伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

色々な段階

2009-10-11 15:10:35 | Weblog

神様と言う存在は、人間の五感(視・聴・臭・味・触では分からないからこそ神様なのです。
もし、五感で認識できれば、それは神様では無いです。
認識できる存在は、人間以下の霊的存在だと思って間違いはありません。
人間の魂以下の霊的存在は、五感に訴える自己主張をするものです。一番低級な存在は、物質の出現による奇異を見せる事を好みます。この世に近い霊的存在ほど、物質への無駄で無益な干渉だけをします。その後の発展が無いのです。
まいた植物の種が自然と成長して果実を収穫する様な、起きた現象の先が無い事が、低級な奇異現象の特徴です。不可思議な現象を宣伝する先生や集団ほど、低級で危険な邪霊が背後に存在する事を自ら暴露しています。
この様な現象からは、心の安心感を何時まで経っても得られません。不安感と依存心ばかりが強化されます。 正神に奇異は無し、です。

神様を知るには、どうすれば良いのか?
例えば、皆さんは神棚の準備や、神札の配置を心配されます。これは、小学生が勉強机(神棚)と参考書(御札)を金銭を掛けて準備したと思って下さい。
形も大切ですが、飾っているだけでは知と心の成長は起こりません。勉強の場合は、日々机に向かい努力をすれば、勉強の知識(見えない物)が増えて行きます。
神祭りも同様に、日々の祭る「行為」に神様が寄ります。

神様は見えない存在だからこそ良いのです。
いくら神棚の御世話をしても、何も返事もなく無言だからこそ神様なのです。
無反応な見えない相手に対して、期待も見返りも無く淡々と朝の貴重な時間を掛けて行く事により、自分の心の内面と「向き会う」作用が起こります。神棚の水交換と言う御世話をする「行為」の物理刺激を伴いますので、瞑想よりも心の内面に深く向き会う事に現実的に成って行きます。
榊と水と言う精霊の作用も加わり、心の内面へと霊的に進みます。神様の存在は、心の「安心感」と言う形で示されます
もし神祭りの行為で、いちいち神棚から五感の反応が返ってくれば、実践者の心は内面へ向かわずに、外の存在に対して注意が向いてしまいます。これが迷いの元であり、人格の分離を生じさせます。
神を利用して集金する集団の神祭りは、神様と自分自身との間に不要な穢れたフィルターを置く事に成ります。自分の心に居る本当の神様と繋がる事は、絶対に出来ません。人間の欲に塗れたゴミ溜と繋がるだけであり、何時まで経っても真の安心感は産まれません。

人間の人生とは、自分の心に神様が「居た」事に気付く為に喜怒哀楽の事件が起こります。
今、自分の心の神様を意識し始めれば、人生は好転して行きます。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

コメント
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