伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

伊勢日記 8

2009-04-18 09:46:50 | Weblog

3日間を過ごした伊勢を去るために、高速の乗り口へと車を
走らせていましたら、宇治や山田の地名が目に付きました。
そもそも宇治山田とは何だろうか?と意識を集中しました。
地元の方から聞いた話でも、伊勢の事を御年寄りは「山田」と
昔から呼ぶと仰っていました。
「伊勢に行く」ではなくて、「山田(やまだ)に行く」と呼称する
そうです。 民俗学的にも民間の口伝こそが、太古の世界観
を正確に伝承しているとされています。
色々な伊勢の地名発祥の学説があるでしょうが、私の脳裏
に浮かんで来たのは「対立」でした。

外宮の前に広がる町が「山田」で、内宮の辺りを「宇治」とし
ます。 太古は外宮に白山から神様の寄り代である石柱が
持って来られました。この時代には、内宮は存在していません
でした。内宮の創建は「近年」とも言えます。
この石柱は1本しか無いので、内宮創建には「木材」に置き
換えられて、心御柱 ( しんのみはしら ) として正殿 の床下
建てられる特別な御神体である柱です。 忌柱 ( いみばしら )
・ 天ノ御柱 ( あめのみはしら ) ・天ノ御量柱 ( あめのみはか
りのはしら ) とも呼ばれます。
心御柱を本殿下に建てる神事は、遷宮行事の中でも最重要
であり、神官により行なわれる深夜の秘事です。

つまり古代の伊勢の人口の大半は、外宮の前の地域にしか
居なくて、内宮の辺りは森だったのです。
外宮のある山田地区には、縄文遺跡や竪穴式住居遺跡が
出るはずです。 山田と言う地名は、
「やまだ」←「やーまだ」←「やーまたい」←「やまたいの国」
の「1つだったのです。
(邪馬台国の呼称の原型である。 魏志倭人伝の指す時代
邪馬台国は、奈良三輪山近辺を首都として、伊勢から熊野
地方全域が邪馬台国であった)

天照太御神の分神(8段目)が、皇女倭姫命の背中におんぶ
されて現在の内宮に来られた時代から、内宮近辺が新しく
造成されました。 奈良から来た特権階級の氏族が中心とな
り、現在の宇治地区が出来たのです。
氏=うじ=宇治だと感じます。

伊勢に古来から住んでいた土着の信仰を持つ山田地区と、
貴族集団が住む宇治地区は、川を挟んで長い時代に渡り対立
があったと感じます。ここにも、国津神と天津神の対立の転写
が有ったと言えます。
山田地区の古代人は、山を越えた海側の同じく白山の2本目
の石柱を守る磯部地区(伊雑宮の信者)の住人とは交流して
いました。
神霊が今の時代に明かしてくれた太古の光景を観ながら、
別宮である
瀧原宮へと向かいました。  
                       (続く、引っ張りすぎ?)

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コメント (276)
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