスポンス良く直ぐに良い反応が得られないからと、悲観しては
駄目です。 自分が良かれと思い、他人へした行為は、最初
は罵倒されても、時間が経てば必ず相手の心に引っかかり
気に成るものです。 何故なら、
「自分自身に係わって呉れたからです。」
他人と係わらない人生の選択は、内在神からも離れます

・喧嘩?良いでは無いですか。相手が必要です。
・騙された?良いでは無いですか。次から相手を観ましょう。
・悪さをする知らない幼児がいたら、その幼児を叱り付けて
 嫌われて遣りましょう。

他人の子供を諭さず、無視する大人が多い社会は、冷たい
社会です。
 
生かして頂いて ありがとう御座位ます

人類の 5% 運動を広めたいです。
   
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コメント (162)
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